#5
 夜の河川敷には人の気配は無く、ただ夜風が運ぶ町からの音が幽かに聞こえるだけ。いつもなら静寂の二文字が相応しい場所だ。しかし、今日は違う。下流域なので流れは緩やかなはずなのに、何故か激しい水音が響いていた。
 さらに、
「ぶもー! ぶもー!」
 と、獣じみた唸り声がする。
 殆ど闇に沈んだ川面に照り返す月光が、その声の主を浮き上がらせた。
 牛を模したマスクは、マンビーフだ。怪力無双の霜降男は璃音にかけられた焼肉のタレによって高級感を失い、すっかり力馬鹿と化してしまっていた。それを海の覇者・アクアダッシャーが川に引きずりこんでいる。その様は、さながら『家畜に悪戯する河童』である。
 だが勿論、アクアダッシャーはふざけているわけではなく、マンビーフから焼肉のタレを洗い流そうとしているのだ。しかし獣以下の知能しか持たない今のマンビーフが、暗い最中、しかもまだ肌寒い時期なのに自ら進んで川に入るわけも無く、こうして力づくの作業となったわけだ。
 まず、ボルタ、バーナー、クイックゼファーの三人が持てる力を総動員してマンビーフを川に落とし、それを待ち構えていたアクアダッシャーが深みに引き込むという段取りだ。そして今、アクアダッシャーは水中での活動に特化したその能力を存分に発揮し、単純な筋力なら自らの倍以上という相手に絡みつくようにしていなし、隙を見ては頭を水につけさせ呼吸を奪い、徐々に体力を消耗させていく。そして殆ど抵抗しなくなったマンビーフを、アクアダッシャーはドップリと水に沈めた。
 三秒後…。
 盛大な水柱が上がる。
「ぷはーっ! ふう、ふう、危ない危ない…死ぬるかと思うたでござる…」
 そう言って肩で息をしているのは、すっかり正気を取り戻したマンビーフだ。その後ろにいるアクアダッシャーはフル装備の状態なので、普通のスキューバダイバーにしか見えない。
「大丈夫か?」
「ああ、助かったでござる。かたじけない」
 二人は仲良く並んで岸に上がった。それを見て、ボルタは安堵のタメ息を吐く。
「ふう、これでやっと静かに移動できるな」
 すると、風が巻き起こりクイックゼファーが姿を現した。
「ほら、差し入れだ」
 と、缶入りコーンスープをアクアダッシャーとマンビーフに投げ渡す。状況が終わりかけたのを見計らい超高速で自販機に走ったのである。
 それで二人が一服したところで、土手に座っていたクーインが立ち上がった。
「よし、行くぞ」
 盟主に促されるまま、タイツ男たちは歩き出した。暗い夜道を六人が群がって歩く。皆無言だったが、バーナーだけが、
「いやぁボス、いつもすみませんねぇ。はっはっは」
 と、呑気に笑っていた。クーインは、それが気に障って大きく声を荒げた。
「うるさい! お前たちはそうやって捕まってばかりではないか。たまには、与えた能力に相応しい働きをしてみせよ!」
 その言葉に、タイツ男集団・酉野紫の面々はすっかり黙ってしまった。そうしているうちに、郊外のショッピングモール跡地が見えてくる。彼らにとっては我が家とも言える、酉野紫のアジトである。
 六人はドアをくぐり、ホールへ。マンビーフが"誕生"した、あの場所だ。いつも集会を開くこの場所は、こういうときには反省会の会場となる。
 ここに来て、最初に"彼"を見つけたのは、能力特性から視力の高いクイックゼファーだった。
 自家発電によって薄っすらとした灯りに照らされた、その場所に、季節外れもいいところな臙脂のコートをまとった長身の男が立っていたのだ。
 この状況で、特に頭の軽いバーナーでなくとも"可哀想な人が迷い込んだ"と考えるのは当然だろう。ただ、それで易々と近づいてしまうのは、頭の軽いバーナーならではといえる。
「なあアンタ…ここは、民間人が来るところじゃあねぇんだぜ?」
 男の隣に歩み寄ったバーナーは、そう言って薄笑いを浮かべた。だが、男は顔を伏せたまま何も答えない。
 次の瞬間、何か銀色の物が閃き、バーナーの首が切断された。
「な、なんだこりゃーッ!!」
 この悲鳴は、自らの首の無い胴体を見上げたバーナーのものである。バーナーの首は倒れてきた自分の身体の下敷きにされ、静かになった。
 残った五人、特にクーインは激しく動揺した。酉野紫スーツはそこいらの刃物は通さないように出来ている。それがあっさりと切り裂かれたのだ。お陰で、バーナーの身に起こったおかしな出来事を見過ごしてしまっていた。
 次にコート男へ突っ込んだのは、二番目に頭の軽いクイックゼファーである。
「テメェ!」
 怒りも露わに、拳を叩き込む。自慢のスピードは秒間二十発という冗談のような連打を可能とする。その全てが、コート男の顔面と腹部に降り注いだ。
「くたばりやがれェーッ!!」
 さらに、上段回し蹴りが男のこめかみにブチ当たった。並の人間ならいざ知らず、超人でさえ命の危険に晒す程の攻撃だ。だがコート男は、今までの攻撃を直立不動のまま受け続け、一ミリもその場を動いていなかった。散々殴りつけたはずの顔には腫れ一つ無く、端整さが余計に酷薄さを増させた面差しは薄く微笑んでさえいた。
「嘘だろ…」
 絶句したままで、クイックゼファーの首は宙を舞った。
 ボルタは叫んだ。
「マンビーフ! 一人づつじゃあ勝ち目は無いっ! 連携で行くぞ!」
「おう!」
 マンビーフの身体が黒く変じ、鎧が形成される。
「殿はお下がりください。ここは我らが」
 牛頭の鎧武者に促され、クーインは小さく頷くと闇に解けるように消えた。それを見届けると、マンビーフは腹の底に溜めていた力を一気に解放した。
「エクスペンシブオーラッ!!」
 黒毛和牛霜降肉の高貴な波動がコート男を襲う。
「むっ…これは…」
 男は初めて顔を上げ、波動を凝視するかのように眉根を歪めた。
 それを、
「かかったっ!」
 と見て、ボルタは電撃を放つ。同時に、マンビーフは太刀を引き抜き駆けた。
 電撃の直撃を受け、だが男は不動。いや、左の掌をボルタの方へ突き出していた。それが何を意味するのか、酉野紫には判らない。マンビーフはコート男に向けて真っ直ぐに太刀を振り下ろした。次の瞬間、ガラス同士を打ち付けるような音が響いた。太刀はコート男の左手に、性格には掌の先にある透明な壁に遮られていたのである。
「なんとっ」
 マンビーフが力を込めても、壁はびくともしない。今度は太刀を大上段に振り上げると、マンビーフは渾身の力を込めて、それを振り下ろした。
 ガラスの割れるような音がして、壁が砕けた。男は驚いたのか、少しだけ眼を丸くしていた。
「くらえ!」
 マンビーフはもう一度エクスペンシブオーラを放った。すると、コート男は顔を歪め、実に嬉しそうに笑いだした。
「ふふ…ははは…はははははははッ! 肉だッ! 肉の匂いだッ!!」
 その狂気じみた様相に、マンビーフの背筋に冷たいものが走った。
「よせ!」
 ボルタは叫び、電撃を放った。マンビーフを巻き込んでしまうだろうが、彼なら一発くらいは耐えられるはずだ。他の二人のようにやられてしまうよりはずっと良い。
 その一撃は、マンビーフに太刀を構える時間を与えた。
 だが、それだけだった。
 マンビーフの太い首は、太刀もろとも、造作も無く斬り飛ばされていた。
「なんてことだ…」
 ガックリと膝をついたボルタの方を、コート男が振り向く。その手には鈍色に光る大きな鉈が握られていた。
 あれが仲間たちの首を刎ねたのだ。
 そして、ボルタの能力は全く通用しなかった。それどころか、仲間をみすみす死地に追いやってしまったのである。もはや彼に、立ち上がる気力は残っていなかった。
 コート男がゆっくりと歩み寄ってくる。ボルタには、それが死刑執行人に見えた。確かに、これから首を刎ねられるのだから、まさにその通りだ。
 だが不意に、コート男の足が止まった。そして、バタバタと酷く下手糞に、何かが走る音。
「う、うわあああああーっ!」
 見ると、アクアダッシャーが水中銃を振り上げ、コート男に向かって走っていた。地上の彼は全くの無力だ。だが、全てを搾り出すような絶叫とともに、彼は駆けた。
 しかし、男は足を止めなかった。
 邪魔な枝を切り払うように、鉈はその首を叩き落した。
 ボルタは、崩れ落ちるアクアダッシャーを呆然と眺めるだけだった。気が付けば、鉈が目の前で鈍い光を放っていた。四人の人間を斬ったにもかかわらず、その刃には一滴の血も付いていなかった。
「…やれよ」
 そう、呟いた瞬間、ボルタの視界は逆転した。
 
 
1−
 この世界には魔術が存在する。
 物語が始まった時から蔵太亜沙美という魔術師が登場しているので、今さら言うまでも無いことだが、彼女が扱う技術がどのようなものなのかについては、敢えて説明は避けてきた。 
 だが今、この日本の片隅の物語に魔術師たちが大きな影を落とし始めている。事ここに至っては、この世界における魔術の概念と起こり、そして魔術師と呼ばれる者たちが振るう力について、語る必要があるだろう。
 
 あらゆるモノの最小単位、素粒子の世界を扱う量子力学によると、我々の宇宙には負のエネルギーである陽電子がびっしり詰まっており、その境界面が真空と呼ばれる状態である。そして、そこを正のエネルギーである様々な粒子が浮き沈みを繰り返し波となって伝達する。光などの電磁波や運動エネルギーが宇宙空間を進めるのもそのためだ。この理論をディラックの海という。
 また、この世界はヒッグス粒子という素粒子で満たされたヒッグス場につかっており、これが光子以外の粒子に質量を与えているとされているが、全ての粒子が正と負のエネルギーを持つため、これにエネルギーを加えれば何でも作れるということになる。
 このように、我々の宇宙では光も運動エネルギーも、物質も突き詰めればディラックの海を漂う島のように漂っており、それらはエネルギーの加減で消えたり現れたりするという実にダイナミックな世界だ。
 この世界の魔術師たちが使う魔術とは、そういった"真空"と呼ばれるモノに近い空間を作り出し、そこにエネルギーを加えることで様々な現象を引き起こすものだ。
 魔術を地球にもたらしたのは、太古の昔に現れた"星界より来たる魔王"であるという。その存在が地球に持ち込んだ幾つかの物のうち、当時の人類でも利用可能だったのが、アストラル界の力を借りて"思い込みを具現化する"技術だった。
 アストラル界とは、物質世界と重なって存在している精神世界というべき場所であり、意識体が幅を利かせる世界である。精神のありようで存在の軽重が決定され、自我の強いものが全てを支配するところだ。ここではエウェストルムという存在が全てを形作っている。このエウェストルムが精神・思考を伝達し質量・運動エネルギーを発生させる。ゆえに、強い思い込みが強いパワーを生み、世界を書き換えるのだ。
 物質世界でもエウェストルムは存在しているが、通常は反エウェストルムというべきものと釣り合った状態で、特に何も為す事は無い。だがエウェストゥルムを発するものを持ち込めば、それは精神を媒介・伝達し一時的にアストラル界と同様な状態を作り出す。
 エウェストゥルムを自在に操るには、その精神を媒介にするという性質を利用する。つまり、エネルギーを生み出す為のシステムをイメージし、エウェストゥルムの存在する空間に投影すれば、つまり投影する、というイメージを持てば、燃料をエンジンに入れて運動エネルギーを引き出すように、エウェストゥルムを力として使える。このシステムが、一般に"術式"と言われるものだ。
 ここで問題になるのはエウェストゥルムの発生源だが、物質界とアストラル界の両方に同時に存在している物、つまり二つの世界に跨って存在している物は、程度の差こそあれ常にエウェストゥルムの発生源足りうる。それこそが、人間をはじめあらゆる生物の魂=精神だ。その発生量には個人差があるが、濃度の高いエウェストゥルムを発生させうる者だけが魔術師になることが出来る。
 精神が物質と等価だというのは既に極小領域の世界では言われていることだが、それを実際にマクロの世界でも同等の物としてみせるのが魔術であるといえる。
 補足だが、人や異界の存在の残留思念が定着した聖遺物や、聖遺物を模すなどしてしかるべき素材と製法で作られた物体もエウェストゥルムの発生源となる。
 このように、利用可能なエウェストゥルムを発生させるモノを"魔力源"、そこから発生するエウェストゥルムを"魔力"と呼ぶ。
 そして魔術とは、魔力源を利用して"思い込み"を現象に変換する。
 そこでは、より強いイメージを持つことが成功の鍵となる。イメージするということは、思考するということだ。
 人間は言葉を用いることで思考する能力を身につけた生き物だが、そのためには対象に名前を付けることが必要になる。そこで、エウェストゥルムを操る為の術式にも名が付けられることになる。"こういう風なイメージを持てば、こうなる"という思い込みが魔術のシステムの基盤なので、それを確立する為の手段は何でも良いが、いずれにせよ名前は必要だ。そして名前がついたことによって、魔術を行使する際にその名を口にする、または絶叫する者が増えてくる。または結印のように、特定のポーズを加えてイメージを強化するという手法もある。いわゆる"決めポーズ"というヤツだ。
 だが、これでは相手に手の内を容易に読まれてしまう。更に切実なのはネタ切れだ。術の内容に応じた名前やポーズではすぐにネタが切れる、また他人と被るという問題が生じる。だからといって突拍子の無い名前をつけるとイメージから遠ざかってしまい、それでは本末転倒だ。そこで編み出されたのが、"擬人化"である。
 古代神話を始め『アリとキリギリス』や『北風と太陽』などの寓話、近年では某世界的ネズミまで、物語の中では様々な生物、物体、気象現象に人格が与えられてきた。それはモチーフとなった物のイメージとの相乗効果で、受け手に強いインパクトを与えてきた。そこで魔術師たちは、最も得意とする術をキャラクター化し自らの分身として用いることで、イメージの強化が出来るのではないかと考えた。そのキャラクターの活躍想像図が、そのまま術式となる。それはまさに、その魔術師の力の象徴といえるキャラクターだ。
 そして、イメージの産物を実体化させる触媒となるのが、魔王の賜物の中にあったイデアクリスタルである。
 魔王は外見こそ人間と変わらなかったが、自らの化身を作り出す能力があった。それはまさに魔王の名に相応しい魁偉な容貌を持ち、圧倒的な超能力を振るったという。イデアクリスタルは、それを模した分身を"誰でも"作り出せるようにする機械だ。外見は高さ三センチほどの青みがかった半透明の円柱で、内部には無数の回路が走り複雑な模様を形成している。これが使用者の精神と反応しイメージに質量を与え、その技術と能力を増幅した分身を実体化させる。
 もっとも、"誰でも"という使用条件には限定がある。"魔王の故郷である星の人間なら誰でも"であり、地球人の場合は非常に限られた者達しかこれを扱うことが出来なかった。その素質は、魔術師のそれと合致する。
 このイデアクリスタルの研究を進めた魔術師たちは、ついに自らの分身を獲得するに至った。それはその性質に由来し"象徴機械〈Icon〉"の名で呼ばれるようになった。
 一例が、蔵太亜沙美が操る白と赤の戦闘機械・アームズオペラである。
 ちなみにイデアクリスタルのオリジナルは既に行方不明だが、その複製品はロンドンにある魔術師協会で管理され門徒に分配されている。それ以外にも、流出品や協会成立前に作られた物が相当量、野に存在する。亜沙美が所有しているクリスタルもそういった素性の物だ。
 複製の製作に関しては、エネルギーさえあれば何でも作れる方々が行うので、地球外の素材で作られていようが構造が解明されていなかろうが、問題なく可能なのである。
 また、イデアクリスタルは魔力のブースターとしても使用できる。大した力を費やさなくても大きな術を行使出来るので、魔法の杖として魔術師たちに親しまれている。現在では、殆どの魔術師はイデアクリスタル無しで魔術を行使することが出来ないほどだ。
 

 
 蔵太庵では、文字通りの首実検が行なわれていた。
 そもそもこの店に朝の九時から人が大勢居るというだけでも奇異なことだが、それ以上に奇異なのが、件の首である。
 その首は町を騒がす超能力者集団、酉野紫の構成員、ボルタの物だった。しかも、それは生きているかのように喋るのだ。
「うわー、止せー! 見るんじゃなーい!」
 ボルタはただただ喚いていた。侑希音がボルタの首を手にとって、くるくる回して全体を凝視しているからだ。
「ふむ…」
 思わず感嘆する侑希音。首の切断面は綺麗に平らになっていて、組織の損傷は一切無い。それどころか、血も出ていなかった。侑希音はボルタの頭をひっくり返して左掌に乗せて、右手で切断面を弄る。試しに気管や食道に指を突っ込んでみようとするのだが、透明な何かで蓋でもされたようになっていて、切り口の組織自体にさえ触れることも出来ない。
「こりゃ、ここからマスクを剥がすのも無理だなぁ」
 そう言ってタメ息を吐くと、侑希音はもう飽きたのかボルタを畳の上に放り出した。二回転くらいして縁側に転がり出たボルタは、さめざめと涙を流す。
「こんなとこ見られて…うう…お婿にいけない…」
 そんなボルタが鬱陶しくなって、侑希音は露骨に眉をひそめた。
「うるさいなぁ、何がお婿だ。アンタにお似合いなのは地獄だよ。川にでも蹴りこんでやろうか?」
「…勘弁してください」
 ようやくしおらしくなったボルタを一瞥して、亜沙美は感心したように頷いた。
「なるほど。これが例の安全装置というわけか」
 それを聞いて斐美花が言う。昨日と同じく、紫のリボンで髪を結っている。
「じゃあ、これって…くっ付くんですか?」
「多分、そうだな。ただ、生物相手にはちょっと難度が高い術だけどな」
 と、亜沙美。それから、冷たい笑みで付け加える。
「まあ、コイツらに関してはこのままで全く構わないと思うがね。ほっときゃくたばるし、丁度いい厄介払いだろ。ククク…」
 亜沙美の笑みに薄ら寒いものを感じながらも、蛍太郎は口を開いた。
「確かにそうですけど、今は、彼が情報源として有用なことを忘れてはいけません。相手は、酉野紫よりも危険性では数段上なんでしょう?」
 その言葉に、侑希音は腕組みで考え込んだ。
「そうだなぁ…」
 それで皆しばらく黙ってしまったので、璃音は申し訳なさそうに言った。
「…どうなってるの、それ?」
 妹に視線を向けられた侑希音は、深々とタメ息を吐いた。こうして結局、彼女のイスマエル捜索は二人の妹の知るところとなってしまったのだった。
 それから十分ほど後。
「じゃあつまり…」
 一通り事の次第を聞いた璃音は、目を丸くした。
「この町に、地球に存在しない物質で出来た鉈を振り回す、危ない魔術師が潜伏してるってこと?」
 頷く侑希音。
「ま、そういうこと。で、ボルタをやったのは間違いなくソイツだ」
「へえ…怖いなぁ」
 璃音は肩を震わせた。その横でボルタの首がイオノクラフトで浮かんでいる。
「おーい、早くくれよ」
「あ、はいはい」
 そう言われて、璃音はシリアルをスプーンで掬ってボルタに食べさせた。それを、蛍太郎が釈然としない表情で見つめている。
 侑希音はからかうように笑って、蛍太郎の肩をつついた。
「嫉妬?」
「そ、そういうわけじゃないけどさ」
「まあ、お腹空いてるだろうし、しょうがないだろ。アイツには色々と訊かなきゃいけないんだしさ」
 それから侑希音は一転して鋭くボルタを睨んだ。
「さて、そろそろいいか? お前がそんな姿になった経緯を聞かせて欲しいんだがね」
 ボルタは口の端についた牛乳を舐めて、そっぽを向いた。
「おいおい。だんまりも良いが、そしたらお前ら、ずっとそのままだぞ」
 その言葉にボルタの視線が揺れる。だが、都合が悪い事があるらしく口を噤んだままだ。
 その時、庭に男の声が響いた。
「それならば、私が代わりに話そう」
 不意のことに、一同驚きを以って声の方向へ視線を向ける。そこには、紫と黄色のタイツにマントを羽織った男が浮かんでいた。男はマントをなびかせ気障に一礼すると、徐に口を開いた。
「申し遅れた。私はサーバント・クーイン。偉大なる魔王、カーンデウスの従者にして、普段は酉野紫の盟主なんぞを、ちょいとしたボランティアでやっている。以後、お見知りおきを」
 ふざけた口上だが、アイマスクで表情は覗えない。侑希音は鋭い眼差しを崩さずに、クーインにぶつけた。
「で、そのサーバント・クーインとやらが何をしに来たんだ?」
 クーインは鼻で笑った。
「フッ。決まってるさ。部下を救うためだよ。君らは、ヤツの情報を持ってるんだろう? こちらの目撃情報を加えれば、グッとプラスになるんじゃないのかな」
「どうしてここが判った?」
 と、侑希音。
「メンバーの位置は、スーツに仕込んでいる発信機で判るんだよ。それでボルタを見つけたってワケさ。もっとも、残り四人の首は何処にあるのか判らんがね」
「ふーん。全員、首を切り落とされたのか。死んだと思うだろ、普通」
 クーインは大げさに肩をすくめて見せた。
「思ったさ。だけど首の無い体がどれも、心臓が動いてるし呼吸もしてるものだからね。そりゃ何かあると考えるだろう?」
 だが、侑希音は表情を変えない。
「信用できるか。罠かも知れないからな」
 その言葉を聞いた璃音が思い切り吹きだした。
「まさか…侑希姉ぇ、考えすぎだよ。この人たちに限ってそんなこと無いって」
 しかし侑希音は相変わらず眉を吊り上げたままだ。
「どうだか。他の連中は絵に描いたようなアホの中のアホだが、ボスは違うだろ。なあ、蛍太郎君」
 突然に同意を求められ、蛍太郎は半ば気圧される形で頷いた。
「そ、そうだね」
 そのまま、場の空気は凍りついてしまった。ただし、さしたる緊張感も無しになんとなく状況を見守っている亜沙美と、日和見を決め込んでいる斐美花は別である。
 その空気に耐えかね、何とか話題を変えようとボルタが口を開いた。
「…あの、ちょっといいですかボス。何か話を聞く限りですね、オレの首、くっつくみたいなんスよ」
 クーインの表情はアイマスクに覆われて覗えないが、突拍子の無いことを言われ驚いたようである。殆ど間を空けず、こう言った。
「ほう。試してみようか」
 クーインは右手を左脇の辺りに突っ込み、何かをまさぐるようにモソモソと手を動かす。そして手を引くと、そこから人の腕が現れた。その腕は、緑と黄色をしていることからボルタの物とわかるが、どういうことかマントの裏地から"生えている"ように見える。
 何が起こったのか判らず驚く一同をよそに、クーインは両手を使ってさらにボルタの腕を引き出す。するとさらに、ボルタの体が肩、胴、腰と順番にマントの裏地から現れ、終いには爪先まで出たところでゴロンと床に転がり落ちた。もちろん、それに首は無い。
 クーインは、事も無げに言う。
「私の超越能力の一つ、多次元収納マントだ」
 そう、クーインがまとうマントの裏地は異次元空間に通じているのだ。そこにボルタの体を収めていたのである。この分だと、残りの四人の体もここに入っているに違いない。
 クーインが首の無い体の上半身を起こし座った姿勢で支えてやると、ボルタの首がイオノクラフトで空中を移動し、本来あるべき場所へ戻った。この異様な光景に、蛍太郎の脳裏にはあの言葉がよぎった。
(…ヘッドマスターズ)
 それはさておき、クーインがボルタの頭を何度か左右に小さく回すと、部品がはまり込むようにピタリと、動かなくなる。そして、
「くっついたーッ!!」
 と、ボルタがバンザイをして歓声を上げた。これには流石に、一同拍手である。
 亜沙美が感心したように呟く。
「へえ、本当にくっ付くとは大したもんだ。ヤツの術もなかなかの完成度ということだな」
 その隣にいた斐美花はどこか得意げに、髪を留めているリボンを指差す。
「でも、先生の思いつきで試してみなかったら、本当にこうなるのかどうか、判らないままですよ」
 侑希音も、実際にこの現象を目の当たりにして驚きを隠せない。
「確かにまあ、何も知らなけりゃ、やたら鋭く切れてるだけだって思うよなぁ。一応話には聞いていたけど、ビックリだ」
 こうして一部の人たちが納得して頷きあっているので、璃音は眉を逆ハの字にして口を尖らせた。
「どーなってんのー、これー」
 それに気付いた侑希音は、小さく頭を下げる。
「あ。ゴメン」
 見ると、クーインとボルタも話を聞きたそうにしていたので、侑希音は表情を尖らせクーインたちに向けた。
「その前に、お前らは言うことがあるだろ?」
 さすがに侑希音はただで教えるつもりは無い。クーインは薄く笑うと、口を開いた。
「そうだな。あれは昨日の晩のことだ。
 私は留置所から酉野紫の五人を救い出し、アジトへ連れて行った。するとそこに、イスマエルとかいったな、あのコート男が現れたのだ。
 我々は応戦したが次から次へと敢え無く首を落とされ、全滅を避けるために私は隠れた。すると、ヤツは私を探すようなことは無く、五つの首を満足げにコートの中にしまいこみ、どこかへ消えたというワケだ」
 そして、クーインはボルタを発言を促す。先ほどまでは何も言いたくないそぶりを見せていたボルタだったが、クーインが現れて安心したようで、様子は落ち着いている。
「もう判ってるとは思うが、オレは首だけになっても能力を使って移動することができる。それで、ヤツの懐から逃れたんだ。それからは、ご存知の通りさ」
 そしてボルタはツナのことを思い出して身震いする。侑希音はひとしきり頷くと、表情を和らげた。
「よし。じゃあ、どういった経路で私の家まで来たのかは、後でゆっくりと訊くとしてだ。こっちも情報の対価を払うよ。
 あのコートの男、魔術師ジブリル・イスマエルの得意とする術は、地球外に存在する宇宙金属・メタイリジウムによるハチェットの生成だが、今の彼には人格矯正のための術が施されていて、ハチェットを作り出したときに自動的に"ある術式"を施してしまうようにプログラムされているんだ。
 それが、空間断裂術式。元々、彼は結界術にも長けていたんで、これ幸いと利用したわけだ」
「ちょっと待って」
 そこで、蛍太郎が口を挟んだ。
「その、結界術って、まさか…」
 侑希音は、静かに頷いた。
「そのまさかだよ。空間を操作する魔術だ。現代科学では定義さえされていないモノでも、名前さえ付いているものなら抵抗を排除すれば操ることが出来るのさ」
 予想通りの答えではあったが、それだけに蛍太郎は頭を振った。
「前々からそう思ってたけど、相変わらずデタラメだなぁ」
「まあね。私もそう思うよ」
 侑希音は苦笑した。話はまだ続く。
「この空間断裂術式がかかっているハチェットで斬られたものは、見た目上は確かに切断されるのだけど、実際にはその箇所に結界による異空間を挿入されて、通常空間での繋がりを断たれるんだ。その部分は、実は結界で作られた異空間を介して繋がったままなんだよ。
 そして、結界はそれぞれの面を貼り合わせたときに解除され、元に戻るというワケ。さっきのボルタのようにな。
 魔術師協会としては、これでイスマエルを無害化したとしているが、実際のところ、首を切られるという異常な事態に精神が耐えられる人間はそうそういないし、心因性ショックで死に至る可能性もある。その場は生き延びても、神経の伝達がに異常が起こるのか、交感神経が上手く働かない。つまり、身動きが取れないんだ。だから、放置されれば餓死か事故死だ。…どっちにしろ、野放しにしておけば危険なことには変わりないよ。
 それに、さらに厄介なことが二つある。
 一つは、この空間断裂術式の性質上、ヤツのハチェットに"斬れない物は無い"ってことだ。宇宙金属で出来ていても、所詮は鉈。本来なら、それなりに硬い物を以ってすれば、その刃は止められる。あくまで物理的な力なんだからね。でも、この術がかかっている以上、どんなものでも必ず…後でくっ付ければ元に戻るんだが…斬られてしまうんだ。
 そしてもう一つ。イスマエルに施された矯正措置は現在不安定な状態で、不定期に"正常な状態"へと戻るらしい。この状態では、彼の作るハチェットはただ硬いだけの鉈だが、これを破壊することは非常に困難だ。そして使用可能な全ての術を、問題なく使うことが出来る。矯正措置でブロックされている、象徴機械もね。
 いずれにせよ、だ。捻くれた術を使うのか、正統派ストロングスタイルか…そのときによって、どっちのヤツが出てくるのか判らないんだ。まさに、一粒で二度厄介だよ。斐美花の目撃証言からすると、…かなり状態が悪いのかも知れないから、余計ね」
 と、侑希音は深々とタメ息を吐く。その話を黙って訊いていたクーインは顎に指を当てて何やら考えていたが、少しして、ゆっくりと口を開いた。
「なるほど…。バーナーたちの首が見つからないもの、その結界術とやらのせいなのだろうな。と、いうことは…今のヤツは持てる術を全て使える"正統派ストロングスタイル"の状態である可能性が高いのではないか?」
 そう言われ、侑希音はクーインの理解の早さに感心して目を丸くしたが、すぐに難しい顔になる。
「うーん。断定は出来ないな。矯正術により何を使えなくしたか、という内訳は良く判らないんだ。何せ、これは協会が宇宙金属の精製というスキルを失いたくないがためにとった措置なわけで、イスマエルが体得している術のどれがどう作用しているのかは研究段階だった…と、彼らは言っていたよ。
 どうやって作ってるのかは判らないが、とりあえずハチェットが完成した段階で空間断裂術式をかけるようにしたとのことだが…」
 侑希音自身、協会側の物言いは信用していないのが良く顔に現れている。それを見て、今まで黙っていた亜沙美が口を開いた。
「そりゃ、お前もとっくに気付いてるだろうが、そこら辺の情報は与えられていないだけなんじゃないのか? なんせお前は余所者なんだからさ。何をブロックしているのか教えてしまえば、逆にブロックされていない術がメタイリジウム生成の鍵だということになるしな」
「やっぱり、そう思うか」
 と、侑希音。しばらく考えて、こう結論を出した。
「よし。今はまず、酉野紫の残り四人の首を捜すことする。それがイスマエルを見つける早道だろう。ここは一つ、同盟を結びたい所だね」
 クーインは頷いた。
「いいだろう。どのみち、我ら二人だけではヤツに敵わないからな」
 それを聞いて、侑希音も深く頷いた。
「よし、決まりだ。それじゃあ…斐美花、璃音!」
 名を呼ばれ、色めき立つ二人。だが、侑希音の言葉はつれなかった。
「君らに頼むようなことは何も無いからさ、早いとこ学校に行きな。送り届けは頼んだよ、蛍太郎君」
 

 
 イギリスからの飛行機を降り、羽田空港の入国審査ゲートに現れたその男は、その奇怪な容貌で周囲の注目を集めた。
 見事なまでに突き出たビール腹に象徴される膨れた身体のお陰で見栄えが良いとは言えない男で、オフショルダーのTシャツと煤けたジーンズという何の捻りも無い出で立ちが、それにトドメを刺していた。太いが決して逞しくはない二の腕には左に"真九巣上留"、右に"銀鎚"と縦書きでタトゥーが入れられており、ブヨブヨの胸元にも十字架の意匠が見え隠れする。
 だが、これだけなら奇怪とまではいかない。
 最も特徴的なのは、彼の頭部である。その首の上に乗っていたのは、さながらブリキのロボットのような、四角い金属の箱だったのである。正面には顔のように丸い穴が二つと長方形の穴が一つ。両側面にはアンテナのように針金を曲げたような物が生えていて、それを耳だといわんばかりだ。
 そして問題は、彼がこの銀色に鈍く光る物体を付けたままで飛行機に乗っていたという事実だ。
(あちらの搭乗ゲートでは何も言われなかったのだろうか?)
 と、誰もが首を傾げた。
 職員がパスポートの提示を求めると、男は素直に応じた。 
 名はジョージ・マックスウェル。イングランド国籍。三十五歳。写真には、縮れた金髪とソバカスだらけの膨れた顔が、ちゃんと付いている。
 これを見た職員は、問わずにはいられなかった。
「その頭の物は、なんですか?」
 するとマックスウェルという名の男は、その顔といっていいのか、ロボット的な頭部に似つかわしい無機質な声で答えた。
「モウシワケアリマセン。ちょっと怪我をしてしまって、これを外すわけにはいかないのデス」
 つまりこの頭は、外れる物らしい。本人の物言いからすると、マスクのような物を被っているということだろう。それを聞くと、安堵感から周囲の空気が緩んだ。少なからぬ者が、あれが彼の本当の頭だったらどうしようと思っていたらしい。
 だからといって、空港職員にしてみれば目の前の明らかに怪しい人間を、あちらの方では何を思って搭乗を許したのか理解に苦しむが、それを怪我がどうだか知らないが「はい、そうですか」と通すわけにはいかない。
 職員はなるべく言葉を選んで、マックスウェルを問いただすことにした。だが、いつの間にか後ろにいた上司に耳打ちをされる。それを聞いた職員は、こう言うしかなかった。
「どうぞ。良い旅を」
「アリガトウ」
 マックスウェルは右手を軽く振ってから、巨躯を揺すり歩きだした。
 周囲の者は、それで良いのかと疑念を感じ職員に視線を集中させる。だが、それもすぐに逸れる事になる。
「ア…ッ!」
 小さな悲鳴と共に、マックスウェルが転倒した。派手な音とともに床に投げ出され、叩きつけられる。
 そして…。
 床に落ちた弾みで、ブリキの頭が床に転がった。それは、ニ回転して頭の天辺を下にして止まる。そして、相変わらず無機質で抑揚の無い電子音で、泣き言を言った。
「アアーッ! もうヤダ! このカラダ、足元全然見えないんだもーんっ!!」
 それからまだ何か喚いている頭の横に、マックスウェルの体が転がっていた。けたたましく騒ぐ頭に対し、体はピクリとも動かない。それどころか、この体には首から上が無かったのである。
 もちろん、ゲートは騒然とした。
「アーッ、マズイ!」
 頭が、騒ぎになってようやくその様子に気付く。直後、首の無いままの体が膝をついて立ち上がってブリキの頭を拾い上げ、そのままいずこかへ走り去っていった。
 

 
 璃音と斐美花、そして蛍太郎が去ってからも蔵太庵では会議が続いていた。むしろ、これからが本番だといえるだろう。今、蔵太庵に残って地図を前に額をつき合わせているのは侑希音と亜沙美。そして、酉野紫のメンバー二人だ。
 十時近くになることには、手持ちに情報におおよそ整理がついていた。 
 ボルタの証言をもとに推測すると、酉野紫のアジトで凶行に及んだイスマエルは市の南部へと移動し、その途中でボルタの首を落としたらしい。
 ひとり脱出に成功したボルタは、何せ首だけなので上手く能力をコントロールできず、藤宮屋敷にたどり着いたということのようだ。
 クーインは、当然だがアジトの場所に関しては喋らずじまいだった。わざわざ五人の体を多次元収納マントに隠したのも、モール跡に調査のメスが入った場合に備えてのことだ。
 もっとも、市の南部で余所者が潜伏できそうな場所は少なくない。この辺りは山が多いため住宅地からも外れ、国道も逸れているという、言わば忘れられた地域である。人が住んでいないと言って差し支えないどころか近寄る者も少ない場所なので選択としてはベストに近い。外国から来た人間が見事に土地勘を発揮しているのは腑に落ちないが、侑希音はとりあえず感心しておくことにした。
 しばらく地図を睨んでいたクーインは腕を組んだ。
「問題は、ここからどう絞り込むかだが…。この数なら全員でシラミ潰しにすればよかったんじゃないのか? なんで、妹たちを帰したんだ?」
 明らかに不服そうな態度で睨まれ、侑希音も負けずに眉根をひそめた。
「冗談じゃない。お前らは、女の子に『ひとりでマニアック野郎を探してくれないか。もちろん、凄く危険だけどー』なんて言うつもりか。酉野紫アメージング5が聞いて呆れるな。日ごろ町で暴れてるくらいだから、力が余ってんだろうが!」
 そう言われると、イスマエル一人に全滅の憂き目を見た酉野紫の面々に返す言葉は無い。それから侑希音は少し表情を和らげて、言った。
「時間が無いのは判ってるさ。実のところ、ヤツが潜伏するにあたり一つ条件がある。それを当てはめれば、候補地は二つしかない」
 酉野紫の二人だけでなく亜沙美も説明を聴きたそうにしていたので、侑希音は少し話を逸らすことにした。
「そもそも、イスマエルの日本行きが発覚したのは、港の貸しコンテナの記録からなんだ。
 ヤツは十年前、最初の逃亡からすぐにコンテナを三つ借りていたんだが、それが最近になって香港経由で日本に向かったことが判った。まあ、それに気を払ったのは私だけだったんだが…。
 それで、だ。そのコンテナを日本に着いてから調べたんだが、"何か"を保管していたのは当然として、その"何か"を作っていたと思われる痕跡があったんだ。例えば、金属の削りカスや薬品漏れの跡とかな。
 そのあたりを考慮すると、どうたらヤツは、逃亡期間中にコンテナを工房として使っていたらしいんだ。物の出し入れとか廃棄物処理とか、その他の不都合は大抵は魔術でどうにかなるから問題は無い。むしろ、普通に考えれば出きり出来ないような山の奥に積み重ねてもらった方が好都合だ。
 そういう環境で、イスマエルは作業を続けていたんだろう。
 で、ヤツは今、その中身をどうしているか考えると…。おのずと、"それなりの物"が置ける場所を、潜伏先に選ぶことになると思わないか?」 
 そこで、亜沙美が相槌を打つ。
「そうだな。ブツの移動は転送術でクリアできるが、保管するとなると物置が必要だ。亜空間に保管する手もあるが、その間はいわゆるキャスティングコストがかかるわけだから長時間は無理。
 そうなると、『人の気配が無くてそれなりに広い場所』という条件がついてくるな」
 改めて地図を見る一同。
 その条件にを当てはめると、イスマエルの潜伏場所の有力候補は、町の南端にある病院跡と、すでに操業を留めて久しい廃工場。この二つだ。
 
