#4
 高原の月夜は、ただ静寂。大粒の星がこぼれんばかりに瞬いているであろう空は月明かりに支配され、どこまでも暗く暗く澄み渡る。その下には、葦原が白と藍色のコントラストに照らされ浮かび上がっていた。泥に埋まり複雑に入り組む沼は鏡となり月を写し輝く。不意に、音もなく葉が戦ぎ水面がたわむ。半円を描いていた月の写し身が光の断片となり、乱れ、揺れ、たゆたい、葦の茂みから不規則に光を洩れ出させていた。
 腰ほどの丈の葦葉の中、男が一人、玲瓏たる玉のごとき月をただ、見上げていた。だが、その光はどれ程届いているのだろう。男の目はガラスでこしらえたかのように虚ろだった。欧州の南を思わせる複雑な顔立ちは美しいが、それが余計に男の空虚な眼差しを引き立て、骸めいたものにしていた。
 今は五月も終盤ではあるが、ここらあたりは未だ肌寒い。とはいえ、彼が纏う臙脂のコートは明らかに武装過多だ。相当に厚い作りなのだろう、葦を揺らす風のなかにあって裾も襟も全く揺れもしない。
「見つけたぞ、イスマエル」
 凛と、静寂を破る声。男の物ではない。視線を落とすと、葦の中に佇む女が、決然と男を睨みつけていた。端整な顔立ちは鋭く険しい表情にも関わらず、いや、だからこそ余計に美しさが際立っていた。その赤い瞳にこめられた意思の光が為せる業か、そこには気品さえ漂っている。長い黒髪は月明かりに照らされ輝きそよそよと風に揺れ、その柔らかさを良く示してくれる。それとは対照的に、その肌は月光よりもなお白く、冷たく透き通っていた。この国の女性には珍しい長身で、すらりと伸びた手脚と見事なボディラインをレザーの上下に包む。殆ど身体に密着した革は月明かりに映え、朧な光を貼りつけたように女を浮かび上がらせていた。
 イスマエルと呼ばれた男の目に、ようやく意思の光が宿った。知らぬ間に笑みが浮かぶ。口の端を歪めた酷薄な微笑みに、女は眉をひそめた。
「貴様、"協会"の犬か」
 イスマエルが口を開く。潤いなど全く無い、擦り切れた声だった。女は柳眉を吊り上げたまま、男のような口調で吐き捨てるよう答えた。
「冗談じゃない。私はただの雇われ者だ。こんな状況でなければ、あんな連中との関わり合いなんて、こっちから願い下げだ」
「こんな状況とは、つまり私がここに存在することだな」
 そう言うと、どことなく嬉しくなったのかイスマエルの口元が緩んだ。
「ははは…いずれにせよだ。奴らが差し向けた人間が、こうやって私を探し出したのは初めてだ。大したものだな、女」
 女の眉根が更に険しくなる。
「バカな事を言うな。どこへ逃れようと、いかに巧妙に隠れようと、お前は必ず人を斬る。つまり、わざわざ探すまでもなく勝手に姿を現すのさ。だから、連中には端からお前を探す気など無いんだよ。黙って待っていれば、不幸な被害者が居場所を教えてくれるんだからな。
 だがな。この辺は私の地元だ。首が出れば判るさ、なんて言ってる連中には任せられないだろ。だから、ここにいるんだ」
 女の言葉に、イスマエルは心底驚いて目を丸くした。そして、腹を抱えて笑いだした。突然の爆発的な感情表現に、女の顔に僅かながら困惑の色が浮かぶ。
「そうか、そうだったか…ははははっ! なるほどなぁ。奴らとの追いかけっこが十年の長きに及んでいる理由はそんな事だったのか。つまり、相手に真剣さが無かったというのだな。はははは! いいだろう、ならば逃げるのは止めだ。女、まずは貴様をこの国での犠牲者第一号にしてくれよう!」
 哄笑とともに、男の纏う空気が一変した。虚無そのものだった瞳から強い光が湧き出てくる。それは意思というよりも剥き出しの欲望だ。意味不明の奇声を上げ、イスマエルは地を蹴り、駆けた。コートの裾をはためかせ、一直線に女の方へ―。だが足を踏み外す格好になり、大きくよろめいた。葦に隠れて見えなかったが、足を出した先は沼地だったのだ。泥に捕まり動きが止まる。舌打ちして、イスマエルは顔を上げた。目の前に女が立っている。その、今まで見えなかった足元を包むのは、優美な容貌とは裏腹に凶悪なまでに補強を重ねられた黒いブーツだ。そして、ブーツは全く水に濡れてはいない。女は水面に立っていた。
「な…!?」
 驚きの声を上げるイスマエル。だが、それも終わらないうちに、音も無く女の脚が振り上げられた。
 頚椎が砕ける音と衝撃とともにイスマエルの視界が回転し、ブラックアウトした。水しぶきを上げて頭から突っ伏し、そのまま泥に半身を埋めて動かなくなった。
「この手の奴らって、好戦的なくせにケンカ慣れしてないんだよな」
 臙脂色の背中を一瞥し、女は挑発した。
「おい、早く立てよ。まだ生きてるんだろ」
 その声に呼ばれたように、イスマエルは勢い良く立ち上がった。首が折れ顔が背中を向いているが、全く支障は無いようだ。両手で頭を掴むと上に引っ張り上げ、方向を正した後に手を離す。パチン、と景気の良い音と共に、首は元の位置に収まった。
「はははははっ! ふっかーつ!」
 ケタケタと笑うイスマエル。だが、女は眉一つ動かさない。
「なんだよ、リアクション無しか。こんな物は見慣れてるってかぁあ〜? それなら、これはどうだ! 我が魔術を見よ!」
 イスマエルは懐に左手を突っ込むと、何かを掴み引っ張り出す。その手には、刃渡り六十センチはあろうかというハチェット、つまり鉈が握られていた。コートの中に隠していたにしては明らかに大きすぎる代物である。だが相変わらず、女の表情は動かなかった。
「ククク…丸腰で来たのは失敗だったなぁッ! てえぇいッ!!」
 気合と共に、イスマエルはハチェットを横に薙いだ。
 だが、手ごたえは無い。刃と呼ぶには鈍すぎるそれは、空を切っただけだった。
「な…っ」
 ニ撃目を繰り出そうとして、イスマエルは目を剥いた。ハチェットの先端に女が立っていたのだ。
 鉈としては大きな者とはいえ刃の幅は十五センチもない。その上つま先を揃えて立っているだけでもかなりのバランス感覚だが、さらに奇妙なことに、そのハチェットを持っているイスマエルに彼女の体重が殆ど伝わっていなかった。
 ならば振り下ろしてやろうと力を入れてみるが、何かに押さえつけられているいるようでピクリともしない。
 ハチェットから手を離す以外に無いということか。
「ぬぬぬ…」
 歯軋りするイスマエルを嘲うように、女の回し蹴りが唸る。イスマエルはたまらず手を離した。その途端、ハチェットは主人の手から離れ、重力に捕らわれ落下を始める。女も一緒に落ちるだろうから、その隙を狙おうとイスマエルが考えた。
 だが、女はどうやったのか運動のベクトルを横から縦に変え、バック転で水面に"着地"した。そして、回転の途中に女はハチェットを手の中に納めていた。
 女は武器の具合を確かめるために数度、軽やかに素振りをするとイスマエルに向けて構え直す。そして、不敵な笑みを浮かべた。
「持って来なくても、頂けるからな」
 そして。女はハチェットを袈裟懸けに振り下ろした。
「なめるな!」
 イスマエルが叫ぶ。懐から振りぬいた右腕の先にはハチェットがもう一本、それを逆袈裟に叩き付けた。二つの刃がぶつかり合い、火花を散らす。
「ちっ…」
「ガアァッ!」
 女は水面を跳ねるように、イスマエルは泥と飛沫を撒き上げながら、三合斬り結ぶ。それで両者、バックステップを踏み距離を開けた。
 一瞬の沈黙。そして―。
「グ…」
 イスマエルがよろめく。ハチェットを杖代わりにして持ちこたえるが、右腕が力なく垂れ下がっていた。
「どうなってやがる…」
 目の前の女を睨む。女はハチェットを肩に乗せ、イスマエルに油断の無い視線を送っていた。ハチェットはその用途上、かなり重く出来ている。それをホウキでも振り回すように軽々と扱ってみせただけではなく、打ち込みを三度受けさせるだけでイスマエルの肩を破壊せしめた。彼女の細い腕では考えられない力だ。もっとも、イスマエルの素性を知った上で正面から戦いを挑むのだから、この女もただの人間では無いのだろう。そう思うと、イスマエルの内に沸々と怒りの渦が巻き起こった。
「女、後悔するぞ!」
 イスマエルの一喝と共に、彼の周囲に無数のナイフが出現した。宙に浮かび全ての刃先が同じ方向、女の心臓に向いている。だが、女は恐れるそぶりを全く見せず前にステップを踏み、跳んだ。イスマエルは声を張り、叫ぶ。
「レニト・レコノ・レネカ・レカーザ」
 全く意味不明の音節の集まり。恐らくは呪文なのだろう。それが始まると同時に、ナイフが女めがけて殺到した。それに対し、女は平然と突っ込んだ。
 鋭い金属音と、何かが水に落ちる音が四度ほど。
 幾つかのナイフはそのまま虚空に消え、女はいかなる早業か進路上のナイフを叩き落し、さらにいくつかは左手の指の間に捕らえていた。
 女は人差し指と中指に挟まっていたナイフ、二本を投擲した。そのうちの一本がイスマエルの眉間に突き刺さる。だが、詠唱は続いた。
「レケネン・レコルネ・イラ!」
 ナイフの群れを退けイスマエルの懐に飛び込んだ女がハチェットを一閃する。イスマエルは左足を引き、刃をかわす。動かぬ右腕が置いていかれる形でハチェットの直撃を受けた。
「来たれ、鏖殺の剣よ!」
 肘が砕け、そのまま切断された。だが、イスマエルの詠唱は止まらない。
「黒き旋風となりて、尽く殴殺せよ!」 
 その瞬間、風が凪いだ。イスマエルの背後で光が弾ける。そこから、黒く巨大な拳が突き出された。
「ちいっ!」
 女はハチェットを横にして背に左手を添え、拳を受け止めた。拳の端から端までが刃渡りと大体同じくらいである。さらに、イスマエルの背後から肩、頭という順で全体が現れつつある。
「はははは! なめるなと言っただろう!」
 イスマエルの哄笑とともに、拳に力が込められた。ハチェットを砕き、女を弾き飛ばす。女は小石のように三度水面を飛び跳ね、四度目に水柱を上げた。それが収まる間もなく、女は立ち上がった。視線を上げる。その先には、ただ青白く風に揺れる葦原があるだけだった。
「ち…逃げたか」
