音楽室で待ってて

音楽は好きだけど、音楽の授業は得意じゃない。
ピアノもバイオリンも弾けないけど、音楽室は好きだ。
音符も読めないし、楽器も弾けないし、習いたいとも思わないけれど、僕は音楽室に入り浸っている。
何故なら僕は、音楽の先生が好きだから。




今日も僕は先生の奏でるピアノに耳を傾ける。曲はカノン。タイトルだけはようやっと覚えた。
僕は日の射す窓辺で机に座り、夢見るように、ピアノを弾く先生を見ている。

吉本岳人先生。細身で、長身で、穏やかな性格の先生だ。
顔も十分整っていて、細い眉や薄い上唇を、僕はとてもセクシーだと思っている。
それになんと言っても、先生がピアノを弾く姿はとても美しかった。
姿勢の良さと、長くしなやかな腕の動き。時折目を閉じて弾く姿は恍惚という感じで、僕はその姿にドキドキした。
僕は先生の弾くピアノと、先生自身がとても好きだった。

曲が終わると、先生は僕の方に近寄ってくる。
「今日はこれ位でいい?」
「はい!」
僕はそう言って微笑む。そして先生の後にくっついて、音楽準備室の中へと入る。
準備室の中にはソファとテーブルが置かれている。
僕はそのソファに座り込む。

「今日も紅茶でいいかな?」
そう言う先生に、僕は頷く。
音楽準備室の中にはポットが置かれ、いつでもお茶を出してもらえる。
僕はたまたま遊びにきた音楽室で先生と出会い、その時にお茶をご馳走になってから、ここに入り浸っている。

最初は出されたお菓子とお茶に釣られていたのだが、今の僕の目的はすっかり先生になってしまっていた。
僕はほぼ毎日のように音楽室に通い、先生に曲を弾いてもらうと、その後この部屋でお茶を頂く。
部活動はしていなかったが、これが僕の部活動のようになっている。

「先生ってピアノ、すっごく上手ですよね。高校の先生なんか辞めて、ピアニストとかにならないんですか?」
僕がそう言うと先生は苦笑した。
「ピアニストになるのは高校教師になるより、ずっと難しいんだよ」
「でもこんなに上手なんだから、先生ならなれるんじゃないかな?」
先生はやさしく微笑みながら首を傾げる。

「そう言ってくれるのは嬉しいけどね、とても無理なんだよ。僕にはそんな才能はないからね」
僕はその反応に、無神経な事を言ってしまったのかもしれないと思った。
僕は音楽には疎いから、ちょっとピアノが弾ければ、簡単にピアニストになれるのかと思っていた。
でも先生の反応では、そうではないらしい。
僕はすべての野球少年が、プロ選手になれるみたいな事を言ってしまったのかも知れない。

「でも、僕は先生のピアノが好きですよ。他の誰の弾いたのより感動します!」
そう言ったら、先生が嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう」
答えてくれた先生が眩しくて、そして嬉しくて、僕は目を細めた。

恋心に気づいたのはいつだったのか、自分でもあまりよく覚えていない。
この居心地の良さと、先生のピアノを弾く姿の美しさに、いつの間にか心奪われてしまっていた。

僕は先生の長く細い指を見ながら口を開いた。
「先生っていくつだっけ?」
「28だよ」
先生はカップに入ったコーヒーを飲みながら答える。
「28か、大人だなー。僕より12も年上だもんなー」
「そう年寄りっぽく言われると辛いな」
先生が苦笑するので、僕は慌てて言う。
「別に年寄り臭いって意味じゃないですよ。その、コーヒー飲めるのも大人だなって感じるし、格好いいなって思って・・・」
僕の言葉に先生がコーヒーカップを見つめた。
「コーヒーが大人か?同級生だって、コーヒー位は飲んでるんじゃないか?」
その言葉に僕の頬が熱くなる。
「そ、そうですけど、でも僕は苦くて飲めないから、飲める先生は大人なんです」
言い切ったら、先生は笑った。

「杉浦は面白いな」
そう言われて僕はドキっとした。向かいの椅子に座る先生を見ながら、僕は考えた。
面白いってどういう意味だろう?褒められたと思っていいのかな?
ちょっとでも先生の好感度をあげたい。ちょっとでも好かれたい。僕はそう思っていた。




僕が音楽室から出て、帰宅のために昇降口にやってくると、下駄箱の前に赤札門道隆が立っていた。
僕はそんな道隆に声をかける。
「道隆も今帰り?」
「ああ、ナナヤも音楽室帰りか?」
「うん」
僕たちは昇降口から並んで歩き出した。
赤札門道隆は、その派手な名前に負けない、物怖じしない強気な性格の、目立つ友人だった。
太い眉に釣り目がちの目で、顔の作りからも性格の強さが滲み出ている。