 結局、侑希音は一人で行動することにした。
 単独の方がいざというときに楽だし、やはり酉野紫のメンバーは信用できないからだ。
 そういうわけで亜沙美には件の二人の番を頼み、侑希音は病院跡へと向かった。こちらを選んだ理由は簡単、昼間のうちに片付けたかったからだ。それに、イスマエルが動くとすれば白昼堂々というのは考えにくい。大した幸運がなくても現地で顔を遭わせられるのではないかという期待もある。
 赤いバイクを飛ばし山沿いの道を進むと、朽ちかけた大建造物が見えてくる。当時の迷走していた行政が建築した市立病院の成れの果てだ。時の市長は法眼家と折り合いが悪く、その結果の税金の無駄使いであった。この時は想定規模に見合った土地がここにしかなく、乗用車やタクシーでなければ来られない場所に病院を建てることになった。結果、バス網を整備する前にあっさりと経営破綻することになったのである。侑希音もうっすらと記憶しているが、このときの市長選と市議選の争点が病院存続の是非で、廃止派の大勝利に終わっている。その後に三城大学と英春学院が創設されることになったのだから、その選挙がこの町のターニングポイントだったということだろう。
 侑希音は、病院が建つ小高い丘の麓に愛車ドゥカティを停め、そこから歩いて丘を登る。森が開けると、病院が見えてきた。
 侑希音の家は法眼家と長いこと懇意にしていたので、在りし日の市立病院は写真やTVのニュースでしか見た事が無い。だがそれにしても、この幽鬼の城の如く変貌した建造物は人里に存在するものにしてはあまりに違和感のあるシロモノだった。鳥の声すらしない異様な静けさは、まるで氷にでも閉ざされたかのようだ。
(これじゃ、病院どころか墓場…。いや、それさえ通り越して地獄の底だな)
 正面玄関から足を踏み入れると、そこからは明確に空気が違っていた。冷たく、それでいて埃っぽく澱んだ空気は、薬品臭とも死臭ともつかない奇妙な色をまとう。侑希音はマスクを持参しなかったことを後悔した。これを肺の奥まで吸うのは大いに躊躇われるが、まさかずっと息を止めているわけにもいかない。浅く呼吸をしながら、薄暗い廊下を待合ロビーへと進むと、侑希音はすぐに、自分以外の足音を察知した。それも複数、である。息を潜め、柱の影に隠れる。その横を、五人程がやけに重い足音と共に通り過ぎる。最後の一人が離れかけた時。
「そこに誰かいるぞ!」
 男の声が響いた。
 五人組はすぐに引き返す。そのうち、間近にいた一人がパンチを放った。
 侑希音は慌てず後方へ飛ぶ。それと同時にパンチは柱の角を撃ち抜いた。目標には当たらなかったが、その威力を示すことには成功している。もちろん、侑希音は目を見張った。
(おいおい…)
 距離を置いて良く見ると、相手はドロイドだった。蛍太郎から聞かされていた、ドクターブラーボの戦闘員である。それが五体、欠けた柱を挟んで侑希音を囲むように展開していた。さらに、背後に別の気配を察知し、振り向くとそこには、見覚えのある男二人組みがいた。
「ヤスよぉ…」
 男の一人が、震えた声を出す。
「なんだよ、シゲ」
「あの女、いつだったかオレの股間を蹴り上げやがったヤツじゃあねぇのか?」
 もう片方も、それに気付いたようだ。
「あーっ! そうだ、あのおねーちゃんだ! 何でこんな所に!?」
 そう、彼らこそ噂のサイボーグ・ヤスとシゲである。相変わらず剥き出しのメタルボディはそのままに、ヤスの方は携帯液晶テレビのような機械を手にしていた。
 突然現れた畑違いの存在に、侑希音は思わず毒づいた。
「なんでじゃない! それはこっちのセリフだっ」
 だが、シゲは動じない。それどころか、勝ち誇ったような表情でほくそ笑む。
「なんで? 理由なんてどうでもいいじゃないか。とにかく、意趣返しをする機会が得られたんだからな。オレ達は、あの時とは違うぜ。なにせ、ドロイド戦闘員を五体も連れてるんだからな!」
「オレらは大して変わってないけどなぁ」
 隣のヤスも良い気になっているのが表情でわかるのだから、ある意味ドクターブラーボの科学力は凄まじい。侑希音は感心せずにはいられなかった。
 そうしている間にも、サイボーグとドロイドたちは徐々に包囲の輪を狭めていく。侑希音は隙を見せないように気を配りながら、足場が有利な場所へと移動する。元がロビーだけに放置された椅子などが多いので、それらが少ないところへ、少しずつ動く。
 ある程度輪が狭まったところで、敵は一斉に床を蹴った。
 それに合わせ、侑希音は身を屈める。そして前傾姿勢をとり、一気に駆けた。
 藤宮侑希音の持つ超越能力"ミス・パーフェクト"は、基本的には斐美花の"アーツ・オブ・レガシー"と同様な能力である。斐美花の場合は過去に藤宮家に存在した能力者のデータをエミュレートするのに対し、侑希音は過去実際に目にした技術・技能をそっくりそのまま記憶して使うことが出来る。それにより、ある程度の訓練で能力と肉体をすり合わせれば、大抵のことは人並み以上にこなせるようになってしまう。超能力の類は対象外としているが、これを使って真っ当な道で金を稼げるという、藤宮家始まって以来の有益な能力である。
 もともと侑希音は頭の良い人間なので、この能力は運動関係を多く対象にすることになる。そして彼女の身のこなしは、亡き父から受け継いだものである。
 姿勢を低くし、短距離ランナーもかくやという速度で駆けだした侑希音のターゲットは、…ヤスとシゲだった。
「なんでッ!?」
 サイボーグ二人は、揃って顔を強張らせた。構わず、侑希音は直進し、そして跳んだ。一瞬、相手を見失った、その直後。シゲの後頭部に衝撃が走った。侑希音の回し蹴りが延髄に炸裂したのである。
 脳を激しく揺さぶられ、シゲは崩れ落ちた。それでようやく、ヤスは侑希音の姿を知覚した。だが、既に遅し。その時には、侑希音の前蹴りがヤスの腰を射抜いていた。その衝撃で、腰を覆っていたアーマーが割れ、関節とフレームが剥き出しになった。ヤスは真っ青な顔で内股になってうずくまり、股間を押えながら呻く。それに対して侑希音は、涼しい顔で乱れた前髪に軽く指を触れる。息は全く上がっていない。
 ヤスは泣き出しそうな顔で侑希音を見上げた。
「そんな…なんでオレらが…。こういうときは普通、戦闘員から…」
「だって、戦闘員の方がお前らより強そうだし」
 侑希音は事も無げに言ってから、少し眉をひそめた。
「痛くないだろ、そこ…」
 ヤスは股間を押さえて悲痛な声を上げた。
「痛いんだよ、心が! 男の子なんだぞ!」
「…ごめん」
 思わず頭を下げてしまう侑希音。だがヤスは眦を決し、叫ぶ。
「くそっ、まだまだ! オレの心は折れちゃいないぜ。いけいッ! ドロイドたちッ!」
「…お前の心とか関係ないじゃん」
 呆れ顔の侑希音は、ヤスの顎を蹴って倒し、改めて五体のドロイド戦闘員に目を向けた。
 金属とプラスチックで出来た戦闘機械は、足並みを揃えて距離をつめてくる。味方へ当たるのを恐れてか飛び道具は使わないつもりらしく、腕の鉤爪を構えていた。ドロイドたちの性能は聞き及んでいたので、侑希音は先程とは逆に後退して距離をとる。いずれ、"人並み以上"の能力でいっぺんに相手に出来る連中ではないことは判っている。
 侑希音は、もう一つの能力を使うことにした。
 眼差しを油断無く敵に向けたまま、息を整え精神を集中させる。それだけで周囲の空気が色を変えたのを、ヤスはセンサーではなく感覚で察知した。
 そして、朗々たる詠唱が響く。
「ミクナ・セニス・マジカ・コリニ・サモネ・カテセ・ヒネカ」
 その、呪文のようなものが積み重なるごとに、侑希音の三歩ほど前の空間へと見えない何かが集中していく。ヤスの持っていた機械がアラームを鳴らす。
「参れ、神速の騎士よ!」
 その、最後の文言と共に、張りつめていたものが一気に弾け、次の瞬間。そこに在ったのは黒い機械人形だった。
 コンパスのように細く長い脚が二メートルほどの身長の半分以上を占め、その上に小さく乗っている人形のような顔をつけた胴からは、ひょろりと長い腕と鉤爪を付けた副腕が一対づつ伸びている。腕の方の手首からは刀のように反りのある片刃の剣が生えていて、副腕の鉤爪は身長の七割程度の長さはある。散切りの髪の下に真紅の瞳を輝かせ、機械人形は主の命令を待つ。
 そう。これこそが藤宮侑希音の象徴機械。その名を"ダンシング・クイーン"。彼女の持つもう一つの能力は魔術の素質だったのである。
 何もない空間から不意に現れた新たな物体に、ドロイドたちの動きが止まる。だが、混乱を起こす前に問題を棚上げするという制御システムのルーチンとオペレーターの状況判断により、彼らは黒い機械人形を排除対象とした。一気に距離を詰め、ドロイドたちは敵へと殺到した。
 その後の出来事を一部始終認識し得たのは、ダンシングクイーンを操る侑希音だけだった。
 侑希音が無言でドロイド戦闘員を指差した瞬間、ダンシングクイーンの姿がかき消すように消えた。そして金属がぶつかる音が五つ、ロビーに響く。
 ダンシングクイーンが再び侑希音の傍らに姿を見せると同時に、ドロイドたちは首や背中から火花を散らし、次々と崩れ落ちた。
 頼みの綱があっさり切れて、ヤスは目を見開いた。
「なんだそりゃー!」
 侑希音は多少の皮肉をこめて、口の端を上げた。
「超スピードっていう、至極単純な能力さ」
 ヤスはすっかり意気消沈して、肩を落とす。それに合わせたように、意識を取り戻したシゲが飛び起きた。
「何だ!? どうなったッ!?」
「シゲよぉーまた負けたよぉー」
 ヤスが沈んだ声を出すと、シゲも悔しそうに唇を噛む。
「ぬぬぅ…今度こそとっちめてやろうと思ったのにィ」
 二人揃って落胆を露わにするサイボーグたちに、侑希音は少し申し訳ない気がしてきて思わず目を逸らしてしまった。すでに戦闘続行という空気では無いので、ダンシングクイーンはとっくに実体化を解除している。
「そうは言うけどさ、そっちが先に手を出したんじゃないか。それにさ。私をとっちめて、それからどうするつもりだったんだよ…」
 その言葉に、シゲは心で血涙を流した。
「…できない…なにも、できません…ッ」
 言ってはいけないことを言ってしまった事に気付き、侑希音も項垂れてしまった。
「あー…なんかだんだん気の毒になってきたなぁ。君らの製作者に頼んで、どうにかならないのか?」
 その問いへの答えは、ヤスが持っていた機械から聞こえてきた。
「面白くなさそうだから、パスじゃ」
 侑希音は、その機械を拾い上げた。見た目は携帯液晶テレビのようだが何かの端末機らしい。通信機能もついている様で、真ん中のモニターには緑の液体に浸った脳髄が写っていた。ドクターブラーボである。
「やあ。始めまして、藤宮侑希音くん。ドクターブラーボじゃ」
 挨拶をされて、侑希音は思わず小さく頭を下げた。
「ども」
「お父さんから、ワシの事は聞いてないか?」
 侑希音はブラーボの言葉に記憶を総点検してみるが、思い当たる節は無かった。
「…すいません…全然」
 その後、微妙な沈黙が続いた。
「あの、ごめんなさい。父とは、離れて暮らした時間が長くて…」
「いいんじゃ…。親友だと思ってたのに…いや、道を踏み外したワシが悪いのか…」
 放って置いたら放って置いた分だけ場の空気がどんどん沈んでいくので、侑希音はとりあえず何か言わなければならないと思い、口を開いた。
「で。何の話だったっけ?」
 ブラーボは救いの糸にすがるように、侑希音の言葉に飛びついた。
「おお! そうじゃそうじゃ、面白くなさそうだから、パスなんじゃ。
 本音を言うとじゃな、サイボーグは女の子にしたかったんじゃよ。それこそが男のロマンというもんじゃろ? じゃが、メタルカのヤツが『そんなのダメです!』とか言いよって、不細工な男を連れてくるもんだから…」
 それを聞いて、ヤスとシゲは泣きそうになっていた。
「ひどい…オレ達の存在って…」
 侑希音は憤然とした顔で呟いた。
「…サイテー。父さんがアンタのこと何も言わなかったの、判る気がした」
 それでまた、沈黙がロビーを支配した。侑希音は居た堪れなくなってきたので、仕方なく口を開く。
「ま、まあ…なんとかしてやればいいじゃん、あの二人」
 なおもブラーボは難色を示す。
「うーん…男のモノを完全再現しても楽しくない…」
 と、また同じ答え。つまりはブラーボは面倒くさがっているわけだから、侑希音は彼が働きたくなるように仕向けることにした。
「アンタ用も一緒に作ればいいだろ」
 その言葉に、また別の種類の沈黙が訪れる。そして、
「おおおーっ! 頭良いな、お前」
 ブラーボが感嘆の声を上げた。それに続いて、ヤスとシゲも顔を輝かせる。
「それって、もしかして…」
「うむ。思えば、サイボーグの性生活の欠如は放置できぬ重要課題。それに手をつけないなど、天才科学者としてあってはならぬことじゃった。さっそく、とりかかるとしよう」
 サイボーグ二人は、飛び跳ねてバンザイをした。そして、
「ありがとう、ありがとう!」
 と、左右から侑希音の手を握る。
「これでオレたちにも、あれが付きます!」
 侑希音は困惑気味に感謝の声に応えた。
「…あれとか言うな。ってか、頼み方が下手だっただけだろ、君ら…」
 何かを依頼するにあたり、相手にそれをすることによるメリットを気付かせるのは交渉事の基本である。と、今ここで口にしてしまえばこの話が無かったことになりそうなので、侑希音はそれ以上は何も言わない。
 すると、ヤスとシゲはさらに肩の辺りに擦り寄ってきた。
「それじゃあ…完成の暁にはですね、是非…テストプレイを…」
「ロケットバズーカで…」
 侑希音は眉を吊り上げた。
「…あー。一気にウザくなってきた。今ここで、バラバラにしてやろうか?」
 その殺気に、サイボーグ二人は腰を抜かすほどの恐怖を味わうことになった。
「ご、ごめんなさい…」
「ああ。別にいいよ。どーでも」
 侑希音は先程の殺気はどこへやら、事も無げに言った。
「さて、と。何しに来たのかは知らないけどさ、ここは危ないかも知れないから、さっさと帰った方がいいぞ」
 ヤスが力なく呟く。
「危ないかもって…もう充分危ない目に遭いましたけど…」
 それは無視して、ブラーボは真面目に侑希音に問う。
「どういうことじゃ? ワシらは、調査に来ただけなのじゃが」
「調査?」
 これには、逆に侑希音が質問で返すことになる。そもそも、魔術師を探してここまで来たというのに、そこでオーバーテクノロジーを悪用する天才科学者一行と出会うというのも奇妙な話だ。
「うむ。ディアマンテに新たに搭載した重力波ソナーのテストをしておったら、このあたりに空間異常が見つかってのう。それで、機器の不調かどうか確かめるために、ここまで出張ってきたというわけじゃ。ヤスに持たせているのが、そのモニター端末じゃよ」
 重力波ソナーは、文字通りレーダー波の代わりに重力波を使う。
 三城大学地下にデータだけ置かれていたテクノロジーの一つで、重力子の持つ並列空間を突き抜ける性質を利用した、亜空間航法時代には欠かせない機器である…らしい。もっとも、現在の技術では重力子を観測する手段が無いので作っても正常に稼動しているかどうか客観視できないし、そもそも亜空間航法が実用化していないので完全に無用の長物である。これにブラーボが目をつけたのは、宿敵であるMr.グラヴィティを意識してのことなのは明白だ。
「…いいんスか、そんなこと言っちゃって」
 ブラーボが簡単に全部話してしまったので、ヤスは思わず目を丸くした。
「いいじゃろ。どーせ、もったいぶったところで『この二人の命が惜しくば、一部始終喋るんだな』とか言われたら、喋らざるを得んのだからな」
「ボス…オレ達のために…」
 彼らのボスの言葉に胸を熱くするサイボーグ二人だったが、侑希音はいかにもどうでもよさげに言った。
「…私は別に興味無かったから、聞かなきゃ聞かないで良かったんだけど」
 それから少し間をおいてから、ブラーボは自らの失態に気付いた。
「…ああっ! しまったーッ!!」
「ボス…オレ達のために…ッ」
 天才科学者とその部下が何やら脳汁を洩らしたり頭を抱えたりしているのを侑希音は憐憫すら混じった眼差しで見つめていたが、イイことを思いついたので、サイボーグ二人の間に割って入った。そして端末のモニターの向こうのブラーボに多少の笑顔を交えつつ、提案した。
「ねえ。その重力波ソナーでさ、私に協力してくれない?」
 だが当然、ブラーボは難色を示す。
「えー。だって、危険なんじゃろ。ってか、ワシには今すぐやらねばならぬことが…」
 あまりに予想通りの答えで思わず吹きだしてしまいそうになる侑希音だったが、ここは堪え、不敵な笑みに変えて表に出す。
「えーと、なんだっけ。この二人の命が惜しくば…」
 そう言う侑希音の指先はヤスとシゲの喉元を撫で回していた。こういうのも、彼女の言うところの交渉の手口である。
 
 
2−
「しかし…藤宮の家からも魔術師が出るとはなぁ」
 病院跡の捜索が続く中、モニターの向こうのブラーボはなにやらしきりに感心しているようだ。侑希音は少々の苦笑を交えて答えた。
「どっちもエネルギー源自体は同根だからね。あの子らの場合は、魔術式なんか使わないで自前のサーキットだけを使った方がずっと効率が良いから、余計なことを覚えていないだけさ」
 ソナーの端末は当たり前のように侑希音の手の中で、代わりに手荷物の小さなリュックサックはシゲに持たせている。
 この端末は携帯液晶テレビほどのサイズで、縦に区切ったモニター表示のうち、三分の一がブラーボとの通信、残りがソナーに割かれている。ソナーの表示は通常の物とは異なり、周囲の構造物が視覚化された形になっている。万有引力というとおり全ての物質に引力があるから、それを利用しているらしく、色こそ緑一色だが、雰囲気としては3DCGで表現されたゲームのダンジョンを俯瞰視点で見ている状態に近い。さらにモードを切り替えることで極小領域の世界や幾つかの層の並列空間の観測も可能だと、ブラーボは言っている。
 仮にイスマエルが潜んでいるとしたら、結界術を用いている可能性が高い。結界術とは空間を操作する術であり、その成果によって対象の空間が通常とは異なった状態になるのだから、この重力波ソナーによって結界の存在が空間異常として観測されてもおかしくはない。そして実際に、それが観測されているわけだ。
 全くの幸運としか言いようが無いが、侑希音はいきなり当たりクジを引いたことになる。せっかくのチャンスを活かすべく、侑希音はサイボーグ二人を引き連れて奥へと進んだ。
 病院は東西二つに分かれていて、侑希音が入ったのは西館。一通りそちらを調べると、今度は東館の方へと向かう。
 今のテクノロジーでは重力子の観測ができないのに、どうやって空間異常の性質を見極めるのか疑問ではあるが、視覚化された情報や普通に目に見えておかしい現象があれば、ソナーだけがおかしいのではないことだけは判るのだから、その程度の心積もりで来たのだろう。それに、異常個所で色々なモードを試してみれば貴重な実践例にはなるだろう。
 渡り廊下を越えると、窓の向きが悪いのかどんどん周囲が暗くなっていく。東館の待合ロビーに出る。その途端、計器が強い反応を示した。アラームの類は既に切っていたので、ヤスとシゲは気付かずに歩き、侑希音の背中にぶつかった。
「…前くらい見て歩け」
「スンマセン…」
 泣きそうな顔で頭を下げるヤスに、侑希音は端末を投げ渡した。そして、呆気にとられたままのサイボーグたちをよそにロビーの何もない空間を凝視する侑希音。 ここは二階分の吹き抜け構造になっているのでとにかく広い。一回と二階にある診察室が全部見えるようにということらしい。三階から五階までは病室があるので吹き抜けの天井は窓ではなく照明で明かりを採るようになっている。人の出入りがあった頃はいざ知らず、今はポッカリと暗くだだっ広いだけだ。
 侑希音は目を閉じ、さらに感覚を研ぎ澄ます。魔術の影響下にある事を示すエウェストゥルムの流れが肌に伝わってきた。
「アタリのようだ。君たちは下がってろ」
 そう言われて、ヤスとシゲは侑希音の方を気にしながらその場を退く。その視線に気付いて、侑希音は小さく笑って見せた。
「なあに。結界破りの用意はしてあるよ」
 侑希音はダンシングクイーンを実体化させるため、魔術師としての自分にスイッチを入れる。呪文を唱えるべく息を整えた、その時。彼女たちとは違う靴音がロビーに響く。
 臙脂のコートを身にまとった男が、暗がりから染み出たように、そこに在った。
「イスマエル、だな」
 侑希音の鋭い声が飛ぶ。それに対する答えは短い。
「誰だ」
「今に判るさ」
 侑希音も一言だけ。それを戦闘開始の合図と見たか、イスマエルは右手を突き出した。侑希音は回避しようとしたが、背後に居る者たちの存在を思い出し、やめた。
 鋭い金属音が三つ響く。
 床に転がる、鈍色のつぶて。そして、空間に白く亀裂が走り、透明な何かが弾けて消えた。
 それを見たイスマエルは目を丸くした。
「ほう、フォースシールドか。貴様も魔術師ということか」
 そしてイスマエルはハチェットを手にし、駆けた。侑希音もサイボーグたちから離れるべく、横に跳んだ。まずは適切な距離をとる。問題はイスマエルが"正気"かどうかだ。それにより武器の性質が大きく変わる。確かめるには実際に何かを斬らせなければならないが、そんなリスクを犯す余裕も無い。だから侑希音は相手の攻撃に当たらないことに重点を置くことにした。彼女の象徴機械は、まさにそのための能力を備えているのだから。
 さっそく、ハチェットが横薙ぎにされた。侑希音はそれを身を低くしてかわすと、同時にダンシングクイーンがその背後から現れ、跳躍した。
「ぬっ!」
 息を呑むイスマエル。
 ある程度以上のレベルの魔術師であれば呪文の詠唱を省略しても象徴機械の実体化は可能だ。フォースシールドがつぶてで破壊されたことから、イスマエルは侑希音のレベルを低く見積もっていたのである。その油断のツケを、魔術師は我が身で払うことになった。
 ダンシングクイーンは文字通り目にも止まらないスピードで回し蹴りをイスマエルの顔面に叩きつけた。そして、とうにガラクタになっている長椅子をいくつか巻き込んで診察室のドアへ突っ込んだ。部屋の中の何かにぶつかったらしく、盛大な音がロビーに響いた。
「やった!」
 思わず歓声を上げるサイボーグたち。だが直後、先程と同じ鋭い金属音が四つ響いた。そして、つぶてが床に落ちる。侑希音のフォースシールドには傷一つ付いていない。
 自嘲するようなイスマエルの哄笑が響いた。
「くははははははっ、はははは! こりゃあいい、やられたな。まんまとハメられたというわけだ」
 診察室からゆっくりと歩み出てきたイスマエルの首はあらぬ方向を向いていたが、魔術師は自分の手で、それを元の場所にはめ込む。そして何事もなかったように薄く笑った。
「だが、肝心の攻撃がこんなに軽いのでは、私には通用しないぞ」
 そして悠々と、侑希音に向かって歩み出す。
 侑希音は表情を変えない。
「どうだかね。さっきの事にしても、お前はしきりにハメられたって喜んでるがな、キッチリシールドを二重にして保険をかけてたわけ。それには気付いて無いだろ」
 だからなんだ、と言った顔をしているイスマエル。侑希音はタメ息ひとつ吐いて首を振った。
「まあ、いいけどさ」
 構わずに歩を進めようとして、イスマエルの顔が引きつった。左足と右肩に細く透明なワイアーのようなものが巻き付いていて、それがそれぞれ近場の柱に結ばれていたのだ。そのため身動きが取れない。
「いつの間に…」
「バカみたいに笑ってる間にだよ。単純すぎるぞ、お前は」
 侑希音の冷たい声と共に、何かが閃いた。直後、イスマエルはバランスを崩し右肩にくくりつけられたワイアーで宙釣りになった。大根か何かのように、二つの物体が床に転がり、鮮血であたりを濡らす。
 イスマエルの左腕と右脚だ。
 それを見て初めて、イスマエルは自身の肉体が損なわれたことに気付いた。あまりに早く鋭く切断されたため、斬られたことを知覚できなかったのである。
 これはダンシングクイーンの仕業だ。だがイスマエルには、敵の象徴機械の姿を捉えることが出来ない。つまり、それだけのスピードで今なお動き続けているのだ。しかも、それらしい物が動いているような音もしない。
「本当は、さっさと首を斬り落として終わりにしたいんだが、そうもいかないからな」
 全く抑揚の無い侑希音の言葉を合図にしたように、天井で鉄の塊が裂ける音がした。コンクリートの小さい破片がイスマエルの頭や、足元の血溜まりにパラパラと降ってくる。
「じゃあな、おやすみ。次に目覚めた時はロンドンだ」
 そして轟音と共に、ダンシングクイーンによって刳り貫かれた天井が崩れ落ちた。大量のコンクリート片と鉄骨がイスマエルを下敷きにする。さらに、その上の階の天井が、さらにその上が…と、都合三階分の床と天井を構成する建材が次々に降り注いだ。
 突然として眼前に現れた瓦礫の山に、サイボーグ二人は背筋が寒くなる思いである。
「うひゃあ、容赦ないっスね」
 だが侑希音はさしたる感慨も無く、肩をすくめて見せた。
「そうでもないよ。殺すなってんだからさ」
 そう言ってから、侑希音はシゲに預けていた手荷物を取った。訊かれる前に、説明を一言。
「封印キットさ。魔術は術者の精神集中を妨げれば封じることが出来るからね。その為の薬物と器具だ」
 そう言ったところで、ヤスの持っている端末からブラーボの声。
「そっちは終わったようじゃな。いやぁ、妹御もなかなかだったが、お前さんの能力も大したもんだな。目では知覚出来ないほどのスピードで動きながら殆ど無音とはね。なかなかに非常識な機械じゃ。
 それにしても、お前さんたちを見ると親父さん、斐を思い出すのう。あの血沸き肉踊るアマゾンの大冒険、アンデス決死行…ボリビア海軍…黄金郷…、ナチ公どもを向こうに回して丁々発止の大立ち回りよ。
 …あのころのワシは、輝いておったんじゃ。なにせ、身体もちゃんとあったし、それも今で言うところのイケメンじゃったからな。行く先々で、甘く危険なセクシーアドヴェンチャーよッ!」
 だが、侑希音はピシャリと言った。
「思い出プレイバックだったら後にして」
「あー、はいはい。そういうところ、親父さんに似とるぞ。ジジイが老婆心から言わせてもらうと、直した方が良いと思うなー」
 と、ブラーボは呟いてから、声のトーンを上げた。
「で、件の空間異常じゃが…」
 だが、それは侑希音の鋭い声に遮られた。
「待て! まだ終わってないんだから…」
 その言葉を証明するように、朗々たる詠唱がロビーに響いた。
「レニト・レコノ・レネカ・レカーザ・レケネン・レコルネ・イラ! 来たれ、鏖殺の刃よ! 黒き旋風となりて尽く殴殺せよ!」
 イスマエルが埋まっている瓦礫の山の上に青白い光が弾けた。そして、黒く歪な鎧にくまなく覆われた全高二メートルを越える神像が現れる。
 その姿を認め、侑希音はダンシングクイーンにブレードを構えさせた。
「イスマエルの象徴機械か…」
「うけけけけけ! その通り!」
 その声は、瓦礫の中からなのでかなりくぐもっているが、今までとは明らかにトーンが違う。生き埋めのショックで人格矯正に影響があったらしい。
(あ…"バカ"になった)
 侑希音の内心は知る由もなく、埋まったままのイスマエルは得意げに叫んだ。
「我が象徴機械、スナッフ×スナッフの力を見せてくれようぞ!」
 黒い神像スナッフ×スナッフは、両手にハチェットを瞬間生成し真っ直ぐに侑希音に向けて駆けた。巨躯の割りに存外に早い。
「ちっ」
 侑希音は、その進路上にダンシングクイーンを割り込ませた。だがスナッフ×スナッフは意に介さず、ハチェットを横薙ぎにする。ダンシングクイーンはブレードの刃を立てて、それを受けにかかる。だが次の瞬間、ブレードは腕ごと断ち斬られ、宙に舞った。
 スナッフ×スナッフのハチェットは、宇宙金属メタイリジウムで出来ており、地球上に存在するどの金属よりも硬度が高い。何故ハチェットの形態をとっているのかというと、イスマエルの趣味というだけでなく研ぎ出して刃をつけるなど難しい加工を必要としないからでもある。硬いゆえに扱いの難しい金属なので、最初からそれなりに使える形状で生成すれば良いという考え方だ。
 しかし、ハチェットといっても所詮は大きな鉈である。いくら硬くても鈍らもいいところなので、何でもスパスパと両断するというわけにはいかない。大抵の物体に致命的な傷を付けることは出来るだろうが、完全に破壊するとなると二度三度の攻撃が必要になる。それにも関わらず、ダンシングクイーンのブレードは両断された。鉄筋コンクリートを刳り貫くほどの硬度は備えているのだから、一撃で破壊されるという事は考えられない。と、いうことは、今のイスマエルは人格矯正が効いているということだ。現に、侑希音にはダンシングクイーンの損傷状況は伝わってこない。
(壊れてない…。再実体化させれば元に戻るはず、だけど…)
 ダンシングクイーンはスウェーで他の部位の"損傷"は免れていたが、スナッフ×スナッフに弾き飛ばされ、侑希音と黒い象徴機械を隔てるものは何も無い。スナッフ×スナッフは文字通り黒い暴風と化して、真っ直ぐ侑希音に踊りかかった。
 侑希音は右方向へ全力で飛び退いた。そして、ダンシングクイーンの体勢を立て直させると、スナッフ×スナッフの背中に全速で突っ込ませた。だがスナッフ×スナッフは身をよじってそれをかわす。お陰でダンシングクイーンは床にブレードを突き立てる羽目になってしまった。
「げっ!」
 敵の眼前で見事に背中を晒す事になってしまい、侑希音は呻いた。ダンシングクイーンはそのまま前につんのめるように床を蹴り、全速で距離をとった。だが、その直後、鋭い金属音が響く。スナッフ×スナッフがハチェットを正面に投擲し、それがダンシングクイーンの胸部を貫いたのだ。ハチェットは空間断裂術式によって出来た隙間を通り抜け、そのまま床に転がる。
 侑希音の象徴機械は、膝をついて崩れ落ちた。
 瓦礫の中から、イスマエルの声が響く。
「その象徴機械は直線的な動きか、または予め定められた動きしか出来ない。見えない程に速いのも、考え物だな」
 確かに侑希音は、回避行動の後に、次の行動に移るべくダンシングクイーンを停止させた。なにせ知覚出来ないほどに速いのだから、操る侑希音自身にもその動きが見えないのである。だから自然と動きは直線的なものか、または予めプログラムされた動きを行なうのどちらかになる。肉眼で見えないほどの速度で動いている最中は機体がどうなっているのか判らないので、おいそれと途中で針路変更などは出来ないのだ。よって、途中で動きを変える必要があるときは、どうしても一度停止する必要がある。それをイスマエルに見抜かれてしまったのだ。だからスナッフ×スナッフはダンシングクイーンが進行方向の直線上のどこかに止まるとを予測して、真っ直ぐにハチェットを投げたのである。
「うーん…普通はバレないんだけどなぁ」
 侑希音はタメ息一つ吐いて、指を鳴らした。それを合図に、ダンシングクイーンは実体化を解除され、薄い光となって消えていく。スナッフ×スナッフはハチェットを拾い上げ、勝ち誇るように異形の身体を揺すった。だが、侑希音の表情は変わらない。相変わらずの鋭い眼差しを敵にぶつけていた。
「あの時は最大戦力を真正面につぎ込んで取り逃したから、今回は搦手から攻めてみようと思ったんだが…上手くいかないもんだな」
「何を言っている。ネタがわれた手品は、もう終わりだ」
 と、イスマエル。遠巻きに見ていたサイボーグ二人も同感だった。だがこの二人の場合、侑希音が負ければ次は自分たちの番である。傍観者だからとて気楽ではいられない。
「…やばいよ、ヤス」
「そうだな、シゲよ…。でもさ、なんであの人は、全然動揺して無いんだ?」
 侑希音は口の端を引いて、笑みを浮かべていた。そして、大きくひとつ息を吸い、声を張り上げた。
「ミクナ・セニス・マジカ・コリニ・サモネ・カテセ・ヒネカ!」
 呪文を唱える侑希音の声はピンと張り自信に満ちていた。敗色を悟った者のそれではない。
「再実体化か。無駄なことを…」
 構わず、呪文は続く。そして…。
「我、神速の騎士とならん!」
 それに気付いたのは、モニター観戦していたブラーボだけだった。そう、侑希音がダンシングクイーン実体化のために唱えた呪文と、最後の一節が異なっていたのだ。その呪言に導かれ空間に満ちたエウェストゥルムのエネルギーは侑希音の意思を起爆剤として、弾けた。
 次の瞬間、侑希音と入れ替わって現れたのは長い黒髪をなびかせた赤い瞳の女である。ラバーのような質感の衣服で全身を包んだその姿を、イスマエルはスナッフ×スナッフの感覚器を通して知覚した。
「お前は…」
 この女の姿に、イスマエルは覚えがある。半月ほど前、この町の隣に広がる在比高原で戦った相手だ。
「ま、そういうことだ。じつはお前とは二戦目だったってわけ」
 女は、侑希音の声で言った。いや、侑希音がこの姿に変じたのだ。その手にいつの間にか握られていた直刃の剣を構え、侑希音は床を蹴った。敵を捉えるべくスナッフ×スナッフは感覚器官を総動員するが、侑希音の姿は全く関知できない。ダンシングクイーンと同様に、高速かつ無音で移動しているのだ。
「ちっ」
 スナッフ×スナッフはハチェットを正面に向けて構えた。だが、背後からの衝撃に機体が大きく揺れた。後頭部の視覚器官は、長く変じている侑希音の髪を見た。
「後ろだと!」
 この攻撃を受けるまで、スナッフ×スナッフは一度も侑希音の姿を検知していない。つまり、高速状態を保ったまま後ろにまわりこんできたことになる。スナッフ×スナッフは苛立ち紛れにハチェットを大振りに薙いだ。だがそれは、軌道半ばで無理矢理に止められた。見ると、侑希音がスナッフ×スナッフの手首を片手で押えていた。押しても引いても、腕を動かすことが出来ない。
 侑希音の身体はイスマエルの象徴機械を上回るレベルに強化されているのだ。
「クソ! あの時は手加減していたのか!?」
「いや。展開上、ここまで力を見せる状況じゃなかっただけだ」
 侑希音は事も無げに言い放ち、次の瞬間、黒い象徴機械は宙を舞っていた。片腕で三メートルを越える巨躯を放り投げたのである。"ミス・パーフェクト"がもたらす技巧に依るところが大きいが、いずれにせよ人間の腕力の範疇でできることではない。
 床へ仰向けに沈んだスナッフ×スナッフは、全身を痙攣させる。すると黒い鎧の表面から親指の爪くらいの金属球が無数に現れ、射出された。だが、侑希音の姿はそこには無い。それは予想通りだったので、イスマエルは慌てずにスナッフ×スナッフを立ち上がらせた。
「大したスピードとパワーだがな…」
 イスマエルの声が響く。
「このスナッフ×スナッフの上面装甲はメタイリジウム製だ。今までの攻撃は全く効いていないぞ!」
 確かに、黒く底光りする鎧には傷一つ付いていなかった。己が頑強さを誇るかのように胸を張るスナッフ×スナッフだったが、不意にバランスを崩し、よろけた。
「何だ!?」
 その声は悲鳴に近かった。
 スナッフ×スナッフの左足が膝関節で断ち斬られ、脛から下の部位が床に転げた。
 それだけではない。
 右腕が肘から、左腕が肩から、そして右足が付け根から、次々と裂けていく。遂に、スナッフ×スナッフは崩れ落ちた。五匹の芋虫のようにのたうつだけになったイスマエルの象徴機械。その中で一番大きな塊、胴体を侑希音は思い切り踏みつけた。胸部に食い込むほどカカトをねじ込まれて、スナッフ×スナッフの動きが止まる。
「どんなに硬い装甲でも、関節までとはいかないからな。っていうか、いっそ関節なしの方向性で設計すべきじゃあなかったのかな? せっかくの装甲が可動域の確保のために隙間だらけだぞ」
 そう言って、侑希音は特に表情を変えず剣をスナッフ×スナッフの首に当てた。
「このままコイツを壊しちまえば、お前の魔力は大幅に削られる。さらに、イデアクリスタルへの過負荷で、再実体化も当分無理だな。これで、こっちも大幅にやりやすくなるってわけだ。
 つまり、…チェックメイトだ」
 イスマエルは黙ったままだ。
 象徴機械は魔術師の力の顕現であり、その実体化と運用には多大な魔力を消費する。もしもこれが正規の手続きを経ずに機能を止めた場合、つぎ込まれた魔力はそのまま四散して消えてしまう。その時、術者からの魔力供給経路が消費者を失ったまま開きっぱなしになってしまうため、そこが抜けた水槽のように魔力が一気に漏れてしまう。それが魔力路の弁の役割を果たすイデアクリスタルに過負荷を与え、悪くすれば破損してしまうのである。
 ならば実体化を解除して逃れれば良さそうなものだが、象徴機械は魔力を帯びた物体や魔力そのものに常に干渉を受けるので、この状況、侑希音に踏みつけられている今はそれも叶わないのだ。
 当然のことながら、それは侑希音も承知だ。その上で、こう言った。
「ほらほら、どうした? 奥の手は使わないのか?」
「なんだと…」
 イスマエルの声が詰まる。
「じゃあ、お前が大事にしまってあるモノは何だ?」
「…何のことだッ」
 本当に心当たりが無いらしい。枷にするために施した人格矯正なのだから、この状態では、より強大な力は使えなくなっているはずだ。それが侑希音の予想だったが、見事に当たっていたようだ。今のイスマエルには、これ以上のカードは無い。
「なら、これで終わりだ」
 侑希音が冷たく言い放つと、剣はいとも容易く、スナッフ×スナッフの首に刃を滑り込ませた。観念したのか、動きが無い。
 だが、予期せぬ事態が起きた。建物全体が大きく揺れたのである。
 侑希音は特にバランスを崩すことは無かったが、他の二人、サイボーグたちが心配になって、そちらに視線を向けた。
「どうした!? …って、そんな…」
 見ると、サイボーグ二人はイスマエルが埋まっている瓦礫の方を向いて片膝をついている。ただし、立てているほうの膝が関節ではなく腿の途中で曲がっていた。彼らの身体は機械だから、そういう風に出来ていると言われればそれまでだが、その姿勢と状態はある物を連想させた。現に、瓦礫の山が九割方崩れて白い煙が上がっているのだ。
「いいのか、それ! 色々な意味で!」
 侑希音が叫ぶと、ヤスとシゲはサムズアップで応えた
「今がチャンスだから、止め刺してやろうと思って!」
「見ててください! ミサイル発射ッ!」
 威勢の良い掛け声と共に、サイボーグたちの腿の折れ曲がったところから、その中に収納されていた小型ミサイルが射出された。
「ああーッ! やっぱり!! ってか、余計なことすんなッ!!」
 思わず頭を抱える侑希音。
 ミサイルは真っ直ぐに瓦礫の山に命中、更なる揺れが病院全体を揺さぶった。床と天井を思う様刳り貫いた手前、この建物が心配になってくる。
 濛々たる土煙が幾分収まってから瓦礫が積まれていたほうを見ると、そこは先程までとはうって変わってすり鉢状の窪みになっていた。そして、その中央には顔の半分を血に染めたイスマエルが浮かんでいた。
 その状態を見ると明らかに、
「…頭、打った?」
 ようである。
 イスマエルは叫んだ。
「ウェイク!」
 その声と共にスナッフ×スナッフが輝く。内部から魔力の奔流が迸しり、ついに侑希音を吹っ飛ばした。
「ちっ」
 侑希音は空中で体勢を立て直し、天井に両脚をついた。そして、そこでそのまま立ち上がる。まるっきり重力を無視した状態で侑希音は舌打ちした。その間にもスナッフ×スナッフから出た光はますます大きくなり、そして…。
 そこから、黒く巨大な拳が突き出された。
(クソ! 高原の時と一緒だな、こりゃ…)
 内心毒づく侑希音だったが、出てしまったものは仕方が無い。とりあえず、
「うわっ、デカッ!」
 と、暢気に驚いているサイボーグ二人に苛立ちをぶつけた。
「デカ過ぎるのは困るんだよ! 刻みきれないんだからっ」
 そう言って、はたと気付く。確かに相手が大きすぎれば侑希音の剣は用を成さない。だが、先程までイスマエルが使っていたハチェットならどうだろう。空間断裂術式が施されたハチェットなら、うまく立ち回れば何とかなるのではないだろうか?
 侑希音は天井を蹴って、床に突き刺さっているハチェットまで駆けた。この場に彼女のスピードについていけるものは居ないから、問題なくハチェットを拾い上げることが出来た。侑希音は剣をハチェットに持ち替え、光の中から既に肩口まで現れている黒い巨腕に斬りつけた。
 だが、手ごたえが無い。
 金属と何か硬い物がぶつかり合う鈍い音が響き、ハチェットは床に突き立っていた。
「ちっ、どういうんだ、これは」
 呻く侑希音。
 高原での初対戦の際、侑希音は同様に巨人にハチェットを打ちつけた。その時は見事に刀身を砕かれているのだが、それは判る。いかに硬い鉈とて、それ自身と同じ材質で作られた、自身よりもさらに厚く大きな壁に叩きつけられれば、砕け散るより他に無いからだ。
 だが、今回は違う。
 確かに巨人に腕に向かって振り下ろしたはずのハチェットがどういうワケか空を斬ってしまったのだ。太刀筋を逸らしたということは全く無いし、腕が動いたわけでもない。だが思いおこしてみれば、一瞬だが巨人の姿が半透明になったように薄くぼやけた気がする。
 しかし、今はこの現象を検証している余裕は無い。
 光のゲートからは腕だけでなく、顔が現れた。のっぺりとした曲面に赤い目だけが二つ、炯々と光を放つ。まさに異形の巨人である。
 こうなっては出直しだ。
 侑希音はそのまま真っ直ぐに後退した。幸いにして、相手は侑希音のスピードにはついて来れないらしい。
 距離があくと、まずは周囲を見る。
 巨大化したイスマエルの象徴機械は、その身を既に半分は現している。もちろん、それはロビーに収まりきる大きさでは無く、しかも今までの戦いで東館全体にガタが来ている。このまま崩落という結末を迎えるだろう。侑希音は能力上、狭い閉鎖空間は苦手なので好ましい展開とはいいがたい。
 こうなっては、三十六計最後の策を使うしかないだろう。侑希音は元来た方向へ走ることにした。だが、サイボーグたちがミサイルを撃ったままの姿勢でうずくまっているのが目に止まってしまう。
「おい君ら、なにやってるんだ」
 思わず声を荒げる。すると、ヤスが情けない声で答えた。
「いやぁ、衝撃で股関節がイカれてしまって…」
「…右に同じ」
 シゲも細い声で呻く。あまりと言えばあまりな事態に、侑希音は頭を抱えてしまった。
「あーッ!! どんな仕様だ、そりゃ!? 余計なことをしてくれた次は、足を引っ張ろうってのか?」
 そう言いながらも、侑希音はサイボーグたちのところへ走り、二人の首根っこを掴んだ。 
「ほら、ここを出るぞ」
 その言葉と同時に、ロビー入り口が崩れた。見ると、既に全身を顕した黒い巨人が、掌から銀色の杭を伸ばしている。それが撃ちつけられたのだ。
「いまさら、どこへ行こうというのだ」
 片膝をついた巨人から、イスマエルの声が響いた。かなり背中を丸くしているが、それでもロビーの天井が軋むくらいなので、これが立ち上がれば間違いなく、ここは崩落するだろう。そうなると上階もどうなるか判らない。
 侑希音は無理矢理に気を落ち着けて、状況の把握に努めようと周囲に視線を送る。すると、
「掴まれ!」
 と、ヤスに持たせてあった端末からブラーボの声。直後、近くの壁をブチ破りディアマンテのアームが現れた。侑希音はサイボーグたちを引きずって走る。イスマエルの黒巨人は逃すまいと腰を上げる。
 その時。
「メガプレッシャーッ!」
 ブラーボの雄叫びと共に、天井やらなにやら、あらゆる物とともに、ディアマンテが巨人の上に落ちてきた。轟音が病院を揺らし、建物全体が崩れ落ちていく。
「よし、離脱!」
 ディアマンテは反重力推進機関を全開にし、わざわざ緊急離脱ロケットまで吹かして垂直上昇、凄まじい勢いで上空に離脱した。
 遥か眼下の病院跡を見下ろし、ブラーボは高笑いした。
「どうじゃ! キャノンに続く、ディアマンテ第二の必殺技じゃ。と、いっても偶然に発見したんじゃがのう! しかしながら、それに気付いたことが、天才のなせる業といったところか…我ながら恐ろしいのぅ」
「呑気なこと言ってんじゃない!」
 侑希音が叫ぶ。侑希音とサイボーグ二人は、各々ディアマンテの爪にしがみ付いていた。
「重力波ソナーに反応は?」
 その勢いに気圧されて、ブラーボは恐る恐る言葉を発する。
「う、うむ…無いぞ。いや、ありません…」
 それに続いて、別の声が答える。子供のような声で、場違いなまでに明るい口調だった。
「もちろん、他のセンサーにも反応なしでーす。瓦礫の下にも、それらしい痕跡は見当たらないよ」
 侑希音は眉をひそめた。
「おいおい。子供なんか乗っけてるのかよ…。世界征服を標榜するのはアンタのお脳の問題だから、まあ良いとして、そういう振る舞いはどうかと思うぞ。人道的にさ」
 お頭の可哀想な人というだけでなく、さらに人でなしの烙印を押されかかっていることを察したブラーボは必死に弁解した。
「ああ、違う違う! これは、ディアマンテに搭載した超AIじゃ。本当じゃ、嘘じゃない」
「…盗品か?」
「滅多なことを言うでない!」
 こんな風に声を荒げるのは肯定と一緒である。三城大学地下研究室での一件は侑希音も聞き及んでいたので、何が使われているのは大体想像がついた。
 だが、それはそれとして、報告を踏まえ侑希音は考える。
 あの象徴機械には飛行能力が備わっていないのか、それともディアマンテの攻撃で"頭を打った"か。もしくは、罠か。十分ほどそのままで様子を窺ったが、結局イスマエルに動きは無かった。気まずい沈黙に耐えかねたように、ブラーボが言った。
「…まあ、なんだ。町まで送ろうか?」
 そう言われて、侑希音は思い出した。封印キットが無い今、相手を追いつめても安全かつ確実に連れ帰るには殺す以外にない。それに、
(こっちも、残り時間が少なくなってきたな…)
 このまま長居できない理由も出来てしまった。侑希音は、ディアマンテの本体を見上げて答える。
「いや、いい。バイクを置き去りにするのはイヤだからな」
 そしてそのまま、森へ向かって飛び降りた。
 