 女は舌打ちした。いかにイスマエルが人間離れしているとはいえ、首が折れ眉間にナイフが刺さり、さらに右腕を切断された状態では長居もできないだろう。しかし、離脱という選択肢を取るだけの冷静さがまだ保たれていたということは、彼を追い詰めるには至っていなかったともいえる。
 女は天を仰いだ。足元で、正しい姿に戻りつつあった月の写し身が、再びかき乱された。水面が揺れる。それがピークに至ると同時に、女の姿は掻き消えた。
 それが、幻であったが如く――。
 
 
1−
 学生をやってると、学生なりに苦労はある。
 その時代を回顧すると「今にして思えば、その程度は大変でもなんでもなかった」という者が殆どだが、それはあくまで立場の違いに依るもの。当事者にしてみれば、たとえロクに準備をしない者であっても、やはり当事者なりに必死なのである。そして、必死だったはずである。それを懐古や自嘲でなしに、他者を見下して「その程度…」などと切り捨てる者は、何事も蔑ろにしてきた人間である可能性が高い。
 …と、埒も無い思考を巡らせながら、貴洛院基親は職員室前に張り出された大判の模造紙を眺めた。何枚かの紙が三つのブロックに固まっており、そこにはそれぞれの学年の生徒名が書き連ねられている。もちろん、クラスや出席番号の順に並べられているのではない。
 そう。テストの成績順である。非情なる合計得点リストだ。
 誰が言ったか、ゴールデンウィークは一学期中間テストの執行猶予であるらしい。三月下旬から五月半ばまで、季節と共に目まぐるしく周囲の状況が移ろうこの時期は、たしかに落ち着いて勉学に励むには難しいかもしれない。
 だが、それは言い訳だ。
 そんな事は関係なしに、出来るヤツはしっかり結果を出すのだから。そして、貴洛院の名は上から二番目。日本随一の企業グループを束ねる一門に生まれたものとしては、不相応な序列である。
 確かに、このテストの結果は生徒たちの人間性の優劣を決するものではないし、人生において成功を収められるか否かを占うものでもない。しかし、貴洛院家に生まれた者が「その程度」の事の頂点に立てないなど、あってはならないのだ。何故なら彼には、世界市場という、さらに巨大な戦場が用意されているからだ。
 貴洛院はその場で切歯扼腕した。
 通りがかりの者が何人か、彼から離れるよう迂回しながら、すれ違っていく。
 
 昼休み。
 藤宮璃音の席には弁当箱が広げられていた。運動部の男子もかくやというような巨大なニ段重ねは小柄な少女には似つかわしくないが、全て彼女のものだ。クラス替えから二ヶ月近くたって、これもおなじみの光景として馴染んできた感がある。
 売店派の法眼悠と佐藤祥がパンとジュースを持って戻ってくると、机をくっつけて、臨戦態勢をとる。
「いただきまーす」
 女三人寄れば…と言うが、実に賑やかな食事風景が展開される。もちろん、賑やかなのは会話の方である。
「ねーねー璃音ちゃん」
 祥が、璃音の弁当に熱い視線を送る。
「今日のも、愛妻…じゃないか。とにかく、手作り弁当だよね?」
 璃音は口にご飯が入っていたので返事の代わりに頷いた。
「ほとんど毎日、愛情たっぷりだね」
 悠は少し意地悪い視線を璃音に送った。
「ま、学食で食べたら幾らかかるかわかったもんじゃないしね」 
 だが、璃音はケロッとしている。
「そうだね。特盛りランチなんて全然足りないもん」
 そう言いながらも、さらに箸が進む。相変わらず、よく噛んで行儀良く食べているのに減りが早い。それを見る悠は感心しきりである。
「いやいや。璃音とは長い付き合いだけどさ。その見事なまでの魔神っぷりには、慣れるってことがないね。なんか、年々成長してるもんなぁ」
「成長って…」
 璃音が少し悲しそうな顔をしたので、悠は話題を変えた。
「そういやさ、中間テストの順位出たよ」
 それで今度は、祥の顔が曇る。
「…辛いことを思い出させないで」
 悠も苦笑する。
「あ。…そうだったね。って、私も似たようなもんだけどさ。…自爆しちゃったかな。でも、これはこれで避けては通れない話じゃん。特に今回レッドゾーンだったヤツは、期末で埋め合わせないとヤバい事に…」
 レッドゾーンとは言うまでもなく赤点の事である。祥は頭を抱えるように呻いた。
「そうだよねぇ…私、数学なんて十点だもん」
「マジ? それって、1問しか合ってないじゃん」
 悠が楽しげに、自分より得点の低い人間を目の当たりにしたからだが、今にも笑いだしそうな顔で言うと、祥は憤然と口を尖らせた。
「うっさいわね。私は文系人間なの。理数系抜きだったら悠ちゃんより上なんだからねー」
「ふふふ。でも、総合順位はこっちの方が上だね。って、単に何をやらせても足りないだけだって説もあるけど…」
 そう言って、悠はタメ息とともに肩をすくめた。
「まあいずれ、私らにはこういうのは向いてないのよね。ついでに言えば、ヤバいとか言ってるのも今だけで、結局は期末も直前まで大した事しないんだけどね」
 悟りを開いたかのような悠の言葉に、祥は大きく頷く。それから、なかなか話に加われずに様子を窺っていた璃音に視線を送る。
「璃音ちゃんは、どうだったのさ?」
「うん、一番だったよ」
 少し遠慮がちに璃音が答えると、悠と祥は顔を見合わせてタメ息をついた。
「あんたは小学生の時から体育以外は成績良かったからね」
「それにさー先生がいいもんねぇ」
 璃音は屈託なく、
「まあ、そんな感じ」
 と、頷いた。
「やっぱさ、理系は、けーちゃんのおかげだよ。そっち方面は弱かったから」
 それを聞いて、祥は興味を惹かれた。
「あ、それじゃあ文系は自力の独力なの?」
「そうだよ。けーちゃんって、言葉に訛りがないからそんな感じしないけど、日本で生まれ育ったわけじゃないから。そっち方面じゃ、わたしが逆に先生だよ」
「そっかー。なんかいいよねぇ、お互いに足りないところをカバーしあってる感じでー。羨ましいなぁ」
 目を閉じて何か夢見るような顔をし出した祥だったが、それを現実から引き戻すように璃音が言う。
「それよりね、わたしって成績悪かったら色々マズイと思うんだけど…」
「うわ…確かに。凄い説得力あるわ」
 璃音の立場を鑑みれば、確かにその通りである。可愛いい上に人妻ときて、これで成績が悪ければ「勉強そっちのけで毎晩営んでるのか」と言われるのは必至だ。 それに学校というところは、成績が良く尚かつ目に余るほどの反社会的な振る舞いが無ければ、大抵の事はほったらかしにされる事が多い。璃音の結婚は法的に正当なものであるし、家庭の事情の範疇で済むというのが現在の見方だ。これで成績が極端に落ちたりすると、色々と煩くなってくるのは必定である。
「でも、わたしは勉強ってイヤじゃないけどね」
 すると、悠がニヤニヤと笑いながら璃音の肩をつつく。
「それは、夜のほうもかな?」
「ま、まあ…」
 祥も便乗して、身を乗り出して璃音の顔を覗き込む。
「じゃあじゃあ、今日は一番取ったご褒美?」
「…うん」
 顔を耳まで真っ赤にして頷く璃音を、悠たちは両側からぐりぐりと撫でる。
「むうー、髪がめちゃめちゃだよ…」
 璃音が呻くのもお構い無しに揉みくちゃにする悠と祥。その背後から、バロージャが現れた。
「どーもー、さっきはお世話になりました」
 その顔を見て、祥はクスクスと笑いだした。
「はい、お疲れ様」
 そしてさらに、悠の顔を見て含み笑いを浮かべる。
「な、なによ」
 悠はその視線から逃れるように、顔を逸らす。祥は、
「ねぇねぇ、聞いてー」
 と、璃音の方を向く。
「悠ちゃんねぇ、いつの間にかコロ様と仲良くなってるのー」
「へえ、やっぱり?」
 璃音も興味津々といった風に身を乗り出してくる。先ほどから喋りっぱなしだが、弁当は既に無くなりかけている。
「やっぱりって、心当たりあるんだ?」
 祥も目を輝かせる。だが、悠が必死な顔で割り込んできた。
「違う! そんなんじゃない!」
「えー、説得力無ーい」
 祥がからかうように笑う。璃音が、
「なんかあったの?」
 と、訊くと祥は腕を組んで頷きながら語り出した。
「そう、あったの。
 さっき売店行ったらね、コロ様が行列に入れなくて苦戦してたから、悠ちゃんってば代理購入してあげたんだよ。珍しいよねー」
 璃音も頷く。
「確かにー。悠って、男の子相手には結構厳しいのに」
「でしょー。こりゃなんかあるって、私は思うのよー。なんかさー、『あんた、なにやってんの! ああもう、見てらんない、ムキー!!』とか言ってたけどさぁ、いつもと違うんだもん」
 バロージャも相槌を打つ。
「はい。なんか、お姉さんみたいでした」
「へぇ〜〜。なんか、もう始まっちゃってるのかなぁ? 新しい恋が」
 したり顔の祥に、悠が組み付かんばかりの勢いで吼える。
「そんなんじゃないよ! 私は、生き残るための術を教えてあげただけだって!」
 そのあまりの剣幕に、祥は戸惑いの表情を浮かべる。
「…そんなに怒鳴ることないじゃん」
 それで我に帰った悠は、小さな声で謝った。
「ごめん…」
 バロージャも、恐縮しきりといった感じで大きな身体を丸くした。
「すいません、なんか僕のせいでケンカになったみたいで…」
 だが、悠も祥も黙ったまま。そこで、璃音が間を持つ事にした。
「そんなことないよ。ね?」
 それで、悠は頷く。
「うん。ごめん、言い過ぎた」
 祥の方も、小さく首を振った。
「私も、なんか面白がっちゃって…」
 その様子を見て、璃音は満足げに微笑んだ。
「よろしい」
 それから、悠の方を見る。
「…で、二人は付き合うの?」
 璃音の言葉に、悠は顔を真っ赤にした。
「な、ななななっ! なんでそうなるのっ」
 今度は手足をバタバタさせて悠が騒ぎ出したので、バロージャは、
「じゃあ、僕はこれで…」
 と、すごすごと後ずさっていく。それに気付いた悠が大慌てて叫ぶ。
「ああ、待って! じゃなくて、えーと…」
 だが、もはや何を言っているのか自分でも判らない。それを見て、バロージャは小さく手を振った。
「じゃあ、明日…」
 そして、自分の席へ戻っていく。それを聞いた璃音と祥は顔を見合わせて、そして洩らした。
「明日って…」