「音楽室ってさ、そんなに楽しい?」
「楽しいよ」
通学路の民家の庭にある、みかんらしきオレンジ色を眺めながら答えた。

「俺、ピアノ演奏とか聞いたら眠くなるんだけどな」
「じゃあ選択で音楽なんかとらなきゃ良かったのに」
僕も道隆も選択では音楽を取っているので、同じクラスだ。
「他に選びようがなかったんだよ。習字は字がヘタだし、美術も得意じゃないし、一番音楽が楽そうに見えたんだよ」
「でも実際音楽が一番難しいよね・・・」
「だな」
僕達は同意しあった。だって音楽は本当に難しいんだ。
ただ楽そうだから、楽しそうだからと選択したのは大間違いだった。
和音って何だよ?って感じ。

「でもそんなお前が、今じゃ音楽室に入り浸りだもんな。分かんないもんだな」
言われて僕は頷いた。
「紅茶とかココアとか、準備室で出してもらえるんだ。お徳だよ」
その言葉に道隆が僕を見る。
「食べ物に釣られてるわけか」
「まあ、それもあるけどね」
言いながら僕は顔がにやけてしまった。先生と二人っきりで、幸せな時間が過ごせる事を思い出したからだ。
そんな僕の様子に気づいて、道隆が言う。

「なんだよ、不気味に笑って」
「なんでもないよ」
「気になるな・・・他になんか良いことがあるのか?」
「別にないよ」
住宅街の道を歩きながら、道隆が僕の顔を覗きこんでくる。

「もしかして、テストに出るとこ教えてもらってるとか?」
「ないよ、そんなの。だいたい教えてもらっても難しすぎてダメだよ。点数に繋がらないよ」
そう、音楽というのは数学や歴史に匹敵する位難しいのだ。ワケが分からなくて泣きたくなる度はナンバーワンだ。

「お前さ、こないだのテストで何点だったんだよ?」
道隆に聞かれて僕は眉間に皺を寄せる。
「・・・・30点かな」
「うわ!毎日あんだけ音楽室に通っててそれかよ!ありえないな」
「そういう道隆は何点だったんだよ?」
「67点」
その点は平均以上だった。それだけ音楽は難しいのだ。

「その点数じゃ、先生もさぞかし嘆いてんだろう?」
言われてドキリとした。
「そ、そうかな?でも先生怒ったりしないし、いつもやさしいし大丈夫じゃないかな?」
「いや、内心がっくりきてると思うな」

僕は道隆の言葉に胸が痛んだ。
毎日遊びにくる生徒が出来が悪いって、先生からしたら嫌な気分なのかなと・・・。

「先生を悲しませてたらどうしよう・・・」
僕は不安になって呟いていた。すると道隆が僕の顔を覗き込んできた。

「なんかやけに気にしてるな。別にそんなに気にすることないと思うのに」
「だって・・・」
「それともさ」
言うと道隆は立ち止まった。そして僕の心臓を銃で撃つマネをした。

「もしかして先生に恋しちゃってたり?ズキューン!」

その言葉に僕の顔が熱くなった。立ち止まってしまって歩けない。
そんな僕に驚いたように、道隆が目を丸くする。

「おいおい嘘だろう?冗談だったのに・・・」

僕はまだ動揺していて、何も言葉が出てこなかった。
そんな僕を道隆は頭をかきながらマジマジと見つめる。

「へー、ナナヤが吉本をね。ふーん、だから音楽室に入り浸りだったわけだ・・・」
そう言う道隆の胸を僕は押した。

「もう、うるさいな。そんなのどうだって良いだろう?」
僕は頬を熱くしたまま、そう言った。
実際、正直に言ってしまって良いのか、分からなかった。
とりあえずここは誤魔化すしかないだろう、そう思って僕は歩き出した。

「いつまでも立ち止まってると、置いて帰るよ!」
僕は言いながら、ズンズン進む。すると後ろから走ってくる足音が聞こえた。

「待てよ、おい」
僕は恥ずかしくて、顔を伏せたまま歩き続けていた。




高校入学の際に選択教科で音楽を選んだのは、音楽が好きだったからだ。
だけどいざ授業が始まってみると、音楽の授業は思った以上に難しいものだった。

これは数学なのか、物理なのかって言いたくなるような難しさで、中学時代みたいに、
歌を歌って縦笛を吹いていれば良いというわけにはいかなかった。

でも僕は、音楽の授業自体は嫌いじゃなかった。
クラスメイトの多くは居眠りをしているけれど、先生はキレるわけでもなく、真面目に一生懸命授業をしていた。

最初、僕はガクト先生の事を、あまり意識していなかった。
他の多くの先生と同じで、授業以外じゃ関わらない、ただの先生でしかなかった。

そんな僕が初めて放課後に音楽室に行ったのは、友達の森沢に付き合ってだった。
音楽室の別室にドラムセットが置いてあって、森沢がそこでドラムを叩きたいと言い出したからだった。