 
 時計の針が午後四時を回る。
 家庭の事情と称して多少遅刻した以外は別段変わったこともなく、璃音の学校での一日は終わりに近づきつつあった。
 放課のベルが鳴り掃除当番を終えると、璃音は悠と連れ立って生徒会室へと向かう。日によって程度の差はあるが、璃音はここに居残ってから帰宅の途につくことになる。
 いつも通りにドアを開けると、今日は役員が一通り揃って綺麗に席に着いていた。毎週月曜日は例会として、ミーティングを行なう決まりになっているからだ。とはいえ、毎週ごとに何か行事があるわけでもないので、内容的には顔合わせ会に近い。
 璃音は副会長の席に、悠はクラス代表の席にそれぞれ着く。書記の墳本陽は体調不良で欠席だったので、その旨を璃音が生徒会長の西条凱雄に報告すると、何人かの女子生徒から落胆のタメ息が漏れた。
 開始時間の四時十五分になると、西条は小さな声でポツリと言った。
「では、六月第一週分の例会を始めます…」
 西条凱雄は西条公望市議会議員の孫である。かつては飛ぶ鳥を落とす勢いだった西条議員も私立病院の失敗でスッカリ死に体になってしまった感があり、今ではどうにも振るわない。それが孫の母胎内における発生過程に影響したわけでは無いのだろうが、凱雄はいかにも強そうな名前とは裏腹に意気地がなくルックスもパッとしない。そのため、常に一学年下の貴洛院基親に足元を脅かされ続けてきた。先だっての選挙でも、もし藤宮璃音が生徒会長に立候補していたならば西条の当選はなかったであろうとさえ言われている。
 そういうわけなので、彼の存在はもはやお飾りに等しい状況であったりする。実質的に生徒会運営を取り仕切っているのは、璃音と三年生で書記長の佐藤智也である。
 会長の開会宣言を聞き、
(明日から六月だなぁ)
 などと思いながら、璃音は黒板の前に立って口を開いた。
「まずは皆さん、中間テストお疲れ様でした」
 周囲から小さな笑みと軽いタメ息が混じって漏れる。璃音も口元だけで笑ってから、夫や友人達に見せる緩い眉根ではなく、仕事用の締まった顔つきで言葉を続けた。
「明日からは六月ですが、この先は七月以降の部活応援まで目立った行事はありません。いわば、閑散期です。
 その代わり、楽しみにしてらっしゃる方も多いとは思いますが、例年通りに中等部生徒会や三城大学学生会との交流会などの生徒会内での行事を多く行なうことになります。衣替えの時期でもありますし、新しい出会いを求めている皆さんは是非とも参加いただいて、縦横の働きをしていただければと思っています。
 わたしにはアドバイスらしい事は出来ないですが、精一杯バックアップさせていただきます。…でも、合コンじゃないですからテイクアウトは無しですよー」
 と、最後には冗談めかして締めくくった。すると各所から、
「えー、やだー。持ち帰りたーい、持ち帰られたーい」
 と笑い声があがる。さらに、女生徒の一人が質問のために挙手した。
「藤宮先輩。経験者の視点から、イイ男をモノにする方法を教えてくださーい」
 生徒会室がどっと笑いに包まれるが、半分くらいの女子は真剣な眼差しを藤宮副会長に向けていた。璃音は照れ笑いしながら答えた。
「アドバイスはできないって言ったじゃないですか。でも多分、餌付けって言っていいんでしょうかねぇ、そういうのが有効だと思いますよ。美味しいごはんを作ってくれる人って、素敵じゃないですか。この人についってっちゃおうかなぁって感じになる…んじゃ、ないかなぁ?」
 すかさず、悠が口を挟む。
「おーい、惚気になってるぞー」
 璃音は顔を真っ赤にして、抗議した。
「悠、うるさいよぉ」
「てへ。ごめーん」
 悠が笑いながら手を合わせると、璃音は少し口を尖らせてから、笑顔に戻った。
「はーい、この話はここまで。次は、ちょっと真面目な話なんでちゃんと聞いてくださいね」
 璃音の顔が再び引き締まるのを見て、ざわめいていた生徒会室は潮が引くように静かになった。
「新聞部と放送部から、生徒会を取材したいというオファーが来ています。
 生徒会は現体制になって半年経ちましたが、わたしの口から言うのも憚られますけれど今期の生徒会は何かと悪い風評が立ちやすいですから、この機会にイメージアップを図るべく、取材を受ける方向で検討したいと思っています。人選や返答内容含めて、何度か会議を開く事になると思いますので、皆さんのご協力をお願いします」
 そこで璃音が一息つくと、何かに備えるように周囲の空気が緊迫する。だが、結局は何も起こらない。頃合を見て、佐藤書記長が挙手、発言した。 
「そのオファーは十中八九、藤宮さんが目当てでしょうから、お願いするということでよろしいのではないでしょうか。それで、皆さん異論は無いでしょうし」
 すると、西条以外の全員から拍手が起こった。あまりに滞りなく事が進むので、璃音は多少の戸惑いを覚えながらも答えた。
「はい、判りました。出来る限りのことはします」
「では、こちらでもバックアップしますので、よろしくお願いします」
 そう言って佐藤書記長が着座したので、璃音は締めに入った。
「わたしからは以上です。他に議題やご意見などありましたら、挙手の上でご発言ください」
 こういう場合、わざわざ発言するものは普通はいない。数秒の沈黙の後、
「では、今日はこれまでです。お疲れ様でした」
 璃音の挨拶で六月期一回目の例会は幕を閉じた。
 途端に、開放感から室内の空気が緩む。今日のところはすることがないので、このまま各自の判断で下校してよし、ということになる。しかも全く滞りなく会が進行したお陰で十分もしないうちに終了してしまったので帰るにしても残るにしても時間がタップリある。それは嬉しいことなのだけれど、どこか違和感を感じてしまう璃音だった。悠も同様のようで、訝しげに首をかしげながら近づいてくる。
「ねえ、早く終わったのはいいんだけどさ、静か過ぎるっていうか、物足りなくない?」
「うん…なんか忘れてる気がするんだけど…」
 だが璃音も悠も、その違和感の正体には思い至らなかった。結局、悠の次の一言で済まされてしまうことになった。
「ま、いいんじゃない? 思い出せないって事は、どーでもいいことなんだよ。そうじゃなかったら、思い出したくないとか知らない方がいいとか、そういうこととかさ」
 そういうわけで、璃音にとっての五月三十一日は開幕の大騒ぎとは裏腹に、実に平穏に暮れていったのであった。
 
 
3−
 日曜の夕刻。
 晴真学院での蔵太神父襲撃騒動の後。
 藤宮斐美花はその蔵太神父の使いとして、この店を訪れていた。商店街の裏路地の、さらに裏の裏、人っ子一人通らない薄暗いところにひっそりと佇む骨董屋、蔵太庵である。
 この店には価値はともかくとして珍しい文物がひしめき、そのうえ主人は息を呑むほどの美貌の持ち主とあって、マメに店を開けて愛想の一つもふりまけばそれなりに繁盛もしようものなのだが、まず店の入り口からして熱意とかヤル気といった物が全く感じられない状況だ。ドアは常に閉めっぱなし。吊り下げられた木札には『臨時休業』の四文字が堂々たる筆致で書き殴られていた。
 ところが今日は違う。どういうわけかドアが半分開いていて、件の木札も無い。だが商売をする気になったかといえばそうでもないようで、ドアの隙間から覗く店内は相変わらず薄暗い。だから、どういうわけか、なのである。
(まあどーせ、あの人の考えることなんて、私には判らないけどね)
 そんなことを思いながら斐美花はドアを開けた。店内はやはり人の気配など無く、当然のように番台にも誰もいない。奥に上がってみるが、居間にも縁側にも亜沙美の姿は無かった。
 そこで、斐美花は履物を取って来ると中庭におりてみた。見ると、庭の奥にある土蔵の扉が半開きになっている。
 母屋に誰も居ないで、かつ土蔵の扉が開いているのなら、ここに誰か居ると考えるのが妥当だ。それに、明日にまわして良いような用事でもないので、出直すわけにはいかない。
 斐美花は中に入ることにした。
 土蔵の中には店にあるのと同じほどの物品がわんさかと積み上げられていた。もはや、どこまでが床でどこまでが壁か判らないほどである。しかも、薄暗いので足元が良く見えない。周囲を窺いながら歩いていたので、やはりと言おうか案の定と言おうか、斐美花は何かに躓いてしまった。
「きゃっ…!」
 このまま転べば、床に転がっているワケの判らないモノを下敷きにしてしまう。そうなれば怪我をするだろうし、もっと酷いことになるかもしれない。悲鳴を上げながら、斐美花は"透過"を使った。床下に落ちてしまうが、その方が幾分マシだ。さすがにワケの判らないモノに突っ込むのを見るのはイヤなので目を閉じる。床を突き抜けた感触があり、斐美花は状況を確認するために目を開けた。すると、視界いっぱいに石階段が飛び込んできた。
「何、何なの!?」
 いずれにせよ、石に顔面から落ちるのはゴメンなので、そのまま透過する。少しするとまた視界が開けて石階段が見えてきたので、今度は"冬の王"で減速をかけ、天井と思しきところに指を引っ掛けて姿勢を整え、床に足から着地した。
 改めて周囲を見ると、そこは下へ向かう通路だった。途中で何度か折れ曲がっているため、このように階段の上に立つことができたようだ。土蔵の床に隠し扉があって、そこから下りてくる仕掛けになっているのだろう。どこから灯りを取っているのかは判らないが、適度に明度を保っており視界は充分。それどころか、下に行くほど明るくなっているように感じられる。
 斐美花は、そのまま下りることにした。今更引き返しても意味が無い。
 やがて階段が終わると、そこは巨大な空間だった。様々な機器が設置されビンが並び、そして本棚がある。さながら地下研究所といったところだろうか。斐美花は先月末に大立ち回りを演じた三城大学の施設を思い出した。科学と魔術、信奉する物は違っても、特異な知性を売りにする人たちの行動原理は案外近いのかもしれない。
 この巨大な研究所の一角で、ここの主人である蔵太亜沙美は床から生えた機械に手をつき、なにやら考え込んでいた。その先にはさらに大きな空洞があるようだったが、照明が落ちており斐美花には何があるのか見えなかった。気配を悟ったのか、亜沙美が振り向いた。
「やあ、いらっしゃい」
 そう言って、にこやかに手を振った。斐美花はギクリと肩を震わせて答えた。
「あ、こんにちは。入って良いものかとは思いましたが、扉が開いていましたので…」
「ああ、そうだったか。店を開けるなんて、慣れない事するもんじゃあないな」
 亜沙美が笑う。斐美花は曖昧な相槌で誤魔化しておいた。
「で、何の用? 用も無いのに私のところに来るのは君の妹くらいのものだからね」
 そう言われて、斐美花は口を開いた。
「今日は、蔵太先生の使いとして来ました」
 その名を聞いても、亜沙美は眉一つ動かさない。ただ、
「ふーん。長くなりそうだな」
 と、言って、少し考えこんだ。
「よし」
 そして、亜沙美は悪戯っぽく笑った。
「せっかくだし、見せてあげるよ」
 手元で何かを操作すると、亜沙美は先にある空洞を指差した。スポットライトの光条が幾重にも闇を裂く。そして、巨大な人型の像を浮かび上がらせた。
「これは…何です?」
 斐美花は息を呑んだ。白と赤で彩られたそれは、光を浴びて神々しく輝いていた。天井から吊られたワイヤーで固定されており、ここから見えるのは精々腰の辺りまでだ。柵に手を置いて空洞に身を乗り出すと足元を確認できる。その大きさは四階建てのビルに匹敵するだろうか。おそらく、先日現れた怪獣と体格では五分だろう。斐美花の反応で自尊心を満たされた亜沙美は、満足げに微笑むと、頼まれもしていないのに説明を加えた。
「こいつはユニット"ドゥーカ"。誰かさんに破壊された"マルケーゼ"に代わる、私の最大最後の切り札さ。まあ、現在鋭意製作中、完成間近ってところだけどね」
 今、亜沙美が見せた"ドゥーカ"は、象徴機械を強化するための追加装備であり、アクセラレーターである。
 象徴機械は強固なイメージを持てるために強大な魔術の使用を可能にするが、その性質上存在するだけで魔力を消費するという欠点を持つ。そのため、人間と同程度のサイズをとるのが一般的だ。
 だが、より大規模な術の使用を想定した場合、より巨大な象徴機械の方が"説得力"がある。例えば、人間大の物が手に持った筒からビームを撃つよりも、身長二百メートルの巨人が殴りつけて稲妻を落とす方が、はるかに破壊力がありそうなイメージを持たれる向きが多いだろう。思い込みを原動力としているだけあって、大魔術に関してはダイナミックでハッタリが効いている方が高い成功率を期待できるのである。
 そこで、象徴機械の大型化が模索された。だが、実体を保つだけで魔力を消費する象徴機械をより大きくする為には、更に多くの魔力が必要となる。そのため研究は困難を極め、この試みは不可能という見方が支配的になっていく。一瞬姿を現すだけで精魂涸れてしまうのでは無意味だからだ。
 しかし、ある者の思い付きにより問題は解決した。象徴機械そのものを大きくするのではなく、後から追加パーツを継ぎ足していくことで大型化を図るのである。追加パーツは一度作ってしまえば存在すること自体には何のコストもかからない。その発明は瞬く間に広まり、まずは武器や鎧に始まって、最終的には入れ子細工のように象徴機械をすっぽりと収納する物に到達する。こうして発案された追加パーツ類は、その形態から"アディッショナル・シェル"、通称シェルと呼ばれるようになった。
 中でも特徴的なのは、融合合体型と呼ばれるアディッショナル・シェルだ。見た目は巨大な像といった趣で、内部に象徴機械を収納することで機能する。合体後の象徴機械は実体化を半ば解いてエネルギー化しシェルのコントロール装置と動力源を兼ねる。この状態を"カーネル"と呼ぶ。
 また、シェルの内側をカーネルのエネルギーが通ってモーターと関節機構を兼ねるという仕組み上、構造さえ維持できれば内部は空っぽでも構わない。よって、そこには製作者の創意工夫がふんだんに盛り込まれることになった。もっともポピュラーなのが魔力源を配してカーネルの存在を助け、さらに補助機関として魔力に下駄を履かせるギミックだ。他にも、四肢や胴の内部に武器を詰めたり、さらなる変形機構を仕込むなど幅広い選択肢が生まれた。また、シェルのサイズ次第では魔術師自身の退避スペースを置く事も忘れてはいけない。魔術師は象徴機械から離れることが出来ないが、巨大なシェルを得た状態で繰り出す大魔術は周囲を大規模に巻き込むからだ。
 イスマエルの黒い巨人は、まさにこのアディッショナルシェルだ。侑希音はイスマエルがコンテナの中でシェルを作っていたと考えていた。さらに在比高原でサイズを確認したので、それに基づいて一連の推測を立てていたというワケだ。
「通常、アディッショナル・シェルは転送術で現場に送られ、象徴機械と合体する。そのときの現れ方は術者の趣味次第だ。私は、相手の目の前で合体させるのが好きだけどな」
「そういうもんなんですか…」
 思いがけない長話に斐美花の目も眩む。
「どうしてそんなに疲れてるんだ。『何だ?』っていうから、教えてやっただけだろ」
「はい、そうですね…」
「…おいおい」
 見るからにゲンナリしている斐美花に呆れていた亜沙美だったが、気を取り直して言った。
「上に戻るぞ」
 亜沙美は照明を落としあたりを片付け始めた。
「そしたら、お前の話を聞く。アイツが私に使いをよこすなんて、やっぱ気になるしな」
 
 その翌朝、藤宮家の庭でボルタの首が発見された。
 

 
「やあ諸君! 元気だったかね」
 朝の教室に響き渡る宇野の声。それを迎えるのは、悠の意地の悪い視線だった。
「おやおや、これはしたり。宇野殿、此度は珍しくご出席であらせられますか?」
「そうさ。だって今日は、六月一日だからな!」
 声も高らかに胸を張ってみせる宇野。辺りを見回すと、男子勢が早い時間から八割がた揃っている。出席率の低さと遅刻率の高さではトップクラスの宇野がホームルームの始まる十分前に現れているのだから、驚くべきことである。
「おっはよー!」
 元気な挨拶と共に祥が現れた。一瞬、クラス中の男子の視線が集中する。だが彼らは直ぐに、そそくさと目を逸らした。
 この時、悠は宇野の言葉の意味を悟った。
「…そういうことかい」
 六月一日は、全国一斉衣替えの日である。それは英春学院とて例外ではなく、男子は学生服からワイシャツに、女子は一段階明るい色のセーラー服へと切り替わる。女子の夏服は殆ど白に近い紫をベースとし襟は明るい紫というデザインで、当然ながら生地は薄くなる。
「全く、オメーは他に考えることって無いのか」
 吐き捨てるように呟く悠。いつの間にか横にいた祥が悠の顔を覗き込んでいる。
「どした、悠ちゃん」
「どーもしな…」
 憮然とした様子で祥の方を向く悠。そして、更に表情が固まる。悠の目に入った祥の制服は、豊かな膨らみに押し上げられ、下着のレースが透けていた。
「けっ…嫌な季節になったな」
 悠は毒づいた。
「おやおや、ご機嫌斜めねぇ」
 祥がニコニコしながら悠に擦り寄っていく。
「うるさいなぁ」
「そんな邪険にしないでよ」
 離れる悠。擦り寄る祥。更に離れる悠…。それを何度か繰り返すうちに、背後から涼季が忍び寄ってきた。
「いよぅ悠、今日は特に不機嫌だねぇ〜。ド貧乳が目立つ季節になったからヒス起してるのかなぁ?」
「やかましい。お前には言われたくないっつーの」
 やおら振り向く悠。涼季はジャージの上下にスカートというハニワな格好でそこに立っていた。悠は挑戦的に薄笑いを浮かべ、涼季に見おろすような視線を向ける。
「おやおや涼季さん。いかがなされましたか、そのお姿は。もしや、制服をクリーニングに出す日取りをお間違いになりましたかねぇ。それとも、貧相な御身をお隠しになりたくて、その様な物をお召しでらっしゃるのですかぁ〜あ〜?」
「う、うるさいよ」
「ふーん」
「ふーん、じゃないよ! いいじゃないの、校則違反してるわけでもなし。どーでもいいことでガタガタうるさいよ!」
 茶化してみた悠だったが、もはや涼季からこれ以上のネタを引き出すことは出来ないと見て、突付くのは止めることにした。ドアの方を見ると、璃音が到着したところだった。そしてまた男子の視線が集中し、すぐに離れるという現象が繰り返された。
 悠は、これ幸いと璃音に声をかけた。
「おはよ」
「おはよー」
 いつも通りに挨拶を返す璃音。その姿をまじまじと見ていた宇野は、突然大きな声を出した。
「ようし、帰る!」
 もちろん、璃音は一様に首をかしげた。祥が素っ頓狂な声を出す。
「帰るったって、まだ授業始まってもいないよ」
 だが悠は、
「なるほどね」
 と、頷いた。
「見るもん見たから、用は済んだってわけね」
「そゆこと」
 宇野は悪戯っぽく微笑んで、
「じゃあな」
 と、踵を返す。そして真っ直ぐに教室のドアをくぐり、廊下へと消えた。ポケットに手を突っ込んだ後姿に、アフロがモサモサと揺れていた。
 

 
「こりゃいよいよ、手に余ってきたかなぁ」
 侑希音はタメ息を吐いていた。亜沙美の家でちゃぶ台を囲むのは、他には家主である亜沙美と蛍太郎である。
「まあ、魔術師を殺さないで無力化しろっていうのが、そもそも難題だからな。潰しちまっていいんなら、お前にもまだやりようはあるだろうが」
 亜沙美の語調には半ば同情が混じっている。
「どっちにしろ、もう一回封印キットを作ってだな…」
「私の前で言うって事は、作れとか材料を提供しろとかいうことだな」
「そういうこと」
「まあ、いいけどさ」
 何だかんだ言いながら亜沙美は口を尖らせつつも席を立ち、土蔵へと向かった。それを見送り、侑希音はまたタメ息を吐いた。
「参ったなぁ…二度も失敗するなんて」
 蛍太郎はいつものように柔らかい顔で言う。
「仕方ないよ、邪魔が入っちゃったんだしさ。それに、収穫ゼロっていう訳じゃあなかったんだろ」
 その言葉に、侑希音の表情が明るくなる。
「そうそう。ブラーボが持っていた重力波ソナーがあれば、イスマエルの結界を検出できる。どうにかして、あれと同じものを用意できないか?」
 だが、蛍太郎は首を振った。
「無茶言わないでよ。出来ないに決まってるじゃないか」
 僅かな期待をかけてのことだったが、見事に予想通りの回答だったので別段思うところは無い。侑希音はサバサバと言った。
「そうだよね。いずれ、この町から逃げてなければ潜伏箇所になりそうな所はひとつしかない。そこを叩くさ」
 それを聞いて、蛍太郎は今度は首を傾げる。
「それはそうだけど、彼は随分と土地勘が良いよね。病院跡だって、そんなのがあることすら僕は知らなかったよ」
 侑希音は、したり顔で頷く。
「やっぱりそう思うか? 私もおかしいとは思ってたんだ。もしかしたら、ヤツを手引きしている者がいるかもしれないな。手引きという程じゃなくても、多少の道案内くらいは、ね」
「確かに…。酉野市の学研都市的な売り出し具合は特定の業界には訴求できているけど、在比高原なんかは国内でさえ殆ど知名度なんて無いといっても良いくらいだ。潜伏先としては、地方の観光地というのは良い選択なんだけど、酉野市は観光地と言えるほどのものじゃない。もっとメジャーな…長期滞在しても怪しまれない温泉街や別荘地を選ぶのが自然だよね。なんで、この町なんだろう?」
「それに関しては、ひとつ心当たりがあるが…」
 そうは言いながら、侑希音の眉根が曇っているのは自説に確信が無いからだ。それを読み取って、蛍太郎が先に口を開いた。
「蔵太文庫、かい?」
 頷く侑希音の顔には、それでも疑問符が大量に浮かんでいた。
 蔵太文庫とは、日本人ながら稀代の魔術師と呼ばれ、欧州、中東、アフリカという本場の三大魔術協会に少なからぬ足跡を残した男、蔵太巽の著作と蒐集物の総称である。特別に名付けられて呼ばれるくらいなので、一部では非常に重要な存在と位置づけられており三大協会でさえ所持していないような文物も含まれているとされている。
 その蔵太巽は、蔵太晋神父の祖父でもある。
「蔵太先生のところに魔術師が現れる理由は、それ以外に考えられない。だけどさ…」
 蛍太郎は、冗談めかして微笑んだ。
「この店の名前がズバリ、"蔵太"庵なのにね」
 これに、侑希音は吹きだしてしまった。
「はははっ。それを言ったら、ここ自体が地元民でも辿り着けない秘境中の秘境だよ。無理無理、絶対無理。
 だって、蔵太文庫の足跡は三〇年代に途絶えてるんだぞ。それを辿ることができる史料は残されていない、筈だ」
 いずれにせよ、イスマエルがただ偶然にこの町に現れたとは考え難い。相手の目的を知っている方が都合が良いが、もはやそんな段階ではないことも確かだ。侑希音は次の行動で全てを終わらせるつもりでいた。
「どのみち、今日で終わりにするよ。これ以上亜沙美の力を借りるのは不本意だが、だからといって斐美花と璃音を引っ張りこむわけにはいかないからな」
 彼女の妹たちは、姉の頼みとあれば進んで手を貸すだろうが、それだけに侑希音は独力での解決に拘っていた。蛍太郎も、それには同意だ。いくらスーパーパワーを持っているとはいえ、これは普通の生活を送っている人間を巻き込んで良いような世界ではない。自らそれを望まない限り、そういう人々を修羅の巷に放り込んではならない。それが仁義というヤツである。
 だが、蛍太郎は思いだした。まさに、"それ"を望んだ男達がいることを。
「ねえ侑希音さん。彼らの力を借りてみるっていうのは、どうかな?」
「彼らって?」
「Mr.グラヴィティと、夏藤さんだよ」
 侑希音は二秒ほど硬直して、それから唐突に手を叩いた。
「あ、そっか。助っ人といえば、その手があったな! その二人なら、確実に連絡がつく。けど…」
 そう言って、だが侑希音は腕を組んだ。
「…ミロのヤツには金さえ出しゃそれでいいけど、Mrはどうすりゃいい? 彼はこの件には全然関係ないからな…」
 難しい顔をしてしまった侑希音に、蛍太郎は会心の笑みを向けた。
「断らないよ。だって、ヒーローなんだから」
「そっか、ヒーローだもんな! さっすが蛍太郎君、頭良い!」
 侑希音の顔が俄然明るくなる。さらに具体的な話を進めようと蛍太郎が口を開きかけたとき、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
「ん? …僕のだ」
 

 
 甘味処やなぎやは今日も盛況である。
 特に今は殆どの学校が放課後を迎えているので、中学生や高校生の多い時間帯だ。 
 そんな中、璃音は不機嫌だった。隣の席にいるのは愛する夫だが、テーブルを挟んでいるのが貴洛院玲子だからだ。
 朝方、蛍太郎に玲子から電話があり、曰く「相談したいことがある」とのこと。双方仕事があるので午後四時半に会うことになった。
 帰りが遅くなると困るので、蛍太郎はその旨を璃音にメールしたところ、こういうことになってしまったというわけだ。事前に伺いを立てたとはいえ、相手方には不本意であろう状況なので、蛍太郎は最初にまず、小さく頭を下げた。
「ごめんね、玲子さん」
 だが玲子の方は別段気にしていない様子だった。
「いいのよ、別に。だって仕事上の話じゃないし変な誤解をされても困るからね。それに、その子にも関係ないことでもないし。思いがけずに来てくれて、むしろ嬉しいくらいよ」
 少なくとも話の内容に自分は関係ないと思っていた璃音は目を丸くした。
「わたし?」
「そ。だってあなた、生徒会の副会長なんでしょ。話というのは他でも無い、同じく生徒副会長をやってるウチの弟のことよ」
 それを聞いて、璃音は怪訝な顔をした。
「…あまり、関係ないと思いますけど…」
 だが、玲子は有無を言わさぬ口調で言い切った。
「無いってことないでしょ!」
「はあ、そうですね…」
 璃音は頷くしかなかった。
「じゃあ、本題に入るけど…」
 玲子はアイスティーで口を湿らせてから、改めて話を切り出した。
「昨日、学校から電話があって、基親が無断欠席したっていうの。それで、夜になってから連絡とろうとしたけど、出来なくて。今朝は、本人から休むって電話があったそうだから、事故とか事件に巻き込まれたとか、そう言うことじゃないと思うんだけど…。いずれ、家に帰ってないってことよね」
 蛍太郎が相槌を打つ。
「そうなるね」
「で、あなた達に何か心当たりは無いかなぁと思ってさ。ほら、永森君って警察に知り合いが居るみたいだし、璃音さんは同じ生徒会役員なんだしさ」
 警察云々言われて、蛍太郎は内心穏やかではない。
(廿六木さんのことだよな。何で知ってるんだ、そんなこと…)
 だが、平静な顔を作って首を振った。
「うーん、心当たりっていわれるとなぁ…。璃音ちゃんは?」
 その璃音はというと、本当に何も知らないのでブンブンと大きく首を振った。
「ないない、全然無い。無断欠席してたことも、今初めて知ったよ」
 さして期待はしていなかったものの、その答えの内容には玲子もつっこまずにはいられない。
「初めて知ったって…気付かなかったの? 月曜は例会でしょ」
 元生徒会長だけに、玲子はその辺は詳しい。
 璃音は昨日のことを思い出してみるが、貴洛院が居たかどうかは記憶に残っていなかった。だが言われてみれば、あの時感じた違和感というのは、貴洛院の不在によるものだったのかもしれない。
「うーん。確かに『何だか知らないけど静かだね』っていう話はした気がするけど…」
「何言ってるの。副会長不在が『何だか知らないけど』っていう程度なワケないでしょうに。私のことはそりゃ気に食わないでしょうけど、真面目な話をしてるんだから、ふざけないで!」
 玲子は苛立ちをあらわにした。璃音も譲らず真っ向から、落ち着いた口調で言い返す。
「ふざけてないです。ホントにそういう感じだったんですから」
 璃音の目は悪ふざけをしているようには見えなかったので、玲子はその言葉をそのまま受け止めることにした。その結果、導き出される結論は、これだ。
「…もしかして基親って、そんなに存在感が希薄なの?」
 玲子が身内としては受け入れたくない類の事実を自ら口にしたことに、璃音は大いに驚いた。同時に、その質問への答えの難しさに言葉に詰まってしまう。
「ま、まあ…あるって言えばあるんですよ、存在感。うるさくて…。なんか嫌思いをさせられれば、記憶には残りますから…。居ない方が良いとか、敢えて触れたくないとか、そんな感じでしょうか…。あ、その、ごめんなさい…」
 これだけ聞けば充分である。
 玲子は腹を立てたが、その矛先はもちろん弟だ。
(なーにが『人心は皆、我がカリスマに恭順してる』よ。全然ダメじゃない。調子イイことばっかり言いやがってさ)
 それで玲子が眉をひそめて何やらブツブツ言い始めたので、璃音はおずおずと口を開いた。
「彼、他に友達とかいないんですか?」
 玲子は存外に平然と、答えを返した。
「私は、そういうのは聞いたこと無いわ。…って、あなたがそんなこと訊いてくるって事は、心当たり無いって事ね」
「はい…すいません」
 思わず頭を下げてしまう璃音。
「別に、あなたのせいじゃないわ…」
 玲子は言葉を返すが、どことなく表情が沈んでいる。まさかここで、弟のガッカリ情報を聞かされるとは思っていなかったからだ。別に彼に愛情を注いでいるわけではないが、自分の監督不行き届きの末のことだと思われるのは非常につらい。そのまま顔を上げなくなってしまった玲子を心配になって、璃音は遠慮がちに言った。
「あの…よかったら…わたし、探してみましょうか?」
 璃音は璃音で、薄情な物言いをしすぎたと後悔しているので、そこからの発言である。だが、蛍太郎は慌てて首を振った。イスマエルの件が片付くまで、そういうのは引き受けたくない。
「いやいや、今日は玲子さんが自分で基親君の家を見に行ってだね、それで居なかったら警察に届けるっていう方が良いよ」
 もちろん、玲子の反応は芳しくない。
「警察になんか届けたら、お祖父様に何て言われるか…。そうじゃなかったら、あなた達に相談なんかしないってば」
「それもそうだな…」
 もう既に話の趨勢は決まりつつあるようで、蛍太郎は抵抗を諦めた。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
 玲子が言うと璃音は、
「はい」
 と、力強く頷いた。それから、こう続けた。
「じゃあ、彼の行きそうな所とか、心当たりありますか?」
 璃音の言葉に玲子は考え込んでしまった。
「…えーと…やばい…全然思いつかない…」
 それを聞いて、蛍太郎は堪りかねて悲鳴のような声を上げた。
「やっぱ警察行こうよ…。そうしよう、な?」
 それが貴洛院玲子、逆転負け確定の瞬間だった。
 

 
「ねぇねぇドクター、電話だよ」
 ブラーボの部屋に響くその声は、ディアマンテに搭載した超AIのものだ。
 当然といえば当然だが、ディアマンテは出撃時以外はすることがない。もちろん融合炉の運転を続けてはいるが、それは殆ど自動処理なだけにAIは手持ち無沙汰になってしまう。そこで、基地のコンピューターに接続して留守番のようなことをさせることにした。現在は、その試験運用中である。
(誰からだ?)
 ブラーボはスピーカーをオンにしなくても、ネットワークを介すればディアマンテと意思の疎通が出来る。日常におけるストレスの一因が減ったのは好ましいことだ。
「えっとね、貴洛院玲子って名乗ってるよ」
(へぇ、何の用じゃろうな。では、繋いでくれ)
「りょうかーいっ」
 少し間を置いて、玲子の声がした。
「あなたのところも、ちょっとした泥棒市場ね」
「やかましいわい! で、何の用じゃ」
「本題に入る前に、ちょっといい? さっき電話に出たの、誰?」
 隠すことでも無いので、ブラーボは正直に言った。
「ディアマンテじゃよ。正確には、ディアマンテに搭載した超AIじゃ」
「へぇ〜。それってやっぱり、"元"ラプラスなわけ?」
「そうじゃよ」
 少しの沈黙の後、玲子の怒気に満ちた声がした。
「…なんでそんな無益な使い方してるわけ? 前みたいにして、さっさと世界征服しちゃいなさいよ」
「仕方ないじゃろ!」
 堪らず、ブラーボは叫んだ。
「お前に頂いたデータに入っていた量子アルゴリズムを搭載したら、不正アクセスの類が一切出来なくなってしまったんじゃ! ラプラスの見事な判断能力の前には小細工など通用せんし、ワシらの技術では書き換えも出来ん。こいつはもう、ネットワーク上でのイリーガルな行為には一切使えないんじゃよ!」
 玲子は息を呑んだ。
 いかに蛍太郎といえ、ラプラスが一式まるまる人手に渡るとは想定はしていないだろうが、二度目の起動試験に間に合わせて作ったアルゴリズムには予防措置を仕込んであったということである。つまり、彼抜きで再組立を行なったことが、世界を巻き込んだ"あの事件"を生んだともいえるわけだ。ブラーボにラプラスを持ち去られるという結末を迎えなければ、玲子にとってマズイ状況になっていたかもしれない。
 玲子が何も言わなくなったので、ブラーボはさらにまくし立てた。
「じゃが、ワシは転んでもただでは起きん男。アメリカ時代に研究していたモノを片っ端からブチ込むことで、ラプラスをディアマンテの、そして基地の頭脳として再構成したのじゃ! 中でも目玉は、フェデレーション製AIをワシの手のよりさらに発展させた超AIよ。現行機種ではハードウェアのスペックが全く追いつかなくて実用化は不可能と思われていたが、今や何の問題も無い!」
 得意げに語るブラーボ。身体があれば仰け反るほど胸を張っているだろう。だが、それに対する玲子の反応には熱が無い。淡々と、むしろ咎めるような口調である。
「なるほどね。まあ、自慢するのは結構なんだけどさ。私としてはさ、あの状況を再現できると見越してデータを提供したわけよ。世界征服を成し遂げちゃえば、過程なんてどーでもよくなるでしょ。でも、それがダメだったんなら使うべきじゃなかったんじゃない? 形はどうあれ、ラプラスが動いてることが永森君にバレたら、私が疑われると思うんだけど」
 見事なまでの温度差だ。さらに、その先の可能性に考えが至る辺り流石は玲子である。伊達に超巨大企業グループの跡取りとして育てられていない。
 だが、ブラーボは冷静に切り返してきた。
「なぁに。重要と判断した物は分けて持っていたことにすれば問題無いじゃろ。時間的にはそれくらい出来てもおかしくないだけの余裕があったし、あっちもデータを逐一確認してから消去したわけではじゃあないじゃろうからのぅ」
「ほう」
 玲子はいかにも感心した風に口笛を吹いた。このあたりは、口八丁手八丁で多くの場数を踏んできたブラーボならではだろう。説得力はある。
「それもそうね。なんていうか、あなたってとぼけることに関しては天才的ね」
「褒められてないような気がするが、まあいい。そろそろ本題に入れ」
 ブラーボに促され、玲子は話を切り替えた。
「そうね。さっき断られたから、割とどうでも良くなってきたんだけど…ウチの弟がね、帰って来ないんだよね。警察沙汰にはしたくないから、サクッと探してくんない?」
 それから玲子は、いかにしてこの話を蛍太郎に断られたかを話した。
「…まったく、随分気楽に言ってくれるのぅ。つまりは全く手がかり無しで、あてもなく町中を探せってことじゃろ。それじゃあ断られても仕方ないぞ。あやつにだって自分の仕事と生活があるからな。それこそ、警察や探偵みたいに捜すのが仕事だっていう連中に頼むのがベストだと思うがのう。まあ、それができんから、そうしてるんだろうが。
 ワシとしては、そうじゃなぁ…引き受けてやらんでもないが、これで貸し借りゼロってことならいいじゃろう。なぁ?」
 話の内容から優位に立てると見て、ブラーボが調子付く。だが、それに対する玲子の言葉は冷たかった。
「冗談。どんなに好意的に見ても三割返済程度じゃない?」
 これには、すっかり意気消沈してしまったブラーボだった。
「…そうか…そうじゃな…利息分じゃないだけ、マシじゃな…」
「で、やってくれるの?」
「はい、やらせていただきます…」
「おっけー。じゃ、お願いねー」
 最後には何やら可愛らしげな声色を作って、玲子からの電話は切れた。ブラーボは三分ほどかけて気を取り直し、ラプラス上で実行されているプログラムである超AI"ディアマンテ"に指示を飛ばした。
(ディアマンテよ。スーパー索敵モードの試験運用じゃ。スカウセクトを出すぞ!)
 スーパー索敵モードとは、ドクターブラーボが開発した昆虫型探査ドローン・スカウセクトを運用するスカウセクトシステムを、改修してディアマンテに搭載したものである。
 スカウセクトは、実際の小型昆虫くらいのサイズながら、ある程度自律的に移動して情報収集を行なう。特に小さな機体を利した飛行システムが最大の売りだ。サイズが小さいために、移動距離と時間を考えれば飛行可能かどうかで使い勝手がまるで異なることになるからだ。
 さらに、改修によって驚異的な演算能力を持つディアマンテのメインコンピューターを利用することで従来より遥かに多くの情報を一度に処理できるようになった。これにより、カタログ値では酉野市一円をくまなく捜索し一個人を発見するという試みを充分可能とするだけの能力を獲得している。
 ただし、スカウセクトシステムの弱点であるドローンのコストに関する問題は未解決のままだ。第一に、スカウセクトが数多く必要なこと。第二に、バッテリーの連続稼働時間である。データ送信のみを継続した場合四時間、飛び続けた場合十分間という稼働時間では殆ど使い捨てに近く、大半の個体がバッテリー切れで戻って来れなくなってしまう。これは単純に金がないと解決できない種類の問題であり、現状では継続した運用は難しい。
 ブラーボのパテント収入の一助をなしているスカウセクトシステムだが、その評価は情報収集システムとしてより、ドローン自体の方に集中している。以前に彼が所属していた北米特務機関"フェデレーション"では今でもスカウセクトを元にマイクロマシーンの研究が続けられているほどだ。
 閑話休題。
 三十分後、ヤスとシゲは"ムシカゴ"と呼ばれるアタッシュケース大のツールボックスを手にそれぞれ町を回り、スカウセクトを放つ。
 スカウセクトの移動範囲には限りがあるため、あらかじめ分散させて配置しなければならない。一番手っ取り早いのは航空機の利用だが、もちろん人手による散布も悪くない。むしろ、ブラーボ一味の航空戦力はディアマンテのみなので他に手段など無いのである。
 一通り散布が終わったことを確認すると、ブラーボはおもむろに指示を出した。
(システム起動じゃ)
「おっけー、あいあいさー」
 なんとも緊張感の無い声とともに、ブラーボの視覚野にディスプレイ風に構成されたモニター情報が送り込まれてきた。
 