 悠は顔を赤くして俯いていた。
「私だって、どうしたらいいか良く判らないんだから…。あまりいじめないでよ」
 最後の方では、彼女が滅多に見せない戸惑いの色が、その声に混じっていた。
 

 
 酉野市郊外、住宅地の狭間にぽっかりと広がった空白地帯に、酉野紫のアジトがある。三城大学設立に合わせて行なわれた再開発による都市機能集中化の影響で撤退した、郊外型ショッピングモールがそれだ。
 黄昏の薄闇に残骸を浸すモールはさながら墓標のようで、他の地方都市とは違う道を進んだこの町の、ある意味では象徴といえる。
 もうとっくに水道も電気も止まっているが、人通りが皆無で周囲に民家も無いという立地、そして大きな物を収容できるスペースを持ち、潜伏先とする条件としては上々である。彼らは非常用発電機を修理し必要な箇所の電源を確保、あとのものは放置されていた物や持ち込んだ盗品でまかなってアジトとしての体裁を整えていた。
 酉野紫の面々は日が暮れるとここに集まり、活動指針を決める。だが、大抵はそれぞれが自由時間に勝手に暴れるというものなので、あまり意味のある集まりではない。だがそれも、彼らのボスが現れる日だけは特別である。アジトは奇妙な緊張感に包まれていた。
「ぬお!」
 赤タイツの男・バーナーが口から火を吹くと、十メートルほど離れていたマネキンが炙られて炎上した。
 その様子を見て、青と黒のタイツの男が肩をすくめた。
「おいおい。無駄に燃やしてんじゃねぇぞ。そいつらの数も、今じゃめっきり減っちまったんだからよ」
 青と黒の男が立ち上がると、赤いハチマキの両端が背中で揺れる。ミラーシェードのサングラスで目元は覗えないが、口元は皮肉に歪んでいた。
「はっ!」
 気合とともに、男の体がかき消すように消えた。埃が舞い上がり、ハチマキの残像なのか、赤い尾を引いて風がうねる。それはマネキンの周りを三度回り、炎を吹き消した。風がやみ、男の姿が再び現れた。
 火を消され、バーナーは露骨に機嫌を損ねた。
「おいこらクイックゼファー! カッコつけてるんじゃあねェ」
 火を噴きながら声を荒げる相手に、青と黒の男・クイックゼファーはたじろぎもしない。それどころか口元の笑みがますます皮肉に満ちていく。
 まさに一触即発。
 その空気を、稲妻が引き裂いた。
 ボルタである。雷光が文字通りに二人の間を割った。危うく感電しかけたバーナーが喚く。
「あぶねぇだろ、バカ!」
 対照的に、いつの間にか五メートルほど距離を開けていたクイックゼファーは落ち着いたものだ。
「ボルタか。遅かったな」
「ふん、ほっとけ」
 黄色と緑の男・ボルタも機嫌が悪いらしく、憤然と答えた。それをクイックゼファーがせせら笑う。
「お前もあれか、テストの成績が悪かったか?」
「うるせぇよ」
 流石にボルタは物にあたったりはしないが、横で聞いていたバーナーはまた火を噴き始めていた。あまりに判りやすい反応にクイックゼファーは苦笑した。
「ふ。まあ、お前らも高校卒業までは辛抱するんだな」
 ボルタが首を振る。
「オレは卒業できるが、バーナーのヤツは判らんな」
 バーナーはさらに火を噴きながら喚いた。
「へ。勉強が何だ。こんなもん、社会に出たら全然役にたたねぇじゃねぇか!」
 社会に出るという事は、就職するという事なのだが…と、言いかけてクイックゼファーはそれを飲み込んだ。そこは、ここでこんなことをしている時点で自分も怪しいからだ。だが一言、
「何もできねぇアホが言いそうな事だな」
 と、だけ呟いた。しかしすぐに、それを塗りつぶすように次のセリフを口にした。
「それよりよ、アクアダッシャーはどうした?」
 もう一人いるはずのメンバーがいないのをクイックゼファーは気にしていた。それには、ボルタが答える。
「アイツなら、今日は休むって電話あったぜ」
「そうかい」
 事も無げに頷くクイックゼファー。
「じゃあ、ボスは何しに来るんだろうな」
「さあな」
 それにはボルタも首を振る。彼らから少し離れたところで、相変わらずバーナーは火を噴いていた。
 少しして、階段を上がる足音が響く。一同がそちらを見やると、紫と黄色のタイツと黒いマントに身を包み、アイマスクをした男が宙に浮いていた。風も無いのにマントがたなびいているのは、飛行能力の影響なのだろうか。
「ボス…」
 ボルタが膝をつくと、残り二人がそれに続く。マントの男、サーバント・クーインは敬礼のように掌を上げると、朗々たる声で言った。
「親愛なる酉野紫の諸君、久しいな。息災であったか?」
 この二週間、クーインはアジトに姿を現さなかった。それは今回だけの事ではなく、定期的に姿を見せなくなることがある。それが丁度高校のテスト期間に符合するため、ボルタとクイックゼファーは「クーインの正体は高校生ではないか」と勘ぐったこともあったが、詮索は禁じられているために誰も口に出した事は無い。
「今日は、まず新しい仲間を紹介しよう!」
 クーインが仰々しくマントを翻すと、再び靴音が響く。階段から、一人の男が現れた。二メートル近い身長と隆々たる筋骨の大男である。
 クイックゼファーが驚きの声を上げる。
「合田じゃねぇか。仕事はどうした?」
 巨漢・合田弘樹はたどたどしい言葉遣いで答えた。
「あの連中、オレをバカにした。オレ、気に食わなかった。オレ、殴った。すかっとした。でもオレ、クビになった。二度と来るなって言われた」
 ボルタはいたたまれなくなって首を振った。
「…やはり一ヵ月もたなかったか」
「だからオレ、お前らの仲間になる」
 合田は笑顔で親指を立てて見せるが、一同の反応は様々だった。バーナーは手を叩いて喜んでいるが、クイックゼファーは心中複雑なようでしきりに首を振り、ボルタは不安でいっぱい、冷や汗でタイツを染めていた。
「ボス…。彼に一体、どういった能力を与えるおつもりですか?」
 ボルタの言葉にクイーインは事も無げに答えた。
「まあ、見ていたまえ。彼が望んだ、彼に相応しい力になるだろうからね」
 そしてマントを翻し、厳かに宣言した。
「これより、誕生の儀式を執り行う!」
 それが開始の言葉だ。合田がいそいそと服を脱ぎ始め、一同は目を逸らす。合田がどこかの量販店で買ってきたと思しき白い全身タイツに着替え終わると、クーインは長辺がニ十センチほどの長方形の物体を手渡した。
「それは…?」
 と、クイックゼファー。クーインはニヤリと笑う。
「牛肉だよ。一パック、百二十七円さ」
 それでクイックゼファーは、いつも行っているスーパーが特売の日だった事を思い出した。
(それで今日か…。ああ、しまった。トイレットペーパー買わなきゃいけないんだった。ヤベェなぁ、コンビニで買うと倍の値段なんだよな…)
 後悔先に立たず。その間にも儀式は粛々と進行する。
「融合光線、バイオニック・コーンバインッ!」
 クーインの額から直線状のビームが照射され合田を直撃する。
 身をよじり、呻く合田。そして牛肉のパックが溶けるようにタイツへ一体化していき、それから変化が始まった。白かったタイツが褐色に変じ、合田の筋肉が膨れる。頭からは角が生え、タイツ生地が変化して顔の上半分を覆うマスクとなり、鼻輪が現れた。
 これがサーバント・クーインの超越能力、"バイオニック・コンバイン"だ。
 この光線には、複数の物体を融合させ新たな存在へと変化させる効果がある。それは元の物体の性質・能力を併せ持ち、さらに増幅させたものとなる。生物は対象にならないものの、それ以外であればどんな物でも、結果を度外視すれば融合可能という脅威の能力である。
 その力によって、合田が身につけているタイツは牛を模した装飾のスーツ、いや肉襦袢と化していた。肉襦袢といっても、その肉部分は牛肉を元にした生体組織で出来ており、中の人間に密着して見事にその肉体をかさ上げしていた。
 合田は意味不明の奇声を上げると、手近な柱に拳を振るう。すると、柱は発泡スチロールのハリボテか何かのように、いとも簡単に砕け散った。
 ボルタたちは思わず歓声を上げた。だが、合田がさらに別の柱に腕を振り上げたので、悲鳴を上げた。
「おい待て! あまり壊すんじゃねぇ!」
 ボルタが叫べば、バーナーが飛び出す。
「しょうがねぇ。ここはオレ様の出番だなッ」
 バーナーは常人の二十倍の筋力を自慢としている。その力を以って、合田に組み付いた。だが、
「ぶもー!」
 合田が丸太のような腕を振るうと、バーナーはあっさりと宙を舞ってしまった。
「ぬわにぃーッ!!」
 それを、クイックゼファーがせせら笑った。
「ははは。パワー自慢の看板は返上だなぁ、バーナーさんよぉ」
「やかましい!」
 床に這っていたバーナーが声を荒げる。
「パワーがダメならスピードでッ」
 クイックゼファーの眉がつりあがった。
「おいおい。見事なお約束、と言いたいところだがよ。それはオレの領分だぜ。ってか、お前程度のスピードじゃ止まっているのと変わりゃしねぇっつーの」
 この二人の口ゲンカなど全く構うことなく、合田は再び拳を振り上げた。
 だが、
「そこまで」
 と、クーインの声が響くと、合田はいきなり大人しくなった。
「暴れるのは街に出てからにしたまえ。…名は何といったかな?」
 合田はしばらく首をかしげてから、
「ビ、ビーフ…」
 と、呻いた。
(オックスじゃないのか…)
 内心ツッコミを入れるボルタだったが、クーインは特に口を挟まなかった。本人がそう言っているのだから、それでいいということだろう。
「ビーフか。…ならば、君は今日はから"マンビーフ"だ」
 クーインの言葉に合田、いやマンビーフは嬉しそうに吼えた。
「よし、気に入ってくれたかマンビーフ」
「ぶもー!」
「良かったな、マンビーフ」
「ぶもー!」
「いい子だな、マンビーフ」
「ぶもー!」
 クーインとコミュニケーションをとっているマンビーフだったが、その様は芸をする動物と調教師そのものだった。
 この光景に、ボルタは大いに不安を覚えずにはいられなかった。
(…知性が…元からそんなものがあったかどうかは怪しいが、ほとんど無くなっちまってないか?)
