17・お帰りとただいま

僕は部室を出ると最初に下駄箱に向かった。
そしてアリスの靴がまだある事を確認すると安堵した。
まだアリスは学校にいるんだ。僕はアリスがどこに行ったのかを考える。
でも考えてもどこにいるかぜんぜん予想もつかない。
勘というか、適当に探すしかないか。僕はそう思って校舎の中を歩きだした。

生徒の帰宅した廊下は静まりかえっていた。特に行きなれない場所は不気味だし、緊張する。
他学年のフロアはなるべく行きたくない。そう思うと僕の足は自分のクラスのある階に向かった。
僕は廊下を端から端まで歩いたがアリスを見つけられなかった。
もしかしてアリスは他の学年の階にいるんだろうか? でもどうしてそんな場所に?

僕はそう考えてドキリとした。
アリスは人気があるんだ。上級生に呼び出されている可能性もある。
いつもは相手になんかしないけど、今日のアリスならそんな人間を相手にしないとも限らない。
そう考えると僕の心臓が早くなる。

何か嫌なこと、大変な事になっていたらどうしよう?
それにアリスはいつも他人に冷たいから、恨まれている可能性だってある。
もしかしたら落ち込んで歩いてる時に襲われたりしてるかもしれない。
僕は勝手に悪い方に想像して落ち込んだ。焦るような気持になる。
僕は階段を駆け下り、2年生のフロアに足を踏み入れた。その時、僕は泉川先輩とぶつかりそうになった。

「おっと、危ないよ」
そう言うと先輩は僕を受け止めた。
「先輩?」
「丁度良かったよ、君を探していた所だったんだ」
「僕を?」
先輩はニコリと笑う。

「言っただろう? 一緒に過ごそうって」
「でも、僕はアリスを探してて」
「傷澤君を……?」
僕が頷くと先輩は僕の手を引いた。
「ちょっと話をしよう」

僕は先輩のクラスに連れていかれた。
放課後の教室には他に生徒の姿はなかった。二人きりの静かな教室で先輩は言う。

「傷澤君を探しているって言っていたね、どうしてだい?」
「どうしてって、だってアリスは友達なんです。だから今まで通り一緒に過ごしたいと思って」
僕の言葉に先輩は呆れるように苦笑した。

「君は本当に真面目で一生懸命で良い子だね。でも僕は恋愛に関してはそういう真面目さは良くないと思うんだよ。
いくら諦めようと思っても、好きな子が側にいたら諦められないからね。
知っている? 人間の欲望は目から入るんだよ。目に入るから欲しくなる。だから対抗策は逆にすれば良いんだ。
なるべく目に入らないようにする。親しくしないようにする。そうすれば徐々に気持も冷めるよ」

先輩の言葉は確かに真実をついていると思った。
欲しい物は目から情報として入ってくる。
目にさえ入らなければ欲望は湧かない。食べ物だって洋服だって、なんだってそうだ。
あんな洋服があるなんて、欲しいなんて、目にさえしなければ思わない……。

「僕の言う事が理解できたみたいだね」
先輩の言葉に僕は顔を上げる。
「先輩の言うことは分かります。でも、アリスは友達なんです。このまま縁を切るなんて嫌なんです」
僕はアリスを探しに行こうと、振りむきかけた。すると先輩が僕の腕を掴んで止めた。

「傷澤君はただの友達なんだろう? だったら放っておこうよ。だって君は僕の事が好きなんだろう?」
「え?」
僕は振り向きかけていた足を戻して先輩を見つめた。この人、まだその誤解をしたままだったのか……。
僕は溜息をつきたい気分だった。でもそんな事しちゃ失礼だ。
だって誤解させたままだったのは僕の責任だ。もっと早く、ちゃんと訂正してあけば良かったんだ。

「友達よりも好きな人である僕の事を優先して欲しいんだ」
先輩は僕を見つめてそう言った。申し訳なくて胸が苦しくなる。

「先輩ごめんなさい、その、ずっと誤解があったようなんですけど、僕はその……先輩の事を尊敬はしていますが、
恋愛感情は持っていないんです」
先輩の細く整った眉が微かに歪められた。