 
 玲子の前を辞してから、璃音と蛍太郎は揃って商店街を歩いていた。せっかくだから散歩でもしようということになったのだが、蛍太郎にしてみればご機嫌とりの部分が大きい。夫が旧姓で呼ばれるたびに璃音の神経が逆撫でされているのが伝わってきただけに、ここで少しは気を静めて貰いたいと考えてのことだ。
 少し歩くと井筒屋の看板が目に入ったので、そこで抹茶ソフトを二つ買った。ベンチに並んで腰掛けると、蛍太郎は璃音の顔を見下ろした。食べ物を目の前にしているというのに、璃音は浮かない顔をしていた。
「どうしたのさ?」
 それに返ってきた答えは概ね蛍太郎の予想通りのものだった。
「良かったのかなぁ、断っちゃって…」
 俯きかげんな璃音に軽く微笑みかけると、蛍太郎は穏やかに言った。 
「気にするこたぁないよ。無茶な"お願い"は彼女の十八番だから。出来ないことは出来ないって、それで良いのさ」
 だが、璃音のタメ息は止まらない。
「でもさ、あの人、『あなたが空飛んで探せば良いじゃない』みたいなこと、絶対思ってるよ。できることをしないっていうのは、どうなんだろう…」
「だけどさ、璃音ちゃんは神様でも仏様でもないんだから、遍く衆生に慈悲を振りまくなんてできないでしょ」
 そう言って、蛍太郎は璃音の頭を撫でてやろうと手を伸ばした。すると、璃音が大きな目をさらに大きくして、自分を見つめていることに気付く。
「どこで覚えたのさ、そんな言葉」
 蛍太郎は気を良くして、ちょっとだけ得意げに答えた。
「ん? サークル活動の成果かな」
 それから居住まいを正して、言葉を続けた。
「まあ、そんな風に言われても納得できないかもしれないけど、璃音ちゃんが彼女のためにそこまでする必要は無いってこと」
「そう、かな…」
「そ。僕らみたいなのは、むしろ自分自身のことを何とかする方が先なんだからさ」
 その言葉は、どこか自分に言い聞かせているようなところもある。玲子の依頼を断った一因にイスマエルの件があるだけに、蛍太郎も後味の悪いものを感じているのは確かだ。
 黙って聞いていた璃音は神妙な顔をしていたが、頷きはしなかった。それを言っている本人が自身の言葉に釈然としていないのだから当然だし、それ以上に璃音の性格が、これを良しとしていないのだ。
 蛍太郎は小さく微笑んで、璃音の肩に手を回す。そのまま二人は黙ってアイスを食べた。
 しばらくの間、そのまま時間だけが流れる。だが、不意に璃音が、
「もしかして、あれ…」
 と、呟いた。それに気付いた蛍太郎が璃音の横顔を覗き込むと、赤い瞳が人波を凝視していた。パワーに由来するだけあり、彼女の視力は透視が出来るほどに優秀だから何か見つけた事には違いない。
「どうしたの?」
 返す璃音の声には少々の切迫感があった。
「一瞬だったけど、彼だった気がするの。制服だったし…」
 "彼"とは貴洛院基親のことだ。名前で呼ばないあたり、どんな感情を持っているのか覗える。それはさておき、蛍太郎は当然の疑問を口にした。
「でもさ、制服を着てたからって基親君とは限らないだろ」
「うん。だけど、制服って冬服だったの。学生服。今日から衣替えでしょ」
 言われるまでもなく、今日から衣替えだということは蛍太郎も承知している。なにせ、朝に璃音の下ろしたての夏服をシワだらけにしてしまって、慌ててもう一着引っ張り出したくらいだから、それはもう色々な意味で深く印象に残っている。
 さらに、道行く中高生を見ると判るのだが、今年は例年以上に温暖な気候が続いていて解禁に合わせて一斉に夏服に切り替わった感がある。学生服で歩いている男子がいたら、確かに色々な意味で妙ではある。
 さらに璃音は続けた。
「それに、家に帰ってないのは日曜日からなんだよ。だけど、土曜日に家にいたどうかも判らないし、それなら金曜に学校が終わってからどうしてたかだって、判らないってことになるよ」
 確かに、金曜日のことは何も言われなかったということは、学校にちゃんと来ていたということだ。そして、その日の放課後から家に戻っていない可能性もある。その間に一時帰宅するなりしないで着替えを調達していなければ、ずっと学生服のままであると考えられなくもない。
「ねえ、けーちゃん…」
 璃音は蛍太郎を見上げ、強い意志の宿った眼差しを向けていた。
 妻を諭すようなことを言ってきた蛍太郎だが、彼女の性分まで否定するつもりなどは毛頭無い。
「OK、追いかけよう。でも、僕もついていくからね」
 そして璃音が望むのなら、蛍太郎はとことん付き合うだけだ。
 
 
4− 
 俗に廃工場とか工場跡といわれている町南部の区画は、正式には酉野工業団地という。
 二十年まえのバブル絶頂期に多額の費用を投入して、浜を埋め立て工業地として整備したのだが、潮の流れを考慮せずに設計されたこともあって住民の反対運動が根強く、さらにその後の不景気で企業誘致に失敗。維持費のかかる広大な空き地を生み出してしまった。
 それでも、作ったからには無理にでも何か呼ぼうと大手製紙工場を誘致したが、操業後になってから廃材処理を巡って市と工場で訴訟騒ぎとなり見事に撤退。解体にも金がかかるために工場は放置され、県外の工場での研修後に酉野工場に戻るはずだった新卒採用者が戻って来られなくなるという惨憺たる結末を迎えた。
 そういう経緯から、ここは市立病院跡とならぶ迷走行政の象徴として語られる場所でもある。当然のことだが町外れという立地も手伝って時刻を問わず人っ子一人居ない。
 その一角にある倉庫の屋根の上、夕暮れの空を見上げているのは、緑と黄色のタイツに身を包んだ男、ボルタだった。
 さらに、その傍らにマントをまとった紫の男が現れた。
「待たせたな」
 クーインが抑えた声で言うと、ボルタは大げさに肩をすくめて見せた。
「まあ、ね。それにしてもボス。電話を一本かければ用が済むといってた割には、遅かったッスね」
 アイマスクで表情を覗うことは出来ないが、口元を見る限りクーインは笑っていた。
「何を言う。お前に気を遣っていたのだ。お前こそ、表の顔ではあちこち交流が広いんじゃあないのか?」
「そうでもないッス」
 ボルタは天を仰いだ。
「朝イチで学校に顔出して、クラスの連中の顔を見てはきましたけど…それだけです。友達らしい友達って、実は案外居そうで居ないもんですよ」
 クーインも何か思うところがあるのか、頭を垂れていた。
「…学校、か」
「だからってワケじゃねぇけどさ…」
 ボルタは赤く染まった雲を見上げたまま拳を握った。
「オレ、連中を助けなきゃなんねぇって、思うんスよ。あんなのでもさ、仲間だったんだなぁって気付いたから…」
 その言葉に、クーインは深く頷いた。
「フ…。無くしてからその価値に気付くというのは、ままあることだな。
 今だから言うが、正直、私のとってお前たちはディヴァインパワーを試す実験材料でしかなかったのだ。しかし…」
 そのまま口を閉ざしてしまったクーインの肩に手を置いて、ボルタは微笑んだ。
「なんのかんので、今まで楽しかったっスからね。それにね、ボス。オレらはまだ、何も無くしちゃいないですよ」
 ボルタが、その格好で吐くにはあまりにもクサいセリフだったが、クーインは笑わなかった。
 そして、二人は暮れなずむ廃墟に向かって跳んだ。
 

 
 目の前に広がる光景に、蛍太郎は愕然とした。
 夕闇に浮かび上がる黒い影は、酉野工業団地のそれだったからだ。
(マズい、これはマズいぞ…)
 貴洛院基親と思しき影を追って、璃音と蛍太郎はここまでやって来てしまった。そして、もし本当に彼がここに来ているとすれば、回りに何も無い以上、工場跡内部の捜索に移るのは自然の流れである。むしろ、そうしない方がおかしい。
 だが、この場所は魔術師イスマエルの潜伏地である可能性が最も高く、間もなく侑希音たちによる捜索活動が始まることになっている。うっかり中をうろついて、どちらかに鉢合わせしたら色々な意味で大変だ。しかし、そのことを口にするわけにはいかない。町を危険に晒しかねない魔術師が目の前に居るかも知らないと知ったら、璃音は迷わずに足を踏み出すだろう。かといって、言わなかったとしても璃音は前に進む。さらに、貴洛院にどういう目的があるのかはともかくとして、本当にここに居るとすれば、彼がイスマエルに襲われる可能性さえあるのだ。
 ここで何も言わないのは、あまりに不誠実な対応だ。
 蛍太郎は隣にいる璃音に向き直り、その肩に手を置いてから真剣な眼差しを妻の瞳に向けた。
「璃音ちゃん。今から僕が言うことをしっかり聴いて欲しい」
 璃音は黙って頷いた。蛍太郎も小さく頷いてから、続けた。
「ここには、侑希音さんたちが追っている魔術師が潜んでいる可能性が高いんだ。まもなく調査を始めることにはなっているけど、Mr.グラヴィティが多忙につき、出発時間は多少流動的なんだそうだ。そもそも侑希音さんは、中に人が紛れ込んでるかもしれないなんてことは想定して無いから…」
 璃音は目を見開いた。
「それじゃあ、早く行かないと大変なんじゃない?」
「そういうことになるね。中で侑希音さんに見つかったら大変だと思うけど、そんなことは言っていられない。人の命がかかってるかもしれないからね」
 蛍太郎の眉根には苦渋の色が満ちているのは璃音にも充分判る。彼だって、好き好んで妻を危険に晒したくは無いのだ。だからこそ璃音は深々と、強い意思を込めて頷いた。
「わかった。いかなきゃね」
 一瞬だけ辛そうに目を伏せてから、蛍太郎は決然と眼差しを上げた。
「僕も行くよ。工場のマップは一通り頭に入ってるからね」
「でも、危ないよ…」
 もちろん璃音は反対する。だが、蛍太郎は静かに首を振った。
「中のことを判らないで探し回る方が危ないよ。それに、ここに一人残されても何があるか判らないしね。もし、何かあったら飛んで逃げればいいだろ。そのときは、離さないでね」
 最後の方は冗談めかして言ったものだから、璃音はハッと顔を上げて声を張り上げた。
「あたりまえだよ! ずっと、離さないんだから!」
 あまりの勢いに蛍太郎は思わず苦笑した。
「ははは、なんだかプロポーズされてるみたいだね」
「もう、ふざけないで」
 からかわれたと思っている璃音は丸い頬をさらに膨らませている。蛍太郎は、
「ごめんごめん」
 と、細くて柔らかい髪を撫でてやった。その手に嬉しそうに頭をこすり付けていた璃音だったが、少しして気が済むと決然と眉を上げ、言った。
「…行こう」
 

 
 ドクターブラーボは基地コントロールルームの指令席に安置され、ディアマンテのスーパー索敵システムに送り込まれるデータを逐次チェックしていた。傍らにいるメタルカが、ディスプレイを凝視してヤスとシゲの機体状況をモニターする。そんな作業が既に二時間ほど続いていた。
 ちなみに、クルツは尿道結石を除去するために通院しており、今晩からの復帰ということになっている。
 酉野市内に広く散布されたスカウセクトたちはバッテリー容量と相談しながら活動し、残量に応じてムシカゴに戻る。細かくスケジュールを組んでヤスとシゲを巡回させ、捜索範囲と時間に穴が開かないように、そしてスカウセクトの損失を最小限に抑えるように探査を行なう。貴洛院基親の捜索依頼を遂行しているのではあるが、それにかこつけて今後のシステム運用のリハーサルを行なっているといったほうが適切な状況だ。そういうことだから、日ごろは何らかのリソースを消費する活動をすると必ず二言三言あるメタルカが黙っているのは、ブラーボにとってありがたい話ではある。
「うーん、見つからないもんですねぇ」
 メタルカがタメ息を吐く。未だに貴洛院基親は見つかっていない。ブラーボも多少疲れたような声を出した。
「そりゃ、建物に篭ってたら見つからんとは思うがの。事件事故の可能性はあまり考えたくはないのぅ…」
 他人事ながら、なんだか心配になってきたブラーボ。室内に重苦しい空気が流れたが、ディアマンテの声がそれを吹き飛ばした。
「大変、見てください!」
 声の調子からしてあまり大変そうには聞こえないが、彼にしてはかなり切羽詰っているらしい。いきなり、ディスプレイの半分を占拠する形でスカウセクトのモニター映像が現れた。
「それがどうしたというんじゃ…」
 訝しげなブラーボだったが、すぐに彼の声色も一変した。
「まさか…」
 映像は、もう何年も使われていない工場施設からで構内の連絡道路を写している。そして、そこを歩いているのは誰あろう、藤宮璃音と蛍太郎だった。
 ブラーボは見事に取り乱し、絶叫していた。
「おいおい、まさか、ここがバレたのか!? どうなっとるんじゃ、一体よぉおおおおおッ!!」
 

 
 璃音は蛍太郎に手を引かれ、工場構内を歩いていた。
 そもそも、璃音がここまで来られたのは赤い瞳の力である。"ヴェルヴェットフラッフ"のための補助器官でもある璃音の瞳は、知覚の階層が通常よりも深く設定されている。物理的な階層を越えるのが透視能力だが、チャンネルを切り替えれば霊的な世界とされる領域はもちろん、その場の時間がある程度前後した状態、つまり過去と未来さえも見ることが出来る…らしい。と、いうのも特殊な知覚を行なうにはそれなりにパワーを消耗するので、おいそれと見られるようなモノではなく、璃音の制御下にあるのは透視能力の他には霊的世界を知覚する霊視能力だけだ。
 今回はその霊視能力を使い、学生服の男の霊的エネルギーの痕跡を辿ってきた。いわば、臭いを追ってきたようなものである。
 そこらを薮睨みしている璃音に、蛍太郎が話しかけた。
「どう、璃音ちゃん。何か見える?」
「うーん、何にも無いなぁ。人の出入りが無いところだっていうのを差し引いても、ちょっとおかしいくらい…。
 普通は、何も無いところでも小さな生き物が隠れていたり植物が生えていたりするから、必ず何か見えるんだけど…」
「確かに、何も無いっていうことはないよな」
 蛍太郎は首を捻った。
 霊視モード時の璃音の視界は、基本的には真っ暗である。そのなかに、光る粒子の集合で描き出された生物や物体が浮かび上がって見える。それらのディテールは通常の視力で見たものと大差が無く、人間であればちゃんと衣服を身につけているように写る。
「そこ、建物があるんだよね。でも、殆ど見えない…。この場所が死んじゃってるから、なのかな…」
 藤宮家という出自だけが要因というわけではないが、日本的アミニズムを無意識ながら源流に持つために、璃音は生命体以外の物体にも霊的エネルギーを見出すことができる。だが、ここにようにうち捨てられて久しい、いわば死にかけの土地では大したエネルギーを感知できないことがある。だが、より可能性が高いのはイスマエルの結界術の影響だろう。もしそうだとすれば、通常の光学的な視力で見えている物が全く当てにならないかもしれないので、余計に璃音は霊視にパワーを費やさなければならなくなる。
「璃音ちゃん、大丈夫?」
 蛍太郎も心配になって言葉をかける。いざというときにパワー不足では困ったことになってしまう。璃音の能力は確かにそれぞれ強力だが、持続力と燃費には大いに難点がある。璃音の方も同じことを思っていたので、不安気な声を返した。
「うーん、ペース配分を考えた方がいいかも…」
 だがそれをするには、この状況は適当ではない。どこにいるか判らない人間を捜索していること、そして、どこから何が現れるか判らないこと。その二点から、常に周囲に気を配らなければならないからだ。
 実際ここで、璃音たちは不意の遭遇者に出くわすことになった。
 端から隠れるつもりはなかったのか、通路の真ん中に男二人が降りてくる。タイツ男二人組、クーインとボルタである。
 ボルタは藤宮夫妻に気安く手を挙げた。
「おや。アンタ達もかい?」
 色々あったが味方というわけではないので璃音は困惑していたが、蛍太郎はあくまで落ち着いた表情で答えた。
「まるで関係ない方面の人探しだよ。ここに来たのは偶然さ」
 蛍太郎はわけを全て話した。当たり前といえば当たり前だが、酉野紫の反応は芳しくない。
「そいつがどうなろうと、私には関係の無いことだ」
 と、クーインは言い切った。ボルタも隣で頷く。璃音は最初から協力など望めないと思っているので、特に反応は無い。しかし、一呼吸置いてからクーインはこのように続けた。
「だが、個別に動いて各個撃破というのも面白く無いな。ここは一つ、協調行動といこうじゃないか。無事に戻るためには、それが適当だろう。なにせ、その女一人でアメージング5の四人分には匹敵するわけだ。それにプラス二人ってことで、幾分良い状況になるのではないかな?」
 誰でも命は惜しい。覚悟を決めて乗り込んできたとはいえ、有利に働きそうな要素をみつけたら積極的に取り込もうと考えるのは悪いことではない。
 それには、蛍太郎も頷いた。
「まあ、ねえ。ここでお互いの背中を覗ったところで、本来の目的を達成できなくなるどころか、余計に身の危険が迫るわけだからね。やはり協調するべきだろうな。…握手をする気は無いけどね」
 クーインは小さく笑う。
「フ…。ここでいきなり友好を唱えられたら逆に信用できないからな。いいだろう。では、我々は藤宮助教授の指示に従うことにしよう」
 蛍太郎が頷くと、ボルタは小さく拳を握った。
「よし、決まりだ、仲良くしようぜ」
 そう言って、璃音の肩に手を回そうとする。だが、蛍太郎に睨まれて慌てて手を引っ込めた。そのあとは、笑って誤魔化すだけのボルタだった。
 璃音は新たに出来た道連れを凝視した。だがボルタはボルタ。全裸で見えるわけではないので、覆面の下はわからない。そんなモノは見えてくれても困るし、見えないことは承知のうえだ。その視線はもちろん、疑いの眼差しである。
 こうして急遽結成された探検隊は、まずは最も手近な建物に入った。
 そこはパルプ化工程を行うための設備がおかれていた場所だったが、今では全ての機器が撤去されているため、ただ広いだけの空間だ。その中央部に、奇妙な物体が吊り下げられていた。
 その物体は身長三メートルほどのヒトガタをしており、ボディビルダーを思わせるマッシヴなプロポーションで全身を黒くのっぺりとした金属質のもので覆われている。まさに金属製の人形とでもいうべきシロモノである。その腹部は観音開きのように展開しているようで、腹腔にあたる空洞が剥き出しになっていた。
「よし、見てこよう」
 何を思ったか、ボルタがドアに飛び込んだ。
 璃音の霊視で辺りを覗ってから、残り三人が続く。先行してしまったボルタを引き止めるのも気が退けるし、自ら囮を買って出てくれたなら敢えて止めることもあるまいという、わが身可愛さから来る考えも無きにしも非ずだった。
 ともかくボルタは周囲に気を配りながら、といってもあたりには遮蔽物や障害物の類は壁とそれにもたれ掛けられているゴミと物置以外に存在しないのだが、とにかく慎重に歩みを進めた。だが大して時間をかけることも無く、ボルタはあっさりと問題の人形の側へ辿り着いた。側面から正面へと回り、腹腔を覗き込んだボルタは息を呑んだ。
 その様子を離れて見ていたクーインが、
「どうした?」
 と、声をかけると、ボルタは引きつった声で叫んだ。
「ボス、首です! 首があります!」
「なに!?」
 驚きの声を上げ、そのままクーインが真っ直ぐ飛んで行く。それでも何も起こらなかったので、蛍太郎は璃音の手を引いて後に続いた。
 見ると、人形の開きっぱなしの腹腔の中に酉野紫の残り四人、バーナー、クイックゼファー、マンビーフ、アクアダッシャーの首が無造作に積み上げられていた。それぞれ意識はあるようだが、常識ではありえない極端な状況に長時間置かれたために相当衰弱しているようで、ボルタの呼びかけにも反応は弱い。
「ボス、早く元に戻してやらないと!」
 ボルタが悲痛な声を上げると、クーインは頷いた。だが、少しの間を空けて言う。
「そうしたいところだが、場所を変える必要があるな…。ここは文字通りヤツの庭なワケだし、この得体の知れない機械も何が起こるか判らない」
 クーインが冷静さを取り戻したのは流石というべきだろう。そのクーインに促され、ボルタは仲間の首に手をかけた。
 と、その時。
 突如けたたましいブザーが鳴り響き、人形の目が点滅を始めた。そして、観音開きになっていた腹が勢い良く閉まる。ボルタはそれを止めようと、とっさに身体をねじ込んだ。
「うげぇ、閉まる閉まる!」
 両肩から上体を挟まれボルタが悲鳴を上げる。璃音は助けに入ろうとパワーをオンにした。だが、不意の風切り音にエンハンサーをシールドにまわした。
 鈍い音と共に、床に転がったのは巨大な鉈だ。その刀身にまとわりついている赤いエネルギー体は空間断裂術式対策に、ハチェットが触れた瞬間にエアバッグのように膨らんで全体を包み込んで落下するように設定されていたエンハンサーである。
 ボルタ以外の三人が視線を向けた方向、出口が無い側の壁際には、臙脂のコートの男、イスマエルがいた。
 初めて目にする首切り魔術師の姿に蛍太郎は息を飲んだ。
「アイツが…」
 イスマエルは圧倒的威圧感を以って既に身動きが取れないボルタを除く三人を釘付けにした。そして、ゆっくりともう一本のハチェットをかざし歩みを進める。
 先程のエンハンサーの状況から、ハチェットに空間断裂術式がかかっていないと見た璃音は、おもむろに口を開いた。
「気をつけて。当たったら怪我じゃすまないから」
 クーインは頷く。
「うむ。今回は、やられたら元には戻らないということか…」
 そしておもむろに両の掌をかざし、叫んだ。
「ラムズフェルトビーム!」
 クーインの掌から電撃が迸った。発射時のポーズが某国国防長官のスピーチ時の手振りに似ていることから名付けられたこの技は、おもにアジトで部下たちの折檻に使われているが出力を上げれば立派な武器となる。ビームは畑でも耕すようにコンクリートの床を穿ち爆散させながらイスマエルに向かった。
「ぬん!」
 イスマエルがハチェットを縦に構え、ビームに向かって振り下ろすとマグネシウム火薬のような鮮やかで安っぽい火花を散らし、小さな爆発が起こる。そして、澱んだ空気に漂う白煙を押しのけ、イスマエルは先程と同じ足取りのまま直進して来る。
「ダメかよ!」
 クーインが歯軋りする間にもイスマエルが迫る。璃音はエンハンサーで全身を包みパワーを全開にして、魔術師と蛍太郎たちの間に立ちふさがった。
 璃音の姿を見て、イスマエルは足を止め眉を顰めた。
「貴様、あの女と同じニオイがするな」
 侑希音の事を言っているのだろう。過去の分はともかく、最近の記憶は連続しているようだ。イスマエルは口の端を耳まで届くのではないかというほど引いて薄く笑うと、ハチェットを振り下ろした。璃音はエンハンサーを自分の正面に壁状に展開し、それを受け止める。鈍い音が響いて、刃は空中で止まった。いかに硬い鉈でも衝突時の速度が音速を超えているわけでもないのでエンハンサーで受け止めることは出来る。しばらく壁をはって様子を見ようと思った璃音だったが、霊視の連続使用で出力が上がらないため、壁の持続時間は短い。このまま力比べは出来そうに無いので、壁を外側に向かって弓なりに湾曲させて、太刀筋を逸らさせた。渾身の力を込めていたのが祟って見事に体勢を崩したイスマエルの脇腹にエネルギー光球が続けざまに炸裂した。
 その隙にと、蛍太郎はクーインを促した。クーインは頷くと、機械人形に挟まったままのボルタの脚を掴んだ。
「おい、首をちゃんと抱えてろ!」
「え、あ、はいっ」
 その言葉の意図が判らないのか、あたふたしているボルタの声が聞こえてくるが、クーインは構わずにその脚を引っ張った。すると、斐美花の透過能力と同様にボルタの体が機械人形の腹に出来てる隙間をすり抜け、外に現れた。ボルタが床に顔面から落ちると同時に、機械人形の腹の蓋が閉まった。
「いってぇ…」
 呻くボルタ。すかさず、クーインが叫ぶ。
「おい、全員助け出したんだろうな!?」
 だが、
「三つしかないぞ!」
 と、蛍太郎。ボルタと一緒に床に転がっている首は、クイックゼファー、マンビーフ、アクアダッシャーだけだった。それを知り、ボルタの顔が青くなる。
「どうしよう、オレ…」
 しかしクーインは冷静だった。三つの首を拾い上げると、
「私はここを離れ、三人を元に戻す。場合によっては、何人か戦力になるかも知れん。ボルタはここに残れ。助けが必要のようだからな」
 ボルタは無言。蛍太郎はクーインに疑いの眼差しをぶつけた。だが、クーインは微笑でそれをいなす。
「なぁに、最悪でも私一人は確実に戻ってくる。それまで、ボルタを置いていくから凌いでいろ」
 そして、クーインはようやく立ち上がったボルタに言葉をかけた。
「バーナーを助けるには、ヤツを倒さなければならんからな。頼むぞ」
 ボルタが深く頷くのを見ると、クーインの姿はどんどん透明になり、二秒としないうちに完全に消えた。それを見送ったボルタは、拳を握り気合を入れた。
「うおおおお!」
 プラズマの渦がボルタを取り巻き、蛍太郎は思わず後ずさりした。
「よし、いくぜ!」
 気合と共に駆けだしかけたボルタだったが、不意に振り向いて蛍太郎に言った。「アンタは端っこへ行ってな。何かと危ないだろうからな」 
 それから、璃音と交戦中のイスマエルに向かって走った。
 蛍太郎としてはボルタの言うことにそのまま従うのも少々癪にさわるが、璃音の邪魔になってしまっては元も子もないので、素直に壁際へと走った。
 一方、璃音の光球をモロに食らったイスマエルは、脇腹を押さえうずくまったまま、金属つぶてを嵐のように放った。璃音は小回りを効かせそれを回避、いくつかは当たってしまったがエンハンサーのシールドでダメージは無い。そこに、駆けつけたボルタの稲妻が迸った。電撃を受けたイスマエルのつぶてが止まる。璃音は一気に近づいて、イスマエルを蹴り上げた。
 さらに璃音はそのまま空中で身を捻り、回し蹴りを繰り出した。
「はあああああっ!」
 一発目の蹴りで強制的に立たせられたイスマエルの顔面を狙って、エンハンサーの輝きの上にさらにエネルギー光球をまとった璃音の脚が撃ち下ろされた。
 だが、イスマエルは空中で制動をかけるという魔術師ならではの動きで体勢を立て直し、
「なめるな!」
 ハチェットを横に構え、刃身の腹に左手を添えて拳を受け止めた。
 思い切り捻りを利かせた怪力によるキックとエネルギー光球のゼロ距離射と。その二つを相乗した衝撃は宇宙金属のハチェットを大きく軋ませた。だがそれよりも、イスマエルの両腕はそのパワーに耐えられなかった。予想外の力に両手首が折れ、支えを失ったハチェットは璃音のパワーをマトモに受け、そのままイスマエルの顔面にブチ当たった。
「ガ…ッ!!」
 イスマエルの視界は、すぐに黒く塗りつぶされた。いっぺんに力が抜け体制を崩したイスマエルに、璃音は飛行のための全推力を乗せたパンチを叩きつける。顔にへばり付いていたハチェットに再び激しい衝撃が走った。ハチェットもろともイスマエルの顔面を撃ち抜くつもりで、璃音は拳にさらなるエネルギーを投入、だだっ広い室内をくまなく照らし出すほどの光が迸り、それが振り下ろされる。イスマエルにとって幸いだったのは、ハチェットのお蔭で光球の熱エネルギーを直に受けずに済んだことだろうが、いずれにせよ常人の二十倍以上の力のキックとパンチを連続で顔面に受けてはひとたまりも無い。首をあらぬ方向へ曲げたイスマエルは、そのままコンクリートの床に叩きつけられた。
 人が転倒したときのものとは思えない轟音が廃工場を揺すり、コートの魔術師は倒れ伏した。
「やった!」
 蛍太郎とボルタが同時に歓声を上げる。璃音は振り向いて、蛍太郎にVサインを送った。室内には薄闇が戻っていたが、その中でも光に包まれている璃音はくっきりと浮き上がっている。それを見た蛍太郎は安堵から足腰の力が抜け、壁にもたれかかった。
 すると、いかなることか壁にポッカリと穴が開いて、その中に蛍太郎が飲み込まれた。そして壁はそのまま、何事も無かったかのように元に戻った。
「けーちゃ…」
 璃音がそちらへ向かおうと足を踏み出した瞬間、何かが砕ける鈍い音と、その直後、金属製の重量物が床に落ちる音がほぼ同時に響いた。それに続いて、璃音が床に崩れ落ちるように倒れた。
 そして入れ替わりでイスマエルが立ち上がった。
「頭はな、すぐに治さないとマズイのだよ…やってくれたな」
 頭を強く打ったはずだが、イスマエルの口調は変わっていなかった。すでに治っている左手で自らの首の後ろを撫でる。右手には何も持っていなかったが、その代わり、ハチェットが璃音の側に転がっていた。
「おい、どうした!」
 ボルタには、急速に日が落ちてあたりが暗くなっているため状況が判らない。その隙をイスマエルは見逃さなかった。次の瞬間、全身くまなく激痛が走り、ボルタの意識は失われた。今までに無い量の金属つぶてをいっぺんに食らったのだ。ボルタはそのままの勢いで吹っ飛び、隅に積んであった資材の山に突っ込んだ。
「このイスマエル、美味いモノは美味いうちにさっさと食う主義でな。貴様は後で適当に殺してやるから、そこで待っていろ」
 夜目が効くイスマエルはボルタが埋もれている方向を一瞥して、ほくそ笑んだ。そして、おもむろに歩みを進める。
 璃音は床にうつ伏せになっていた。
 それを、イスマエルは足で転がして仰向けにする。横たわっていてもなお、制服の下の膨らみが存在を主張する。その胸と肩、太腿は一緒に呼吸とは違ったリズムでピクピクと震えていた。そして仰向けになっているにも関わらず、顔は床についたままだった。
 イスマエルは身を屈めて、今度は両手で璃音の頭を持ち、首を回して顔を上に向かせる。ハチェットが当たった首の後ろからは相当な量の血が出ており、裂傷は相当の深さには至っているようだ。現に、璃音の首の骨は折れていた。それでも切断に至らなかったのは注意が逸れていたとはいえエンハンサーに覆われていたからだ。予想外の損傷の少なさにイスマエルは舌を巻いたが、逆に言えば楽しみが残ったわけだから、むしろ喜ばしいことだ。
 事に及ぶ前にと、イスマエルは璃音の顔をじっくりと観察した。大きな目はさらに大きく、虚ろに見開かれていて、光を失った瞳は瞼の方に向いている。だらしなく開かれた口の端からは泡が流れ落ちた。この完全に弛緩しきった表情を見ると、頚椎を砕かれたショックで即死したことがうかがえる。時折身体が痙攣するのは、神経が切れたことによる筋肉の反応に過ぎない。
 イスマエルはサメのように酷薄な笑みを浮かべると、立ち上がった。手が離れたため、骨の支えを失っている璃音の首は、コロンと横を向く。自らの象徴機械が侑希音にされたように、もう痙攣もしなくなった璃音の胸を踏みつける。憎らしい女と同じニオイのする娘へのこの仕打ちは、日本に来て以来、引き分け続きながら内容的には負け続けたイスマエルのプライドを幾分か満足させた。
「くくく、ははははッ!」
 狂ったように哄笑を上げるイスマエルの右手には、いつの間にか真新しいハチェットが握られていた。その刃を半ば陶然と見おろす。思えば、彼が己の欲望を満たすためだけに、純粋にそれだけのために、この"フルメタルハチェット・ゴア"を生成するのは随分と久しぶりのことだ。それは今までにないほどの輝きを放ち、イスマエルはしばし自らの術式の産物に心を奪われた。我が造形物はこれほどの美しさを持ち得るものであったか、と。
 そしてイスマエルは、それの機能を確かめるべく行動に移った。
 璃音の胸を踏みつけたまま、まずハチェットの先でその頭を転がし、喉の側を自分の方へ向ける。そして、ザックリと裂けている項に刃をあてがった。高ぶりに弾む息を抑え、イスマエルは両手で持った大鉈を頭の真上まで振りかぶった。
 そして―。
 肉と骨を圧し砕く音が何度も、闇に沈んだ空間に響いた。
 
 
5−
 蛍太郎が意識を取り戻したとき、視界は闇に閉ざされていた。それなので、蛍太郎は自分が目を開けているのかどうか、疑ったくらいである。少しして闇に慣れてくると、そこが通路であることが判った。身体の節々の痛みを堪えて立ち上がっても天井までは充分余裕があるから、それなりに広い通路である。工場で壁に開いていた穴に落ちて、それでここに居るという事は、ここは地下だと考えるのが妥当だろうか。とりあえず照明代わりにしようと携帯電話が入っている懐に手を入れるが、指先に何か尖ったものが刺さった。
「痛っ…、壊れちゃってるよ…」
 蛍太郎はガックリと肩を落とした。これでは照明が無いだけでなく、外部との連絡も取れない。璃音と一緒ならどんなところでも怖くはないが、この場所は独りで放り出されるにはあまりに心細い。
(困ったなぁ…璃音ちゃん、探してるだろうなぁ…)
 だが、しょぼくれていてもどうにもならないので、蛍太郎はとりあえず歩くことにした。
 何が起こるか判らないので、なるべく足音を殺しながら歩く。少しすると、進行方向に薄っすらと明かりが見えてきた。蛍太郎は、少し考えてからそこへと進む。目の前まで来ると、それがドアだと判った。明かりが漏れていたのは、上半分についている窓だ。耳をすまして物音がしないことを確認してから、蛍太郎は窓の中を覗き込んだ。
 そこに見えているのは、またしても通路である。無機質なコンクリートで覆われてはいるが、ところどころにゴミが落ちていて大学の地下研究室に比べれば幾分生活感がある。
 蛍太郎はしばし様子を見て人の気配が無いことを確認すると、灯りを頼りにポケットから携帯電話の残骸を掻き出して捨て、それからドアを開けた。一応顔を出して左右を確認するが誰もいないので、小さな声で、
「おじゃましますよ…」
 と、言ってから足を踏み入れた。とりあえず、気分で左へ歩いてみると、行く先にあるドアが半開きになっていて、そこから灯りと人の声が漏れていた。蛍太郎は忍足でドアに近づいて、様子を伺う。すると、聞き覚えのある男の叫び声が聞こえてきた。
「うぎゃー! なんで奴らがここにいるんじゃぁッ!! 手入れか、手入れなのかッ!?」
 モニターには、藤宮侑希音とミロスラフ夏藤の姿があった。続いて、
「大変ですブラーボ様! 上空をなんか飛んでます!」
 こちらも聞き覚えのある女の声。これで蛍太郎は、自分がどこにいるのか気づいた。
(ドクターブラーボの基地だったのか、ここは…)
 驚きの事実に、思わず身をかがめてしまう。顔見知り、といっても相手にはもう顔は無いが、ここにいるのがバレてしまったら一大事である。さっさとここを出ようと思案していると、部屋の中から聞き覚えの無い子供のような声がした。
「メタルカちゃん、またドクターの血圧が上がってるよ!」
「はいはい、クスリクスリっと…って、うそっ! 全部使っちゃった!? 取ってこなきゃっ」
 そして、バタバタと足音。拙いと思った蛍太郎が動くより早く、半開きのドアが蹴り開けられた。
 そこから飛び出してきた人間に対し、蛍太郎は笑ってごまかしながら、こう言うのが精一杯だった。
「ど、ども…こんばんわ。おじゃましてます…」
 程なく蛍太郎はドロイド兵に取り押さえられた。
 