 ひとしきり遊ぶとマンビーフは眠くなったのか床に寝転んでイビキをかき始めた。クーインはそれを一瞥すると、ボルタたちに向き直った。
「さて、これからが本題だ」
(こっからかよっ)
 三人ともツッコミたいのを我慢して、話を聴く。
「今、諸君それぞれ、むしゃくしゃするといおうか、腹の虫が収まらない時期だと思う。そこで、明日の夕方からは大規模な憂さ晴らしを企画した。恐らく妨害はあるだろうが、諸君ら三人と、新戦力マン・ビーフの力を以ってすれば容易に退けることができるだろう。特に、新参者の忍者には煮え湯を飲まされっぱなしと聞く。ここらで叩いておかないと後々面倒だ。
 我々の真の敵、Mr.グラヴィティを倒すためには、障害は最小限に減らしておかなければならない。そのためにも、諸君らの奮闘を期待する。
 ではさっそくだが、ここ一ヶ月の活動報告をしてくれたまえ。それが、今日のミーティングの目的だ。勝利のためには情報収集が必要だ。それを元に、連中の能力や弱点を分析するのだ。直接ヤツらと渡り合った君たちなら、有効な情報を与えてくれると期待しているぞ」
 報告。
 その言葉に三人は固まってしまった。何も考えずに暴れていた彼らに、そんな事ができるはずがない。
 一向に誰も喋ろうとしないので、クーインは一人を指名する事にした。
「積極性が足りないな。いつも外で活動している時くらいの動きを見せて貰いたいものだが…よし、バーナー。報告を」
 名指しされたバーナーは、しばらく考えてから口を開いた。
「あー、その、なんだ。上手くやってるぜ。最近、ここに置いてあるものは大体はオレがかっぱらってきたもんだしな。えー、それから…グラヴィティや忍者が出てきたときは、確定で負けるね。なんせ、攻撃が当たらねぇんだからな」
 クーインが口の端をゆがめる。
「…それで、私が留置所まで毎回迎えに行くわけだな」
「おおよ。いつもお世話んなってます、ボス」
「お世話んなってます、じゃないだろッ!」
 クーインの怒りが爆発した。両手の指先から電撃のような光線が迸り、バーナーの身を焼く。バーナーはもんどりうって、そこいらを転げまわった。
 残されたボルタとクイックゼファーは、これからの自分の運命を目の当たりにして背筋を凍らせた。
 

 
「ごちそうさまでしたー」
 璃音は空になった皿に手をあわせた。その向かいで、蛍太郎も満足げに頷いた。
「おそまつさまでした」
 それからコーヒーで一服すると、二人は一緒に食器を片付け始めた。斐美花と綺子はサークルがあるので、今日は夜の十時を過ぎないと戻らない。時計の針は八時を回ったばかりで、それまでは二時間ほど。斐美花たちは気を遣ってゆっくり帰って来てくれる事が多いので、もっとゆとりはある。それを踏まえて、蛍太郎は流し台に向かったまま、テーブルを拭いている璃音に声をかけた。
「中間テストの順位、出た?」
「うん、一番だったよ」
 ある程度予想していた答えだったが、成績がどうだろうと言う事が少し変わるだけで、やることは変わるわけではない。蛍太郎は手を止めて、振り向いた。
「よーし。頑張ったから、ご褒美タイムだね」
 それを聞いて、璃音は目を輝かせて喜ぶ。
「ほんと?」
「ああ、ホント。そうだなぁ…今回は風呂がいいかなぁ。璃音ちゃん、お湯見てくれる?」
「はーいっ」
 璃音がパタパタと台所を出ると、蛍太郎は洗物を切り上げて書斎に向かう。机の引き出し棚の奥に隠してあった紙袋を取り出すと、いそいそと浴室に向かった。
 浴室では、璃音が待っていた。
「あー。まだ、沸いてないよ」
「ま、ご飯の前にスイッチ入れたから、そんなもんだね。でもシャワーは使えるんだし、先に始めちゃおうか」
 そう言って、蛍太郎は後ろ手に隠していた紙袋の中身を見せた。璃音は興味津々で、大きな瞳を丸くしてそれを覗き込む。
「これ、なに? ドレッシング?」
 外観をそのままストレートに表現されて、蛍太郎は吹きだしてしまった。確かにそれは、丁度形も大きさも食卓用ドレッシングのビンによく似ている。だが、こちらのボトルは柔らかめのプラスチック製で透明度も低い。
「ん、ローションだよ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 一応納得したそぶりだが、本当はそれが何なのか判らない璃音はただ首をかしげるばかりだ。その顔を見ていると、俄然楽しみが増す蛍太郎だった。
 
 
2−
 翌日、蔵太亜沙美は珍しく朝から番台に座っていた。
 単にゴロ寝の日々に飽きただけで商売っ気を出したわけではないのだが、それでも店の入り口から『本日休業』の札が外されているというのは、年に何度あるかという快挙である。そして、店先にバイクが停まったことに亜沙美が気付いたのは、まさにこの気まぐれのお蔭だった。
 少しして、ドアを開けたのは長身の女だった。
「ちわ。営業中だなんて、どうしたんだ?」
 中を覗き込むと、耳が隠れる程度の髪が軽やかに揺れた。
 藤宮侑希音である。
 亜沙美は侑希音の姿に気付くと、小さく手を振った。
「まあな。ここんとこお前が出入りするようになったから、いちいち閉めるのも面倒になってきてね。まあ、お前が居る間は閉めるわけだが…」
 こうして結局、蔵太庵は昼前に閉店する事になった。
 
 蔵太庵での用事を済ませた侑希音は、特に当ても無く商店街をうろついていた。
 まだ四時を過ぎたばかりだというのに家でゴロゴロしているのも気が引けるし、たまに帰って来たときくらいは町の様子をよく見ておきたいという思いもある。三週間前に井筒堂の抹茶アイス値上げを知らずに思わぬ恥をかいたので、そんなことのないように他の店もリサーチしておかなければなるまい。
 その時は璃音の誕生パーティの前日到着翌朝出発という弾丸ツアーだったので、市街地は通過しただけだったので、丁度時間が空いた今日のうちに、といったところだ。
 そういうことで、噴水広場に向かって歩いていると前方に見知った人影を見つけた。英春の制服を着た女子高生二人組で、片方は知らないが、もう一方は彼女の妹だった。
「よう、璃音」
 後ろから声をかけられて、璃音はビクッと肩を震わせた。振り向くと、口を尖らせて抗議する。
「侑希姉ぇ、脅かさないで」
「はは、ごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
 それから、妹の隣にいる女の子に目をやる。後姿ではわからなかったが、どこかで見た覚えのある顔をしていた。それは相手も同様だったらしく、「あーっ」と声を上げた。侑希音の容貌からして、相手のほうが強烈な印象を持っていて当然である。
「あーっ、あのときの!」
「祥ちゃん、会った事あるの?」
 祥と呼ばれた女の子は、ブンブンと勢いよく首を上下させた。
「変な二人組みにナンパされた時に、助けてくれたの」
「そうだったんだ。ありがとう侑希姉ぇ」
 璃音がちょこんと頭を下げると、侑希音は照れくさそうに笑った。祥が何かのイベントがあるとかで誕生日パーティーに来られなかった事を思い出し、璃音はそれぞれを紹介した。
「あ。こっちはクラスメートの佐藤祥ちゃん。これがウチの姉の侑希音だよ」
 すると、祥はポンと手を叩く。
「ああ、お姉さんだったんですか。誰かに似てるなぁと思ってましたけど、道理で。では改めまして、その節はありがとうございました。私、佐藤祥といいます。お噂は、かねがね伺ってます」
 侑希音は苦笑しながら答えた。
「…どんな噂だよ、怖いなぁ。それはさておき、妹がお世話になってます。色々厄介だろ、こいつ」
「いえいえ。とっても楽しい子だと思います」
 そう言ってから祥は、やおら侑希音に抱きついた。
「わわっ! なんだなんだ!?」
 狼狽する侑希音の胸に顔を埋めて背中をキッチリとホールドすると、祥は歓喜の声を上げた。
「感謝の表現でーすっ。ああ、凄いーふかふかーっ。あーん、肩甲骨くっきりー。お肉の付き方が絶妙なのぉっ!」
「おおいっ! 感謝とか関係なしに自分の楽しみを追及してないかっ」
「そんなことないでーす」
 言葉とは裏腹に、背中に回っていた祥の手がどんどん下に下がってくる。背筋がゾクゾク震えるのに耐えながら、侑希音は悲鳴に近い声を出す。
「おいおいおいおい! やめてくれよこんなところでっ」
 放っておくとどんどんエスカレートしそうなので、璃音は咳払いを一つ。
「…あまり騒がないで」
 気がつけば、周りには結構な数の野次馬がいた。
「たはは、ゴメン」
 祥が頭を掻く。侑希音も小さな声で、
「ごめん…」
 と、背中を丸くした。
「なんで侑希姉ぇが謝るの?」
「…そだね」
 璃音が本当に不思議そうに首を傾げるので、侑希音はますます小さくなる。しばらくその様子を見てから、璃音は祥の肩をつついた。
「それから祥ちゃん、当初の目的忘れてないよね」
 三秒ほど動きを止めてから、祥の表情が動いた。 
「あーっ! そうだった、気付かれてないよね!?」
 散々騒いでおきながらそれは無いだろうと思いつつ、璃音は頷いた。
「うん。真っ直ぐに"やなぎや"に入って行ったよ」
 このやりとりに何かイベントの気配を感じて、侑希音の好奇心が首をもたげた。
「なんなんだ?」
 璃音が、いまさら小声で答える。
「デートなの。悠が」
 それが侑希音にとって予想外のものだったので、口笛一つ。
「へぇ、あの悠ちゃんがねぇ」
「そんなに意外なもんなんですか、お姉さま?」
 と、祥が侑希音を見上げる。侑希音は苦笑しながら答えた。
「…お姉さまって…まあいいや。そりゃ、昔の悠ちゃんはフェミファシスト路線まっしぐらな臭いをプンプンさせてたからねぇ」
「ははぁ、その頃は小六病だったんですね」
 祥がしたり顔で頷くと、
「なんだ、それ」
 聞き慣れない言葉に、侑希音は目をパチクリさせた。
「年頃のお子様が、いかにも世の中悟りきった気になって斜に構えたり、無闇にレフトサイドな発言をしたり、愚かな人類を皆殺しにしたくなったりすることですよ。男の子の場合は中二病って言いますけど、そっちの方が有名かも」
「あー、判る気がする」
 侑希音が感心すると、璃音も目を丸くする。
「なんか、ズバリ当たってるんだけど…。さすが作家志望」
「まあねー。つまりは、大人になったのか、幸せいっぱいな璃音ちゃんが羨ましくなったか、そのどっちかでしょ。人間、成長するもんです。
 …じゃ、覗きに行くよっ」
 そのままつかつかと歩みを進める祥の後に璃音が続く。面白そうなので侑希音もついていくことにした。だが、店に近づくにつれて侑希音はある事に気付いた。
「でもさ。窓際に座ってたら覗くも何もないぞ」
 それには璃音が答えた。
「その時はその時で、たまたま通りかかったふりしてお茶を濁せばいいじゃない」
 祥も頷く。
「そうそう、どーせ相手はそこまで気が回りませんよ」
 二人の発言は確信に満ちていたが、侑希音は全く腑に落ちず首を傾げた。 
「そんな単純なもんかねぇ」
 侑希音を横目で見上げて、璃音が言った。
「侑希姉ぇ、初デートのトキメキなんてとっくに忘却の彼方だもんね」
 それにはさすがにカチンときて、侑希音は頬を膨らませた。
「…アンタには言われくないよ。ムシロ、アンタの方が初デートなんて覚えてないんじゃないの? 幼すぎてさー」
 今度は璃音が頬を膨らませた。
「覚えてるもーん!」
「私だってねぇ、"初めて"って付くものは全部ちゃーんと覚えてるよーだ!」
 二人ともムキになってケンカに発展しかねない勢いになってきたので、祥が慌てて割って入った。
「なにしてるの! もしかして二人って仲悪いの?」
 祥に気圧され、璃音と侑希音は目を丸くして動きを止めた。
「あ、その…」
 先に口を開いたのは璃音だ。
「そういうんじゃなくって、侑希姉ぇ相手だと、つい…」
 侑希音も続く。