「それって、僕の事を好きじゃないってこと?」
「ごめんなさい」
僕は頭を下げた。すると先輩はそんな僕の両肩をガシリと掴んだ。

「じゃあさ、これから僕の事を好きにならないかな?」
「え?」
驚く僕に先輩は笑みを見せる。
でもその笑みはいつものさわやかな物とはちょっと違って見えた。無理したような、そんな笑顔。

「僕は君を好きなんだ。だから僕と付き合おうよ。君は付き合っていく最中で僕を好きになれば良いよ」
先輩が本気で言っているのが分かった。けれど僕は首を振る。

「ごめんなさい、ダメです」
言うと僕は先輩の腕から逃げようとした。けれど先輩の手が外せない。
「離して下さい、僕は行かないと!」
「どこに行くの?僕との話より大事な事があるの?」
「だって僕はアリスを探さないと……」
言ってハっとした。そう、僕にとっては今ここにいる先輩よりアリスの方が大事だった。

「ごめんなさい」
僕がそう言うと先輩の整った顔が歪められた。そして先輩はそのまま僕に顔を寄せるとキスをした。
「ん!」
僕は逃げる事が出来なかった。先輩に強く抱きしめられていて逃げ出せない。
触れるだけだった唇が徐々に深いキスに変わっていく。
こんなにも簡単にあっさりと口の中に侵入されてしまうなんて。
僕は悔しくて涙が滲んだ。そして手を突っ張って先輩を押し返そうと必死になった。その時。
ドガン。

聞いた事もない音が響いた。そのあまりの音に僕を掴む先輩の力がゆるんだ。
僕は音がした方を見た。そこには机が落ちていた。
そしてその机とは反対側を見て、僕は息を止めた。そこにはアリスが立っていた。

「傷澤君」

先輩が呟いた。アリスは怖い位に美しく微笑んだ。その笑みは怒りの表れだと僕は思った。

「優等生の泉川先輩ともあろう人が、無理矢理下級生にキスするなんてどうしちゃったんですかね?」
アリスは先輩から僕に視線を移すと若干目を細めた。
「おいで、モモ」
その声に僕の足は自然とアリスの方に向かった。
「百瀬君」

先輩に呼ばれ僕は振り向いた。先輩は真摯な瞳で僕に問いかける。
「それが君の答えなのか?」
僕はその言葉の意味を考えた。それは言葉通りの意味だけでなく、深い意味を含んでいる。
アリスと泉川先輩どっちを取るか、そういう意味なのだと。
僕はゆっくりと、頷いた。

「ごめんなさい、先輩」
僕は手を広げるアリスの懐に飛び込んだ。
「お帰り、モモ」
「アリス」
なんだか分らない。僕の胸がいっぱいになってじーんとした。
ただいま、アリス。そしてお帰り。

先輩は僕とアリスを見て深いため息をついた。

「百瀬君、君の気持はわかったよ。失礼な事をしてしまってすまなかった。
それにたくさん勘違いしていて、それも申し訳ない」
先輩は素直に頭を下げてくれた。しかもそう、深々と。僕はそんな先輩に言う。

「もう気にしないで下さい。僕も誤解をちゃんと解かなかったのが悪いんです」
「百瀬君」
呟く先輩に僕は微笑む。
「僕にとっては、先輩が真面目で尊敬に値する人だって事には変わりがありませんよ」
「ありがとう」

先輩は静かな微笑を湛えた。
僕は先輩に軽くお辞儀してから、アリスと共に廊下に出た。そしてどこに行くとも言わず、僕達は歩き出した。
見慣れない上級生の廊下をアリスと手を繋ぎながら。

なんだろう、なんで僕はアリスと手をつないでいるんだろう。僕は冷静にそう思った。
だけどその手を離す気には何故かなれない。

「ごめんね、アリス」
僕が謝るとアリスは静かな目で僕を見た。

「モモは何に対して謝っているの?」
「えっと、その……」
僕は今日しでかしてしまったいろんな事を思い出し、胸を痛めた。なんでこんな事になってしまったのか。
でも僕が苦しんだ以上に、きっとアリスは嫌な思いをしただろう。そう思うととにかく謝りたかった。