 
 血だまりの中から"それ"を拾い上げて、イスマエルは満足気に微笑んだ。指にキシキシと絡まる髪の毛から滴る血は未だに生暖かく、僅かながら生命の残滓を感じさせた。ハチェットが充分すぎるほどの硬さと精度を持っていたゆえに切断面は比較的整っているのが不満といえば不満ではあるが、ほぼ十年ぶりに自らの欲求を為しえたことには充分に満足していた。
 すなわち、自らの作り出したハチェットで人間を解体すること。
 だが、今回に限っては少々事情が違う。
 いかなる理由によるかは判らないが、足元に転がっている少女の残骸は、この逃避行で日本に渡ってから二度にわたりイスマエルを痛めつけた女と同じニオイがする。例の女と恐らくは何らかの血縁があるであろうこの少女を辱めることで、イスマエルはその恨みへの代償行為にしようしていた。
 だが、ここで眼前の獲物に意識を没頭させてしまったのは明らかに彼のミスだ。既に迫っていた敵の気配を見逃してしまったのだから。
 鉈を放り出したイスマエルがコートを肩から滑らせた瞬間、鉛の雨が降り注ぐ。それはイスマエルの右腕を吹き飛ばし、手の中の物もろとも血だまりに落ちた。
 次なる攻撃の気配を察し、イスマエルは象徴機械スナッフ×スナッフを実体化させ、ハチェットを高く構えさせた。だが、弾丸は予測よりも早く届き、スナッフ×スナッフに防御行動をとらせた時には、イスマエルの左脚は原形を留めないほどに破壊されつくしていた。
「ふーん。半端ラッキーだねぇ」
 声のする方、天井には無数の穴が開いていた。その向こうに見える夜空に、風が無いのか止まったままの雲を背にし、マントをまとった神像と、その肩に立つ長い髪の女の影が浮かんでいた。女は蔵太亜沙美。そして、神像はアームズオペラに飛行用のシェル"ユニット・ディスコンテ"を装着したAO・ディスコンテだ。亜沙美は脚を失ったイスマエルを見おろすと冷たく笑う。そして象徴機械は、硝煙立ち昇る二丁のカービン銃をイスマエルに向けたままだ。
「貴様…」
 その眼差しに、イスマエルは切歯で応えた。脚の損傷など無かったかのようにすっくと直立すると、右手に握ったハチェットを掲げる。同時にスナッフ×スナッフが青白い光に包まれた。
「ウェイク! "ボディ・ファクトリー"!」
 その声と共に、吊られていた機械人形が電気でも流れたかのようにピクリと動く。顔面の中央を横に走る外部センサーと思しきスリットが鈍く光ると、同時にスナッフ×スナッフが光となって分解し、人形の内部に吸い込まれた。
 この機械人形こそ、スナッフ×スナッフのアディッショナルシェル、ボディ・ファクトリーだ。
 スナッフ×スナッフと合体しカーネルを得ることによって起動したボディ・ファクトリーは、イスマエルを肩に乗せると屋根を突き破り亜沙美が居る空へ跳躍した。
「ふん、そうか」
 亜沙美は、どこか楽しげに敵を見据えた。
「一つ聞いておくが、あの娘を殺したのはお前か?」
 その問いにイスマエルは、禍々しさすら漂う酷薄な笑みで答えた。
「無論だ。貴様も心置きなく引鉄を引け。そして、己の無力を思い知るが良い」
「言ったな小僧!」
 AO・ディスコンテの銃が火を噴く。莫大な量の鉛玉が撒き散らされるが、S×S・Bファクトリーは見た目とは裏腹の機敏さで全て回避する。その背後で、無人の建物に幾つもの弾痕が穿たれた。
「ふん…そんなものか。仲間をやられて集中できないか?」
 背後で崩れ落ちる煙突を一瞥し、イスマエルは冷笑を浮かべた。象徴機械のサイズに見合ったハチェットを実体化させるとボディ・ファクトリーの右手に持たせ、亜沙美に向かって直進する。だが、不意に後方からの衝撃を受けバランスを崩した。瞬時に、被害状況がイスマエルの脳に流れ込む。右脚部装甲損傷。深刻なダメージではないが無視できるほどでもない。原因は、十発のライフル弾によるものだ。
「これは…」
 イスマエルが状況を理解すると同時に、破壊された建造物から大量の銃弾が対空砲火のように吐き出され、イスマエル向けて殺到する。ボディ・ファクトリーはハチェットを盾代わりにしてこの攻撃を防いだ。カバーしきれなかった部分にはへこみや穴が大量に作られる。今回は凌いだが、これをあと一度受ければ無事では済まないだろう。
 その様を見て亜沙美は、AO・ディスコンテのカービンに新たな弾倉を装填させた。
「なかなか素早いようだが、残念だったな。私の魔弾は、念じた標的に必ず当たるのさ。そういうことになっているんだよ」
 そしてトリガーを引く。先ほどと同様、無数の弾丸が撒き散らされた。S×S・Bファクトリーは急加速でそれを回避する。だが、目標を外したはずの弾丸は自ら方向を変えイスマエルを追い続ける。
 荒れ狂う銃弾の嵐に、イスマエルは吼えた。
「なぁめるなぁぁぁぁぁぁッ!!」
 ボディ・ファクトリーの背中から二対の腕が生える。そして、計四本となった腕全てにハチェットが実体化し、握られた。イスマエルの象徴機械は四本のハチェットを巧みに操り、弾を叩き落とし、刀身の幅を利して弾き、八方からの銃撃を全て凌いで直進する。
「ははははは、どうだッ! 受けても止めても、当たりは当たりだ!」
「…ちいっ」
 亜沙美の舌打ちとともに、AO・ディスコンテの脚部装甲が展開した。ウェイト、凧でいえば足の役割を果たすこのパーツは真っ直ぐな棒状をしており、ウェポンベイの役割を果たす。今回は、内部に小型ミサイルを十五発づつ搭載していた。
「いけっ!」
 号令と共に、計三十発のミサイルが発射された。湯飲みほどの大きさのミサイルたちは一斉にボディ・ファクトリーの背中の腕に装備されたハチェットに直進する。それぞれに十五発分の衝撃を受け、二本のハチェットは弾き飛ばされ宙に飛んだ。
「次!」
 今度はAO・ディスコンテの脚部が分離、それ自体がミサイルとなった。目標は、残る二本のハチェットだ。イスマエルは、銃弾を腕でガードさせながら残されたハチェット二本をあらぬ方向へ放り投げた。そして直進。その横をミサイルが通過していく。背後で爆発が起こった時には、両者の距離は密着状態と言って差し支えないほどに接近していた。
「もらった!」
 ボディ・ファクトリーが両腕でパンチを繰り出した。AO・ディスコンテはカービンでそれを受ける。銃身が歪む。そして、ボディ・ファクトリーの脇腹から新たな腕が二対、ディスコンテの手首を掴み握りつぶし、さらに背中の腕で肩アーマーが歪むほど強く押さえつけた。相手の自由を完全に奪い、イスマエルはいかにも気分良さげに高笑いした。
「はははははは! そちらこそ残念だったなッ! 頭を使うのは結構だが、二度目の攻撃は私自身を狙うべきだったのではないかなァ〜?」
 だが意外にも、亜沙美は落ち着き払った態度で言った。
「そうでもない。お前が油断全開で近づいてくれるなら、それはそれで上々だよ」
「ほざけ!」
 叫んだ瞬間、Bファクトリーの四本の腕が宙に舞う。
「うええええッ…何でェッ!!」
 AO・ディスコンテの頭、胸部から上が消えていた。イスマエルは視線を上げた。その先に居たのは、光り輝く剣を振り下ろさんとするアームズオペラだった。
「ぬああああっさせるかぁッ!!」
 イスマエルはボディ・ファクトリーの残された腕にハチェットを形成し、それを受け止めた。宇宙一硬い金属で作られたハチェットの前にはアームズオペラの華奢な剣などガラスのように砕け散る…筈だった。だが、ありえないことが起こる。イスマエルのハチェットが、泥のように斬り裂かれたのだ。真ん中で分断されたハチェットが回転しながら虚空に消える。それを見送る間もなく、剣はイスマエルに迫る。もう片方の腕で手甲で受けを試みるが敵わず、ハチェットと同等の硬度を持つ拳はあっけなく粉砕された。
 イスマエルは本能的にバックステップを踏んだ。その直後、刃の切っ先が鼻を掠め、さっきまで立っていたBファクトリーの装甲を切り裂いた。
「何故だ!」
 イスマエルが叫ぶ。
「ゴアが…メタイリジウムが…こんなに簡単に…。宇宙一固いんだぞ! メタイリジウムは、メタイリジウムでしか…」
 最後の方は、混乱しているのか殆ど聞き取れなかったが、何が言いたかったのかは亜沙美でなくても容易に見当がつくだろう。宇宙一固い金属を壊すには、ダイヤモンドの研磨に工業用ダイヤモンドを用いるように同様の硬度を持つ物をぶつけるしかない。先程璃音がこれを折ってみせたのは、あくまで構造的に脆い箇所に強い衝撃を与えたからに過ぎない。Bファクトリー用のハチェットはそれに倍するサイズであり、そうそう破壊できるものでは無い。まして、刃物で切るなど不可能なはずだ。だが今、メタイリジウムの刃はあっけなく切り裂かれた。鋼で木板を叩き割るように。
 混乱の中にあるイスマエルを諭すように、穏やかな笑みさえ湛えて亜沙美は口を開いた。
「お前の武器は確かに硬いのだろうが、私の剣には関係ないんだよ。"クラウ・ソナス"はヒッグス粒子を光子に変換することで、物質の質量を破壊する。つまり我々が居る宇宙において、この剣で斬れない物など無いのさ」
 アームズオペラの剣"クラウ・ソナス"がより一層の輝きを放った。この輝きこそ剣の力の現れであり、周囲の空気が光に変換されているがための現象だ。神話の"不敗の剣"になぞらえられた剣は、その異名どおりに光明を放っていた。
「ははは、そうか…。破壊できない物質は無いときたか。だがな…」
 原因不明の現象でなければ恐れる必要などない。自らの能力への自負が、イスマエルに平静さを取り戻させた。
 魔術師という人種は己の理解を超えた現象を前にすると恐慌状態に陥る者が多いが、それでも一たび説明付けがなされると冷静にそれに臨めるようになる。自らの知性への自信が為せる業だ。逆に、魔術師の中にあっても真の知恵者・賢者などそうそう存在しないということの証明でもある。
「修復能力の存在を忘れてるだろ、お前はぁあ〜」
 勝ち誇ったような笑みを浮かべるイスマエル。その足元、裂けた装甲がひとりでに元に戻っていく。粉砕されたはずの片手も再構成されていた。
 象徴機械には標準で自己修復機能が備わっている。元来、意識下に刻まれた情報体である象徴機械は、破壊されても術者の魔力と精神力が続く限りは"元来の形状"へと自動的に再構成される。しかし、通常の物質で作られた後付装備であるアディッショナル・シェルではそうはいかない。他の物質がそうであるように、破壊されたなら修理してやらなければ元に戻ることは無いのだ。
 だが、魔術師たちは自らの作品にエントロピーの法則を克服せしめた。魔術によるポピュラーな身体回復手段に"時間逆行"というものがある。対象の時間を遡らせることで、破損前の状態に戻すという術だ。全宇宙の時間をどうこうすることは殆ど不可能だが、他者への影響が少ない範囲での時間操作ならある程度のクラスの魔術師なら可能である。この術を予めアディッショナル・シェルに仕込んでおくことで、自己修復機能を追加することができる。イスマエルのボディ・ファクトリーも、そうやって元の形状に戻ったのだ。
「…おっと。つい夢中になってしまって、私自身を修復するのを忘れていたよ」
 薄笑いと共に、イスマエル自身の右腕と左脚が衣服ごと修復される。その表情は先ほどのうろたえぶりが嘘のように、平静そのものだ。
「そしてッ、これでどぉだぁぁぁッ!」
 イスマエルは吼えた。
 それに呼応してボディ・ファクトリーの装甲が蠢き、跳ね上がる。危険を察知したアームズオペラがジャンプでディスコンテの上に戻った時には、イスマエルの象徴機械は更なる異形へと変化を遂げていた。胸部、腹部の装甲が観音開きのように展開し、そこから無数の細長い銀色の腕が現れる。それぞれ先端にはナイフやノコギリ、チェンソーに槍に刀に鎌、ハンマー、狼牙棒、戟、斧、灰皿、ゴルフクラブ、アメリカンクラッカー…などなど思いつく限りのあらゆる凶器が取り付けられており、勿論それぞれがメタイリジウム製というイスマエル渾身の逸品だ。
「ほう。"死体工場"とはよく言ったものだ」
 感心するような言葉とは裏腹に、亜沙美の顔はいかにも退屈そうだった。
 イスマエルが落ち着きを取り戻し、"不敗の剣"の攻略法を思いついてしまったことは事実。亜沙美が"クラウ・ソナス"を正体不明の剣のままで通していれば、ここでイスマエルを滅ぼせていたことだろう。だが魔術師たる者、己が術で圧倒した相手を前に、その秘奥を語らずにはいられない。世に潜むことを宿命付けられた魔術師たちが自己顕示欲を満たせる数少ない機会なのだから。加えて、イスマエルが現在の装備で可能な"クラウ・ソナス"への対処法など、亜沙美には簡単に予測できていた。そして案の定、完全に予想通りで意外性のまるで無い展開に、ただタメ息を吐いた。 
「やはり、物量で圧倒しようとするだろうね。お前の読みどおり、"クラウ・ソナス"は一振りのみ。コイツを二つ以上振るうにはメガクラスのシェルが必要となる。だが、そいつを召還し換装するには時間が足りないのは自明。
 …なるほど、こりゃピンチだ」
 主、イスマエルの咆哮に応え、ボディ・ファクトリーは凶器を振りかざし、突進した。
 亜沙美は目前の黒い暴風に動じる気配も無く、印を切った。するとアームズオペラの右腕に微細な光の粒子がまとわりつき、巨大な腕が装着された。次いで、頭上に光の球が現れる。アームズオペラは元の五倍のサイズに膨れ上がった右腕をその光の中に突っ込み、ゆっくりと引き抜く。現れた拳には、棒状のものが握り締められていた。
「いくぞ! アディッショナル・シェル"バローネ"!」
 アームズオペラは巨大な右腕を一気に振り下ろす。光の中から現れたのは、その手のサイズに見合った剣だ。このとき、ボディ・ファクトリーはまさにアームズオペラの眼前まで迫っていた。
「ぬわぁ! ちょっと待てちょっと待て! ズルイズルイズルイ…ッ!」
「"魔術は後出し有利"の原則を忘れるからだ。…アホめ」
 イスマエルの悲鳴など無視して、アームズオペラは光の剣を逆袈裟に叩きつけた。刃はいとも簡単に黒い装甲に吸い込まれ、殆ど抵抗無く進んで行く。そしてボディ・ファクトリーは満載の凶器ごと、あっけなく両断された。さらに返す体でイスマエルを肩口から分断した。
「アンギャーァァァァァァァァァァァ!!」
 アームズオペラは自らの身の丈を超える剣を軽やかに操り、舞うが如くに操り絶叫のワルツを奏でる。それは、ボディ・ファクトリーを完全に破壊しつくし、首を刎ねられたイスマエルが悲鳴を止めるまで続いた。
 いかに自己修復能力を持とうと、術者が破壊しつくされればそれも叶わない。相手の戦闘能力喪失を確認し、アームズオペラ・バローネは剣を納めた。直後、爆発。ボディ・ファクトリーは四散して消えた。
「ん…逃げたか」
 さして気にも留めない様子で亜沙美は呟いた。少しして、何かがこちらへ落ちて来る気配。しかもそれは、悲鳴を上げていた。
「うわ――――――――ッ!!」
 赤くて丸い物体が炎に巻かれながら落ちてくる。
「…なんだ、キモっ」
 亜沙美は、なんとも思わずにそれを避けてしまった。眼下の闇に吸い込まれるように落ちていくその物体を何となく見送っていた亜沙美だったが、少しして、それが何なのかに思い至った。
(えっと…見なかったことにしよう)
 それから、小破してはいるが充分に飛行能力を維持しているディスコンテを工場内に下ろす。さきほどイスマエルの象徴機械が開けた穴から中に入ると、いきなり強烈な血の臭いが亜沙美の鼻を突いた。だが眉一つ動かすことなく、床に降りて歩みを進めて血だまりの側に立ち、それを見おろした。
「うわ。これ、蛍太郎には見せない方が良いよなぁ…」
 亜沙美は初めて眉を顰めた。顔を伏せると、銀色の輝きが視界に入った。見ると、固まりかけた血で半分ほどが黒く変じてはいるが、それは紛れも無くメタイリジウムの大鉈だった。
 その、狂気の魔術師の望みを最も純粋に具現化した物体を拾い上げ、亜沙美は璃音のことなど忘れ去り心底嬉しそうに笑った。
 

 
 スキンヘッドにアイパッチ、そして軍服といういでたちの男が、草原に走る砂利道を原付バイクで疾駆していた。随分と機嫌が良いのか、鼻歌も軽い。
「オーレは少佐ぁ、クルツだぞぉー。少佐、少佐、少佐ーっ。
 (セリフ)"いけません、少佐…、なりませぬ、なりませぬぅーっ"
 いいのさいいのさー地獄の道をーぉーフラッシュバックゥー」
 誰あろう、ブラーボの腹心、クルツである。
 無痛手術という看板に偽りありな修羅場を潜り抜け、めでたく尿道結石の摘出を終えた男は職場に復帰すべく藍色の空の下を走る。視線の先にあるのは酉野工業団地である。その地下にあるのがクルツの職場、ブラーボ秘密基地だ。
 クルツは辛かった手術を思い返し、これも絶好の話の種になるとほくそ笑んでいた。特に、最近重用されている生意気なサイボーグ二人には効果的だろう。
「おめーらには結石ができるようなところは付いてねぇもんなぁ! ウケケケケ!」
 と、指差して笑ってやるつもりだ。その光景を想像すると笑いがこみ上げてくる。
 そんな風に、絶好調でスロットルを吹かしていると、急に目の前の空が明るくなり、爆発が起こった。
「なんだそりゃー!?」
 基地のそばで只ならぬ事が起きていることを目の当たりにし、クルツは叫んだ。
「ブラーボ様、今行きますよぉー!!」
 

 
 侑希音はミロと共に先行して工場跡に来ていた。
 仮にも隠密行動ということで、璃音たちが入ったのとは逆の方向、裏口に当たるところから侵入し慎重に歩みを進める。日が暮れたころ、頭上で起きた爆発に視線を上げた侑希音は、続いて、
「うわ――――――――ッ!! 助けてー!」
 という悲鳴を耳にした。
 見ると、炎に包まれた赤くて丸い物体が真逆さまに落ちてくる。ミロは当然の疑問を口にした。
「なんだ、ありゃ…」
 侑希音は思い当たる節が無いでもなかったので、駆け出した。
「あれ、落としたら拙いぞ!」
「落としたらったって、結構な勢いで落ちてくるし、かなり遠いぞ!」
 と、ミロ。普通に考えて、走って間に合う状況ではなかった。侑希音が象徴機械を起動させようとした、その時。落下物は不意に動きを止め、空中に停止した。それからゆっくりと降下を始め、下で待っていた黒コートの男の手に納まった。その男こそ誰あろう、Mr.グラヴィティである。
「すまない、遅くなった。別口で地底人が現れたものでな」
 グラヴィは小さく手を挙げて、そう言った。そして、先程キャッチした物体を差し出した。それは腹も無いのにかなりご立腹のようで、侑希音の顔を見るなり早口でまくし立てた。
「おい! オレが何でコイツに助けられなきゃいけないんだよ! 早くなんとかしてくれ!」
 バーナーの首は口から火を吐かんばかりの勢いだった。侑希音がポカンとしていると、グラヴィは首を持ったまま器用に肩をすくめた。
「おいおい、その言い草は無いだろ。私が居なければ、君は今頃潰れたトマトみたいになってたんだからな。まあ、元気そうで何よりだ。助けることができて良かったよ」
 だが、元気そうで、と言われた途端にバーナーの顔が青くなった。
「いや、そうでもねぇ…。死にそうになったから、ちょっと気が昂ぶっちまって…。俺を閉じ込めていたヤツが突然メタメタに壊されて爆発しちまってよ、誰がやりやがったのかは知らねぇが中にオレがいるなんてお構いなしさ。爆発の炎を吸収して少しは回復したけど、落ちるのをどうにかできるくらいのパワーにはならなかったんだ…」
「他の連中は?」
 侑希音が訊くと、バーナーは少し明るい顔で答えた。
「ボスとボルタが助け出したよ。無事かどうかはわからねぇけど…」
 しかし、すぐに勢いが萎む。何と言葉をかけようか一同困ってしまったが、唐突に、
「我々は無事だ」
 と、クーインの声がした。見ると、クーインだけでなくクイックゼファー、アクアダッシャー、マンビーフがそこに居た。
「バーナーの反応を辿ってきたのだ」
 そう言うと、クーインはバーナーの首を受け取りクイックゼファーに渡す。そして例によって多次元収納マントからバーナーの胴体を引っ張り出し、首を据えた。流石に五人目ともなると手馴れたもので、バーナーは二秒としないうちに元に戻った。
 バーナーは深呼吸して身体を伸ばし、しみじみと言った。
「ん〜、生き返ったぜ」
 それを安堵の面持ちで見ていたクーインだったが、
「気が済んだか? では、これを飲め」
 と、バーナーに栄養ドリンク一ケースとゼリー飲料三つを手渡した。
「なんだよ、これ」
 キョトンとしているバーナーに、クーインは厳しい眼差しを向けた。
「悪いが、我々は今すぐ戦わなければならない。残してきたボルタを助けるためにな」
 その言葉に、バーナーだけでなく侑希音も息を呑んだ。その侑希音に、クーインはさらに衝撃を与えた。
「お前の妹も、だ」
 

 
 亜沙美は一頻り笑った後、再び足元の血だまりに目を向けた。死体など、何ら感慨を感じなくなるほど見慣れている亜沙美だったが、この光景には背筋が寒くなる思いだった。かつて、この町に初めて来た時の記憶が甦り頭痛がしてくる。そのときと同じ感触が、既にこの場に満ちつつあった。
「さて、と。始まったようだし、さっさとトンズラするか。私がやったと思われてはかなわないからな」
 亜沙美は何事も無いかのように独り呟くと、アームズオペラに命じ、ユニット・ディスコンテの自己修復機能を作動させる。そして再び合体した象徴機械の肩に乗ろうと踵を返す。すると、突然轟音と共に壁が崩れ、そこから白銀に輝くハンマーを持ったビール腹の男が現れた。しかも、その肥えた身体の上にはブリキのロボットのような頭が乗っている。
「イスマエル、どこダ! マックスウェルが意趣返しにキタヨー!」
 男は、どこか作り物じみた声で叫んだ。亜沙美はその姿を見て、火でも付いたかのように大爆笑した。
「ははははははっ、なんだ、なんだそれ! うひ、ひーっ、腹イテェ! イイ格好だなぁ、おいっ! はーはっはっはっ!!」
 マックスウェルと呼ばれた男は、冗談や誇張で無しに本当に湯気を出して怒る。
「むきー! ボクだって、好きでこんなビア樽ボディに乗ってるんじゃないモン! 任務だから仕方ナインダモン!」
「ああ、ワリィワリィ。なんていうんだ、お前は」
 亜沙美は目の端に溜まった涙を指で拭きながら訊いた。
「ボクは、通称ロボヘッドです。首を無くしたマックスウェルさんを動かすために作られたんです。臨時の頭といったところでしょうか」
「臨時か。元よりそっちがマトモな顔だと思うぞ。ヤツのガキの頃を見たことがあるが、当時でさえなかなかのもんだったからな」
 そう言って、しきりに頷く亜沙美。だが、不意に真面目な顔を作って言った。
「で、どうしてここへ来た?」
「それは、センサーが大きな魔力源を探知したカラデス。それが巨大すぎるのか、そばに貴方が居たことは判りませんデシタが」
 ロボヘッド・マックスウェルの答えに、亜沙美は頷いた。
「なるほど、魔力ね。確かにそうだ」
 その魔力源の発生こそが亜沙美の感じているものであり、その大きさは肌を刺すような感触を以って彼女の神経を圧迫していた。
「…では、早くここを離れた方が良いな」
 だが当然、ロボヘッドは反発する。
「どうしてデスカ! 魔力源の存在こそ、イスマエルがいるということにホカナリマセン!」
「いや、それはだな…」
 面倒ながら説明してやろうと亜沙美は一歩踏み出し口を開きかける。だが、それは驚きの声に変わった。
 まさに虚空、頭上の何も無い空間から鈍色をした金属製の杭が打ち下ろされたのだ。一本は
つい先程まで亜沙美が居た床に突き立ち、もう一本はユニット・ディスコンテの腹をブチ抜いていた。
「な…ッ!?」
 亜沙美は絶句した。緊急回避プログラムにしたがって離脱していたアームズオペラに損傷はなかったが、ディスコンテは大破してしまい使えそうも無い。それよりも衝撃的だったのは、この杭の持ち主の気配を全く感じなかったことだ。だがロボヘッドは、
「ほら、ボクの言った通りじゃナイデスカ!」
 と、毒づいてハンマーを構えていた。
 そうしている間にも二本の杭は姿を消し、代わりに全高二十メートルほどのひょろりとした痩躯の黒い巨人が現れた。その巨人は、イスマエルの声で高らかに笑う。
「ふはははははっ! これぞ我が切り札、メガクラスシェル"インヴィジブル・テラー"だ!! さっきとは文字通り、桁が違うぞ!」
 巨体なだけあって、内部にイスマエルを収容するスペースがあるようだ。その威容に、呆気にとられるロボヘッド。
「デカい…どうりで巨大な魔力を感じるワケダ…」
 亜沙美は、ブリキの後頭部を思い切り殴りつけて、叫んだ。
「違うってんだろ! お前のセンサーはポンコツか!」
 そしてさらに、イスマエルの巨人に向かって声を張り上げる。
「イスマエル! シェル自慢は結構だがな、早いところここを離れるんだ! この、デカい魔力を感じないのか!?」
 だがそれを、イスマエルは一笑に付した。
「何を言うか。それは貴様ら二人の魔力だろう」
 ある意味では予想通りの答えだったが、亜沙美は怒鳴らずにはいられなかった。
「くぅッ! この判らず屋どもめ!!」
 それから、くるりと踵を返す。
「私は知らん! お前らだけで勝手にやってりゃイイだろう!」
 だが、地を揺るがす轟音と共に、亜沙美の目の前に杭が打ち下ろされた。イスマエルが笑う。
「おいおい、もう少し付き合ったらどうだ…」
 見ると、コンクリートを穿っていた杭はひとりでにそこから引き抜かれ、頭上の何も無い空間に吸い込まれるように消えていく。それを、亜沙美は歯軋りして見送った。そして、
「…蔵太亜沙美だ」
 と、低いがよく通る声で名乗った。
「何!?」
 言葉に詰まるイスマエル。亜沙美はさらに続ける。
「私の名だ。名も知らぬ相手に殺されたのでは浮かばれまい!」
 だが、イスマエルの反応は亜沙美が思っていたものとは違っていた。
「そうか、蔵太か。では、蔵太文庫の継承者は貴様か?」
 それを聞き、亜沙美は目を丸くして、それから頷いた。
「ああ、なるほど。それは言ってなかったっけな。だからなんだ。私を殺して奪い取ろうってのか?」
「そのとおり!」
 よほどインヴィジブル・テラーに自信があるのか、イスマエルの声は笑い出したいのを堪えているように聞こえた。その侮辱的な響きに、亜沙美はついにキレた。
「いいだろう、やってみろ!」
 そして、待機してたアームズオペラに指令を送る。
「起動! アディッショナル・シェル、"コンテ"!」
 アームズオペラの背後に光の奔流が巻き起こり、その中から全高十メートルほどの構造物が現れた。脚の無い、人の上半身に似た形をしており、太い腕と同じくらいに大きな肩当てが三対、その本体を覆うように取り付けられている。その肩当てには、人の頭ほどの大きさの宝玉が計三十六個取り付けられていた。光と化したアームズオペラを内部に飲み込むと、AO・コンテはヘビの鎌首にも似た頭をもたげ、両目を爛と輝かせた。
 亜沙美はコンテの肩当ての間に潜りこみ掌に乗ると、
「いくぞ!」
 と、高度を上げさせる。AO・コンテは外観上推進機関などは無いにも関わらず、スルスルと宙へ舞った。それを見送りながら、ロボヘッドは叫んだ。
「あの、ボクはどうすれば!」
 それに、亜沙美は面倒くさそうに答える。
「ああ? お前もシェルを呼ぶなりなんなりしろよ」
 だが、それに対するロボヘッドの回答は実に頼りないものだった。
「ボクにはそこまでの権限は無いんです!」
 亜沙美は堪りかねて、叫んだ。
「知るか! じゃあ、マックスウェルの首でも探せ! その辺に落ちてんじゃないのかッ!!」
 これで亜沙美に出来た隙を見逃さず、宇宙金属の杭、ツームストーン・パイルがAO・コンテを掠める。見ると、その杭はインヴィジブルテラーの掌の真ん中から伸びていた。それはすぐに引っ込み、巨人の下腕内部全体に収まった。AO・コンテは回避行動の勢いで工場の壁に突っ込み柱を何本も圧し折り、そのため建物全体が倒壊した。
「そういうギミックかよ」
 亜沙美が呻く、イスマエルは高らかに笑った。
「ははは! いいのか、そんな情け無いシェルで。しかも油断しすぎではないのか? ふははははははッ!!」
 

 
 工業団地の敷地に足を踏み入れたクルツは、夜空に浮かぶ二つの影を呆然と眺めていた。
「宇宙人だ…」
 確かに、インヴィジブル・テラーのシルエットはグレイタイプの宇宙人に似ていなくもない。
「どうしよう、逃げようかな…」
 先程までの威勢のよさはどこへやら、クルツはすっかり項垂れていた。
 

 
「ミクナ・セニス・マジカ・コリニ・サモネ・カテセ・ヒネカ! 我、神速の騎士とならん!」
 バーナーの無事を見届けた侑希音は姿を変じ、凄まじいスピードで駆けた。
 藤宮侑希音の象徴機械、ダンシングクイーンにはアディッショナル・シェルは存在しない。追加装備を施せば重量が増しスピードが低下するし、消音性が損なわれてしまう。かといってスピードを上げてもイスマエルに見抜かれた欠点があるため意味が無い。なまじ最初から高性能なだけに、拡張が難しい物に仕上がってしまっていた。
 そこで侑希音は自らの身をシェルの代わりにすることを思いついた。
 半神家系たる藤宮家の者には、自らのパワーを出力するための"回路"が意識とか魂とか呼ばれる物の中に備わっている。侑希音はダンシングクイーンのカーネルをその部分に上乗せし、象徴機械が持つ力を自らの能力に追加する術を生み出した。武具として機能する象徴機械は数あれど、こういった形でブースターとなるタイプは例が少なく、魔術師協会にあっても稀な存在である。
 この形態はダンシングクイーンUと呼ばれ、魔力の強化以外にも侑希音の身体に変化を与える。まず、肌を含め衣装が変わる。これは、ダンシングクイーンと同等の硬度を持つ装甲である。軽量化を旨としているため他の象徴機械に比べたら大した硬度ではないが、それでも平均的な耐弾・防弾装備に匹敵するだけの強さを備えている。そして最も大きな変化は、頭部に起こる。髪が伸び、顔つきが変わるのだ。これは一種の先祖がえりらしく、藤宮式子の面影に良く似ている。
 能力的には、ダンシングクイーンの高速無音移動に加え、侑希音自身がもとから持っている"ミス・パーフェクト"をそのまま使うことが出来る。さらに魔力をつぎ込むことで身体能力を強化しており、単純な近接戦闘力ならば妹二人を軽く凌駕する程である。二度もイスマエルを獲り逃したのは、捕獲というノルマが足枷になったからに他ならない。
 侑希音の行く先は瓦礫の山となっているが、巧みな身のこなしでスピードを落とすことなく進んだ。後から来たクイックゼファーが追いついてきて併走する。小さく口笛を吹いてから、クイックゼファーはいつものように軽口を利いた。 
「スゲェな。オレよりちょっとだけ遅いくらいだぜ」
 侑希音が無言だったので、クイックゼファーはさらに続けた。
「で、どこ行くんだ?」
 侑希音は顎で行く先を指した。それは丁度、インヴィジブル・テラーの足元だった。
「げーッ! マジ?」
「お前らのボスが言うには、あの場所だ」
 と、侑希音は事も無げに言う。クイックゼファーは深々とタメ息を付いて、しかし足は止めなかった。
「オッケー。なあに、こっちは素早いんだ。あんなのに踏まれてたまるかよ!」
 
 眼下に侑希音が居るのをレーダーで察知した亜沙美は、ガラにもなくイスマエルをこの場所から引き離そうと考えた。工場跡はもうとっくに崩れ去ってしまっていたが、真上にインヴィジブル・テラーが居るのではやりにくいだろう。いずれにせよ、攻撃を仕掛ければ相手は移動せざるを得ないのだから、あとは上手くやるだけだ。
「ソード・サテライト起動ッ! 三十六剣陣!!」
 亜沙美の指令により、AO・ディスコンテの肩アーマーに埋め込まれていた宝玉が分離し、宙に浮かんだ。それぞれ正八面体をしていて水平方向時計回りに回転している。そして回転を早めると共に光を放ち、やがて剣の形をした発光体へと変化した。合計三十六本の剣がAO・ディスコンテの周囲を旋回する。
「行けっ!」
 剣はそれぞれ独立して宙を舞い、イスマエルの象徴機械めがけて殺到する。ひとつは、鉄塔を紙細工か何かのように切り裂き、インヴィジブル・テラーの足元を掠めた。イスマエルは飛び込んできた被害報告を見て目を見開いた。Bファクトリー同様、インヴィジブル・テラーの外装もメタイリジウム製だが、それがザックリと切り裂かれていた。この飛剣はクラウ・ソナスと同じ能力を持っているのだ。
「ちっ!」 
 インヴィジブル・テラーは身を捻り、残りの剣を避ける。五本回避したところで、インヴィジブル・テラーはかき消すように姿を消えた。目標を失った剣がそのまま空を斬る。亜沙美はセンサーの情報を頭に直接受信したが、イスマエルの象徴機械らしい影は見当たらなかった。
(ステルスか…。そういえばヤツは、結界術も巧みだったな)
 亜沙美は飛剣を全て呼び戻し自機の周囲に待機させた。
(姿を消したって、存在まで消えているわけじゃない!)
 
 亜沙美が動いた甲斐あって、侑希音たちの目的地はクリアになった。もうすっかり瓦礫の山になってしまったその場所で、侑希音とクイックゼファーは叫ぶ。
「璃音! 蛍太郎君!」
「ボルターッ!!」
 その声に反応して、瓦礫の一角から弱々しいスパークが跳んだ。
「おい、あれ…!」
 さっそくクイックゼファーが駆け寄って、物凄いスピードで瓦礫を撤去した。そこから掘り出されたのは、金属つぶてを全身に受けて無残な姿になったボルタだった。クイックゼファーは悲鳴のような声を上げた。
「大変だ、来てくれ!」
 侑希音が駆けつけると、クイックゼファーはボルタを抱きかかえて今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「見せてみろ」
 膝をつき、脈を診る侑希音。見た目の割には脈もしっかりしているし呼吸もある。つぶてが当たる瞬間にとっさにプラズマのシールドを張ったお陰で致命傷だけは免れたのである。
「大丈夫なのかよ…」
 侑希音は深く頷いた。
「安心しろ。命に別状は無い」
 そして、ボルタの胸に掌を当て、呟く。
「治癒術式、最大加速…」
 この形態の侑希音は魔術の処理速度を加速することも出来る。十秒ほどでボルタは元の姿へと修復された。
「よし。けど、体力までは戻らないから早くドリンク剤でも飲ませてやりな」
 痛みから解放されたボルタは薄っすらと目を開け、呻く。
「おまえ、来てくれたんだな」
 クイックゼファーは仲間の肩を抱いて、泣いた。
「あたりまえだろ! ボスたちもすぐに来る!」
「そうか…」
 それからボルタは侑希音の方を向く。
「まだ人が居るんだ。あの子はオレよりずっと強いから大丈夫だと思うけど…」
 侑希音は頷くと、足元に視線をめぐらせた。
(どこ、璃音…)
 焦りだした侑希音の後ろで、不意に瓦礫が弾け跳んだ。振り向くと、ロボヘッド・マックスウェルが這い出てきたところだった。
「うう…酷い目にあった」
 その風体があまりに奇妙なので、侑希音は問わずにはいられなかった。
「お前、マックスウェル…なのか?」
「正確に言うと代理のものです、ハイ」
「そっか…頭無くしたんだもんな。でも、そっちの方が可愛いぞ、なんか」
 思わず状況を忘れてしまった侑希音だったが、すぐに我に帰る。
「そうだお前、私の妹を見なかったか? それと、妹の婿と!」
 マックスウェルはブリキの頭を傾げて言った。
「うーん、見てないなぁ…。その辺に埋まってるバラバラ死体がそうだったのかもしれないけど…」
「なんだと!」
 侑希音はマックスウェルの首根っこを吊り上げた。突然のことに、マックスウェルは悲鳴を上げる。
「アア待って! 首取れル、取れチャウ!」
 侑希音の手から逃れ、マックスウェルは呻くように言った。
「よく見てないから判らナイヨ…。とにかく、掘ってミヨウ…」
 ボルタを除く三人は重い足取りでその場所へ向かった。すると、そこの瓦礫の隙間から赤い光が漏れ出した。
 その光には散々痛めつけられてきたクイックゼファーが叫ぶ。
「おい、あれって…!」
 侑希音も目を見開いた。
「璃音! …だけど、様子がおかしい…」
 そう呟く侑希音の姿も、赤い光を浴びるたびにノイズが入ったかのように不確かなものになっていった。
 
 AO・ディスコンテの周囲に展開した飛剣は各々回転を始め、壁のように本体を覆いつくした。これで、たとえイスマエルの象徴機械の姿が見えなかろうと接近すれば剣の餌食になる。剣陣はバリアとしても機能するので、飛び道具でも凌ぐことは出来る。むしろ不安要素は別にある。それはアームズオペラの出力が不安定になりつつあることだ。実際、飛剣のいくつかは切れかけの蛍光灯のように明滅し始めた物もあった。
「まずいな、プロセスへの干渉が始まった」
 だが今は目の前の相手に集中するだけだ。この場にいる限り、どちらも状況は同じなのだから。
 亜沙美は全ての神経とセンサーを集中させ、イスマエルの攻撃が始まるのを待った。
 永遠とも思えるような、しかし一瞬ののち。
 虚空より鈍色の杭が現れた。そこは、亜沙美が敷いた剣陣の内側だった。
「な!」
 それを回避し得たのは、亜沙美の実戦経験の賜物だろう。とっさにAO・コンテの機体を傾け、右肩部を犠牲に機体中央部への直撃を免れた。だが亜沙美の象徴機械はバランスを失い墜落した。遅れて、光を失った飛剣が宝玉に戻り相次いで落下する。
 イスマエルの象徴機械は空中に悠然と姿を現すと、右手から出した杭をサーベルに見立てフェンシングの構えのようなポーズを取る。さらに術者の哄笑が木霊した。
「ふははは! 見誤ったな蔵太亜沙美! 貴様の前に、まずはその象徴機械を解体してくれる!」
 杭を突き出したまま、インヴィジルブル・テラーは横たわるAO・コンテに向かって加速した。
「ちっ」
 亜沙美が舌打ちをした、その時。遂に異変は起きた。周囲が赤い光に包まれ、AO・コンテの魔力が吹き飛ぶように消えた。亜沙美は既にカーネルの実体化を解除していたが、インヴィジブル・テラーは空中で動きを止め、推力を失い落下した。
 イスマエルが叫ぶ。
「何が起こった!」
 機体状況の報告では、象徴機械のカーネルが不安定になり、さらにシェルに巡る魔力にも伝達不良が起きていた。外を見ると、先程の少女を殺した建物の跡から赤い光の発生源と思える。この現象が起きると同時に異常が発生したのだから、この影響と考えるのが妥当だろう。
 うろたえているイスマエルに、亜沙美は苛立ち紛れに叫んだ。
「ほらみろ、動力干渉が始まったぞ! それが、あの小娘の真の力だ。こうなったら最後、我々魔術師では…」
 だが、その言葉は届かなかった。イスマエルにも余裕が無い。
「クソッ…何だというのだ!」
 イスマエルは現状で使えるエネルギーを全て投入し、インヴィジブル・テラーの姿を消した。
「ちっ…聞いちゃいねぇ」
 亜沙美は毒づきながらも、イスマエルの象徴機械が消えた付近を凝視していた。今、象徴機械への動力干渉が起こっている状況では、その影響で機能を失い、すぐに姿を現すはずである。だが、十秒経ってもその気配は無い。
(どうしたというんだ、これは…)
 今までにイスマエルが起こした現象を頭の中で再確認したとき、亜沙美は一つの結論へ辿り着いた。
「拙い、逃げろ!」
 声が届くかなどと考える余裕もなく、亜沙美は叫んでいた。
 
 侑希音は光が強くなる前に元の姿に戻っていた。亜沙美もそうだが、侑希音がこの現象を見るのはこれが初めてではない。その時と照らし合わせると、これの意味するところは璃音の身が危険に晒されているということだ。侑希音は璃音を掘り出そうと、瓦礫に手をかけた。すると、
「消えろ!」
 イスマエルの声が響く。両手から杭を突き出したインヴィジブル・テラーがすぐ頭上に迫っていた。杭での攻撃というよりは、機体の全重量を持ってここを押し潰すつもりだ。
「やべっ!」
 走り出そうとしたクイックゼファーはボルタに肩を貸していたのが災いし、足を取られ転倒する。
 侑希音は終わりを悟った。
 だが、信じられない事が起こる。インヴィジブル・テラーが空中で停止したのだ。杭の先は光の発生源に向いているが、そこに人影が見える。巨大な象徴機械は、その者の指先ひとつで止められていた。しかもそれは、たった一人の女だった。
「今度は何だ!?」
 悲鳴に近い声を上げるイスマエル。動力干渉の影響で推力を使えないので、今の攻撃は自由落下によるものだ。それにしても、総重量で三十トンを越える巨大な物体が落下しているのである。人間の指先で止められるモノではない。そいつは長い黒髪をなびかせ、白い肌と赤い瞳、つり眼がちな整った顔立ちはダンシングクイーンUとなった侑希音に似ていた。だが背はそこまで高くはなく、白と紫の和服をまとっている。それ以上に異なるのは、彼女が発する禍々しい気配だ。平然と笑みを湛えた表情とは裏腹に、いかなる猛者でも肝を潰すに違いない、激しい威圧感が溢れていた。
 現にイスマエルは言葉を失い、目の前の存在に名を質すことさえ忘れていた。直後、大きな揺れがイスマエルを襲う。いつの間にか視界が逆転し夜空が見える。インヴィジブル・テラーは宙を舞い、工業団地の端を飛び越え海に落下した。
 その光景を呆然と眺めていた侑希音は、掠れた声で呟いた。
「式子、さん…?」
 