「そう、何か知らないけど、遠慮無しで喋っちゃうんだ」
 頷いて、璃音は侑希音を見上げた。
「ケンカするほど仲が良い、のかなぁ?」
「ま、そんなとこだろうね。斐美花相手だと、こうはいかないんだよな」
 それから揃って笑いだす藤宮姉妹。祥が安堵のタメ息を洩らすと同時に…。
 爆発音が辺りに響いた。
 そして哄笑。
「現れたやがったな忍者野郎! 今日こそ黒焦げにしてやるぜ!」
 バーナーである。
 雑居ビルの看板を吹っ飛ばした赤タイツの男は、道を挟んで対峙する忍装束の男を睨みつけた。忍者こと斬月侠は、鋭い眼差しを変えることなく凛然とそこにある。
「どうかな」
「ほざけ!」
 バーナーは吼えるとともに、炎の球を六発立て続けに打ち出した。だがそれは、全て紙一重のところで斬月侠にかわされてしまう。
「クソ…ッ。なんでいつもいつも、アイツには当らねぇんだ!」
 苛立ちを露わにするバーナーだったが、その間にも斬月侠との距離は確実に狭まっている。だが、一陣の風がそれを引き裂いた。青と黒のタイツの男、クイックゼファーだ。
「ふん。随分と身が軽いらしいが…存在自体が超高速な、このオレに敵うかな?」
 と、気障にセリフを吐くと、斬月侠の周りを走り出した。クイックゼファーは次第にスピードを上げ、あまりのスピードのためにその姿が溶け出したように霞んでいく。赤いハチマキのたなびきを残し、クイックゼファーは完全に風と化した。
 この男、クイックゼファーの特殊能力は常識では考えられない速度で走ることで、スーパーパワーを持ったチームに必ず一人居るスピードスタータイプだ。その速度は、回転運動により竜巻を発生させるほどだ。
「アップは終了だ。月までブッ飛ばしてやるぜ!」
 クイックゼファーは軌道を変えた。一旦斬月侠から離れると通りの向こうまで走り、そこから取って返し直進する。スピードがどんどん上がり、彼の後方には巻き上げられたゴミが濛々とたちこめる。押しのけられた空気がその背後で渦を巻き、爆発寸前となった。加速し続ける超俊足は、遂に音速に迫ったのだ。
 前方正面の攻撃対象を見据え、クイックゼファーは自らの脚にさらなる加速を命じた。
「おおおおおッ! ソニック…」
 だが。
 次の瞬間、クイックゼファーは宙を舞っていた。
「な、なんでだぁッ! このオレが、そ、そんな…ッ! 自分の足につまづくなんてッ!!」
 本人にも見物人にもワケが判らないまま、超高速の男は時速九百キロ近いスピードで街外れへと吹っ飛んでいった。
 バーナーは、マンガだったら星が光っているであろう、クイックゼファーが青空へと吸い込まれていった方向を呆然と見上げるだけだった。
「…なにやってんだ、あのバカ」
 だが、いつまでも居なくなった者を見送っていてもしょうがないので、気を取り直し斬月侠に向き合う。
「ま、あんなのが居なくても、オレ様一人で充分だがな」
 だが、その頭上から別の仲間の声が響いた。
「おいおい、話が違うぜ。今日はつるんでやる事になってただろうが」
 ゆっくりと宙から舞い降りてきたのは、ボルタだ。バーナーは露骨に舌打ちをして見せる。
「ち。しょうがねぇな」
「フォーメーションBでいくぞ。どうせ一人じゃ勝てねぇだろ」
 ボルタの挑発に、バーナーの温度が上がる。
「やかましい! 見せてやろうじゃねぇか、強ぇところをよッ!」
 咆哮とともに燃えさかる火炎弾と化したバーナーが真っ直ぐに斬月侠を襲う。だが、あまりに直線的過ぎる攻撃はいともあっさり回避されてしまう。半身になっただけの斬月侠の横をバーナーが一直線に通り過ぎていく。しかし、
「貰ったッ!」
 バーナーの背後に隠れていたボルタが踊りかかった。その掌から稲妻が放たれ、路面を焼く。そこに斬月侠の姿は無かった。
「なっ…!?」
 驚く間もなく、ボルタは地面に這いつくばっていた。背中が痛むところからすると、背後から蹴られるなりなんなりしたのだろうが、ボルタはその時の相手の行動を全く知覚出来なかった。
 予定変更、野次馬に混じって見物を決め込んだ璃音たちは、斬月侠と酉野紫の戦いを遠巻きにしていた。タイツ男たちが何が起こったかわからないままに歯軋りする様を眺めていた侑希音が、ボルタが倒れ伏すのを見て、その秘密に気付く。
「あの忍法、催眠術の類だな…」
「そうなの? 全然判らなかった」
 と、璃音。
「そりゃそうだ。判るようにかけたって意味がないだろ。って、璃音には判らなくて当然か。
 恐らく、あの忍者の目を見ると脳に何らかの影響を受けて、無意識のうちに攻撃を外してしまうんだ。
 あの程度の扮装で正体がバレないのもそのせいだ。…私はこういうのには結構耐性つけてるんだけど、それでも彼の顔形や髪型が上手く認識できないんだよなぁ」
「へえ…。あの覆面だけでも結構判らないけど…って、それじゃ別に顔を隠さなくていいんじゃない?」
「それは写真対策さ。あれくらいでも、実際に本人相手に検分すれば誰だか判らなくなるワケだから充分だよ」
「あ、そっか」
 璃音は感心しきりだ。
 そうしているうちにも、ふたりのタイツ男は忍者ひとりに追い詰められていた。さらに駆けつけた警官隊に包囲され、絶体絶命だ。
「クソッタレ」
 舌打ちするバーナーに、警官隊の先頭に立つ廿六木大志刑事が人差し指を突きつけた。
「観念しやがれ不埒者っ。今日という今日は、大人しく縛につけい!」
 どこか時代がかった言葉遣いなのは、忍者の隣だからだろう。それを合図に、警棒とジェラルミンの盾を構えた男たちがジリジリと輪を狭めていく。
 その時。
「ぶもーっ!」
 動物じみた唸りが街角に木霊した。そして、包囲の一角が崩れる。警官隊を文字通りに蹴散らして、牛タイツの男が突進してきたのだ。
「マンビーフ…遅ぇぞテメー!」
 バーナーが毒づくとマンビーフは足を止めてぶもぶもと荒い息を吐く。間近で動物並みの振る舞いを見せるマンビーフに、ボルタは肩をすくめた。
「おおかた、道に迷ってそこいらをウロウロしてたんだろうよ」
 それからボルタは体勢を立て直した警官隊と斬月侠に鋭い眼差しを向け、薄く笑った。
「さて、反撃開始だな。マンビーフ、そこの忍者野郎に一撃くれてやれ!」
 仲間の指示を受け、マンビーフは雄叫びとともに突撃を開始した。
(新手か…)
 斬月侠は突っ込んでくるマンビーフを凝視した。お互いに目が合い、視線がぶつかる。まさに真剣勝負の前哨戦だが、斬月侠にとってはそれだけではない。相手を術中に陥れるため先制攻撃なのだ。
 侑希音が見抜いたとおり、斬月侠の忍法はその瞳による催眠術である。
 彼の眼球は取り込んだ光を特殊な波長に変えて反射する性質があり、それにより相手の視神経を経て脳に影響を与え、認識を狂わせるのである。これで相手は斬月侠の姿を上手く捉える事ができなくなる。
 こうして彼への攻撃は自動的に外れることになるのだが、極端な大ハズレではなく敢えて紙一重の差で逸れる程度のレベルでしか作用しないので、かかった方も容易には見破れない。斬月侠は元から素早いので、攻撃が外れるのはあくまでその敏捷性ゆえと思い込んでしまい、忍法のせいだとは思い至らないのである。
 だが、この忍法とて無敵ではなかった。
 マンビーフは寸分狂い無く、頭の角を斬月侠の腹に打ち付けたのだ。だが、斬月侠は衝撃が伝わる直前に跳び箱の要領でマンビーフの背中を飛び越える。着地して振り向くと、マンビーフも次の一撃を加えるべく、身を屈めていた。
「ちっ…」
 今度は、斬月侠が舌打ちをする番だった。
("マヤカシ"が通じないか…)
 バーナーとボルタは、自分たちの攻撃が掠りもしなかった斬月侠を直線的で機敏とは言い難いマンビーフが捉えかけた事に驚きを隠せなかった。
「…おい、どうなってやがるんだ?」
 バーナーが首を傾げると、
「知らねェよ。こっちが訊きたいくらいだ」
 ボルタも動揺した声で呟く。そしてマンビーフは、相変わらず人間らしい言葉を発することなく、
「ぶもーぶもー!」
 と、吼えるだけだった。
 それを見て、斬月侠は気付いた。
(そうか。あの牛男のアタマは動物並なんだ。それで、オレの忍法が効かないというわけだな…)
 そう。忍法マヤカシは動物には通じない。それは、知能が極端に低いマンビーフに対しても同様なのだ。
 そのマンビーフは、今度こそ斬月侠に一撃を食らわせようと身を屈め、大地を蹴った。荒れ狂う暴れ牛そのものの姿で、マンビーフが迫る。だが斬月侠は少しも慌てず、
(それならそれで…)
 ギリギリまで相手をひきつけ、身を翻した。
 標的を失ったマンビーフは、そのまま弾丸のようにビルに突っ込み、壁に首をめり込ませた。そして斬月侠はビルに向かってクナイを三発投げた。それはマンビーフの二メートル上の壁に突き刺さり、爆発する。瓦礫が降り注ぎ、牛男はそのまま埋もれてしまった。
「大男、総身に知恵が回りかね…か。まさにその通りだったな」
 と、斬月侠。だが、瓦礫の山がガラガラと崩れだした。コンクリート片を押しのけ、咆哮とともにマンビーフが立ち上がる。身体に埃をかぶってはいるが、見たところ全くの無傷。そのタフさに、斬月侠は思わず舌を巻いた。一方、倒れたと思われた仲間の無事にバーナーとボルタは色めきだった。特にバーナーは、拳を振り上げて喜ぶ。
「よっしゃ、いける! オレたちも協力するぜ」
 ボルタも、かつてない追い風の気配に身を震わせた。
「よしよし、三人で力をあわせれば…」
 だが、そこで彼は我に返った。
(待て…。このアホと動物相手に、どうやったら連携を取れるというんだ…)
 しかも、ボルタのテンションをさらに下げる状況が起こった。黒い影が、上空から斬月侠の背後へと現れたのだ。
「手助けしようか?」
 コートをまとった影が言う。振り向きもせず、斬月侠は答えた。
「必要ない、と言いたいところだが…」
 不意に、斬月侠にとっては予測どおりに、風が舞う。
 クイックゼファーだ。現れたのは消えたのと正反対の方角だった。
「地球を一周して戻ってきたぜ」
 明らかに嘘だと判るが、いちいちツッコミを入れるのも馬鹿馬鹿しい。斬月侠は、素直に申し出を受け入れる事にした。
「助かる。是非頼む」
「了解した」
 コートをまとった黒い影は、音も無くアスファルトに足をつけた。
「あ。ウチの入居人だー」
 その影、Mr.グラヴィティの姿に侑希音は思わず歓声を上げた。祥は、今がチャンスとばかりに前々から気になっていた疑問を口にした。
「その話は聞いてますけど、なんでそうなったんですか?」
 侑希音は事も無げに答える。
「前に一緒に仕事したことがあったから、そのよしみで」
「そうなんだ…」
 侑希音があのヒーローと一緒に仕事をしたという事実と、それだけの理由で格安にアパートに入居させたこと。その二つに祥は目を丸くした。
 その間にも、多くの人々が見守る中、二人のヒーローと四人のヴィランは通りの真ん中を挟んで対峙する。
 そして電光が走り、バトルの幕が切って落とされた。
「ぬおおおっ! すぐそうやってつるみやがって、ムカつくんだよ!!」
 ボルタが唾を撒き散らしながら叫ぶと、電撃が真っ直ぐにMr.グラヴィティを襲う。だが、
「お前らに言われたくはないな」
 重力は空間の歪み。稲妻は綺麗に軌道を逸れた。
 目前に繰り広げられる正義と悪の戦い。ヒーローショー。遊園地で僕と握手。
 この程度の事はアメリカでは日常茶飯事らしいが、欧州と南米を中心に活動する侑希音にとって、その光景はあまりに不条理に感じられた。侑希音は驚いたのと呆れたのと両方といった顔で呟いた。
「話には聞いていたが…実際に見ると色々な意味で凄いな、これ…」
 戦いに目が釘付け状態の祥が頷く。
「ああ、そういえば私たちが子供の頃って、こういう人達って居なかったですものね」
「その頃、私は学校で夏と冬の休み以外はずっと山の上だったからな。町の事はよく知らなかったけど…って、居てたまるか、あんなのっ」