「教室で、酷い事言って本当にごめん」
「ああ、そうだね、あれはポジティブシンキングの俺も流石にちょっと堪えたね」
「ごめん」
僕は項垂れてもう一度言った。

「別にモモが謝る事じゃないよ。モモが俺のセクハラに迷惑してたって気づかなかった俺がいけないんだ」
「それは……でも……」
僕は右手でキュっとシャツの胸元を掴んだ。

「僕は迷惑というか、その……恥ずかしかったんだと思う」
「恥ずかしい? それって……」
アリスは立ち止まると僕を見つめる。それでも手はまだ繋いだままだ。

「モモは恥ずかしかっただけで、俺の事嫌いじゃないってこと? セクハラされても良いってそういう意味?」
「セクハラは嫌だけど、その……」
なだろう、僕は何が言いたいんだ? 僕は、僕は。

「モモ、君は俺の事が好きなの?」

アリスがハッキリと口にした。僕の胸が熱くなる。
ああ、なんでだろう、そうか、そうだったんだ、そういう事。
僕はアリスが好きだったんだ。でもアリスの僕への好意が信じられなくて、冗談だと疑って、
だから自分は好きじゃないって友達だって思おうとしてたんだ。

僕はアリスを睨むように見つめた。

「好きだよ、アリスが好きなんだ。アリスは本気じゃなかったかもしれないけど、僕は本気になってアリスに恋しちゃったんだ」
「モモ」
呟くアリスの胸に僕は飛び込んだ。そして抗議するように拳で胸を軽く叩く。

「嫌いだ、アリスなんか。僕をこんなに好きにさせて」
僕の言葉にアリスは苦笑した。

「なんで告白しながら嫌いなんて言うかな?」
アリスは僕の体をそっと抱きしめた。
「それに俺はモモの事が好きなんだよ。勝手に冗談だった事にしないでよ」
「アリス」
僕が呟いて見つめると、アリスは眩しい笑顔を見せてくれた。ゆっくりアリスの顔が僕に近づく。
触れる唇。アリスのキスはふわふわして甘いような気がした。いや、違う、ふわふわしてたのは僕の気持ちと体の方。
気持良くて崩れそうになる僕の体を、アリスはキュっと抱きしめてくれる。
僕はその胸の心地良さに思った。咲哉の言った通りだった。僕はアリスが好きだった。いつのまにか恋してしまった。

咲哉のような人間になりたいと憧れていた。でも好きなのはずっとアリスだったんだ。
僕は咲哉といても、誰といても、いつだってアリスの事ばかり考えてしまってたんだから。

「ごめんね、アリス」
僕が謝るとアリスが首を傾げる。
「今度は何を謝るんだ?」

僕は自分の唇に触れながら言う。
「さっき先輩とキスしちゃって」
アリスの美しい眉が少し歪む。

「ああ、あれはちょっとムカついたね。でも悪いのはモモじゃなくて泉川さんだからね。別にモモを怒ってないよ」
「でも、僕のあれはファーストキスだったんだ。だから、それを他の人に許しちゃって、自分でも自分が許せない」
「……」
アリスはじっと黙っている。そんなアリスを見ると益々僕は悔しい気持ちになる。
あとほんのちょっとアリスと早くキスしてればアリスとのキスが初めてになったのに。
自分の迂闊さが本当に腹立たしい。
それにそう、アリスは以前、僕のファーストキスを気遣ってくれた。

「ごめんね、アリスは前に僕のファーストキスを無理やり奪わないように気遣ってくれたのに、それなのに……」
「あのね、モモ」
アリスが僕の言葉を途中で止めた。

「モモのファーストキスの相手は俺だよ」

言われた言葉を考える。さっき泉川先輩とキスをした。そのあと、アリスとキスした。
この順番は逆じゃない。だからアリスがファーストキスの相手ではない。僕は言うべき言葉が見つからず首を傾げる。