 
6−
 三年前、雨に煙る酉野。
 冷たく降りしきる水の粒は、しかし藤宮屋敷の周囲だけは例外に生暖かかった。その原因は、半壊した屋敷に片足をかけ仁王立ちする高熱源体の存在だ。全高は十メートル弱だろうか。人型をしてはいるが六本の腕を具えた異形の姿だ。腕には雌雄一対の剣、双戟、ガトリングガンを構え、武器を持っていない掌には赤と黒の衣装をまとった長い髪の女が立っていた。雨に濡れた黒髪が、白磁のような肌と血を塗ったように赤い唇を際立たせ、この女の美貌をひどく爛れたものにしていた。そして、黄金の双眸は一人の少女を見おろしていた。
「娘よ。命が惜しくば退くのだな。私は何も獲って食おうという気は無いのだ。ただ、こちらの条件を飲んでくれればそれで良い。その証拠にほら、侑希音といったか。お前の姉は生かしておいているだろう?」
 少女の背後には、血に塗れた女が倒れていた。そして、それにすがりついて泣くもう一人の、髪の長い少女。
 少女は振り向いて、それからまた赤と黒の女を睨みつけた。姉を傷つけ、泣かせる魔女に投げかけるピジョンブラットの眼差しは、怒りに震えていた。
「やれやれ、これだからガキは嫌いなんだよ。もういい、消えろ」
 その一言と共に白く飛んだ少女の意識が元の色を取り戻したのは、一瞬ののちなのか数刻を経ていたのか、その時は判らなかった。その目の前に、残骸となって横たわる異形の機械。武具は砕け歪み、千切れた腕ともどもそこらに散乱している。胴には風穴が開き、オイルや水銀が血のように流れ落ちていた。
 視線を落とすと、足元にはドロリとした赤い液体が広がっていた。その中に、蔵太亜沙美の上半身が、壊れた人形のように―。
 絶叫は、強まった雨脚にかき消されること無く、辺りを切り裂いた。
 
 目を覚ました璃音は、見慣れない部屋のベッドの中にいた。
 この部屋には今まさに乗っているベッド以外に調度品は無いが、丸太を組んで作られた床と天井が目を引き殺風景な印象は与えない。身を起して窓の向こうに目を向けると、そこに在ったのは璃音の知らない景色だった。高原の小さな村といった風情だろうか。外は斜面のようで空は見えないが、広い白樺林の間に転々とログハウスが覗いているのが判る。今、璃音が居るのもその一つなのだろう。だからといって、ここがどこかの山の中であることが判っただけで、さして意味があることでもない。何故なら、どうして自分がここに居るのか判らないからである。
 工場跡でイスマエルを殴り倒したあと、璃音の意識は途絶えた。普通に考えればそれからここに運びこまれたことになる。シーツに包まった身体は裸だが、何かされた形跡は無いので一安心ではある。もっとも、これから何かする気なのかも知れないが…。
 そういうわけで、璃音は全くワケもわからないまま知らない土地の誰の物か判らない家のベッドに裸で転がされているという困った現状を認識した。
 この家の主の氏素性を知らない以上、ここに黙って寝ているのは得策ではないだろう。幸いにも、拘束されているわけでもなく怪我をしているわけでもない。璃音はシーツ適当に身体に巻きつけてから足が出る様に裾を結んで服代わりにし、部屋から出ようとドアノブに手をかけた。だが案の定、鍵がかかっていて動かない。
「開かないんじゃしょうがないか。壊しちゃうよ」
 意識を集中すると璃音の身体が赤い光に包まれ力が漲る。拳をドアに向かって振おろす。それに合わせるように、鍵の開く音。
 そして、勢い良くドアが開け放たれた。
 空を切った拳は、そこにいた白い、大型犬ほどの耳の尖った獣に直撃した…ように見えた。獣が白い光を放つ。すると、璃音は金縛りにでもあったようにその場で停止、獣の鼻先で動かなくなってしまった。そして少し離れたところから、声がした。 
「こら! 壊すな」
 獣の背後から現れたのは長い黒髪の女だ。身長は璃音より少し高いくらい。白い肌と端整な美貌に真紅の瞳が良く映えていた。
「あ…。式子さん」
 璃音はエンハンサーを収めると、目を丸くして目の前の女の名を呼んだ。
「『あ…』じゃないよ。この家は借り物なんだからさ、壊すでない。今は直せないんじゃからな。…ったく、その大雑把な性格は早う直せ言うておろうが。ま、あまり要領良くなられても可愛げが無い気もするがな」
 藤宮式子と呼ばれた女は腕組みして口を尖らせた。今日は白いワンピースを着ているが、このポーズだと胸元が良く目立つ。それを見て、璃音はほくそ笑んだ。
「普段は着物だから判らなかったけど…そっちでは軽く追い抜いたね」
「…喧しいぞ。それが先祖への態度か」
「はーい、ごめんなさーい」
 柳眉を揃って四十度吊り上げた式子に、特に悪いと思うでもなく笑顔で謝る璃音。式子の方も本気で怒っているわけではないので、すぐに表情を柔らかい物に変えた。そのときには、白い獣はいずこかへ消えていた。
「それより、元気そうで何よりじゃ。まあ、殺されて元気も無いがのう」
 式子は事も無げに言うが、璃音の反応も似たようなものだった。
「え? わたし、死んじゃったの?」
「そうじゃ。後ろから鉈を投げつけられて首の骨を折られ、一発即死よ。そのあとバラバラにされた挙句、死体を犯されるところだったんじゃ。ああ、恐ろしいのう」
 そこまで聞いて、流石に璃音は顔を青くした。
「うそっ! ホントに!?」
「安心せい、未遂じゃ。いくらなんでもそこまでされそうになったら、私が介入するわい。っていうか、まさに今、してるんじゃが…」
「えーっ!? わたし、犯されそうなの?」
 式子は肩をすくめた。
「いやいや、それはもう無い。それに、介入といっても大したこともして無いしの。
 因みにここは五次元宇宙。お主らの宇宙に介入するなら、この次元まで降りても充分じゃからな。使う力は必要最小限に留めておかぬと、連続体が煩いでのう」
 そう言って、式子はカラカラと笑った。
 この藤宮式子という女は、元々地球からはるか離れた宇宙から来た存在だ。彼女が乗ってきた船は藤宮家によって"御柱"として祀られ続け、今でも神社にに安置されている。さらに長い年月を経て多次人の仲間入りをした式子は人智を超えた力をいとも簡単に振るってみせる。それは神通力を通り越した威神力であり、璃音たちのパワーも彼女に比べれば遊びのような物だ。インヴィジブル・テラーを指一本で投げ飛ばしたのも、大したことではない。
「ああ、そうか。助けてくれたんだ。ありがとう、式子さん」
 璃音は上目遣いでちょこんと頭を下げる。式子は照れたのか妙に早口で言った。
「良いのじゃ良いのじゃ。大したことなぞしておらんのだ。物質世界での器を無くしてアストラル界に飛ばされたお主をこっちに引っ張りこんだだけじゃ。別に、"藤宮璃音"という人間の生き死にには全然干渉しておらんのじゃからな」
「よく判らないけど、何だか凄いことをされた気がする」
 ポカンとしている璃音に、式子は苦笑混じりで言った。
「さすがに、私も人の生死には介入できぬ。ま、生きてるったって、今は豪い事になっとるがのう。早いところ蓋をしないと、いつぞやのようにパワー駄々流し状態じゃ。それに、これ以上死んでると私に近づいてしまうでな。あとニ、三回が限度じゃというに、その一回をここで使うワケにもいかんじゃろ。そういうわけじゃから、蘇生後に時間を逆行させて治療しといてやったぞ。もし、今すぐこっちに来たいなら話は止めておくが、人間をやめる気は無いのじゃろ?」
「うん。けーちゃんの子供、産みたいもん…」
 璃音が俯いて黙り込んでしまったので、式子は彼女の手をとって部屋から引っ張り出した。
「よし、気分転換に少々外を歩うぞ」
 カラカラと笑いながら、そんなことを言う。璃音は必死で抵抗した。
「待って待って!」
「ぬう、なんなんじゃ」
 今度は、式子が口を尖らせた。
「外に行く前に服着せてよ。今の式子さんって、そのドアは直せなくても、わたしの服を出すくらい簡単にできるんだよね?」
 その言葉に、式子は嬉しさ全開といった様相で頷くと、璃音の頭をグリグリと撫でた。その様は、子どもを褒める母親を思わせた。
 
 璃音の前に広がる空と山は見事なまでに青く、樹木は鮮やかな緑色をしていた。次元が違っても地球型惑星の形態は変わらないということだろう。高い樹ばかりがのため下草が殆ど生えていない森の中を、璃音は式子に手を引かれ歩いていた。
「ねえ式子さん。この服、何?」
 璃音は、先ほど着せてもらった衣服を指して言った。肩を出した白いタイトなワンピースの上に、同色の手がすっぽり隠れるほど袖の広いジャケットを羽織っている。ジャケットの丈は胸があたりまでなのでスカート丈が短いのが良く目立つ。どちらも前開きになっており、地球の衣服ならファスナーを使うところがどのような仕組みで固定されているのかさっぱり判らない。その部分と、襟と裾がアクセントとして黒く縁取りされていて、それに白い厚底ブーツと黒いガーターストッキング。これは式子のパワーによって作り出された物で、式子が指を弾くと、手品のように何も無い虚空から「ポン」と服が現れる様は璃音を大いに驚かせた。
「ん? 元は、私が着てた王族の服じゃ。お主のの趣味に合わせてスカート短くしたり飾り外したりとかアレンジしたがの。他では絶対に手に入らないレア物だから、ありがたく受け取るように」
「うん、ありがと。普段着にするのは無理っぽいけど、可愛いね」
 璃音は礼に率直な感想を付けた。それに式子は笑いながら応えた。
「ああ、やはりか? とにかく、お主の記憶にレシピを入れておくから、必要になったら使うがよい」
「うん」
 そのまましばらく歩くと森が開け、見晴らしの良い高台にでる。突き抜けるような青空と、地平線まで続く緑が眩いばかりの輝きを誇っていた。
「うわぁ。すっごいなぁ」
 思わず感嘆の声を上げる璃音。その横で式子は、地平線を眺めながら言った。
「ま、ゆっきりしていけ。時間はたっぷりあるからの」
「たっぷりねぇ。式子さんには時間も空間も関係ないんだっけ。理屈では判ってても、やっぱり落ち着かないよ。けーちゃん大丈夫かなぁ…」
 目の前の景色に感激してみても、そのことが頭を離れることはやはり無く、璃音は目を伏せてしまう。式子はその肩を抱いた。
「ちゃんと帰してあげるから、心配するでない。トリックスターとして本当のところを言うと、ギリギリの土壇場に辿りつくようにする方が面白いのじゃが、誰もお主のことなんて心配しておらんじゃろうから、勿体ぶっても無意味じゃからな」
「やっぱりそうかなぁ…みんな冷たいね」
「そういうわけだから、なにか訊きたいことがあったら言うてみるがよいぞ」
「んー、改めてそう言われると…。あ、そうだ。ウチのご先祖って白い狐だったって言い伝えられてるけど、式子さんってお稲荷さんなの? っていうか、宇宙狐?」
「うーん、合ってるような違うような…。よし。この機会だ、順繰りに身の上話でも聴かせてやろうかのう」
 
 今とは違う名を名乗っていたが、式子が地球に来たのは実に一万年以上前のことだ。
 サナートゥ星の王族だった彼女は兄妹と一緒に滅亡した国を脱出したが、兄とははぐれ、同じ船に乗っていた幼い妹は長旅に耐え切れず地球に着いたときには亡くなっていた。完全に独りきりになってしまった式子だが、生まれつきの超能力と宇宙船で持ち込んだオーバーテクノロジーを武器に逞しく世を渡ったのは間違いないだろう。
 それからしばらくして現在の文明が始まり、式子が持ち込んだオーバーテクノロジーの一部が魔術となって流布していくが、当の本人は休眠状態に入り長いこと活動を停止、一般的な物言いをすれば、その時の式子は死んでいた。そして休眠明け、いや"復活"後と言った方が適切だろうか。活動を再開した式子は既に四次元宇宙の常識から外れた存在、神性とか魔性とか呼ばれる域に達していた。
 そんな式子が日本を訪れたのは今から千二百年ほど前のことらしい。
 彼女が操るアヴァターラは強大な力を持つだけでなく、意識体を喰らい吸収し、その能力を己が物とすることから"鬼喰<おにばみ>"と呼ばれていた。その白く輝くその姿が狐によく似ていたため、式子は狐の魔性として恐れられることになる。実のところ、アヴァターラのモデルはサナートゥ星の生物なので狐ではないのだが、形状・生態共に地球の狐のポジションにある存在だったようだ。
 どのような意図があったのか、それは長い年月の果てに藤宮璃音の誕生を以って判明したのだが、神性たる式子は呪術師の家系だった藤宮家の者と交わることで、この家を異能者の家系へと変えた。
 これにより半神半人と化した藤宮家の者たちだが、それと引き換えに人間との交配は困難を伴うようになった。種としては人類と異なってしまったため、余程運が良くなければ子を生さないのだ。そこで、自分たち以外の化生・異能の一族うち藤宮家の者と人類双方との交配が比較的容易な種族を幾つか分家筋に据え、そこと人の遣り取りをすることで血脈を存続させてきた。
 それらは全て式子が設定したプログラムを元に行われ、藤宮家は以後長きに渡って血統の管理とDNAへの術式の組み込みを行っていく。現生人類との混血により失われた形質を他の化生・異能の血と魔術式で補うためだ。ここで選ばれた化生・異能の家系のうち幾つかは休眠に入る前の式子と先史文明人の混血を祖としているので、近親婚を繰り返して血を濃くするようなものだ。それもプログラムによる指定どおりである。
 このプログラムには、生まれた子をどの子と交配し、さらに生まれた子にはあの家の子を、残りの子はあの分家へ送り…といった形で三十六代先までの予定が全て記述されており、特に作為をしなくてもその通りに子が生まれ結ばれる。その最終目的はともかくとして、式子のプログラムを実行していけば神通力と言ってもいいほど強い力を振るう超能力者を生み続けることができる。そういった存在を抱え込むことで裏の世界への影響力を保ち、財産を築くことができるのだから、プログラムの継続は藤宮家にとって損な話ではなかった。これは当主以外の目に触れるものではなかったが、血統管理は滞りなく進んだ。
 時は流れ、璃音の父である藤宮斐は従軍体験から異能者といえど一人では何も出来ないことを痛感し、己の無力さに打ちひしがれた。そして、藤宮唯一の跡取りであったにも関わらず家の存続を拒否した。自分の代で藤宮家を終わりにすることにしたのである。
 しかし運命の力、というよりも式子の意思を曲げることはできなかった。老境にさしかかる頃になって斐は刑部美音子と出会い、彼女との間に三人の娘を儲けることになった。
 こうして、千二百年の長きを経て式子が望んだ通りの器が出来上がった。それが、藤宮璃音である。
 器の中身であるところの"藤宮璃音"は何者なのか、それを璃音は三年前の出来事を以って知ることになった。その化身が亜沙美の象徴機械を粉砕し、彼女を死の淵に追いやった時に―。
 象徴機械の原型となったテクノロジーは、サナートゥ王家の持つ特殊能力"アヴァターラ"を機械的に模した物に過ぎず、まがい物は所詮、オリジナルには勝てない。璃音が展開した光景は、まさにそれを証明していた。そして璃音だけが、姉や妹、父や歴代の藤宮家の者たちとは異なっていることを示してもいた。
 藤宮家の超能力のパワーソースは、実質の始祖である藤宮式子だ。彼女の本体である、高次元に存在する神性のエネルギー、"コズミックフォース"を借りることで、藤宮家の者、侑希音と斐美花は超能力を使う。特にこの二人は藤宮家の最終モデルなだけあって、その性質を最大限に活かすことに成功している。
 コズミックフォースは高次元のエネルギーゆえ四次元宇宙における常識を超越した現象を起すことが出来るのは勿論だが、それらの現象をエミュレーター的に再現することも可能だ。まさにコンピュータのように、より高次の存在は自らより下位の存在を全て互換できるというわけだ。
 侑希音の"ミス・パーフェクト"は平常な人類の範疇にある技術・能力を、斐美花の"アーツ・オブ・レガシー"はかつて藤宮家の者達が用いたワザを一通り再現して使用することが出来る。いずれにせよ、今までの藤宮の者に共通していたのは、コズミックフォースを借りて力を行使するが、力の源である存在そのものを呼び出すことは出来なかったということだ。
 だが璃音の場合、力の源がアヴァターラという形をとって顕れている。これは、璃音が今までの藤宮の血脈とは異なる新たな系統の始祖であることを意味している。つまり式子と同等の存在として、正確にはそうなるべく作られたということだ。
 そしてこの話を聞いた璃音は、この器の中身は彼女の亡き妹であることを確信するにいたった。そうでなければ存在として同等にはなれないし、こんな面倒な手段を用いてまで再生を願う対象は、彼女にとって他にはいないだろう。それも外見はともかくとして、能力的に完全な"サナートゥ星の王女"でなければならなかったというのだから、式子の執念はなかなかの物だ。
 もっとも、そのことを平時の璃音は知らない。今は肉体と意識体が離れてしまっているが、王女としての力が発動した時のみ彼女はその記憶を甦らせることになる。
 つまりはここでの会話も、元に戻れば忘れてしまうということになる。
 

 
 璃音が気がついたときには、工業団地の外れ、海に上がる盛大な水柱を眺めていた。
「あれ…?」
 何が起こったかわからずに呆然とする璃音を、周りにいた侑希音たちも呆けた顔をして見つめていた。特に侑希音は、一瞬だが式子の姿を見たと思い、改めて目を凝らすと、式子ではなく璃音が居たので、混乱の度合いが大きいようだ。
 我に返った璃音は、自分の置かれた状況を確認してみた。
 最後に覚えているのは暗い工場なのだが、今はそれがスッカリ瓦礫の山と化している。自身はエンハンサーを全開に近い状態で起動していて、足元に広がる穴の上に浮かんでいた。おそらく、今までそこに埋まっていたのだろう。
 次に自分の両手に胸元、肩口、足先の順に身体の様子を見て確認する。先程まで白い見慣れない服を着ていたような気がするが、改めてしっかり見るとちゃんと制服だった。ざっと見た程度だが服に傷みらしいものが見当たらないのは運が良かったのか無意識のうちに修復させたのか。そして、身体の内側にも特に痛いところもない。さらに、休息が効いたのかパワーが満タンに近い状態まで回復していた。非常時に寝て起きただけでパワーアップということは流石に無いが、回復してくれたのは幸運といえるだろう。いずれにせよ、周りが瓦礫になっている以外はここに来る前と大差ない状態だ。
 ただ、今に至るまでここで何が起きたのかは当然ながら判らない。どれ位時間が経ったのか、そもそも、あの水柱は何だったのか。幸いなことに侑希音が側にいるから素直に聞いてみるべきだろう。何せ、よほど眠りが深かったのか外のことは全く記憶にないのだから。ただ、夢を見ていた気はするのだが、どんな内容だったか璃音は全く思い出せなかった。
 璃音は穴の端に着地すると、パワーの出力を落とした。
「侑希ねぇ」
 声をかけると、侑希音はハッと我に返り、璃音の顔を覗き込んだ。
「璃音、だよね?」
「うん」
「じゃあ、さっきのは…」
 と、訊きかけて侑希音はそれを飲み込んだ。あれが本当に式子だったとして、彼女の為すことなど判ろうとする方が馬鹿げている。余計な考え事を排したら、今度は感情の渦が沸き起こってくる。
 侑希音は璃音に駆け寄って、きつく抱きしめた。
「無事でよかった…」
 璃音は慌ててエンハンサーをオフにして、それから侑希音の背中に手を回した。
「心配かけちゃって、ごめんね」
 璃音の声に応えて侑希音の腕に力が入る。ひとしきり妹の体温を確かめると、侑希音は身体を離し、璃音の顔を真剣な眼差しで覗き込む。
「で、蛍太郎のヤツはどこだ? 野郎、自分の嫁をこんな危険に晒すなんてどういう了見だ? 出てきたら、きっつくお仕置きしてやるッ」
 姉の剣幕にたじろぎながら璃音は口を開く。
「あのね、わたしが無理矢理連れてきたんだから、けーちゃんは悪くないんだよ」
 だが、弁護は却下された。
「あのねぇ。あんたは甘いんだよ。いいや、甘すぎるね。そうやってたら、男なんてすぐに調子に乗るんだからね。『あの人は違う』なんて思ってたら大間違いだよ!」
(さすが侑希ねぇ、わたしの知らない世界の住人だなぁ…)
 感心しきりな璃音だったが、ここでこんな男性談義を続けるわけにもいかない。姉の言葉を遮るように言う。
「それより、けーちゃんを探さなきゃ」
「…そうだな」
 侑希音は冷静さを取り戻し、手始めに足元の瓦礫を靴先でほじくり始めた。それを見ていたボルタも、クイックゼファーを促して足元を探す。吹っ飛んだイスマエルがあれで終わりとは思えないから、時間はあまり無い。
「俺が埋まっていたのがこの辺という事は…」
 と、ボルタが視線を送った先、どういうわけか瓦礫が盛り上がっている場所がある。そこがゴソゴソと揺れ、中で何かを叩くか蹴るかする音が三度ほど響いた。そして、ドアが外れたように内側から瓦礫が崩れ、そこから長身の男が一人、現れた。よく見ると小脇にゴミ箱を抱えている。
「や、やあ」
 その、少しバツの悪そうな顔で手を振る男は誰あろう、藤宮蛍太郎だった。
「えーと、うっかり物置に落ちちゃってさ…」
 どこか言い訳じみた状況説明は、すぐにかき消された。
「けーちゃん!」
 歓声とともに、璃音が蛍太郎に飛びついた。その拍子にゴミ箱を取り落としてしまうが、蛍太郎は構わずに璃音を抱きしめた。
「璃音ちゃん、良かった…」
 蛍太郎が璃音の肩にまわした手にさらに力をこめる、そのときに合わせたように、ゴミ箱の中からダミ声が響いた。
「おいこら、落とすな! ってか、オレを無視して何をイチャついているんだ!」
 訛りのキツイ英語だったのでボルタとクイックゼファーは首を傾げるだけだったが、他の者にはしっかりと意味が伝わった。
 くっついたままの璃音と蛍太郎に代わり、侑希音がゴミ箱を拾い上げて中を覗き込み、そして顔を背けた。
「うえーっ、なんだこりゃ!」
 綺麗な顔を台無しにして呻く侑希音に、蛍太郎が苦笑しながら説明した。
「ジョージ・マックスウェルだって。そこに捨ててあったのを、たまたま見つけたんだよ」
 詳しく説明すると面倒なことになるので、物置に偽装した地下通路入り口に突っ込んであったとは言わないでおく。
 それを聞いた侑希音は、
「まあ、捨てたくなるのも判るわなぁ」
 と、日本語で呟いた。
 オフィスの片隅に置くような小さなブリキのゴミ箱の中に隙間なく詰め込まれていたのは、魔術師ジョージ・マックスウェルの首だった。元から脂肪分が多いため、その柔らかさからゴミ箱内部の曲面に見事フィットしているのがなんとも気味が悪い。さらに数日に渡る圧縮のせいか、鼻の毛穴や吹出物跡から白い物が押し出されるように染み出していた。
「これ、はっきり言って汚物だよ」
 侑希音の言葉は日本語だったが、そのニュアンスは充分にマックスウェルへと伝わったらしく何やら口汚い文句を垂れ流していた。それはゴミ箱で妙に反響して地の底から沸きあがる邪教の読経さながらだった。その呪われしアイテムは、さらにこんなことをのたまった。
「おい、オレを早くここから出せ!」
 もちろん、侑希音は難色を示した。もちろん璃音と蛍太郎も首を振る。酉野紫の二人も気配を察して手をパタパタと振って拒否のサインを出した。
 侑希音は少し考えて、ゴミ箱をロボヘッド・マックスウェルへと放り投げた。
「やっぱ、お前がやるのが筋だろ」
 すると、マックスウェルの手の中に納まったゴミ箱が怒鳴る。
「バカ言うな! オレの能力っつったら、ハンマーで叩いて潰すだけだろ!」
「まあ、そうだね」
「死ぬだろ?」
「…いいじゃん、それはそれで」
「よくねぇよ!」
 出口の見えない押し問答が始まりかけたところで、突然ゴミ箱が弾けて溶けた。マックスウェルの首はそのまま瓦礫の上に落ち、悲鳴を上げる。
 驚く一同に前に現れたのは蔵太亜沙美だった。
「…なにをやってるんだ、お前らは」
 心底呆れた様子で、亜沙美は首を振った。
「動力干渉の影響もそろそろ終わるだろ。イスマエルのヤツが、また動き出すぞ。まあ、璃音がもう一回あれをやれるなら、話は別だが?」
 亜沙美が視線を向けると璃音は首を傾げていた。予想通りの反応だったので特に感慨も無く、そのまま話を続ける。
「何のことだから判らない、ってか。まあいい。相手の手口が判ったが、現時点の装備ではお手上げなだけに今後の策を立てたいんだが…」
 そんな、真剣な面持ちの亜沙美の言葉を遮って、
「ヘッドオーンッ!」
 ジョージ・マックスウェルの雄叫びが響いた。
 見ると、マックスウェルのビール腹の上に元の膨れた赤ら顔が収まっていた。得意げに笑うジョージの足元には、物言わぬロボヘッドが転がっていた。
「ジョージ・マックスウェル、復活! シルバーハンマーBANG!BANG!BANG!」
 それに応えるように、海に水柱が立つ。
 イスマエルの黒い象徴機械、インヴィジブル・テラーが再びその姿を露わにした。その巨大な機影に対し、マックスウェルはその体形とは裏腹の素早さで駆け出していた。
「よっしゃぁっ!」
 気合と共に、拳を振り上げ走る。まさに巨象に挑むアリだ。その後姿をみおくりつつ、侑希音は言った。
「今のうちに皆と合流しよう」
 亜沙美も頷く。
「そうだな。どうせアイツ、五分もたないだろうし」
 
 イスマエルは動力干渉をもたらしていた謎のエネルギー波の消失を確認した。それから数分もしないうちにインヴィジブル・テラーの魔力が回復を始める。攻撃が無い間は可能な限りタヌキ寝入りを決め込むことにしたイスマエルだったが、そうしているうちにエネルギー量が満タンになってしまったので機体を立ち上がらせることにした。
 するとモニターの向こう、眼下に見覚えのある顔を見つけた。しかも、拳を振り上げて何やらやかましく捲くし立てている。
 イスマエルは外部スピーカーをオンにして、足元のマックスウェルを一喝した。
「鬱陶しいぞ! 貴様、随分前にイーストブロムウィッチでボロ負けしただろうが。この期に及んで見苦しいとは思わんのかッ」
 しかしマックスウェルは「チッチッチッ」と人差し指を振ると、不敵に微笑んだ。
「甘い! 今日のオレは、あの時とは違う。見よ!」
 芝居がかった仕草で腕をかざした先、倉庫の屋根は、古式ゆかしいローブ姿の魔術師が二人、佇んでいた。
「ほう…承認が降りたのか」
 イスマエルの反応はシリアスだった。
「その通り! さすが魔術師同士、話が早い。つまりこれでオレも、メガクラス・シェルが使えるってわけだ。条件は五分、だがオレのシェルの方が強いッ!」
「フン…。上の承認無しでは力を振るえんとは滑稽なものだ。まったく、するまじきは宮仕えよ」
「やかましい、逃亡者め。その代わり、テメーみてぇにコソコソ逃げ回って穴倉でシコシコやらんで済むんだ。こっちのほうがよっぽど良いぜ」
「犬がッ…飼いならされおって」
「だったらテメーは、小汚ぇガリガリの野良犬だな。おっと、お喋りはここまでだ。さっきのは負け犬の遺言として語り継いどいてやるぜ!
 ミンゼ・ヒナゼ・セスゼ・イトモゼ・ソネハゼ・テサ・イネス! 科人に雷を! 愚者に炎を! 滅びの鉄鎚よ、来たれ!
 シルバァーッ、ハンマァァァァ―ッ!!」
 眩い光の中、銀色の鎚が現れた。
 通常の鉄鋼を遥かに凌駕する魔術マテリアル"スーパー鉄鋼"で構成された象徴機械・シルバーハンマーは、鈍い輝きを放ちマックスウェルの右手に納まる。
 続いて、ローブの魔術師たちが転送術式を起動する。マックスウェルのメガクラス・シェルを遠くロンドンから召還するのだ。
「状況確認、コードB。緊急排除コマンド、承認要請」
「コマンド受信、承認降りました。座標送信します」
「ゲートオープン。"マックス・マックスウェル"転送します」
「おおおおお、いくぜぇッ!」
 マックスウェルは気合と共に、その体形からは想像も出来ない跳躍力で虚空へ飛ぶ。直後、彼を中心にして空間が爆ぜた。そして、轟音。濛々たる土煙、アスファルトの欠片が飛び、割れたガラスが舞う、その中に白銀のハンマーを構えた巨人がそびえ立っていた。全高二十メートルほど。金色に輝く威圧的な体躯は肩に担いだハンマーと相まって、さながら神話の雷神だ。
 主がコックピットに着くと同時に、巨躯に魔力が走り眼差しに光が宿る。
「マックス・マックスウェル、戦闘開始ッ!」
 二体の巨人が、ここに対峙した。
 
 "作戦会議"が終わり、蛍太郎はダンシングクイーンUに変じた侑希音に手を引かれ駆けていた。と、いっても殆ど振り回されているに近い状態だった。
 ほんの一瞬走ったところで、先程の工場跡に軍服の男が立ち尽くしているのに気付き、侑希音は立ち止まった。
 不意に目の前に現れた二人の人影に、軍服の男、クルツは顔面蒼白になって後ずさりした。
「やめて殺さないで!」
 悲痛な呻きを洩らすクルツに、侑希音と蛍太郎は顔を見合わせて苦笑した。
「殺さないってば…」
 