 その間にもバーナーが、斬月侠が変化した蝦蟇に押しつぶされてダウンした。それを見ながら侑希音が呻くように言う。
「なあ璃音…。無粋を承知で訊くけどな、あの連中のマスクって透視できないのか?」
 璃音は首を振った。
「できるけど骨しか見えないから、素顔なんて判らないよ」
「…ああ、そっか」
 思わず納得の答えに、侑希音は感心しきりと大きく頷いた。
(…テレパシストと念写能力者を連れてこようかな)
 そんな事を考えているうちに、クイックゼファーが羽毛のように宙を舞うのが見えた。
 マンビーフの登場ですっかり戦力外になってしまった廿六木率いる警官隊が戦局を見守る中、ボルタが広場の噴水に放り込まれて漏電を始める。
「加重力ヒール!」
 Mr.グラヴィティの踵落としがマンビーフの脳天に炸裂する。その激しい衝撃に、巨大な牛そのものの男は遂に大地へと身を沈めた。
 野次馬たちの喝采が溢れた。
 警官隊が散らばり、倒れ伏した酉野紫を思い思いに取り囲んで警棒で殴打する。それがひとしきり済むと、ボロ雑巾と化した四人をゴミのように護送車へ放り込む。一連の作業を見守っていた廿六木は、
「ご協力、感謝します」
 と、ヒーロー達に敬礼すると足早にパトカーへと戻っていった。
 戦いが終わり野次馬たちが散っていく中、璃音たちは本来の目的を思い出し、やなぎやの方へ顔を向けた。
 だが、
「…なにやってんの、アンタら」
 悠が、そこにいた。しかも疑念の混じったジト目で睨んでくる。祥は苦し紛れに、こう言うしかなかった。
「え? ああ、野次馬してたの…」
 それに合わせて、璃音と侑希音が言い訳をする。
「そうそう。ほら、こういうの見るの初めてだから…」
「う、うん…留守がちな侑希姉ぇに、この町の最新事情を…」
 だが、そんなものが通じる悠ではない。
「ふーん」
 と、納得していないことを全身で表現するように腕を組んで、少女は頬を膨らませていた。
 
 
3−
 廿六木大志刑事が三城大学の藤宮研究室を訪ねてきたは、その日の夕方のことである。
 蛍太郎はこの男とは面識が無かったが、古くからの知人である法眼暁彦の紹介ということで、部屋に通すことになった。
 なんでも、暁彦はアメリカに留学していた頃に廿六木と親しくしていたらしい。卒業後は別れ別れになっていたが、現在は仕事で頻繁に顔をあわせるようになり、付き合いが復活したというわけだ。
 だが、そんな事情とはお構いなしに、蛍太郎にとっては警察関係者との面会は大きなプレッシャーを強いる物だ。
 案の定、ソファに腰掛けて麦茶を啜っていた刑事は、こんな事を言い出した。
「そういえば彼、先生のことを同好の士だとか言ってましたよ」
 蛍太郎は、廿六木刑事が座っている所で先月の終わりに行なった事を思い出し、目を逸らした。
「…ま、まあ…否定は出来ないかも…しれないです」
「へえ…。じゃあ、先生もあれですか。…ロリコン?」
 歳の近い人間に"先生"と呼ばれるこそばゆさには大分慣れたが、その、ロリコンという言葉と"先生"との食い合わせは果てしなく悪い。いや、最悪だ。
「そんなつもりじゃなかったんですが…。あの時は、そりゃもう可愛かったんです。あ、今でも…ってか、今の方が最高だろってくらい可愛いですけど…」
 動揺から呂律が回らなくなってきた蛍太郎に、廿六木は冷静に相槌を打った。彼の妻には、その時はそうとは知らなかったが実際に会った事があるし、ここに来る前に写真を見ている。
「ええ。可愛いですよね。…胸、おっきいですしね」
 それでさらに蛍太郎の動揺が激しくなる。
「そう、そうなんですよっ。…って、そうじゃなくて…え、ええっと、別に、おっぱいが目当てってことは全然なくて、そりゃ一番上のお姉さんは、ある意味で未来予想図でしたけど…。ああっ、ごめんなさいっ! でもでもっ、法的には全く問題なかったと思うんですけどッ!!」
 廿六木は蛍太郎がうろたえるのを楽しんでいたが、こればっかりでは困るので適当に切り上げることにした。
「いいんじゃないですか。それに先生ほどのイロオトコだったら、"光源氏計画"ってことで世間様も納得してくれるでしょう」
「くれますかね…」
「学生さんたちにちょっと話聞いたら、みんなそう言って羨ましがってましたよ。もちろん、男女問わずね」
「そうでした? 初耳ですけど…。でも、僕は彼女を自分に都合の良い様に育てた覚えは無いです…。ってか育ててないですし。だって、あの子は…」
 話はまだ続くらしい。廿六木は打ち解けるとっかりになればと思ってこのネタを使った事を激しく後悔した。結局、妻の惚気話を延々と一時間聞かされてから、廿六木は本題に入ることに成功した。
「それでですよ、先生」
 廿六木は、鞄から幾つかの資料を取り出した。
「彼らについてご意見を伺いたいのです。これくらいロスとかニューヨークでは日常茶飯事なんですが、この国にはこういった手合いに対処する機関が無いですからね。
 …あ、それはさしあげます」
 気が済むまで喋ったお蔭でスッカリ気を良くした蛍太郎は、急いで手作りしたゆえに雑な資料を嫌な顔一つせずに受け取った。
「酉野紫、ですか…」
 そこには町を騒がすタイツ男集団"酉野紫"に関する報告がまとめられていた。
 そもそも、かつての酉野紫は普通の暴走族だった。
 十年の歴史を誇るチームで、町の治安を揺るがすほどではないにせよ厄介者であったことには変わりない。だが三年前、目に見えて凶悪さが増したがために警察とMr.グラヴィティの共同作戦により一斉検挙が行なわれた。それにより、チームは解散したハズだった。
 だが、半年ほど前から酉野紫を名乗る特殊能力を備えた全身タイツ男が一人二人と現れチームを組んで暴れまわるようになり、現在に至るというわけだ。その、いわば新生酉野紫とでもいうべき集団に関しては、判っていることは無いもない。メンバーは全部で何人なのか、そもそも、どういう理由で特殊能力を使えるのか。その総てが謎なのである。
 一通り目を通して、蛍太郎は当然の疑問を口にした。
「あの連中、これまで何度も留置所送りになってると思うんですが、その時に取り調べなどはしていないんですか? それに、すぐに出所しているのも腑に落ちませんが…」
 痛いところを突かれ、廿六木は苦笑した。
「実は、奴らのタイツはどうやっても脱がすことが出来ないんで、未だに素顔が判らないんです。取調べしようにもあの通りの能力ですからね…。それでいつも、鉄板張りの特殊な部屋に押し込んでるんですが…しばらくすると、居なくなってるんです」
「居なくなる?」
「はい。窓は無いし、扉は一つ。あるのはネズミが通れる程度の小さな通気口だけ。もちろん、ドアの前には警官が張り付いてます。それにもかかわらず、気が付けば煙のように消えてしまって…」
「…それが彼らの能力なのか、それともまだ仲間が居るのか…ですか」
「ええ。…あ、この話はオフレコですよ」
 ここに来てから初めて廿六木が慌てた顔を見せたので、蛍太郎は小さく笑ってから頷いた。
「はい。それはモチロン。
 …もう一つ、気になるのは、彼らが酉野紫を名乗っている以上、そこには何か意味があるんじゃないかって事です。何度もこの町のヒーローに挑戦するような態度を取っているんですから、無関係ってことは無いと思いますが?」
 それを聴いて、廿六木は我が意を得たりと膝を打った。
「そうなんですよ。もしも彼らが、暴走族"酉野紫"のメンバーの成れの果てだとすれば、チームを解散に持ち込んだMr.グラヴィティを恨んでいることは確実でしょうから、現在の行動の動機としては、それが一番しっくりきます。オレは、この説を推したいと思っています。
 参考までに、三年前のチームにおける有力メンバーをまとめた資料があります。ご覧ください」
 カバンから新たな資料が引っ張り出される。
 そこにある名は四つ。
 洞江 博康。酉野高校在学、二年留年して現在三年生。
 取手 隼児。三城大学社会学科一年。
 四方堂 樹。フリーター。
 合田 弘樹。塗装工。
「あ、リーダーと他二名の幹部は服役中です。なにせ、当時の酉野紫は酷かったですからね。シャレにならない事をして、当分出て来られません」
 と、廿六木は締めくくった。その間にも資料を眺めていた蛍太郎は、そのうち一つの名に目を留めた。
「この…取手君って、ウチのサークルのメンバーですよ。まあ、四月以来、来てないですけど」
「何か変わったことは?」
 蛍太郎は首を振った。
「そんな印象に残る感じではなかったですね…。少なくとも、彼らみたいなエキセントリックな性格じゃあなかったはずです。少なくとも、そういう面をサークルで見せたことはありませんでした。あったら、話題になってますからね」
「そう、それなんです」
 また、廿六木は膝を叩く。
「彼らの、まるでコミックの悪役のような性格、あれも妙です。
 マスクをつけて子供じみたニックネームで呼び合っている時点でどこかズレてますけど、それ以上に、あの性格は殆ど異常です。極端に粗暴で粗野で、昨日現れたのに至っては、知能らしい知能をまるで感じさせませんでしたから。もし近所にあんなのが居たら、目立ってしょうがないハズです。とっくに彼らの正体に関するタレ込みが来てても不思議じゃありません。
 仮に、彼らの正体が元暴走族だったとして、それはそれで目立つでしょうが、それでもあそこまで極端じゃあない。もしあれが全部演技だとしたら、それはそれで余計に正体不明になってしまいますよ…。
 このあたりが、暴走族とタイツ男をイコールで結ぶのを妨げているんです」
 廿六木は、先ほど膝を叩いた手をひらひらさせて肩をすくめるポーズ。つまりお手上げということだ。だからこそこうして相談に来ているのだが、蛍太郎も困ってしまう。
「僕も、探偵業は専門外なんですけどね」
 でしょうね、と頷くと廿六木は改めて蛍太郎と顔を向き合わせた。
「…と、今までのは、現状の説明みたいなもんです。唐突に、こっちの訊きたいことだけを訊こうだなんて、あんまりですからね。
 今回伺ったのは、超能力について先生にお尋ねしたかったからです」
 蛍太郎は無言で頷いて続きを促した。
「酉野紫のメンバーはご存知の通り様々な特殊能力を使いますが、先ほどお渡しした資料の中に、そういった能力を持つ者は居ませんでした。…まあ、隠していたのかもしれませんが。でも、彼らの性格上、そういう能力があったら喜んで使ってたと思いますし、一斉検挙を受けた状況で使わないとは考えにくい。つまり、暴走族・酉野紫に超能力者はいなかったと考えるのが自然です。でも、タイツ男・酉野紫は超能力者集団である。
 …これが、私の推す説の最大のウィークポイントです。
 そこでお訊きしたいんですが、こういう能力は、ある日突然、目覚めたりするもんなんですか?」
 廿六木の考える元暴走族がタイツ男の正体だという説は、動機という面に関しては至極自然に思える。だが、彼らがいかにして超能力を手に入れたのかを解明できなければ、その説は否定されてしまうのである。だから廿六木は、その否定材料を潰すために蛍太郎の知恵を借りに来たというわけだ。
 蛍太郎は少し間をおいてから、答えた。
「そういうのは人それぞれですからね。例えば、妻の家では大抵は生まれたときから何かしら持ってたって聞きますし。そうじゃなくて、持って生まれた能力がしばらく経ってから目覚めるということもあるそうです。いずれ、人の精神に起因する能力ですから、不安定で何でもありというのが本当のところです」
「そんなの、まるっきり気まぐれじゃないですか」
 廿六木が憤然と口を尖らせるので、蛍太郎は苦笑いで答えた。
「まあ、そんなもんです」
「それじゃあ、あれには原理もへったくれも無いんですか…」
 廿六木は落胆した。科学者相手に期待していた回答ではないのだから当然だろう。それを察して、蛍太郎はゆっくりと口を開いた。