準備室を訪ねると、先生は快く承諾してくれて、森沢は早速ドラムに向かった。
けれど付き合いでやってきた僕は、すぐに見学にも飽きてしまって、フラフラと音楽室を歩き回っていた。
そこに先生が現れ、ピアノを弾き出した。

僕は机の一つに座り、じっと先生のピアノを聞いていた。
ドラムを聞くのはすぐに飽きてしまったが、先生のピアノは飽きなかった。
まあ、ドラムはビートを刻むだけだけど、ピアノは曲を奏でるからね、興味の引き具合もそりゃ違ったのだろう。

でもずっと聞いているうちに、すっかり僕は先生のピアノに馴染み、親しみを感じてしまったんだ。
だから演奏を終えた先生に声をかけて、準備室でのお茶に誘われる事となったわけである。

それからというもの、僕の音楽室通いは続いている。
そして今日も、いつものように僕は音楽室に向かって廊下を歩いていた。
すると、後ろから肩を叩かれた。見ると道隆が立っている。

「今から音楽室だろう?俺もついてく」
「え?」
僕はその言葉に驚いた。
先生との二人きりの時間に他人が入ってくるなんて、実はあまり嬉しくない。

「なんだよ、道隆部活があるんじゃないの?」
「今日は休みなんだよ」
道隆はフェンシング部に入っている。
毎日遅くまで部活で練習しているので、音楽室帰りの僕と、昨日のようにバッタリ会う事がある。
けれど、今日のように音楽室に来たいなんて言い出すのは初めての事だ。

「だからってなんで音楽室に来るんだよ」
道隆は頭の後ろで手を組みながら言う。
「音楽室行くと、お茶を出してもらえるって言ってただろう。俺もタダでお茶にありつこうと思ったわけだよ」
僕は頬を膨らませたい気分だったが堪えた。

音楽室は校舎の最上階の3階にあった。廊下の一番端にあり、普段はひっそりしている。
けれど今日は元気で賑やかな道隆が一緒なので、僕達は騒がしく話しながら廊下を歩いた。

「なんか放課後に一人で音楽室なんか行ったら、不気味じゃない?」
「何で?」
僕の問いに道隆は答える。

「なんか音楽家の肖像画とか不気味じゃん。今にも目が動きそう。ピアノも勝手に鳴り出したりしてさ」
「・・・・そんな事はないよ」
いつも先生と一緒だったから、そんな怪談を考えた事もなかった。
でもそんな風に言われると、今後気になりそうだからやめて欲しい。
だいたい今は季節が秋だから、日が暮れるのが早くて、ちょっと遅くなるとすぐ真っ暗になるんだから、怖いじゃないか。
僕達がそんな話をしながら歩いていると、音楽室に辿り着いた。

僕はいつものように音楽室のドアのレバーを引き上げると、重い扉を開ける。
教室の中に、すでに先生はいた。
窓際で何か文庫のようなものを読んでいたが、僕に気付くと本を閉じて微笑みかけてくれた。
僕もそれに微笑み返したが、先生の表情が固まった。

「こんにちは!今日は俺もお邪魔します!」
道隆は僕を追い抜いて先生に近づいていく。

「先生、今日は俺にもピアノ聞かせてよ」
元気よくそう言う道隆に、最初先生は驚いていたがやがて微笑んだ。
「赤札門が来るなんて珍しいな。ちょっと先生も気合を入れないといけないかな?」
僕は冗談を言って微笑みあう二人を、なんとなく嫌な気持ちで見つめていた。
僕以外の人間と、楽しそうに話す先生なんか見たくなかったと思った。

僕はちょっと不貞腐れながら、最前列の机に座る。
席はいつも適当な場所に座っていたが、先生の姿が近くで見たかったから、僕はなるべく前の方に座るようにしていた。
もしかしたら、「音」を聞くにはもっと良い場所があるのかも知れなかったが、先生の美しい姿が見られて、
息遣いが聞こえるような前列が僕のお気に入りだった。

先生は楽譜を持つとピアノへと向かった。
グランドピアノに向かう先生は、それだけで格好良かった。僕は明らかに目をハートにしながら、先生を見つめる。
すると道隆が僕のすぐ隣の席に座った。
先生がゆっくりとピアノを弾きだす。
僕達は暫しその音に心奪われた。
目次へ 目次2へ戻る
次へ