「マキシマム・プレッシャー!!」
 マックスウェルの雄叫びが轟き、巨大なハンマーが最上段から振り下ろされる。その一撃はクレーンを一つ、センベイのように押しつぶした。
「コラ、避けるんじゃねぇ!」
「アホめ。そんな大振りに当たる方がどうかしておるわ」
 インヴィジブル・テラーは手近なビルの上に、ふわりと降りる。そして、今までと同じように姿を消した。
「はッ! ネタは割れてるんだよ!!」
 マックス・マックスウェルは潰したビルの残骸を蹴り上げ、さらに胸部排気ダクトで風を送り砂礫を巻き上げた。周囲が砂埃で包まれる。
「はははは! 光学迷彩もこれで形無しだな! お前の姿がよぉく見えるゼェ!!」
 マックスウェルは、イスマエルの武器を光学迷彩であると考えていた。
 光学迷彩とは、表面に真後ろの映像を映し出すことで見た目上は透明になるという、SFではお馴染みの装置である。最近ではレインコート状のものにダイオードを配しそれらしき物を作ったいう話もあるが、現実には従来のペイントによる迷彩で必要充分であることから兵器としての実用化は行われないであろうといわれている。"リアルタイムで映像を映し出すシート"が実用されれば、その用途はモバイルやファッションへと向くだろうし、これを迷彩として使った場合には致命的な弱点が付いてまわる事になるからだ。
 その弱点とは、透明になっても実体まで無くなるわけではないということである。透明であっても、そこに存在している限り水には濡れるし汚れも付着する。だから雨の中では水滴によって姿が浮き出てしまう。また、地面の状態次第ではハッキリと足跡を残る。加えて周囲の状況によって光の屈折、反射は複雑に変化するので、迷彩パターンをそれに対応させるのは不可能に近い。結果、不自然な形で姿が浮き出てしまうのである(と、されている)。
 今、マックスウェルが作り出した状況が、まさにそれだ。
 舞い上がる粉塵によって空気の流れが見えるため、それを注視すればたとえ相手が透明だろうと察知することが出来る。さらに、周囲の路面にもしっかり砂礫やコンクリートの欠片が敷き詰められている為、足跡もよく見える。もしもイスマエルの象徴機械が姿を消しているだけなら、これで見えない訳がない。
(勢いでよく見えると言ったものの…野郎はどこだ?)
 マックスウェルの丸い顎から汗が滴り落ちる。気流にも地面にも全く変化が見られない。
 と、不意に。マックスウェルの視界いっぱいにインヴィジブル・テラーが映し出された。
「なッ!?」
 ツームストーン・パイルの一撃。回避する間もなく、マックス・マックスウェルの頭部は粉砕された。マックスウェルは機体を後退させながらハンマーを振るう。だが、手ごたえは無し。敵は既に消えていた。
「残念…ハズレだったか。まあいい、いずれ私の攻撃をかわす術は無い。このまま続ければ、いつかは貴様を貫くだろうしな。ふむ、確か日本製の玩具でこんな物があったな…。そう、"黒ヒゲ危機一髪"だ!」
 いかにも愉快そうなイスマエルの声が響き、二本の杭が巨人の胸を貫いた。慌てて体勢を立て直すが、直後、機体が大きく傾いた。
「くっそぉぉぉ! なんでだーッ!!」
 マックスウェルの叫びも虚しく、両脚を打ち抜かれたマックス・マックスウェルは倒れ伏した。だが、蹂躙はさらに続いた。
 程なく金の巨人はスクラップの山と化す。そして傍らには、とっくの前に取り落としたハンマーが墓標のように突き立っていた。
 しかし、予想外のことにイスマエルは目を丸くすることになる。どこからかマックスウェルの高笑いが湧き起こったのだ。
「はははははは! うははははっ!! はーっはっはっはーっ!! 甘い、甘いぞイスマエルさんよぉ!! 象徴機械はカーネルを破壊しない限り復活し続けるんだぜ!! そう、今、オレがこうしているのがその証拠、マックス・マックスウェルは死んじゃいないッ!!」
 魔力の奔流が、残骸と化した巨人を包む。その源は、ハンマーだった。
「そう、我が象徴機械はシルバーハンマー! ハンマーこそが本体なのだッ! 無論、コックピットもここにあるんだぜッ。
 それにしてもオカシイよなぁ…。はっ、なァにが黒ヒゲだ、イイ気になりやがって! 頭が硬ぇんだよォ、テメーはよォォォォォォーッ! この、夢を忘れた古い地球人が―――――ッ!!」
 気に障る高笑いが響き渡った。イスマエルは今にも暴れ出しそうなコメカミの血管を押えながら象徴機械をハンマーに近づかせる。 
「お、どうした。本体を壊すってか? いいだろう、やってみろッ!! スーパー鋼鉄による三十二層の複合装甲で形成されたこのハンマー、テメーの杭でも破壊するのはさぞ骨が折れるだろうぜッ!! その間にィ、シェルは完全に再構築されるッ!!」
 インヴィジブル・テラーは、黙ってハンマーを拾い上げた。
「おいこらテメー! 何しやがるッ」
 抗議の声は無視。インヴィジブル・テラーは両手でマックスウェルの象徴機械を握ると、その場で回転を始めた。それはまさにハンマー投げだった。
 そして。
「…さらばだ」
 その一言を贈られ、マックスウェルは夜空へ飛び出した。見事な放物線を描き、海の彼方へと向かって行く。
「たーすーけーてー…」
 悲鳴がだんだん遠くなり、そして水柱。
 魔術師マックスウェル、海原に散る―。
 見事に邪魔者を始末したイスマエルは、インヴィジブル・テラーの視線を足元に向けさせた。未だ、ここにはイスマエルの行く手を阻んできた者たちが潜んでいるはずだ。逃げたのならばそれでも良いが、刃向かうつもりならば、今ここで潰しておくにこしたことはない。
 少しして、イスマエル自身の視覚とリンクしたインヴィジブル・テラーの光学センサーに妙な物体が飛び込んできた。奇妙な触手を四本生やした、デカイ円筒である。
「おい、お前!」
 外部マイクを通し、ドクター・ブラーボの声が半ば更地になった工業団地に響き渡る。
「誰の許しを得てそこにおる! この町で巨大ロボを乗り回して良いのは、ワシだけじゃ!」
 それに続いてディアマンテが、
「そーだそーだ」
 と、アームでインヴィジブル・テラーを指差した。コックピットの中ではクルツが目を白黒させて、今の出来事に驚いていた。
「…この声、誰?」
「誰って、ボクだよボク! ディアマンテでーす」
「へえ…ディアマンテか…って、ええええええッ!?」
 驚きの声を上げるクルツに、メタルカは、
「あんたは病欠だったからねぇ」
 と苦笑い。ブラーボはさも愉快といった風情で得意げに解説を始めた。
「ははは。何を隠そう、ラプラスをディアマンテに組み込んだのだよ。なんといっても、この中が基地内でも一番頑丈で安全だからな!
 それだけではないぞー。折角だから有り余る演算能力と記憶領域を使うためにAIも搭載してみたのじゃ。どうじゃどうじゃ、なかなかのもんだろう! 機体制御が容易になるだけではなく、文字通りに針を通すほどの超精密射撃管制も可能なのじゃ!
 これで最早、我らの敵は宇宙人だけじゃのう! ふはははははははーッ!!」
「えっへん」
 ブラーボの悪役笑いをバックグラウンドに胸を張るディアマンテ。
「さすがはブラーボ様。バルカンや高出力レーザーを針の穴に通そうなど…常人には思いもよりませんわ」
 メタルカは、さも誇らしげに言った。それを聞いたブラーボはしょんぼりと呟く。
「あの…それ…たとえ話だからね…」
「メタルカちゃんのいじわるー」
 ディアマンテが抗議する。メタルカは大慌てで弁解した。
「え…すいません、そんなつもりじゃ…。その、ブラーボ様のことですから、どうにかして実現なさるんだろうなぁと…思いまして…」
 メタルカは嘘偽り無く、本当にそう思っていたのである。
「んなワケないじゃ〜ん。融通の利かない子だなぁメタルカちゃんは〜」
「な…っ!?」
 ディアマンテにからかわれ、メタルカは眉を吊り上げた。
「まあまあ、ケンカはよさんか。ワシは怒っておらんから」
 ブラーボがなだめに入ると、二人(?)は揃って「はーい」と頷いた。そんな中、クルツは一人、額を押えていた。
「…合わんなぁ、このノリ」
 外部スピーカーで響き渡るブラーボ一家の長閑な会話を黙って聞いていたイスマエルだったが、いい加減飽きてきたので声を掛けた。
「おい、もういいか?」
「お、おお。そうじゃった…。者ども、戦闘配備じゃ!」
 威勢のよい掛け声と共に、ディアマンテが身構えた。だが、
「ど、どうするの?」
 と、マヌケな声を上げるクルツに、思い切り気勢を削がれてしまった。
「バカモン! 以前と操作方法は変わってはおらん。音声コマンドのあとボタン押下で確認じゃ。…ったく、変更があったら知らせるわい」
「わ、わっかりました! ディアマンテ・パンチ!!」
 クルツの掛け声と共に、ディアマンテのアームがインヴィジブル・テラーに殺到する。だが、イスマエルの象徴機械は細い体躯から想像されるとおりの身軽さで、ひらりひらりとそれらを回避した。
「む、素早い!」
「まだまだこれからだよ、クルツくん!」
「く…クルツ"くん"!?」
 驚きに顔を歪めるクルツをよそに、ディアマンテはアームを、文字通りに伸ばした。以前のように"関節部で伸びる"などという生易しいものではない。アームの蛇腹がどんどん増え、本来の長さの倍、いやそれ以上にグイグイと伸び、インヴィジブル・テラーを追い続ける。
 これには、さすがのイスマエルも驚いた。
「な、なんと…!」
 その隙を突き、ディアマンテは目標を捕らえた。インヴィジブル・テラーの脚部を掴み、そのまま道路に叩き付ける。
「ふははははは! 見たか、ディアマンテの力を! これぞオーバーテクノロジー、"無限アーム"じゃ!!」
 ブラーボの高笑いが響く。それがイスマエルの神経を逆撫でした。
「おのれ貴様!」
 その声と共に、インヴィジブル・テラーの姿が掻き消えた。
「遮蔽かッ!?」
 と、ブラーボ。それに対するディアマンテの答えは殆ど混乱状態だった。
「わ、判りません! 光学センサー、レーダー共に反応無し! 駆動音、排出物など目標のあらゆる痕跡が見当たりません!!」
「…私の仕事がとられてる気がするわ」
 メタルカが力なく呟く。だが物言いは落ち着いたものである。
「ま、まあ…実体が無くなるわけでもないんでしょ。そのアームを離さなければとりあえず…」
「でも、アームに反応無いよ」
 ディアマンテ本人がそう言った直後、何も無い空間から現れた杭の先でアームが腹いせのように粉砕された。クルツが歯軋りする。
「ぬううう…。ディアマンテ、ヤツはどこだ?」
「判らないよ! このエリアには何も検知できない!」
 クルツが叫ぶ。
「何を言ってる、居ないわけないだろ! 目で見るんじゃない、心の目で見ろ! センサーなんて飾りに過ぎん。気合だ、フォースだ、明鏡止水だ!」
「無茶言わないでー!」
 完全に錯乱しているクルツとディアマンテを嘲うように、衝撃が機体を揺らす。
「上じゃ! くぅ…嫌味ったらしく姿見せくさってからに…」
 インヴィジブル・テラーはディアマンテの上面装甲に乗っていた。そして両の掌から突き出した杭を、装甲板に打ちつけた。
 それはディアマンテの超重装甲を大きくへこませ、機体を揺さぶった。
「うわあぁぁぁッ!!」
 四人が揃って悲鳴を上げた。
「どうなってんの!?」
 メタルカが怒鳴る。ディアマンテは悲鳴に近い声を上げた。
「装甲、次の攻撃には耐えられないよ! 貫通されちゃう!」
「見れば判るわ! 何なのあれはッ!?」
「…スキャン結果…あれは…」
 ディアマンテは声を詰まらせた。自らの解析結果が信じられないのだ。
「…地球上の物質じゃないよ!」
 空気が凍る。それを、ドクターブラーボの悲鳴が切り裂いた。
「うええええ! 言ったそばから宇宙人じゃよ!」
「…そういうことになるわね」
 メタルカは憎々しげにモニターを睨みつけた。そこに写されたインヴィジブル・テラーは二撃目を繰り出そうと腕を振り上げている。この機を逃す手はない。メタルカは叫んだ。
「今よ!」
 それを合図に、光り輝く剣が五本、インヴィジブル・テラーの黒い機体に突立てられた。剣はそのままドリルのように回転を始め、シェル内部を深く抉る。さらに、鈍い衝撃がイスマエルを揺する。頭部装甲が大きく歪み、インヴィジブルテラーはバランスを崩してディアマンテの上から転げ落ちた。
「ぬうッ!」
 見ると、目の前には蔵太亜沙美の象徴機械AO・コンテと、赤い光に包まれた少女が浮かんでいた。
「やはり、きたかッ」
 歯軋りしつつ、イスマエルはインヴィジブル・テラーの体勢を立て直す。自己修復能力により、先程の損傷は何事も無かったかのように元通りになった。もちろん修復のためにエネルギーを消耗するのだが、メガクラスシェルには魔力の増幅と貯蔵を行なうシステムが組み込まれていることが多く、これも例外ではない。この程度の修復なら、あと数度は行なっても行動に支障は起こらない。立ち上がったインヴィジブル・テラーを前に、亜沙美は舌打ちした。
「ちっ。こいつらと手を組むことになるとは…」
 そう言って、AO・コンテをディアマンテの上面装甲に降着させた。そして、先程の五本を含めた三十六本の剣がディアマンテを取り囲んで展開する。
 璃音は、破壊されたアームを修復してから上面装甲に乗り、へこんだ箇所に同様にヴェルヴェットフラッフを使った。
「そっちは後でも良いだろ」
 亜沙美が毒づくと、璃音は抗議の声を上げた。
「えー、かわいそうだよ」
「そいつがそれで可哀想なら、そこいらみんな可哀想だ」
 眼下には瓦礫の山と化した工業団地が広がっている。取り壊しさえされず放置され続けた場所とはいえ、酷い有様ではある。亜沙美の言うことは正論だが、当のディアマンテはそれを無視して喜びの声を上げた。
「璃音ちゃん、ありがとう。優しいんだね」
 照れたように頭をかく璃音を横目で見て、亜沙美は仏頂面で呟いた。
「なんだ、私が悪者か?」
 理不尽な扱いにめげる間もなく、亜沙美は神経を剣陣に集中させた。インヴィジブル・テラーが跳躍し、そのまま姿を消したからだ。
「来るぞ!」
 亜沙美に応えたのは、蛍太郎の声だった。
「二時の方向、上四十八度!」
 続いて、璃音が叫ぶ。
「そこ、来ます!」
「よし!」
 璃音の合図にタイミングを合わせ、亜沙美は飛剣を指示通りの位置に同心円状に集め壁とした。それを狙い済ましたように、ツームストン・パイルが虚空から突き出された。いや、杭が飛び出る瞬間を、逆に剣の壁が狙っていたのだ。
 触れるもの全ての質量を光と変える無敵の剣に突っ込んだ杭はズタズタに切り裂かれ、宇宙金属のブツ切りとなって次々と瓦礫の上に落下する。さらに、
「行けっ!」
 飛剣が一本、杭の中心軸に向かって真っ直ぐに飛んだ。剣は錐のように回転して折れた杭を掘り進み、そして爆発が起きた。次の瞬間、右肘より先を失ったインヴィジブル・テラーが空中に姿を現す。
 それを見て、ブラーボは高笑いを上げた。
「ふははははッ、油断したな! ワシらがすっかり慌てふためいてると思ったようじゃが、あれは芝居じゃぁッ! この天才ブラーボ様が、何の備えもなくノコノコでて来るわけないじゃろぉがッ!!」
 得意げなブラーボに水をさすように、メタルカが呟く。
「ま、全部あの、侑希音という人の策ですけどね」
 それを聞いて、クルツは目を丸くした。
「え!? オレはマジだったんだけど…」
 ブラーボとメタルカの反応は冷たかった。
「まあ、お前はな」
「だって、アンタそういうのできないでしょ」
 しょんぼりしてしまったクルツを押しのけるように、メタルカがブラーボの安置場所の横で計器を調整している蛍太郎の手元を覗きこんだ。
「上手くいったの?」
 何故か擦り寄ってくるメタルカから身体をずらすように逃れながら、蛍太郎は頷いた。
「ええ。重力波ソーナーのチューニングが出来ました。これで、ヤツが姿を消しても追跡できます」
 それから、通信機で璃音に声を送る。
「璃音ちゃん、"目"のほうはもう使わなくても大丈夫だよ」
 すると璃音はディアマンテの外部マイクに対して返答した。
「平気だよ。ほんの一瞬先なら大した負担にならないから」
 聞こえるように言ったのだから当然だが、それが耳に入ったイスマエルは火でも付いたように怒り出した。
「おのれ貴様ら! 群れ集まってコソコソとどんな小細工を弄しているのか知らないが、私の"空間ステルス"を破れるわけが無いだろう! この損傷もすぐに修復するぞ!」
 その言葉どおりインヴィジブル・テラーの右腕は瞬時に修復され、黒い巨体は再びその姿を消した。
「空間ステルス、ねえ…。そんな名がついてたっけ。もっと早く気付くべきだったな」
 亜沙美は皮肉に微笑んだ。それは昔、概念だけは聞いたことがある魔術兵装だったからだ。
 "空間ステルス"とは、インヴィジブル・テラーの装甲に施されれているタイプの術式コーティングの名称である。
 空間を操作できる結界術を応用することで、インヴィジブル・テラーの実体を亜空間にシフトさせ消し去る効果がある。これにより、あらゆる物理的な影響を遮断できるので視認されることはおろか攻撃を受けることもない。
 通常の結界術でも同じ結果が得られるが、外界を強制的に歪めるという術の性質上、結界術は何度も連続して行使できるようなものではない。大掛かりな術だけに、取り回しが難しいのである。
 そこで、『外の環境に作用し続ける物より、自分をどうにかする物のほうが簡単確実』という発想の元に、表面のコーティングとその内側のみを結界化することで実現したのが、この空間ステルスというわけだ。戦闘時など激しい動きを伴う状況での連続稼動は出来ないが、じっとしている分には殆ど魔力の続く限り消えていられるだけに、充分実戦に耐えうる範疇である。魔術を用いた兵器としては極めて優秀な分類に入る代物だ。
 ただし、よほど結界の運用に長けた魔術師でなければ手に余るので実際には殆ど使われずに埋もれてしまっていた。魔術師協会でも、この兵装について知る者は極めて少なかったのである。
 イスマエルがこれをモノに出来たのは、宇宙金属生成のために地球上とは異なる環境の空間を作り出す必要があり、その維持のために結界術を極めるに至ったからだ。
 空間ステルスはその機構上、全ての武器を内蔵式にしなければならならず、また装甲表面に損傷があれば一切ステルス化できないという欠点がある。なぜなら、装甲表面全体の形状自体を術式の一部としており、またその上にも無数の魔力経路が走っているので、外装が完全な形でなければ術式が発動しないのである。
 だが、それは魔術で稼動するアディッショナル・シェルに装備する分には問題にはならない。元来シェルは駆動部も構造材も必要としない為に内蔵武器を搭載するスペースは充分にあり、そして損傷は魔力が続く限り短時間で自己修復するからだ。
 そう、問題はそこである。
 ちょっとした観察力があれば、インヴィジブル・テラーが虎の子の杭をわざわざ収納式にしており、しかも攻撃時に杭だけが見えていることからステルスの機構を推測することは可能だろう。その上、損傷するたびに修復してからステルスを作動させているので、損傷状態ではステルス化されないことも理由はともかくとして勘付かれてしまっていた。
 そしてもう一つ。イスマエルは多次元宇宙を渡り歩く性質を持つ素粒子の存在を知らなかった。
 それが、重力子である。
 むしろ重力こそが空間の歪みである事を知らなかったというべきか
 魔術の利点の一つは、未解明の事象・現象にさえ介入できることだ。意志力を原動力とするため、その現象が起こる過程を知らなくても結果さえイメージできれば全く同様の効果を生み出せるのである。だからこそ古代の魔術師は、雷が雲中の氷の結晶の振動による放電現象だと知らなくても地上に稲妻を落としてみせたのだ。同様に、現代科学では定義すら出来ていない空間さえも、魔術ならば制御できる。
 だが今回は、それが落とし穴になった。
 ディアマンテのコックピットのモニターには、重力子ソナーの情報を映像化した物が映し出されていた。
 先程ディアマンテが攻撃を受けている間に蛍太郎がソナーを調整し、インヴィジブル・テラーが居る空間を探査できるように片っ端からチャンネルを弄りチューニングしていたのである。
 これで空間ステルスは完全なる遮蔽ではなくなった。
 だがらといって、ステルス状態のイスマエルを攻撃することは出来ない。せいぜい今までのようなカウンターが関の山である。そういう意味では、自らの優位性が揺らいでいないことはイスマエルも承知のはずだ。ならば、次は一撃でディアマンテを破壊するだけの攻撃を繰り出してくるかもしれない。
(けどね。今度はこっちからだ)
 重力子ソナーの映像化データを凝視し、蛍太郎は叫んだ。
「Mr.グラヴィティ!」
「承知!」
 ディアマンテ上面のメンテナンスハッチから、黒衣の男が飛び出した。
「うおおおおおっ! エネルギー全開ッ!!」
 グラヴィは腕を振り上げ、渾身の力を込めて虚空へと拳を叩きつけた。それは、パンチでの攻撃のために繰り出されたものではない。平時はパンチ力の増強のために使っている重力波を直に放出しているのだ。
 凄まじい重力異常により周囲が暗くなる。光の軌道が変わったのだ。そして、小さな瓦礫が宙に浮き始めた。だが、それもすぐに終わる。インヴィジブル・テラーが投げ出されるように地面に落下したからだ。黒い巨人は全身のあちらこちらが歪み、腕などはプレス機にでもかけられた様に潰れてしまっていた。
 轟音で大地が揺れる。
 グラヴィは、ディアマンテのアームに掴まっていた。
「お前を助けることになるとはのぅ」
 ブラーボが苦笑すれば、グラヴィは肩をすくめて見せた。
 間髪いれず、亜沙美は倒れ付したインヴィジブル・テラーに向け、
「貫け! 三十六剣陣!」
 剣をいっぺんに突き立てる。文字通り剣山と化したイスマエルの象徴機械は、しかし恐るべき頑丈さで宙に浮き体勢を立て直した。両腕は落ちていたが、頭部や胴体、脚部はまだ幾分原形をとどめている。
 イスマエルは怒りに任せて叫んだ。
「なめるなぁ!」
 だが修復能力が働きかけた瞬間、機体が大きく揺れた。見ると、工場内から調達してきたのだろう、ワイヤーが何本か機体の脚部に巻きついていた。地上からその端を引いているのはバーナーとマンビーフ、そしてディアマンテのアームだ。インヴィジブル・テラーは前後から引っ張られ釘付けになってしまった。さらに侑希音とクイックゼファーがワイヤーを駆け上がり、機体表面を跳び回ってロープで縛り付けていく。自己修復機能は、余計な物が密着しているとその影響を受けてしまい修復が上手くいかないのだ。通常は薄いフォースフィールドを展開して表面上に異物を排除することで解決できる。だが、クーインの額から照射されたビームがそれを阻んだ。
「くらえ! 融合光線、バイオニック・コーンバインッ!」
 クーインの特殊能力"バイオニック・コンバイン"はあらゆる物体を融合させる能力を持つ。それにより、ワイヤーとロープが装甲に癒着した。これでインヴィジブル・テラーは身動きを取れなくなってしまった。
 準備万端とばかりに、亜沙美は拳を握った。
「よし、璃音!」
 亜沙美の指示で、璃音はイスマエルのメガクラスシェルを透視した。これによりカーネルの位置を見極め、そこを破壊する。それが、この作戦の最終段階だ。だが、璃音は自らの目に写った物に息を飲んだ。インヴィジブル・テラーのエネルギーコアであるカーネルは頭部に位置し、イスマエルがいるコックピットの真上にあったのだ。
「おい、早くしろ」
 亜沙美が急かす。あの装甲を貫くには亜沙美の剣が必要だ。だが、璃音は気づいてしまった。それを使えば、カーネルだけでなくコックピットまで破壊してしまうことに。しかし亜沙美は、そしておそらく侑希音もかまわず攻撃を行うはずだ。そうしなければ、自分たちの身が危険に晒される。そして、これからもイスマエルのために多くの被害者が出る。それが判っていたから、璃音はここまで侑希音の策に協力した。
 だが、それは理屈だ。
 理屈ではそうするしかないと判っていても、悪人とはいえ人を殺すための引鉄を引くことは、璃音には出来そうになかった。
「今更なんなんだ! 一発で仕留めないと復活しちまうだろうが!」
 亜沙美が叫ぶのを、ディアマンテのコックピットで聞いていた蛍太郎は深いタメ息とともに肩をすくめた。
「…なんとなくさ、こうなる気はしてたよ。ここまで手伝ったこと自体、無理してたのかもね」
 ブラーボは蛍太郎の言わんとしていることが判ったので、静かに言った。
「うむ。たぶん、ヤツのエネルギーコアがコックピットの間近なのじゃろうな。今なら、ディアマンテキャノンを撃てるぞ。それなら、一撃でヤツを消し去ることが出来るじゃろう」
「お願い、できますか」
 蛍太郎が重い口を開くと、ブラーボは明るい調子で言葉をかけた。
「なぁに。ワシとて、親友の娘に殺しの片棒を担がせるような真似は不本意じゃわい」
 そして、部下たちにディアマンテキャノンの発射シークエンスに入るよう指示した。だが、モニターの向こうでインヴィジブル・テラーが動く。すでに見る影もなくボロボロになっている機体表面にヒビが入り、内側から小さな爆発が幾つも起こった。全装甲を自ら爆破したのだ。危うく破片に巻き込まれかけた侑希音が、爆風より早く駆けながら舌打ちした。
「げ、気付いた…!」
 案の定、爆煙の中のイスマエルは高笑いだ。
「はっはっはーっ! さっさとこうすればよかったのだッ!」
 インヴィジブル・テラーの剥き出しになったフレームが形を整え、みるみる装甲が再構成されていく。
「…くそッ!」
 亜沙美は璃音に掴みかかろうとした。だがその時、璃音の身体は赤いエネルギーの塊へと変じていた。エネルギーは渦となって膨れ上がり新たな形を成す。璃音のアヴァターラ、フラッフだ。フラッフはエンハンサーのリングを展開し、インヴィジブル・テラーに向かって飛んだ。
 その途中で、変化は起こった。
 ピンク色に光るフラッフの身体が微細なブロック状に分解し、裏返って再び形を成した。外観は相変わらずウサギに似た姿だが、色は黒。それまでより一回り小さくなり、背中に羽、頭に角が追加された。さらに、手には剣状の巨大な爪を具えていた。それは後に、ドイツ南部の伝説上のウサギになぞらえて、ヴォルペルディンガーと名づけられた。
 亜沙美は、その姿に息を飲んだ。
「おい、それ…」
 次の瞬間。
 黒ウサギ、ヴォルペルディンガーと完全に修復を終えたインヴィジブル・テラーが交錯した。
 瓦礫が舞い上がり、黒ウサギが地面を転げ、手をついて首をもたげた。
 その視線の先には何も無い。
 消えた―。
 一同の眼差しに絶望の色が宿る。だが、ひとり亜沙美は皮肉のこもった笑みを浮かべていた。
「終わったな。あいつ、自分で落とし前をつけたか。けど…」
 その先は、前触れ無く響いた轟音にかき消された。
 何も無いはずの空間から大量のオイルと水銀が噴き出し、次いでインヴィジブル・テラーの姿が現れた。黒い巨人は仁王立ちしていたが、噴き出す内容物に押されて、首が落ちた。そして、黒い象徴機械は瓦礫の山の中に崩れるようにして倒れ伏した。
 それでも、首の中から響くイスマエルの声には余裕があった。
「ふふふ…どうやったかは知らないが、このインヴィジブル・テラーの装甲を切り裂くとは大したものだ。だがッ! この程度、すぐに再構成してくれる!」
 しかし、イスマエルの象徴機械はピクリとも動かなかった。
「なんだと!」
「…どうしたことだ!?」
 ステータスモニターには"Revival completed"の文字が点滅している。しかし、インヴィジブル・テラーの首は切断面を露わに晒したままだった。オイルが漏れるだけで何も起こらない。
 自己修復システムをチェックするが異常は見られない。それにもかかわらず、シェルの首と胴は泣き別れしたままだ。
「全ッ然、直ってねぇだろォォォォォォ―――ッ!! いい加減なこと言ってんじゃあねェェェェェェ―――ッ!!」
 頭を掻き毟り絶叫するイスマエル。
 システムが正常なのに動作結果がマトモでないということは、通常ありえない。あるとすれば、そのシステム自体がマトモではない場合だ。つまり、故意か過失かはさておき最初からマトモな結果がでないように作られていれば、当然マトモな結果は出ない。だが、直前までマトモに動作していたものが、突然働かなくなるということがありえるのか。専門的知識に精通した者は、その分野における常識から逸脱した事柄や状況を自動的に考慮の外に置いてしまいがちだ。なぜなら、それは"ありえないこと"だからだ。そして不幸なことに、イスマエルは魔術師として充分以上に優秀だった。だから彼は、外的要因により自己修復装置が変質した可能性に気付けずにいた。
 イスマエルはコックピットハッチを蹴り飛ばしてインヴィジブル・テラーから這い出した。見ると、横たわったままのシェルの向こうで、黒ウサギが解れるように分解していく。それが次第に小さな少女の姿に変わっていくにつれ、イスマエルに怒りの衝動が湧きおこる。いつの間にか、手には真新しいハチェットが握られていた。
「うおおおっ!」 
 絶叫と共に、大鉈を振り上げる。イスマエルにとっては充分に投擲可能な距離だ。だが、花火が弾けるような音がして、魔術師はハチェットを取り落とした。真ん中に穴の開いた右手を見て、それから音のした方向を睨んだ。そこには、屈強な大男が拳銃を構えていた。手にした一般的なサイズのハンドガンが小さく見えるほどに逞しい肉体の持ち主だった。総髪を後ろに撫で付けた傭兵、ミロスラフ・夏藤だ。
「それくらいにしとけや」
 ミロが低く威圧的な声で言い放つと、イスマエルは傭兵を睨みつけた。その間に、文字通り飛んできた璃音が割って入った。
 睨みあいをする間もなく、イスマエルは象徴機械を詠唱なしで実体化させ、璃音を襲わせた。
「くたばれ!」
 だが、スナッフ×スナッフが振りかざした大鉈は、真ん中で二つに断たれていた。さらにボディが袈裟懸けに斬られている。
「おのれぇ!」
 スナッフ×スナッフは新しい大鉈を作り出し、大地を蹴った。もういちど璃音の首を斬り落とそうと、一気に距離をつめる。璃音は迫り来る黒い暴風に対し、エネルギー光球を放つときと同様のモーションで左手をかざした。だが、そこに現れたのはエンハンサーのエネルギーで形成された黒い剣だ。剣は璃音の視線の先に向かって真っ直ぐに飛ぶ。それはスナッフ×スナッフの右肩を刺し貫き、関節部ごと腕を斬り飛ばした。大鉈を握ったままで腕が落ちる。
 イスマエルは、機体が斬られたことに今更驚かない。スナッフ×スナッフは勢いを落とすことなく璃音に近接した。そして残っている左手を振り上げる。そこにハチェットを成形するべく回路を魔力が走る。だが、璃音の右手がヴェルヴェットフェザーの光を放つと、スナッフ×スナッフから出力された魔力が形を成すことなく四散してしまった。
 あらゆるものを"元に戻す"璃音のヴェルヴェットフェザーは、魔術に対してカウンターとして作用する。それにより宇宙金属を生成するための元素変換が機能しなかったのだ。
「なんだと!」
 絶句するイスマエル。その隙を見逃さず、璃音は黒い剣をスナッフ×スナッフの胸に突き立てた。剣のエネルギーは瞬時に飛散するが、イスマエルの象徴機械は大きく背を仰け反らせ、崩れ落ちる。
 さらに璃音は両手からヴェルヴェットフェザーを放ち、スナッフ×スナッフに浴びせた。二度にわたる攻撃で大きなダメージを受けていた象徴機械は赤い光に対抗して実体化を維持するだけの力を持っておらず、ついに消滅した。器を失った魔力が逆流し、術者の身を焼いた。
 息を詰まらせたイスマエルは膝をつき、光となって消えていくスナッフ×スナッフを呆然と眺める。これで、イデアクリスタルが過負荷から回復するまで象徴機械も大掛かりな魔術も使えない。ついに敗北の時が訪れたのだ。
「殺せ…」
 搾り出すようなイスマエルの声に、璃音は首を振った。イスマエルは侮辱を受けたと感じたのか、歯軋りして拳を握る。
「おのれ小娘!」
 大鉈を形成し、投げつける。そのつもりだったのだが、イスマエルの右腕は空に振るわれただけだった。
「な…ッ!?」
 ハチェットが出ない。その事実に気付いたと同時に、イスマエルは激痛に顔を歪めた。右腕が肘の上から切り落とされていたのである。
 璃音の黒い剣だ。
 イスマエルの怒りに溢れた視線にも動じることなく、璃音は決然と魔術師を見おろした。これ以上続けるなら命は無いというメッセージだ。その間に、仲裁に立つように侑希音が降り立った。冷徹なまでに鋭い眼差しを跪いている魔術師に浴びせる。
「もう終わりだ。行くぞ」
 イスマエルはゆっくりと立ち上がったが、その声に促されたのではなかった。皮肉な笑みを浮かべ、臙脂色の魔術師は最後の気力を搾り出すように叫んだ。
「自爆ッ!」
 それと同時に爆発が起こり辺りが煙に包まれた。
 璃音は侑希音を庇い、エンハンサーのバリアで爆風をしのぐ。視界が開けると、インヴィジブル・テラーが残骸と化していた。だが、頭部の痕跡は見当たらず、イスマエルの姿も見えなかった。その場で何事もなかったように立っていたミロが、頭を掻きながら言う。
「スマン、逃がした。あいつ、デカイのの頭に乗ってどっか飛んでったわ」
 だが、侑希音は事も無げに言った。
「まあいいさ。どうせヤツは終わりだ。協会に引き渡すよりも、この方がいいかもしれないしな」
 ミロは侑希音の言葉の意味がわからずに首を傾げたが、雇い主がそれで良いと言うのだから、拘ることもなかった。とにかく危機は去ったということだ。その危機を退ける最後の一手を打った本人である璃音は、申し訳なさそうに侑希音に歩み寄って小さく頭を下げた。
「ごめんね、侑希ねぇ。勝手なことして」
 侑希音は元の姿に戻り、笑みを浮かべて妹の頭を撫でた。
「いや。これでよかった、と思う。ヤツに対する報いとしては、死よりもこの方が妥当だろうさ。それにまあ、腕一本くらいだったら、お返しとしては安いくらいだろ」
 それを聞いた璃音は安堵から身体の力が抜けてしまい、侑希音の腕の中へと倒れこんだ。今にも眠りに落ちそうな妹の顔を見て、侑希音は柔らかい微笑みを浮かべた。
「ふふ。よろしい。蛍太郎君が来るまで、ここ貸してあげる」
 そう言って強く抱きしめてやると、璃音は擦り寄るように顔を埋めてきた。
 その光景を見ていると、ミロは何とも心が和んだ。反対側を仰ぎ見ると、そこにはディアマンテが浮かびMr.グラヴィティが居て、少し離れたところに酉野紫の面々が居る。一瞬とはいえ、彼らが同じ目的のために動くことになるとは思いがけないことだった。それぞれお互いの距離を測りかねているように見えるが、夜更けの空の下で和解へのきっかけができたように感じられた。
 ディアマンテから降りた蛍太郎が妻の名を呼びながら駆けて来るのを見て、侑希音とミロは手を振った。
 だがこのとき既に、赤い衣装の女魔術師は姿を消していた。
 

 
 その日の晩、中村トウキは部屋のドアをノックする音で目を覚ました。時計を見ると午後九時。どうやら、家に帰って横になったらウッカリ眠ってしまったらしい。つけっぱなしのテレビが少々寂しげである。着衣は学校から帰ってそのままだったから、トウキは玄関まで行ってドアを開けた。
 そこに居たのは、藤宮斐美花だった。
 突然の訪問に、トウキは驚きながらも嬉しさも隠せない。色々と都合のいい妄想が頭を埋め尽くしそうになるのを必死に抑え、とりあえず最も現実にありそうな訪問目的を類推してみた。
「えーと、家賃…ですか?」
 もちろん、五月分も滞納中だ。
 だが、斐美花は勢い良く首を振った。
「じゃあ、なんです?」
 他に思い当たる節も無いので、トウキは素直に訊いた。すると斐美花は思いつめた顔でトウキに訴えた。
「いないんです。家に、誰も」
「どういうこと?」
 只ならぬ雰囲気に、トウキの顔も険しくなる。
「家に帰ったら、今のテーブルに『今日は遅くなります』って置き手紙があったんです」
 このように、実際に返ってきた答えはなんでもないものだったので、トウキは拍子抜けしてしまった。
「それで、まだ帰って来ない、と。あの…それの、なにがおかしいんでしょうか…? 全然問題ないと思うんですけど。何日も帰ってないからともかく…」
 そう言われて、斐美花はさも当然のように頷いた。
「はい。そうですね」
「え? えっと…」
 トウキは斐美花が何を言いたいのか判らず頭を抱えてしまった。すると、斐美花は恥ずかしいのか小さな声で囁いた。
「あの…お腹空いたんです…」
 少し間をおいて、その意味を理解したトウキは吹きだしてしまった。
「ああそうか、蛍太郎さんがいないんだもんな。カップめんとか、ないんですか?」
「うちの台所、インスタント食品って無いんです。あとはお菓子くらいで…」
「ああ、そう…」
 相手がお嬢様だということを思い出して、トウキはタメ息を吐いた。だが、これで斐美花が訪ねてきた理由も判った。
「それで、ウチで何か食べようってワケですね? って、綺子さんはどうしたんですか?」
 綺子も家で腹を空かせているなら斐美花だけに食べさせるわけにもいかない。それには、斐美花は首を振って答えた。
「綺子は、彼氏のところに泊りだって。今日こそモノにしてやるとかなんとか、息巻いてました」
「ああ、そう…」
 斐美花が見た目にそぐわぬ事をサラリというので、トウキは思わず顔を赤くしてしまった。それを見た斐美花も、自分が言ったことの意味に気付いて顔を耳まで真っ赤に染める。
 このまま黙っていても仕方ないので、トウキはぎこちない笑みを浮かべながら言った。、
「と、とにかくさ。何か作るよ。オレも夕飯まだですし」
 それを聞いた斐美花は、バラのような笑顔をいっぱいに弾けさせた。
 