「えっと、きょとんとしてる顔はかわいくて、それはもう堪らないんだけどね」
アリスが困ったように頭をかいている。
「いや、実はほら、前に部室で二人きりになった事があっただろう?そこでお腹いっぱいで眠いってモモが言いだして、
ちょっとだけ昼寝してってことがあっただろう?」
「それが?」
「えっと、だからね、その時つい、フラフラって、ムラムラっていうか、クラクラってして……」
「何、その擬音ばかり。だから?」
「えっと、寝てるモモの唇にキスしちゃいました」
「え?」
僕は固まった。そして言われた言葉を理解して大きく仰け反った。

「ええ?! 何それ?! 僕が寝てる間に勝手にキスしたの?!」
「うん、ごめんね……」
「ごめんってファーストキスだったんだけど?!」
「だから、俺が初めてで良かったよね」
「良くないだろう!」
僕はアリスの胸を拳で軽く叩いた。

「うーんと、でもほら、泉川先輩の無理矢理がファーストキスになるよりは良かっただろう?」
「それはそうだけど……」
僕の言葉にアリスは微笑した。
「ほらほら、ね。終わりよければすべて良しなんだよ」
「むー」
僕はちょっと納得がいかない気がした。勝手にキスするなんてやっぱりアリスは自分勝手で真っ黒黒の性格だ。
酷いにもほどがある。でも、そう、僕はアリスの事が好きなんだ。だからアリスが勝手にキスしたって聞いてもそんなに嫌じゃない。
それこそアリスの言う通り、僕のファーストキスがアリスだと知って、僕は喜んでいるんだ。

「アリス、この落とし前はどうつけてくれるんだ?」

僕の問いにアリスは困ったように眉をしかめる。
「落とし前って……」
困惑するアリスを見て、僕はつい微笑んでしまう。
「責任とってもらうよ」

言うと僕は背伸びしてアリスの口にキスをした。軽く触れてすぐに離れると、僕は至近距離のアリスに向かって言う。

「これから先、僕以外にキスしちゃダメだからな。そうでないと、勝手にファーストキスを奪った罪滅ぼしにはならないんだから」
その言葉にアリスは笑った。そして恭しく頭を下げた。
「了解です」
僕はそんなアリスに笑った。

僕達はお互いをふざけてつつき合いながら廊下を歩いた。いつもの放課後、いつもの廊下。
なのにアリスと二人でこうやって歩く廊下は、とても楽しくて嬉しくて幸せだった。

僕達はアリスの部屋に辿りつくと扉を開けた。出迎える咲哉と鬼怒川。二人に向かって僕達は言う。
「ただいま!」
そう、ただいま。ここが僕達の居る場所。僕達のあるべき姿。
「お帰り」
「遅いぞ!」

咲哉と鬼怒川がそう言った。僕達は定位置に座る。
「サクヤ、喉が渇いた」
「ああ、すぐにお茶を淹れるよ」
アリスの言葉に咲哉が席を立った。するとアリスは顎をつまんだまま僕を見る。

「あ、やっぱり、お茶はいいかな?モモの唾液を分けてもらうから」
そう言って微笑むセクハラアリスに僕の頬が熱くなる。

「アリスくん、唾液なら俺が1リットル程口移しであげるよ!」
「撃ち殺すよ」
相変わらずの鬼怒川とアリスの会話だった。僕はそんな二人を見ながら微笑んだ。
「いいよ、アリス。僕の唾液をあげるよ。もちろん口移しでね」

僕がそう言うとみんなびっくりした顔をした。けれどすぐに咲哉は僕達の変化に気づいて微笑んだ。
鬼怒川は複雑そうな顔で額を押さえ、天を仰いだ。
そしてアリスは、僕の事を見ながら真っ赤になった。そんなアリスがかわいくて僕はまた笑う。
いつもと同じ、今まで通りだけど、ほんのちょっと変わった僕達。
僕はこの場所が、このメンバーが大好きだと、そう思った。
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