「超能力の原理原則、か…。人の意識とか霊魂ってヤツは、何かの量子的活動であるという説がありますが、ご存知ですか?」
 廿六木は首を捻りながら答えた。
「量子論ですか…。っていうと、神がサイコロ遊びをどうこう…ってヤツですか? あれはどうにも苦手で」
「ええ、それです。観測した時によって状態が違うなんていう、これも何とも気まぐれな話ですよ。
 話を戻します。もし、意識に関するその説が正しければ、極小領域の世界では意識も物理現象も、量子の振舞いと意味では等価値だということになります。それならば、人の意識によって何らかの物理的な力が起こるっていうのも、まるっきりありえない話では無い、と。…現状では、擬似科学の範疇を出る話ではないですが」
 廿六木は苦手という割には、頷きながら黙って聞いていた。疑似科学的なのはもっともだが、酉野紫のような超能力者が実際に存在するというのに、それをありえないと言い張るのは逆に非科学的だ。むしろ、その事象・現象・存在に何らかの法則を見出すべきであり、この蛍太郎の発言は、まさに彼の口から出ただけに、廿六木には余計に説得力を持って聞こえた。
「それは、奥さんを研究した結果ですか?」
 全くの第三者だからこそできる不躾な質問だが、蛍太郎は特に機嫌を損ねることは無かった。今まで通りの穏やかな口調で答える。
「違いますよ。知り合いの超能力研究者の言い分です。それに、僕は妻をそんな風に見た事は…過去に全く無かったとは言い切れませんが、彼女への僕の興味は、人間の女性であるという一点に注がれています」
 廿六木は小さく頭を下げた。
「失礼しました。可愛いですもんね、彼女」
 そして、"可愛い"という言葉に敏感に反応する蛍太郎。
「ええ、そりゃもう可愛くて可愛くて仕方ないです。ホントに本心だけで言わせてもらうと、あの子と毎日一日中ベタベタくっ付いていたいんです。いっぱいえっちして、早く孕ませたいんですよっ!」
 仕舞いには拳を握って力説する蛍太郎に圧倒されかけた廿六木だったが、ふと目に入った時計を見て、何故そこまで力を入れるのか、その理由に気付いた。
「…もう帰りたいんですね」
 時刻は六時を回っていた。
「察していただけます?」
「まあ…」
 さらに畳み掛けるように、蛍太郎が身を乗り出す。 
「だって、そろそろ夕飯の時間なんですよ。お腹空かせてたら可哀想だと思いませんか?」
「彼女、自分で作れないんですか?」
 半ば呆れながらも廿六木が首をかしげると、蛍太郎ばブンブンと両手を振る。
「まさかっ。僕の璃音ちゃんが、そんなショボイわけないじゃないですか。あの子を手料理で喜ばせるのが、僕の何よりの楽しみなんですよ」
「…そうですか」
 ここは退くのが賢明と悟り、廿六木は席を立った。
「じゃあ、また何かあったら伺いますよ」
 

 
 午後八時頃、藤宮屋敷。
 夕食が済むと、璃音は後片付けを手伝ってから風呂に行く。斐美花と綺子はさっさと部屋に戻っていったので、リビングにはソファに腰掛けてコーヒーで一服している蛍太郎と侑希音だけが残っていた。
「あのさ、蛍太郎君。ちょっといい?」
 侑希音が彼女には珍しく、少し遠慮がちな顔で近づいてくる。蛍太郎もこのあたりの時間は仕事のために書斎に入ることが多いからだ。だが、急を要するような事を抱えていなかった蛍太郎は、
「いいよ」
 と、気安く頷いて、コーヒーを注いでやる。侑希音は安堵の笑みを浮かべていた。
「相談があるんだよね」
 それを聞いて夕方のことを思い出し、蛍太郎は小さく肩をすくめた。
「今日は何か、相談されてばかりだなぁ」
「蛍太郎君って、こっちの警察に知り合いっているの?」
 侑希音は蛍太郎のことを"蛍太郎君"と呼ぶ。義姉とはいえ年下の女性に君付けで呼ばれるのはどうかという向きもあるが、お互いにそれが自然になってしまっているので、今更変える理由も無い。
「侑希音さん、なんかしたの?」
 同様に"侑希音さん"と呼ぶのも、この方がしっくり来るからだ。
「私じゃないよ。ただ、これからあるかも、みたいな…」
 首を振ってから、侑希音が答える。蛍太郎は難しい顔をして腕を組んだ。
「ロンドンがらみ?」
「ま、そんなとこ。市民の被害が想定される事態にならないとも限らないから…」
「うーん、なるほどね。僕にそういう知り合いは、いない事もないけど、たまたま今日できましたっていう感じだからね…。友達の友達って言ったほうが近いっぽいよ」
「へえ、誰?」
 話が望ましい方向へ進んできたので、侑希音の表情が俄然明るくなる。だが、続く蛍太郎の言葉でそれは仏頂面へと変わった。
「暁彦さんの友人だってことで、刑事が尋ねてきたんだよ。だから、彼経由なら何とかなるんじゃないかな」
「…私に、あれと話をしろと?」
「嫌だよねぇ、やっぱり」
 侑希音と法眼暁彦には浅からぬ因縁がある。
 もともと藤宮家と法眼家は遠縁ということで昔から親交があり、さらに暁彦の姪である悠が璃音と幼馴染みなこともあって、お互いの大人の判断で表立ったケンカにはなっていない。それに、もし何かあった場合、両者の社会的立場からすると心情的に暁彦に味方するものがどうしても多いということもある。
 侑希音は、自分が"大金持ちの放蕩お嬢様"であることは重々承知している。
 それはさておき、蛍太郎は彼女の立場を慮って、こう提案した。 
「それじゃあさ、必要になったら僕に言って。なんとかするからさ」
 その言葉に、侑希音は満面の笑みで頷いた。
「ありがと、蛍太郎君。…それじゃあ、私ちょっと出かけるから。ごはん美味しかったよ」
 そう言うと、侑希音は空になったコーヒーカップを置いて席を立った。それと入れ替わりに璃音が現れる。
「侑希姉ぇ、出かけたの?」
 蛍太郎が頷くと、璃音の顔は少し寂しげだ。
「なんか、せっかく家に居るのに落ち着き無いよね」
「こっちで仕事みたいだし、しょうがないさ。それよりね…」
 身体を覆うのがあまり大きくないバスタオル一枚という璃音の状況に、思わずタメ息をついた。
「どうしたの、その格好」
「着替え持ってくの忘れちゃったの、てへ。誘惑するつもりじゃないんだよ。もしかして…ムラムラした?」
 今日の夕方に散々っぱら可愛いだの孕ませたいだのと力説した高揚感が蛍太郎の中に残っていたために、肩や脚が露わなうえにタオル一枚の下が素肌というその姿は、妙に刺激的に映ってしまう。
「した」
 そして、こういうときは素直に頷いてしまうのが、彼の性分である。
 蛍太郎が手招きをすると、璃音はパタパタと寄ってきた。ソファに座っているために、璃音の顔や胸元が間近になる。蛍太郎は、まだすこし湿り気を残している璃音の髪を撫でながら、顔を寄せていく。石鹸とシャンプーが混じった甘い匂いに鼻をくすぐられ、頭の奥が霞がかっていくような気がした。
「いい匂い…」
 蛍太郎は璃音の鎖骨に指を這わせると、バスタオルにかけた。だが、それを璃音の手が、上からぎゅっと押えた。
「ダメだよ。勉強してから」
 今の璃音は真面目な優等生の顔をしていた。彼女は入浴後の三時間は自分の勉強部屋に篭っている。休日や特別な日はその限りではないが、平日にはその習慣を欠かさない。
「人間、メリハリが必要なんだよ。やるべきことは、ちゃんとこなさないと」
 そう言って、璃音はニッコリと微笑む。
「そっか、そうだね」
 お預けをくらった蛍太郎は、ただ笑うしかない。それにしても、掌を自分の胸に押し付けておきながらお預けっていうのは、どういう了見なのだろう。そんな風に悶々としている蛍太郎に向けられた璃音の笑顔は、向日葵のように可憐で眩しい。
「はい、よくできました」
 璃音は蛍太郎の頭を撫でてから、
「…なーんてね。じゃあ、今日は早めに待ってるから…」
 と、額にキスをした。金曜の夜は長い。何も、いまからがっつくことはないのだ。蛍太郎が素直に頷くと、璃音は嬉しそうに微笑んで踵を返した。だが、三歩ほど歩いてからポン、と手を叩いて立ち止まる。また振り向いて、璃音はわざわざ腰を落として上目遣いで蛍太郎の顔を覗き込んできた。
「けーちゃん、コーヒー貰っても良い?」
 重力により強調された胸の谷間に目が向きそうになるのを必死で堪え、蛍太郎が笑顔を作って頷くと、璃音は自分の格好を顧みずに飛び跳ねて喜ぶ。
「やったっ」
 璃音は、まだコーヒーが残っているガラスポットを手に取ると、侑希音が空にしていったカップいっぱいに中身を注ぐ。それを持つと、
「またねー」
 と、手を振って、璃音はリビングを出た。
 残された蛍太郎は手持ち無沙汰になり、まずは自分のコーヒーを飲み干した。テレビをつけても興味を惹かれるようなものは何もやっていなかったので、書斎に行くことにした。だが、明日の準備などは空き時間に済ませてしまっていたので、やはりここでも手持ち無沙汰になってしまう。だからといって、璃音の勉強を邪魔するなど許されることではない。そこで蛍太郎は、今日受けた"相談"を振り返ってみることにした。気になることが幾つかあったので、自分なりに穴を塞いでみるのもいいだろう。
 まず、廿六木大志刑事である。
 法眼暁彦の友人だというから、蛍太郎にとっては"友達の友達"ということになる。言葉の端から暁彦とはフランクな間柄であることは覗えたし、蛍太郎に関しては事前に下調べをしていたのだろう。
 調べてみたところ廿六木が実際にアメリカに留学していたのは事実で、平田涼一とも接点があった。念のために平田本人に電話確認をしてみると、暁彦を含め三人でよくつるんでいたと、青春プレイバック話をしてくれた。
 蛍太郎は世の中の狭さを実感しつつも、彼とは長い付き合いになりそうな気がしていた。
 その廿六木が持ち込んだ案件が、町を騒がすタイツ男集団・酉野紫のことだ。
 彼らは何者で、何故あのような格好をして、あのような能力を持ち、そして何故暴れるのか。
 彼らが元暴走族で、警察に協力していたMr.グラヴィティを恨んでいるために今のような行動に出ているという廿六木の説は、一見して筋が通って見える。
 まず、チーム名が"酉野紫"であること。そして、あとで聞いたところでは共同作戦による一斉検挙といっても、実際には殆どMr.グラヴィティの力によって為されていたので、当事者としては警察よりもまず彼を恨むのは自然な流れだということ。確かに、現状で彼らの行動に動機を見出すのは、この二点に着目するしかなさそうだ。
 だが、その説の最大の否定材料は、酉野紫が確認されただけで四人の超能力者で構成されているという事実である。三年前までの酉野紫に、そのような特殊能力を持ったものの存在は確認されていないのだ。
 では、その三年間に酉野紫が超能力者になったと仮定してみよう。だが最初から超能力者と知って集めたのならともかく、普通の人間の集団が立て続けに能力に目覚める者が出るというのは不自然だ。きわめて出現率の低い形質の持ち主が、血縁者でもないのに一つの集団へと偶然に集中するなど考えられない。
 だが、その力の源が、魔術やオーバーテクノロジーなど超能力とは別系統の物ならばどうか。"酉野紫"にさらなる未知のメンバーの存在が確実視されているが、彼らの中に、そういったリソースを与えた者が居ると考えることも出来る。
「…もしかしたら、連中は超能力者じゃないのかもしれないな」
 もう一つ。
 捕り物の直後に関わらず廿六木が現れたということは、また"酉野紫"に逃げられたということだ。さほど凶悪な連中というわけではないが、いつまでの野放しにしていて良いモノでもない。早急な検挙が望まれる。
 そして、藤宮侑希音の行動だ。