 
7−
 晴間町と呼ばれる住宅地の外れにあるレストランテ・貴婦人亭は、イタリアから来たオーナーの手による本場に近い味わいを売りとする人気の店だ。派手に行列が出来ることはないが、十一時の開店から客が途切れることはない。平日水曜の午後でも、十あるテーブルのうち三つが既に埋まっていた。
 そのうちの一つに、蛍太郎と侑希音がいる。
 昨日、ブラーボの協力を取り付けた経緯を蛍太郎から聞かされた侑希音は、苦笑しながら頷いた。
「少々釈然としないが、取引ならしょうがないな」
「べつに、バレてもどうって事無いような気もしないでもないんだけどね」
 蛍太郎も苦笑交じりである。話が途切れると、蛍太郎は厨房へと視線を送った。
「ああ、今日はオーナーいるんだな。気兼ねなくここに来られるようになるのをずっと待ってたんだよね。二月以来だからなぁ…」
 蛍太郎は水の入ったグラスにチミチミと口をつけながらメニューをめくる。ここのコースはパスタとピッツァのどちらかから好きな物を選べるシステムになっているのだ。
「ふーん、どういうこと?」
 侑希音はこの店に来るのは初めてだ。
「それは…オーナーと僕の心の傷をえぐることになるから、言えない」
 蛍太郎は目を逸らすと、そう言った。間が悪くなったので侑希音は店内を見渡してみた。このあたりは比較的土地が余っているため、ゆったりした作りが可能だ。木の床と白を基調にしたインテリアが明るく清潔感のある空間を作り出しており、店主はなかなかのセンスの持ち主であることが窺える。
 頼んであったコーヒーがくると、ふたりはそれぞれ口をつけた。
「お。いいじゃん」
 侑希音が感嘆の声を上げると、蛍太郎は自分が褒められたように笑みを浮かべた。一息ついてから、侑希音が口を開く。
「そういえばさ、結局のところイスマエルの目的って蔵太文庫だったのか?」
 蛍太郎は肩をすくめた。
「あんなのの考えることなんて判らないよ。
 いつものルートである程度調べてはみたけど、イスマエルと蔵太巽に接点は無いみたいだ。まあ、蔵太氏の絶頂期に彼はまだ子供だったわけだから、当然といえば当然だけどね。
 文庫は、弟子ながら素行に問題のあったフランチェスカ・マリピエーロなる人物には引き継がれず、それどころか蔵太氏が亡くなる相当前にあちらの記録から消されている。けど、お義父さんの記憶によれば、そのころには既に藤宮家の土蔵深くにしまいこまれていた。しかも、目録は蔵太氏の頭の中にしか存在しなかったらしく、あれが全部なのかも判らないわけで…。
 いずれにせよ、魔術師協会の関係者でその現存を信じるものは居ないと言っていいだろう。もはや伝説みたいなもんだね。…侑希音さんが喋ってれば話は別だけどさ。
 以上、受け売りだけど」
 侑希音は小さく笑ってから、後に続けた。
「確かに、この町に蔵太巽の孫が居るということを知り、文庫との関連性を勘繰ったとしても不思議ではないね。でも、それくらい、魔術師協会が調査していないとでも思ったのだろうか? 地域差はで密度は異なるけど、少なくとも小国の諜報機関くらいは網を張ってるんだぞ。どうも、動機としては弱いな。追いつめられて藁にもすがったか?
 いずれ、いかなる魔術師協会の影響も受けない地域の一つということで、日本を選んだという結論に落ち着くのかな。何故この町か、という問題は残るけどね。
 ま、もう済んだことだ。金も朝イチでもらったし、ヤツのことは忘れよう。せっかくの食事が拙くなる」
 予定の成功報酬はでなかったが、自前のエージェントが失敗した任務を代わりに達成したということで、それなりの額をせしめることが出来たらしい。経費は当然あちら持ちということあり、ミロの賃金を差し引いても充分な黒字を記録したと、侑希音は上機嫌だった。もっとも、払いは日本円ではなく、振り込まれたのも海外の持っている銀行口座である。
「それから、貴洛院玲子の弟の件はどうなった?」
「あれはね、夜のうちに詫びの電話が入ったよ。基親君、ネットカフェで寝落ちしてたそうだ。姉上はお冠だけど、彼もストレスが溜まってたんだろうね」
 蛍太郎はお叱りを受ける覚悟は出来ていたが、それに対する侑希音の反応は実にあっさりとしたものだった。
「ふーん、そう」
 機嫌が良いからだろう、微妙な案件もさらりと流してくれるのはありがたい。と、思いきや痛い皮肉が飛んできた。
「ま、璃音のストレス解消には尽力してくれてるようで。感謝してるよ、蛍太郎君」
 蛍太郎は一気にコーヒーをあおった。それを見て苦笑した侑希音は、話題を変えることにした。いつまでも事件の話でもない。
「あ、斐美花と璃音はいつ来るんだっけ?」
 渡りに船とばかりに、時計を見る蛍太郎。
「もうすぐだよ。予定では、授業終わった後、斐美花ちゃんが璃音ちゃんを連れて来ることになってる」
 璃音は休養のために学校を休んだ。その休養の一環ということにして、今日はここで姉妹揃って食事ということになったのである。蛍太郎が駆りだされたのは店の案内と運転手、そして璃音の保護者としてである。
 蛍太郎の発言を聞いた侑希音は目を丸くした。
「でもさ、斐美花ってずっと家に居たよ。なんか、部屋に篭って出てこなかったけど…」
「うわ。ホント?」
 蛍太郎も驚く。思い返してみれば、朝に今日の段取りを話した時にどこか上の空な顔をしていたし、熱っぽく見えたような気もする。家に連絡を取るべきか考え始めたところに、ドアが開いて見知った顔が現れた。
「こんにちわー」
 元気な笑顔の璃音と、それにつづくのは斐美花だ。やはり目線が定まらないように見えるが、ちゃんとここまで来られたのだから問題は無いのだろう。
 ふたりが席につくと、蛍太郎はウェイトレスを呼んでコースを四人分注文し、さらに璃音のためにピッツァ・マルガリータを二枚注文した。
 ウェイトレスが離れると、蛍太郎は気になっていたことを訊く。
「璃音ちゃん、調子どう? 斐美花ちゃんも、ちょっと具合悪いみたいだけど、大丈夫?」
 璃音は満開の笑顔で答えた。
「だいじょうぶ。今でも、普通にしている分には何ともないよ。明日には全快してると思う」
「そう、良かった」
 蛍太郎も笑顔で頷く。璃音はパワー切れを起こすと回復に時間がかかる。飛んだり出来なくても大した問題は無いが、視力にも関わってくることだ。現に、今の璃音は軽く度の入ったメガネをかけている。それが可愛らして、蛍太郎の顔が緩む。
 斐美花はというと、やはり上の空だったのか慌てて答えた。
「え? うん、なんともないよ、平気」
 それを聞いた璃音も心配そうに斐美花を見上げる。
「斐美お姉ちゃん、顔赤いよ」
「そんなことないよ、うん」
 斐美花は自分にも言い聞かせるような調子で、何度も頷きながら答えた。斐美花の様子を黙って見ていた侑希音は確信に満ちた眼差しを妹に向け、言った。
「えっちなことしたか?」
 斐美花の顔は、イタリアントマトさながらに真っ赤になった。
「お。図星だ」
 手を叩いて大喜びの侑希音。璃音も感激ひとしおで斐美花の顔を覗き込む。
「おおー、ついにやったね。相手はやっぱり、中村さん?」
 長い長い沈黙の末、斐美花は小さく頷く。それを凝視していた侑希音はしみじみと噛みしめるように言った。
「そうか彼か。一人遊びの女王をおとすとは、やるじゃないか。一目見たときからね、あの男は只者じゃないと思ってたんだよな。まあ、根拠は無いんだけど。
 で、どんなだった?」
 具体的な説明を求める侑希音。当然、斐美花は黙り込み、顔を赤くして俯いてしまっていた。そしてそれは、ピッツァを持ってきたウェイトレスも同様だった
「あの…ピッツァ…の…お客様は…」
 斐美花の方をチラチラと見ながら、小さな声を出す。それで初めて、一同は彼女の存在に気付いた。
「はいはい、わたしー」
 それを聞いた璃音は子供のように無邪気に手を挙げた。そして、目の前に置かれたピッツァを心底幸せそうに頬ばる。その姿は餌を与えられた小動物のように愛らしい。少し間をおいてから、璃音は口の中に広がるチーズとトマトのハーモニーにうっとりとタメ息を洩らした。
「ああん、すてきー」
「あの、もう一枚はいつ…お持ちしましょうか?」
 動揺を隠せない表情で訊くウェイトレスに、璃音は笑顔で答えた。
「焼け次第ジャンジャン持って来てくださーい。あ、その次はシチリアーノをお願いしますねー」
 それを聞くなり、ウェイトレスは真っ直ぐ奥に引っ込んで行った。後姿を見送り、侑希音は呟く。
「聞いてたんだな、ありゃ…」
「なにを?」
 だが、璃音は屈託無く首をかしげている。侑希音はぞんざいに応えた。
「…なんでもないよ」
 それから、斐美花の方へ視線を向けると、
「えっと、お手洗いに…」
 と、だけ言い残し、そそくさと席を離れていった。
「思い出したんだな…」
「なにを?」
 呟く侑希音と首を傾げる璃音。侑希音は、本当に何のことだか判っていない顔をした妹を見ながら、投げ遣りに言った。
「そりゃ、あれだろ」
「あれかぁ」 
 よく判らないままに頷く璃音。その手元の皿の上に残されているのは、もはやこぼれたトマトソースのシミだけだ。今日これからのことを考えると、侑希音にとっては背筋が寒くなるような光景である。
(あー、ピッツァ何枚食うんだろうな、コイツ…)
 蛍太郎はというと見慣れた光景なのでなんとも思わず、璃音の食べっぷりを呆けたように眺めていた。
 直後、二枚目のマルガリータが到着した。だがそれも、あっという間に璃音の胃袋に収まっていく。本当に心底美味そうに食べるので、侑希音は璃音が羨ましくなってしまった。ダメでもともと、お願いしてみる。
「ねえ、ひとつちょうだい」
「うん、いいよ」
 即答だった。
「いいの?」
「うん」
 状況にもよるが、璃音が自分の食べ物を分け与える人間はごく一部の彼女にとって大切な者だけだ。自分がその中に入っていたことに感謝しつつ、侑希音はお言葉に甘えて一切れ頂戴した。それは本場の味を標榜するだけだって、イタリアの屋台で食べたピッツァを超える味だった。
「へえ、たいしたもんだな。私もピッツァにしようかな」
 そう言って、侑希音は三枚目のピッツァを焼いているであろう厨房の釜に視線を向けた。ふと、そちらの方からこちらを覗き込んでいる男と目があう。格好からしてシェフとしか思えないが、見た目からして日本人ではない。黒髪でラテン系の容貌なので、おそらくオーナーだろう。侑希音はとりあえず、軽く会釈をしておいた。すると、相手は凄まじい勢いでテーブルに駆けつけた。「いらっしゃいませ。オーナーのジャンカルロ・ナターレです。私の事は親しみを込めてカルレットとお呼びクダサイ。Mr.クリスマスでもOKデスヨ」
 侑希音の手をとると、優雅に一礼した。
「あ、どうも。おじゃましてます」
 雰囲気に呑まれ、ぎこちない返事を返す侑希音。カルレットと名乗る男は三十代前半だろうか。ラテン系らしく濃いめで面長の鼻筋が通った顔立ちをしていて、緑の瞳がイタリア人らしい底抜けの笑顔によく映えていた。侑希音は特に外国人を好みはしないが、この男は充分にストライクゾーン圏内だ。背はさほど高くないが、いまさらそんなことは気にならない。そのうえ商売にするほど料理が上手いというのは、本来そっち方面は全くダメな侑希音にとっては魅力的な要素だ。彼女のパワーは何故か、家に帰ると全く効かなくなってしまうのである。
(ちょっといいかも…)
 この状況、まんざらでもない。だがそれも、蛍太郎の一言で吹き飛んでしまった。
「カルレット、奥さんに言いつけるよ」
 沈黙。
「はははは。蛍太郎、それは無しでタノムヨ。で、このご婦人は?」
「璃音ちゃんのお姉さんだよ。侑希音さんっていうんだ」
「ん〜、そうなんですか。侑希音サン、ヨロシクネ」
 カルレットは、屈託無く侑希音に微笑みかけた。侑希音は笑顔を返したが、内心では舌打ちしていた。
(ちっ…既婚かよ。だったらあんなことすんなよな…)
 腹立ち間際に一言毒づく。
「蛍太郎君、ワザとやってるのか?」
「な、なにがですかっ!?」
 突然の事に慌てる蛍太郎。侑希音は意地悪く口を尖らせた。
「べつにー」
 そんな侑希音から逃れるように、蛍太郎はカルレットの挨拶に応じた。
「それにしても蛍太郎、久しぶりデスね」
「そりゃまあ、ねえ…」
 二人は顔を見合わせて苦笑していた。
「エウロが始まったら、またいつものやるから来てクダサイね」
「もちろんです。今度こそ優勝ですからね」
「アッタリメぇよぉ。では、順次お運びしますね。
 そういえば、今日はあの方もご予約いただいてるんですよ」
 蛍太郎は、少し考えてから言った。
「ああ。亜沙美さんね」
「そうです。私の腕を高く評価してくださっているのは嬉しいのデスけどね」
「機嫌良いときは大丈夫だよ。亜沙美さんも誰彼構わず因縁つけるのが趣味ってわけじゃないですし…ねえ?」
 突然話を振られ、侑希音は曖昧に頷いた。亜沙美もここの常連のようだが、なにか粗相でもしたのだろうか。彼女のことだから、メシが不味いと言って揉め事を起すことはあっても、評価している店で暴れるとは思えない。侑希音がそんなことを考えていると、当の本人がドアを開けて現れた。
「ヴォンジョルノ〜」
 幸い、蔵太亜沙美はご機嫌だった。早速藤宮一家の隣の席に着くと、カルレットに声をかけた。
「いやぁ、やっとここに来られるようになって嬉しいよ。私なりに気を使ってたんだぞ。それよりもエウロだが、いつものやるんだろ」
「もちろんデス」
「よし、諸共に頑張ろうではないか。その心意気に免じて期間中は毎日食いに来てやろう」
「ハイ、お待ちしてマスヨ」
 亜沙美とカルレットが仲良く話しているので、蛍太郎は安堵した。しかし侑希音は腑に落ちない様子だ。
「なあ、蛍太郎君。仲良いじゃないかコイツら。いったいどんなを心配してたんだ? あと、さっきから言ってるいつものって何だ。順繰りに説明してくれ」
 蛍太郎はそう言われてようやく、連れが初めての来店だと言うことを思い出した。
「ああ、そうか。すいません。カルレットは熱烈なユヴェンティーノなんだ。で、試合に勝った翌日にスコアと得点者の名前を言うと一割引、ユニフォームを着てくると二割引という隠れサービスがあったりするんだよ」
 ユヴェンティーノとは、イタリアサッカーの名門クラブチーム、ユヴェントスのファンの愛称である。イタリア人の半分はユヴェンティーノだと言われているが蛍太郎の父もその例外ではなく、筋金入りの三代目としてクルヴァ(ゴール裏)に熱狂を伝染させてきた。もちろん、四代目の育成にも抜かりは無かったというわけだ。
「なるほどねぇ…君にとってはいっぺんで二度おいしい店なわけだ」
 頷く侑希音。そこに亜沙美が口を挟んできた。
「まあ、私はそんなセコいサービスに頼らなくても、普通に金払って食うけどね。ここの料理にはそれだけの価値はあるさ」
「…そういうことは、ちゃんと土地使用料とか払ってから言えよな」
 侑希音の言葉を無視して、亜沙美が続ける。
「だけど、一昨年のモッツァレラ増量祭りは行き過ぎだったと思うぞ。サービスするのは構わないが、料理の味が変わっちゃってたじゃないか」
 たぶん、そのときに活躍した選手がモッツァレラチーズを好きだったのだろう。それくらいは侑希音にもすぐに想像がついた。そして蛍太郎と亜沙美が久しぶりの来店となった理由にも合点が行った。
「成績悪かったんだな、今シーズン」
 それを聞いた蛍太郎とカルレットは俯いてしまう。反対に亜沙美は、気持が悪いくらいに満足げな笑みを浮かべていた。亜沙美の育ちはイタリアのミラノなのだという。
「うん、話は見えた。エウロってのはEURO2004のことだな。私があっちにいたとき、丁度予選やってたと思う」
「そう、それ。サッカー欧州選手権。もちろん、イタリア代表も出るからね」
「じゃあ、その期間中はイタリアが勝つごとに割引か…。そんなことして大丈夫なのか?」
「大丈夫です。日本の人って、言うほどスポーツに興味アリマセンから」
 カルレットはそう言い切った。
「なるほどなぁ…。ところで、イタリアはどれくらい勝ち進めそうなんだ?」
 侑希音はサッカーにはさして関心もないが、話し合わせ程度に訊いてみた。勿論、それに対する答えは三人とも同様だった。
「優勝するに決まってるじゃないか!」
 以後、イタリア代表の強さと不安要素について延々と討論が始まるのだが、侑希音は完全に蚊帳の外だった。仲間ハズレついでに、カルレットに向かって「仕事しなくていいのか?」と言ってやろうとしたが、この手のイベントは始まる前に色々語るのが一番楽しいのだろうと思い直し止めておいた。ちなみに侑希音の場合、こういう時はオッズの高いところを幾つか見繕って一万円づつ賭けておくのが習慣である。だが、そんなことを口にしたら冒涜ととられそうなので何も言わないでおいた。それで後に約八十万円の臨時収入を得ることになるのだが、それはまた別の話である。
 喋るだけ喋ってカルレットが引っ込むと、しばらくしてメインのパスタとピッツァが立て続けにやってくる。蛍太郎と、いつの間にか合流していた亜沙美にはスパゲティ・ペスカトーレ。侑希音にはピッツァ・シチリアーノ。璃音にはボロネーゼとゴルゴンゾーラのフィットチーネ。どれもボリュームタップリで、トマトの鮮やかな香りが食欲をそそる。テーブルの一角からは強烈なブルーチーズの匂いがするが、それに難色を示す者はいなかった。
「うーん、まさに塩辛チーズだよね」
 ピッツァを頬張った侑希音は満足げに頷いた。アンチョビーとチーズの独特な風味の組み合わせがワインの減りを加速させる。
「…やっぱ飲むねぇ…」
 蛍太郎が小さく感嘆の声を洩らす。だからといって酔うわけではなく、侑希音は最初に会った時の物腰を保ったまま、ハッキリした口調で話している。さすがに頬には赤みが差していたが、それも彼女の美しさを引き立てるばかりだ。
 それを見ていた斐美花が、ハッと手を挙げる。
「私も飲む!」
「そういや、斐美花も二十歳だもんなぁ」
 侑希音はしみじみと目を細めて、ワインをグラスで注文した。程なくやってきたグラスがあっという間に空になるのを見て、蛍太郎は背筋が寒くなる思いがした。三年後には、璃音も二十歳である。その璃音の前では皿が二つ、空になっていた。
 侑希音は、相変わらずの妹の健啖ぶりに感心せずにはいられない。ここのボロネーゼはソフリット無しで甘さ控えめなのとナツメグが良く効いているために、ボリュームがある割にはツルツルと胃に収まる逸品である。だが、多めに入った挽肉によって満腹感は充分に得られる。もう一皿。ボロネーゼの比ではないほどへヴィなゴルゴンゾーラもだ。しかも、パスタが来るまでに何枚かのピッツァを食べきっている。
(色気づけば、すこしは変わると思ったけどなぁ)
 自分の飲みっぷりは棚に上げて、侑希音はタメ息を吐いた。
 蛍太郎はというと、呆けた状態で顔を硬直させたままピクリとも動かない。そんな彼に、同じメニューを頼んだ亜沙美が言葉をかける。
「おい、エビも貝も美味いぞ。さっさと食べろって」
「え…? ああ、はい」
 言われてフォークを動かすが、心ここに在らずといった様子だ。
「見慣れるってことはないのか、君は…」
 呆れたような面持ちで侑希音が言う。
 だが、そんな言葉も耳に入っていない様子で、蛍太郎は璃音を茫洋と眺めていた。璃音の前にはたった今運ばれてきたばかりのペペロンチーノがある。ニンニクとオリーブオイルが香ばしく食欲をそそる…の、だろう。空腹ならば。さすがに、デザートを残すのみとなった一同の胃袋は芳しいリアクションを起しはしなかった。ただひとり、璃音をそれを除いては。
 鼻をひくひくさせて香りを楽しんだ後、璃音は満面の笑みを浮かべてパスタを口に運んだ。
「はぁ…おいしい…」
 璃音は幸福を体現化したような微笑で喜びを表現した。そして、どんどん食を進めていく。一口が意外と大きいが行儀自体は非常に良いので、大食いにありがちな汚さや、いかにも食べ物を粗末にしている感じが無いのが璃音の特徴だ。それに素直な感情表現もあいまって、食べている物を無闇に美味しそうに見せてしまう。今回はコース料理だったので事なきを得たが、店の形態によってはつられて食べ過ぎる者が続出するだろう。
 そんな彼女の姿に、蛍太郎は陶然と呟いた。
「可愛いなぁ…璃音ちゃん…」
 侑希音と亜沙美は顔を見合わせて『お手上げ』『勝手にしろ』と肩をすくめた。だがそれにも気付かず、蛍太郎は呆けたまま。璃音はようやく蛍太郎の視線に気付き、首を傾げた。
「けーちゃん、食べる?」
 そう言うと、皿の上のパスタをフォークで二つに分け始めた。その様子も可愛らしくて、蛍太郎の頬はさらに溶けて緩んでしまった。
「いいよ。全部璃音ちゃんのだよ」
「ありがと」
 璃音は満面の笑みで感謝を表すと、食事を再開した。
「なあ、璃音」
 もはや使い物にならない蛍太郎に代わり、侑希音が訊いた。
「あとどれくらい食べる?」
 改めて訊かれて、璃音は自分のお腹をさすりながら考え込んだ。
「だいたい腹八分目って感じだから、もういいよ」
 一瞬の沈黙の後、侑希音はウェイトレスに声をかけた。図らずも歴史の証人となってしまったウェイトレスは神妙な面持ちで厨房に引っ込んで行く。
 侑希音は無意識のうちに呟いた。
「どんだけ食べたんだ…」
 それを受けて亜沙美がニヤニヤしながら訊く。
「そうだな、ここらで確認してみようじゃないか」
「…うげ」
 できれば先送りにしたかった辛い現実を前倒しで確認しなければいけなくなり、侑希音は呻いた。蛍太郎も夢から引き戻されて顔を青くしている。
「食った本人に訊くか。おい璃音、単品で頼んだメニューを全部言ってみろよ」
「えーと、ピザがねぇ…マルガリータ二つ、シチリアーノ二つ、あとペパロニでしょ、生ハムと白桃。パスタは、アラビアータとカルボナーラとボンゴレ・ヴェルデ、それからボロネーゼ、ゴルゴンゾーラ、最後にペペロンチーノだよ」
「あれ、そんなもんだっけ?」
 計算の結果予想外に安価に済んでしまい、蛍太郎は拍子抜けてしまう。前半戦にピッツァを集中させたのが勝利の鍵だったということか。
「ワリカンだったらもっと食べてくれても大丈夫だったね」
「えっ、いいの? 次のお店行く?」
 思わず身を乗り出す璃音。だが侑希音は首を振った。
「あんま日本円の持ち合わせないんだよね、私。…夏休みにでもユーロとかレアルとか通用するところで死ぬほど食わせてやっから、今日はこの辺で勘弁してくれ…後生だから」
 最後には、殆ど命乞いめいた口調になってしまう。
「はーい。じゃあ、約束だよ」
 璃音はあっさりとその命乞いを受け入れた。知らないうちに何か約束させられている気がするが、今が乗り切れればそれでいい。侑希音は手を合わせて璃音に感謝した。
 少しして、デザートのブルーソルトジェラートが次々とテーブルに並べられていく。可愛らしいガラスの器にブルーグリーンのアイスがちょこんと乗っており、飾りのミントの葉がお洒落だ。だが、最後に運ばれてきたモノを見て侑希音は絶句した。
「おい、おい、おい! ちょっと待て! なんだその可愛くないシロモノは! 」
 震える指が指し示す先、ウェイトレスが持っているのはピッツァに使う皿で、その上に通常の四倍盛りのジェラートが鎮座していた。これが璃音の分らしい。
「あ、これ…サービス…です…」
 驚きに震えるウェイトレスの声を聞いて、侑希音は平静を取り戻した。
「そうか…なんだ、そうか。そうならそうと先に言ってくれよ…心臓に悪いって」
 全員分が揃ったところで食事再開。続けて亜沙美にはコーヒー、それ以外にはエスプレッソが届きコースは全品到着となった。
「いやぁ、いいなぁ、これ」
 気を取り直し、ジェラートを口にした侑希音が嘆息した。僅かな塩味が上品に甘さを引き立てている。
「おいしーい」
 そして、相変わらずの食べっぷりでジェラートの山を突き崩していく璃音。
「…やっぱよく食う…」
「可愛い…」
 見ているだけで胸焼けしそうなほどの量に辟易する亜沙美と、また呆けモードに入った蛍太郎。璃音は、周りが一人分を食べきるのと同じ時間で四倍盛りを平らげた。そして、おもむろにエスプレッソに口をつける。
「ああ、そういやブラックでいいんだったな」
 意外といった風に驚く亜沙美。確かに璃音の見た目なら、コーヒーに砂糖を山盛りにするイメージを持っても不思議ではない。
「砂糖なんか入れたら、何を飲んでるか判らなくなっちゃいます」
 璃音は素材の味を生かした料理が好みで、過剰な味付けは苦手としている。だからコーヒーは常にブラックで紅茶はストレート。そして今日のような料理はまさにストライクゾーンのド真ん中だ。
 そういうわけで、お食事会はただ食べるだけで終了を迎えたのだった。
 

 
 里山のさらに向こう、人の出入りのほとんど無い山中の道なき道を奥へ奥へと進む。しばらく歩くと森を抜け、頭上を覆う物が無くなった。一日で最も暗いとされる夜明け前の空が現れる。足元は背の低い草で覆われているが、全てが闇に溶けた暗く広い虚でしかなかった。ここは蕎麦の群生地で夏には一面が白く染まるのだが、そのようなことをイスマエルが知る由もない。
 さすがにシェルの破壊を潜り抜けただけあって身体の節々が痛む。戦闘中は忘れていた痛みが、状況と外気の冷え込みで余計煽られている気がする。
 魔術師は草原に崩れるように座りこむと、落ち窪んだ目で自らの右腕…があった空間を呆然と眺めていた。
 状況はまさに前代未聞で、かつ恥辱に満ちたものであった。
 以前ならば、常人では致命傷となるほどに損ねられても短時間で治癒してきた肉体が、今回に限っては全く修復術式が働かないのだ。
 シェルへ加えたのと同様の性質を持つ効果が右腕の傷にもたらされたことは確実なのだが、手持ちのあらゆる方法を試しても治癒しないなどということは、過去に無かった。この際、腕を丸ごと元通りにしたいなどと贅沢は言わないから出血くらいは止まって欲しいのだが、血管からは血液が流れっぱなし、肉は固まることも膿を出すことなく、いつまでの新鮮なままの切り口を晒し続けている。肩口を縛ってはいるが、やはり血が止まらないのは傷口に何の変化も現れないからだ。
 そのうえ魔力の回復が異常に遅い。そのために、移動に必要な魔力が回復するまで休息を余儀なくされていた。
 今。イスマエルは最後の望みを賭けて、ここにいた。
 
『是非も無きことに陥らば、我が元に参られよ。
 "フランチェスカ・マリピエーロ"』
 
 マリピエーロとは、アカデミー時代にイスマエルが師事していた者の知己である。師匠の知り合いという程度なのでイスマエルは詳しいことは知らないのだが、その素顔を知る者は当時の協会内でも極僅かで、女であることと剣を振るう象徴機械を駆ること以外、謎の包まれた人物であった。
 イスマエル自身も会ったことは数度のみ。だが、その力の一端を見ることは出来た。彼女が操る、凄まじいまでの切れ味の剣を振るう象徴機械は、イスマエルの魔術師としての方向性に少なからぬ影響を与えている。だが、マリピエーロが消息を絶ったために、それ以上の接触はなかった。
 そのマリピエーロからの手紙が届いたのは、イスマエルがイーストブロムウィッチでの潜伏生活にピリオドを打たれようとしていたころだった。追っ手の気配を察知していた彼は、その提案に乗った。
 日本行き、である。
 魔術師協会の手が届かない地域は幾らかあるのだが、異系統の魔術に対して寛容を通り越して無関心な日本への逃亡は充分に魅力的だった。
 ある程度の段取りは既につけてあり、イスマエルはそれに黙って従うだけで日本にたどり着けるし、この場所でマリピエーロと合流しさえすれば良い筈だった。もちろん、イスマエルとて"師の知己"とやらを完全に信用していたわけではない。いざという時に備えて船上のコンテナ内や上陸後の潜伏先を利用してアディッショナル・シェルを構築した。こうして二体のシェルを完成させた事で、イスマエルは単独での行動を選択した。自力で生きていけるだけの力を手に入れたと考えたのである。
 だが、予想外の追跡者と衝動を抑えきれずに食った道草が仇となり、イスマエルは命からがら逃げ出して、今に至る。
 もっとも、今ここに来たところでマリピエーロと出会う可能性はいかほどのものか、イスマエルにも判らない。向こうが待ち合わせの期日を指定してこなかったことだけが唯一の希望なのだ。何らかの方法で、ここにいる自分の存在を察知して彼女がここの現れるのではないか。そう思えばこそ、ボロボロの体を押してここまで来たのだ。
 そして、その望みは叶えられた。
 いつから、そこにいたのだろう。女が一人立っていた。
 長い黒髪を闇に溶かし、衣は昏い空の下にあっても鮮烈なまでに紅く、そして白磁の如き面差しに黄金の瞳を輝かせ、その女はイスマエルを見おろしていた。
「貴様…」
 あたりに響くほど、イスマエルの歯が軋む。
 蔵太亜沙美が眼前にいた。
「やあ、よく来たね。大したしぶとさだ」
 亜沙美が微笑む。イスマエルは半ば恐慌状態で叫んだ。やつれた顔がますます鬼気迫るものへ変貌していく。
「どういうことだ、何故貴様がここにいる!? ここは…ッ」
「ふむ。私には名前がいくつかあってね。あれは私がアカデミーに出入りしていた頃の名だ。そのほうが、お前には通りが良いだろう? それに、こうして本人が出向いているわけだから、別に騙したわけでもない」
「ふざけるな! そんな妄言ッ。貴様、象徴機械を見せておきながら、今更何を言うか。象徴機械は…」
 亜沙美の笑みが消える。
「そうだ。象徴機械は一人一体。魔術師が持つ、無意識のものを含めた願望を雛形としているために、その形状は不変。たとえ名を変え容貌を偽っても、象徴機械の姿だけは変わらない。変えようとしても変わるものでもない。成長に伴う変貌はあるが、それもマイナーチェンジにすぎない。
 だからこそ、アディッショナル・シェルが必要とされるが、魔術師であればシェルの有無は一目でわかる。そうさ、あの時に見せた象徴機械はまさに本物だ。そして昨日、お前と戦ったときの物もな。…まあ、色々あって形も名前も全く違ってしまったけどね」
「そんな…」
「お前の置かれている状況を説明してやるよ」
 そう言った直後、アームズオペラの剣が閃いた。
 イスマエルの右腕が、さらに一センチ切り落とされた。殆ど痛覚が麻痺していたイスマエルは、厚切りのハムのようになって草むらに落ちた肉の塊を呆けたように見つめていた。
「ほら。それで血は止まる。だが、腕を再生させるのは無理だ。全く新品の肉体を一から再構築するか…それができないなら義手でも作るしかないね」
「どういうことだ…。あの小娘の…あれは…」
「アヴァターラだ。聞いたことくらいはあるだろう。魔術師の祖たるものが持っていたとされる特殊能力さ。面白いことに、アジアにはこの能力を受け継いだ家系がかなり残ってるんだよ。複数の神を容認する環境がそうさせたのだろうね。
 ん、話が逸れたな。
 あの娘が黒い剣の形にして使った能力は本来、"物体の本質を書き換えてしまう"ものだ。いつも使っている修復能力の裏返しだな。けど、種々の制限から"効果が及んだ箇所を無かった事にする"程度のことしか出来ない。ま、あの子自身は、まだ人であって神じゃないからね。しかも、その効果範囲は極めて狭い。だから刃物としてしか使えないんだ。
 こいつを私は"Radical Eraser"と名付けてやったが、何でも壊せる上に、元に戻らないのだから、正直な話、私以上の力だね。
 つまり、それで斬られたお前の右腕は、その途中でぶった切られた形こそが本来の形になってしまったんだよ。だから、いかなる修復術式を施したところで意味は無い。代謝を異常活性させようが時間を逆行しようが、別の物になってしまったのだから元に戻りようが無いのさ。蝶を芋虫に戻せないようにね。それこそ、神様に頼むしかない。
 まあ、時間はかかるけど、元に戻そうと思わなければどうとでもなるさ。経験者は語るってヤツ」
「経験者…?」
 首を傾げるイスマエル。亜沙美は自嘲気味に笑う。
「"私"が蔵太亜沙美になった理由がそれだ。名前を変える必要は特になかったんだが、せっかく新しい身体になったのだし、心機一転ってやつさね」
「なるほど。死んだ時に備えてセカンドボディを用意していたわけか。だが、なぜその名なのだ。蔵太巽からは破門されたと聞いているが?」
 その問いに、今度は楽しげに笑う亜沙美。 
「そりゃ、"美しかったから"というだけで、自分の娘を勝手にセカンドボディに改造されれば、キレるだろうし破門にもするだろうさ」
 とにかく、相手が自分の求めていた相手と知り、イスマエルは安堵のタメ息をついた。なぜ亜沙美が自分に刃を向け続けていたのか、疑問は残るがマリピエーロとイスマエルの関係を秘匿するための一芝居だと思えば納得できないこともない。その考えに裏づけを与えるように、亜沙美が言った。
「そういうわけでさ。私がフランチェスカ・マリピエーロとしてお前を手引きしたことを知られるのは都合が悪いから、剣を向けたりしたわけだ。…お前は本気で私を殺すつもりのようだったが、こっちは適当なところで逃すつもりだったんだぞ。
 それに、あのシェルに止めを刺す役は、本来は私のものだったんだ」
 相変わらず、亜沙美は笑みを浮かべていた。
 だからといって、イスマエルの身の安全が保障されたわけではない。臙脂色の魔術師はすぐに恐怖に身を凍らせることになる。
 亜沙美が表情を一転させ、こう言ったからだ。 
「それもこれも、ここでお前を始末するためだ」
 ツララを突き立てられたような悪寒にイスマエルの背骨が凍りつく。あまりの威圧感に押し潰されそうになり、腰をついたまま後退する。
「なんで…」
「私が欲しかったのは限りなく純度の高いメタイリジウムだったんだよ。それを作れるのは地球上には一人だけ。だけど極めて簡単なことに、そいつに人間解体をやらせれば手に入る。利用しない手は無いだろう。
 つーわけで、喜べ。お前は私の踏み台だ」
「そんな…、勝手な…ふざけるなッ!」
「ごもっとも。だから、いいよ。抵抗しても」 
 亜沙美とアームズオペラが一歩前に出る。
「く、くっそぉぉぉぉぉ―――ッ!!」
 残された魔力をかき集め、イスマエルは立ち上がる。そして叫ぶ。自らの力の象徴を顕現させる、あの呪文を。
「レニト・レコノ・レネカ・レカーザ・レケネン・レコルネ・イラ!来たれ、鏖殺の剣よ!黒き旋風となりて、尽く殴殺せよッ!」
 光が弾け、そこにイスマエルの象徴機械が現れる。
「フン、なめるなよ。シェルを失ったとて、スナッフ×スナッフは易々と負けはせん!」
 だが、亜沙美は腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしい!」
「ククク…それで負けないとは、意外と不屈な熱血漢だな、お前は。それとも、何も判っていないのか? …己の象徴機械をよく見ろ。そうすれば、魔力が落ちた理由も判るだろうよ」
 イスマエルは振り返る。そこにあったのは信じがたい光景だった。
 スナッフ×スナッフは右腕を失い、胸に大穴を開けられたままだった。
「な…ぜ…」
「何を言っている。ちょうど一日前に叩き斬られたじゃないか。それにより根源的な情報を破壊されたんだ。だから、そいつはもう、永久にそのままだよ。
 そして力の象徴、すなわち魔力の開放路を破壊されたお前は、もう以前のように術を使うことはできない。そう、魔力が回復しないんじゃあない。お前はもう、魔力を使えなくなったんだよ。
 …でもまあ、幾らかは漏れ出てるみたいだけどね。潰れてひん曲がった蛇口からでも水は出るからな。そういうことだ」
 魂消えるような、声にならない悲鳴を上げてイスマエルは膝をつく。それにあわせるように、スナッフ×スナッフの半身が崩れ、弾けて消えた。
 それは、魔術師イスマエルの終焉を告げる鐘だった。
 亜沙美は無言で、アームズオペラに剣を抜かせた。
「じっとしていろ。介錯くらいはしてやる」
 しかし、イスマエルは首を振ってそれを拒否した。
「嫌だ! 死にたくないッ、殺されてなるものかァッ!!」
 半身だけのスナッフ×スナッフがイスマエルの手を引き、宙に浮かぶ。そして、真っ直ぐに森の中へと飛び去った。亜沙美はそれを、少々驚いた様子で見送った。すると樹木が揺れ、インヴィジブル・テラーの首が現れた。首は向きを変え、ふらふらと飛び去っていく。
「ほう…あれでも飛べるのか。璃音のヤツ、私のときと違って手ェ抜きやがったな」
 ディスコンテを召還しアームズオペラと合体させると、亜沙美はそれに乗ってゆっくりと後を追った。
 
 インヴィジブル・テラーの首は脱出装置としても機能するように単体での飛行機能を備えている。だが、一向に上がらない魔力のお陰で半分のスピードも出ない。それでもイスマエルは必死に加速をかける。
 一刻でも早く、少しでも遠く、あの魔女から離れなければ―! 
 身体の痛みはとっくに忘れていた。生存本能か、それとも恐怖か…それが痛覚を押しのけているのだ。
 森が途切れた。
 そこは崖のふちらしい。地面がいきなり無くなっており、その向こうには薄っすらと白みかけた藍色の空。さらに先には遠くの山々が浮き上がって見える。
 あの向こうまで行けば、逃れられるだろうか。
 そんなイスマエルの心を打ち砕くように、亜沙美の象徴機械がそこにあった。AO・ディスコンテはマントをたなびかせ、行く先を塞ぐ。その肩の上には蔵太亜沙美が立つ。
「これまでだな」
「ひィッ!!」
 情け無い悲鳴を上げて、コックピットの中でイスマエルは腰を抜かした。その様子が見えたわけではないだろうが、亜沙美は無邪気さすら感じさせる、軽やかな笑みを浮かべた。
「ふむ。折角だから、お前がくれたものがどんなに役立ったか、見てもらおうかな。あんま楽しくて一晩で仕上げちゃったんだぞ。
 これでお前は踏み台だけじゃなく、"ドゥーカ"の犠牲者第一号だ。うん、イイ感じに箔が付くじゃないか♪」
 その言葉に合わせて、どこからか音楽が響き渡る。
『交響詩 ツラトゥストラはかく語りき』
 その冒頭部分。
 ブラスと打楽器の、厳かな調べ。それは繰り返されるごとに勢いを増し、頂点に達すると同時に…光が弾けた。勇壮なメロディと対旋律に磨き上げられるように、それはゆっくりと閃光の中から浮かび上がる。
 夜明け前の闇が戻ってきた時、そこには全高二十メートルの白銀の巨人がそびえていた。
 呆然と見上げるだけのイスマエルを威圧するように、"アームズオペラ・ドゥーカ"の眼差しが光を放つ。この巨人の体内を巡る魔力の波動が大地までも震わせ、樹上で眠っていた鳥達が夜明けを待たずして一斉に飛び去った。
 いつの間にか巨人の左掌に立っていた亜沙美は、冷たくインヴィジブル・テラーの首を見おろした。
「さて、と…。お蔭さまでコイツが完成したわけだが、どうだ。言い残したいことがあったら聞いてやるぞ?」
 だがイスマエルは何も言わず、空間ステルスを起動させた。亜沙美の眉根が釣り上がる。
「…なんだ、その態度」
 そして、ドゥーカの顔を見上げた。
「おい、頼むぞ」
「了解!」
 亜沙美に応えたのはロボヘッドの声だった。
 ドゥーカは腰から剣を抜き放った。その剣は魔力の高まりと共に眩いばかりの輝きを放つ。まさに、巨人サイズのクラウ・ソナスである。その剣が虚空に閃いた。
 金属の砕ける音が響く。
 次の瞬間、オイルと水銀が噴き出し、次いで兜割りよろしく真っ二つに割られたインヴィジブル・テラーの頭が姿を現した。完全に破壊されたシェルは力を失い、崖の上に落ちた。
 残骸から這い出したイスマエルは無念の顔で白銀の巨人を見上げた。あの剣は空間を断ち斬ることができるらしい。いずれにせよ、なけなしの魔力を使い果たし、シェルを失ったイスマエルに逃れる術はなかった。
 そんな哀れな男を、亜沙美は冷たく見おろした。
「言いたい事があれば聞いてやろうと思っていたが、無いようだな。わかった。じゃあ…」
 ――汚いぞ、魔女が!
 と、口を開きかけたイスマエルを完全に無視する形で、ドゥーカの剣が眩く輝き、
「さよならだ」
 振り下ろされた。
 直後、その崖は谷に変わった。
 自らの行った破壊の跡を満足げに見おろし、亜沙美は満足気な笑みを浮かべていた。
「よし、上出来。あとは追加武装の調整だな…。
 それにしてもあの男、昔は素直で結構可愛かったのになぁ。場合によっては囲ってやらんでもなかったのに、あれじゃあなぁ。パパとママの愛情が足りなかったんだろうね」
 
 こうして、酉野市を訪れた場違いな首切り魔術師は姿を消した。
 イスマエルは極東の地で己の全てを破壊しつくされた挙句に退場を強いられたわけだが、それが彼の犠牲者にとってどれほどの慰めとなるだろうか。
 いずれにせよ確かなのは、この街に似合う"悪"は、その男ではなかったということである。
 酉野に相応しい悪は、そう、例えば―。
 
 日の出の時間は過ぎたものの、海はまだ暗いままだ。砂浜と波打ち際の境も曖昧なまま、藍色の闇に包まれていた。
 その海から、何かが現れた。
 人間だろうか。それは歩いて浜を目指しているらしく、返す波を弾きながら徐々に姿を現していく。その手には、ロープが握られていた。
「お、アクアダッシャーのご帰還だ。お疲れさ〜ん」
 そう言ってロープを受け取ったのはボルタだ。そのまわりに、バーナーとクイックゼファーが寄ってくる。もう一本、海からロープが伸びており、そちらはマンビーフとクーインが持っていた。
「よし、ひくぞ!」
 クーインの号令下、男たちはタイミングを合わせロープを引く。
 一時間近く前から酉野紫の様子を見ていたローブの魔術師二人は、遂に我慢できなくなりバーナーに近寄って尋ねた。
「あの、アンタら何? なにやってんの?」
「あ? 見て判らねぇか? オレらは酉野紫、街一番の悪党さ。で、これは地引き網漁だ。腹減ったけど金無ェし、コンビニ強盗はこの間やったからな。今度は別の悪事を働こうってわけさ」
「ジャンクフードも飽きたし、地産地消な悪事も…イイじゃんってこと」
 クイックゼファーが付け加える。
 だが当然、魔術師達は首をかしげた。
「…漁のどこが悪事なんですか?」
「あー、それはだなぁ…」
 言葉に詰まったバーナーに代わり、ボルタが説明する。
「漁協に届けを出さない無許可の漁は立派な犯罪だ。それに、この網は地元の漁師から盗んだんだ。これも立派な犯罪さ。どうだ、ダブルクラウンだぜ。
 で、あんた等は何してるの? そんなダサい格好してさ」
 珍奇なタイツ野郎に格好を云々されムッとしかけた魔術師たちだったが、ここは大人の態度で受け流し、シンプルに答える。
「仲間が海に落ちたので、流れ着いていないか探しているのです」
「へえ、そいつは…難儀だ…ねぇ…」
 網を引き肩で息をしながら、クイックゼファー。力仕事はイマイチだ。
「そうだ、皆さん!」
 魔術師のうち背の高い方が、ポンと手を叩く。
「私はサリーです。で、こっちがレイジー。実は、海に落ちた仲間を探しているんですけど、彼の捜索を手伝っていただけないでしょうか?」
 その言葉に、酉野紫全員が一斉に声を荒げた。
「バカヤロウ! オレたちゃ悪党だぞ!! 人助けなんかするかッ!!」
 そうこうするうちに、網は浅瀬に引き寄せられていた。沢山の魚たちが水面を叩く。そのなかで、一際大きな塊がのた打ち回るように足掻いていた。
「お、デカイぞ!」
 歓声を上げるバーナー。
 だが、徐々に姿を明らかになるその生物の姿に、ボルタは首をかしげた。
「なんだ、ありゃ…。なんだかブタっぽいぞ」
「バカ、海にブタがいるかよ!」
 と、バーナー。
「…海豚イルカ
 呟くクイックゼファー。
「…イルカがブタなワケねぇだろっ!」
 噛み付くように怒鳴るバーナーの横をすり抜けて、魔術師サリーとレイジーは網の中を覗き込んだ。果たして、そこにいたのは…。
「…マクスウェル! 無事だったんですね!?」
 がば、と網を掻き分けてマクスウェルが飛び起きる。
「あたりまえだ! あれくらいでオレが死ぬかッ!」
 その姿に、酉野紫たちは驚きを隠せない。
「うわ、海でブタが獲れた! しかも喋る!」
 

 
「大佐ー、FCSの再インストール終わりましたー」
 ディアマンテのコックピット内、首からケーブルを引っこ抜き、サイボーグ・シゲが顔を上げる。
「うむ、ご苦労」
 メタルカは眠い目をこすりながら答える。
「大佐ー、寝た方がいいんじゃないっすか? 後はオレ等でやっときますし」
 コーヒーを差し出し、ヤスが言う。
「だめよー、いつでも出動できるように整備しとかなきゃ…。っていうか、終わらせとかないと安心して仕事に行けないっつーのぉ。だいたいさぁ、現行システムでの初出動だっていうのに、あまりに使い方が大雑把なのよ!」
 不満鬱積中のメタルカをヤスが慰める。
「しょうがないッスよ。基地の場所をバラされない為の取引だったんだから」
「そりゃそうだけどねぇ…」
 メタルカの視線の先、ステータスモニタは九割方グリーンになっていた。いかにも気持ちよさげに、ディアマンテが言う。
「おっけーでーす。もう、殆どクリアに近いですよー。っていうか、出動って言ってもドクターの気分次第なんだから、当分無いんじゃないのかなぁ?」
 ドクターブラーボは既に眠りについてしまっている。もっとも、見た目では寝てるものやら起きてるものやら全く判らないのだが。
「ところで、少佐は?」
 と、ヤス。帰投して以来、彼の姿も一度たりとも見ていない。
「あ、あいつ? またトイレで飛び跳ねてるんじゃあないの?」
 クルツの名が出た途端、メタルカの目が釣りあがっていた。
「うわ、怒ってる…。しっかし、気の毒ですよね、結石…」
 もはや自分たちには縁の無い事ながら、サイボーグたちは顔を見合わせた。メタルカは、そんな男にはもはや興味も無いと再びモニターを向く。
「それにしてもさぁ、制御系の効率化には目を見張るものがあるわねぇ」
「うん。蛍太郎さんが競合してたドライバを片っ端から削除して、ついでに色々直してくれたもん」
 ディアマンテは嬉しそうに言う。実は、それも取引の一環だった。
 ブラーボ秘密基地にひとり迷い込んでしまった蛍太郎は、基地の場所をバラさないこととディアマンテの制御系等のチューンを条件に、イスマエル退治への協力を要請したのである。
 蛍太郎をその場で始末すればそれまでだったのだが、一定時間内に蛍太郎と連絡がなければ、発信機が自動的に外部に居る侑希音達に場所を知らせるような仕掛けを既に複数施してあると言われ、やむなく従ったのである。結局、それはブラフだったのだが。
 メタルカはタメ息まじりで呟いた。
「どうせなら、火器系統にも手を付けてくれると嬉しかったんだけど、なんてのは贅沢か。ほんと、ウチの男どもと交換したいわよねぇ…」
「メタルカちゃん、等価じゃないとトレードにならないよ?」
 ディアマンテの言葉に遠慮などなかった。所詮は機械、血も涙も無い。
 
 ―そう。彼らこそが、この街に相応しい悪といってさしつかえあるまい。
 そして、街を救ったヒーローたちにも休息が訪れた…はずだった。
 
 酉野市には材木移送など水運のための堀の名残が地名としてのみ残っている。
たとえば、江戸期の岡場所が変化した飲み屋街である廊前堀ろうぜんぼり。木場から材木を引き揚げていた揚手掘ようてぼり、そして陶器を扱う店が多かったため陶殿堀すえでんぼりと呼ばれていた地域などなど。それらは戦後には埋め立てられてしまい、今では名前しか残っていない。
 だが最近になって、公園に付随する水場として復活した堀がある。それが昨年完成した揚手掘公園だ。
 酉野市といえども、再開発の対象外となりシャッター街化した地区が無いわけではない。市ではそういった土地を買い上げ公園として整備している。駅前商店街の噴水広場もそうして誕生したものだ。
 ここ揚手掘も材木問屋の消滅から向こうゴーストタウン状態だったのを水庭公園として再生させている。復元された堀に柳並木が立ち、それに沿ってベンチと散歩道が走る芝生で構成された公園が続く。さらに公園部分を縦断して幼児の膝ほどの深さの川が流れている。この公園はシンプルなつくりのため非常に景観が良く適度に人通りもあるため、朝は犬の散歩とウォーキングで、昼は子供で賑わう新名所として親しまれている。
 学校帰りの璃音は悠の家に寄ることになったので、ふたりしてこの公園を歩いていた。学校から法眼邸へは、この公園を抜けるのが近道だ。
 この時間、いつもなら璃音たちと同様に学校帰りの子供たちが大勢いるはずなのだが、今日に限っては人影がない。そのかわり、数人の男たちのはしゃぐ声と魚介類を焼く香ばしい匂いで満ちていた。
 悠が首をかしげる。
「どうしたんだ、一体…」
 その答えはすぐに現れた。植え込みを抜けて芝生の広場に出ると、六人の男たちが公園のど真ん中でバーベキューをしていた。言わずと知れた、サーバントクーインと酉野紫アメージング5である。
 璃音は涎が出そうになるのと腹が鳴りそうになるのを堪えながら、男たちに声をかけた。
「おーい、なにしてるの?」
 それを聞きつけたバーナーが振り向いてご機嫌に叫ぶ。
「海鮮バーベキューだぜヤッハァ!」
 見たそのままの答えである。それにボルタが付け加えた。
「今朝水揚げしたばかりの新鮮な魚介類だぜ! 密漁だけどなっ」
 璃音と悠は顔を見合わせてタメ息をついた。それから璃音は腰に手を当ててお説教のポーズでピシャリと言い切った。
「公園でバーベキューなんかしちゃダメでしょ!」
 だが、酉野紫は涼しい顔である。
「んなこたぁ判ってるぜ」
 クイックゼファーが小バカにした口調で笑うと、一同それに習う。
「じゃあ、なんで…」
 バーナーが腹を抱えながら言う。
「ぷっ…なんでってお前、オレたちゃ悪党だぜ」
「密猟した魚をー公園でー焼くなんてーボクたちーマジ悪いぜーみたいなー」
 と、アクアダッシャー。だが、ひとりマンビーフだけはテンションが低かった。
「拙者、肉を所望でござる…」
 すると、クーインがマントからスチロールのトレイを取り出した。
「ほれ。イベリコ豚のトントロだ」
「おおっ殿! かたじけのうござる」
 それから男たちは再びコンロに視線を集中させた。璃音はワイワイと楽しそうに騒ぐタイツ男たちを呆れ果てた顔で呆然と眺めていたが、隣にいる悠に肩を突付かれて我に返り、拳を握り締めた。
「君らさぁ、映画の時だけ良い子になる、どこぞのワルガキじゃないんだから…」

…#5 is over.  

モドル