 彼女がこの町を拠点にして何かを追っていることは、蛍太郎も薄々感づいてはいたが、今日の会話でそれが確信になった。警察沙汰に発展しかねない事態だということだが、彼女が実際にここに来ていることから、酉野紫など比べ物にならない脅威であることは自然と想像がつく。なにせ、あの"地底人"は電話連絡で済ませたくらいである。それなのに自ら出張ってきているということは、この件は少なくともル・イバシュラを上回る危険性を持つということだ。
 それに、璃音から聞いたところによると、彼女自身やクラスメイトが侑希音の姿を商店街で何度も目撃している。まさか今更になって商店街めぐりをしているとは思えないから、蔵太庵に出入りしていると考えるのが妥当だ。
 それはつまり、亜沙美の協力を得ているということで、ならば彼女の敵は魔術師だと、蛍太郎は考えた。
 だが、それに気づいた所でどうなるものでもない。誰も巻き込みたくないからこそ、侑希音は何も言わないのだから。特に、妹達を危険に晒したくないのだろう。ならば、自分のするべきことは彼女らを侑希音の活動から遠ざけることだ。蛍太郎は、そのための方策を考えることにした。
 

 
 翌朝、蛍太郎は妙な痛みによって強制的に眠りから覚まされた。目を開けると、璃音が頬を思いっきり膨らませている。そして痛みの原因は、璃音に耳を引っ張られていたことだと気付いた。
「いたい…」
 蛍太郎が呻くと、璃音は指を離してプイっとそっぽを向いた。
 昨夜、蛍太郎が寝室に入ると、璃音は既にベッドの上で寝息をたてていた。考え事をしていたために遅くなってしまったのである。その状況からして危惧はしていたのだが案の定、璃音は不貞寝だったようで、その結果が、この荒っぽい起し方だったというわけだ。しかも、時計を見ると土曜の朝だというのに七時前だ。
 蛍太郎は苦笑すると上体を起し、拗ねてむくれている璃音の頬を撫でた。
「拗ねてる顔も可愛いな」
 璃音の頬がさらに膨らむ。
「拗ねてないもんっ」
 あまりに判りやすい表情に、蛍太郎は思わず笑みをこぼした。いずれ、このままでは昨日考えた"お願い事"は聞いてもらえそうに無いし、すっぽかした穴埋めもしなければならない。
 蛍太郎は心を決めた。
 ひと頑張り、しなければなりますまい。
 
 
4−
 その日の午前、というより昼前、璃音はひとり山道を飛んでいた。チビTとショートパンツにショルダーバッグという山に似つかわしくない軽装は、ここが通いなれた道だということもあるし、パワーのお蔭で全く危なくないからでもある。
 この山は藤宮屋敷の丘の裏手から続いており、裏山という通称とは裏腹に標高三百メートルほどのかなり本格的な山で、いわゆる里山のイメージは無い。ここも藤宮の地所だが、当主とそれに連なる者など極限られた人間しか出入りを許されない特別な場所だ。
 その理由は山頂にある。
 欝蒼とした雑木林の奥、小さな社が佇んでいる。これが藤宮家の氏神だ。こんなところにあるのに荒れるに任せるでもなく片付いているのは、璃音が月一回ここに来ているからだ。
 璃音は観音開きの扉を開けた。本殿には賽銭箱は勿論のこと祭壇も無く、ただ真ん中に大きな円柱が立っているだけだ。柱は天井から床下までを貫く大きさで、直径は三メートル近くある。材質は木とも金属ともつかない不思議なもので、丁度璃音の頭の高さのあたりに大きな窓がある。その中は暗くてよく見えないが、ここに藤宮家の始祖が祀られている。
 璃音はバックを下ろすと、拍手を打つ。そして、先祖の名を呼んだ。
「式子さーん」
 少しして、柱の傍らに人影が現れた。身の丈は璃音より少し高い程度。白い肌と対照的に黒く艶やかな髪を膝の裏まで伸ばし、細い身体には白と紫の和服をまとっている。細面で少々つり気味の目はどこと無く斐美花に近い雰囲気を持っている。だが、瞳は璃音と同じ真紅。
 彼女こそ、璃音たちの血脈の大源、藤宮式子である。
「なんじゃ、今回は早かったのう」
 式子は、予想外の来客に目を丸くした。
「ご迷惑でした?」
 上目遣いで機嫌を伺う璃音に、式子は穏やかな笑みを向けた。
「いや。そもそも私には時間など関りないからのぅ。何とも思わんよ」
 その浮世離れした容貌は、璃音でも参ってしまいそうになる程に美しい。と、いっても実際に浮世を離れていて、それも千年は経つわけで、とっくにヒトの領域に居ないのだから美しくて当然ではある。
 安堵した璃音は、バッグから弁当箱を取り出し式子に手渡した。
「おお。いつもいつもありがとう」
 式子は満面の笑顔で弁当箱を開ける。そこには、稲荷寿司がギッシリと詰まっていた。
「きゃーっ、スシ詰めじゃスシ詰めじゃーっ」
 ヨダレを垂らさんばかりに大喜びの式子は、子供のようにはしゃいで璃音に擦り寄る。
「なあ璃音、食べてよいか? よいよな?」
「いいですよー。あ、わたしもごはんにします。せっかくだから、外で食べましょうよ」
 今日はよく晴れて日差しが強いが、木立のお蔭で和らいだ日差しが心地良い。璃音の提案どおり、本殿の前の広場に腰掛けて、ふたりで弁当を広げることになった。
 式子は璃音の弁当を覗き込み、感嘆する。
「あいかわらず、マメな男じゃ」
 夫を褒められると嬉しくなるもので、璃音は上機嫌で微笑む。
「はい。そのお寿司、おいしいでしょ?」
「うむ」
「けーちゃん、式子さんに感謝してるからですよ」
 そう言われて、式子は深く何度も頷いた。
「そうだろうともそうだろうとも。あやつの稼ぎがあるのは私のお蔭じゃからのう。私の"船"を調べさせてやったり、クニの言葉を教えてやったり、色々と面倒みてやったもんじゃ。…懐かしいのう。今度は、あやつも連れてくるがよいぞ」
「はいっ」
 璃音が満面の笑みで頷くと、式子も笑顔を返す。それから式子は璃音の腹の辺りに流し目を送り、口の端を上げた。 
「どうでもいいが、今日は、あの男の匂いがいつもに増してプンプンするんじゃが。…お前の胎からな」
 璃音は顔を耳まで真っ赤にして俯いた。
「…わかります?」
「そりゃ、まあ。しかし、なんでまたこんなに日、お主を山に送り込んだんじゃろうな。いつもみたいに一日中楽しんでおれば良いじゃろうに。別に私は、不浄などは気にせんぞ」
 本来、璃音がここに来るのは来週の予定だった。だが今朝になって、蛍太郎から予定を前倒しするように頼まれたのである。だが、ちゃんとした理由は聞かされていなかったので、璃音は首を傾げるだけだった。
「何か、来週どっか行くから、前倒しで…みたいな感じだったよ」
「ふむ。まあ、良いか」
 式子は頷く。
「せっかく来たのじゃから、やっていくじゃろう? 私も気になる事が幾つかできたから、試してみたくてのう」
「はい、お願いします」
 璃音は今までとうって変わり、真剣な眼差しで答えた。
 

 
 お昼どきの蔵太庵。いつも休業ばかりのこの店が開いているのを見て、蛍太郎は自分の推論が当たっていたことを悟った。
「ごめんくださーい」
 店内に入ると、番台の亜沙美が目を丸くして蛍太郎を凝視していた。
「お前、侑希音に呼ばれたのか?」
「違いますよ。なんかやってるみたいなんで、お話くらいは聞かせてもらおうと思いまして」
「お話ねぇ…」
 亜沙美は困ったとばかりに頭を振っていたが、すぐに思い直しようで、
「わかった。お前が居た方が何かと便利だしな」
 と、手を叩く。そして、おもむろに口を開いた。

 侑希音が蔵太庵に通うようになったのは一週間前からのことだ。
 亜沙美がいつも通り縁側で寝ていると、文字通り侑希音にたたき起こされたのである。
 亜沙美は不意の来客を露骨に嫌な顔で迎えた。
「…なにしに来たんだ、お前」
 店が閉まっているからと勝手に裏口をこじ開けて入ったのでは、それも已む無しだろう。仏頂面も当然だ。そんな亜沙美に、侑希音は全く悪びれずに言った。
「勿論、遊びに来たってわけじゃないぞ。ちょっと顔貸してくれ。どうせ暇だろ」
「忙しいぞ。これから昼寝せにゃならん。…なんてな。正直、退屈してたところし、付き合ってやろうかね」
 亜沙美は気が変わって、侑希音を座敷に上げることにした。そこいらに撒き散らされていた本を適当に寄せ、席を作る。 
「璃音の誕生パーティの次の日にゃ、もう発ったって聞いたがね」
 差し入れの缶コーヒーを啜りながら、亜沙美。この家は客に茶も出さないどころか下手をすれば淹れさせられる羽目になるのは周知なので、侑希音は飲み物持参だった。それから口を離し、頷く。
「まあな。なんていうか、このあたりをウロウロしてたんで」
「へえ。で、私のところにくるという事は、"協会"がらみかな?」
「そうだ。行きがかり上、そういう事にな。
 二ヵ月前なんだけど、所用でイーストブロムウィッチに立ち寄ったら、協会の人間にでくわしてね。ソイツの仕事を引き継ぐ形で、今回の件に関わることになったんだ」
「へえ、珍しいな。お前が協会に関わるなんて」
 彼女らが言う協会とは、"魔術師協会"。今なお世の中の影で生き続ける魔術師たちの中でも、欧州発祥の学派による統制機関である。
 その所在地からロンドン、そのありようからアカデミーの異名を名乗るこの団体は、色々な意味で現在の常識からかけ離れた存在であり、かつ悪事を働くにはもってこいの技術を持つ魔術師たちを保護・管理して世間様との距離を上手くとりつつ、学究の徒としての本分を貫き通せるよう手助けするのが、その活動内容だ。
 もっとも魔術師は必ず協会に入らなければならないという規定は無く、全てを自己責任でこなす自信があるのならばフリーランスの立場をとっても咎められはしない。蔵太亜沙美も今は無所属で通している。
「じゃああれか、今回もいつもの?」
 亜沙美が訊くと、侑希音は頷いた。
「へえ、五十年前と大差ないんだなぁ」
 呆れた、と言った風に肩をすくめて見せる亜沙美。それに対して侑希音は皮肉っぽく笑った。
「その頃の騒ぎの元は、アンタだったんじゃないのか?」
 亜沙美は、
「やっぱそう思うか?」
 と、舌を出す。侑希音は苦笑しながら口を開いた。
「一応、事の経緯を説明するとだな…」
 今回もそうなのだが魔術師協会内部で時折起こるのが、構成員・元構成員による問題行為、特に持てる技術を動員した破壊活動である。
 なにしろ、魔術師という存在はそういった事に関して非常に効率よくできている。研究と称して多種多様の奇妙な武器を作り出し、魔術を行使すれば全く丸腰の状態でビルを一つ吹っ飛ばすくらいはやってのける。本格的な現用兵器に太刀打ちできるかどうかは意見が分かれるところだが、個人が持つにしては明らかに行き過ぎた攻撃力は、外部の人間をして魔術師協会をこう呼ばせている。すなわち、"アーセナル(兵器工廠)"と。
 そのような事態に対し、協会は専門の処理チームを差し向け問題の排除に当たっている。殆どの魔術師は攻撃力は保持していても戦闘やサバイバル技術に長けているわけではないが、それは追う側も同じこと。往々にして、追跡劇には無為な時間が費やされることになる。
 イスマエルという男の一件も、そういうケースだった。
 ジブリル・イスマエル。
 季節を問わず臙脂のコートを好むフランス生まれの魔術師は、十年前に自らの研究成果を用いて同僚を解体し逃走、田舎の食肉処理業者に転がりこんで生活していた。だが、潜伏生活も数ヶ月としないうちに牛や豚の屠殺・解体では飽き足らなくなり、自らの作り出したモノを試したい欲求に支配されてしまう。そして、ついに人間に対してそれを実行。追っ手がかかる前に姿をくらまし、また違う土地の食肉処理業者に…というサイクルを繰り返した。この逃走劇は実に九年に渡ったが、結局は協会の処理班に捕縛されることになった。
 イスマイルは本来なら処刑されるはずだったが、素材研究部門の熱烈な要望によって人格矯正措置を施され、収容施設送りになった。だが、半年前に再び逃走。それからはイングランド北部を転々としていたが、協会本部と地続きの場所を選んだのは灯台下暗しを狙ったのか、それともこの地方に多く眠る遺跡に何かを見出したのか。どうも協会は後者の可能性に関心を寄せていたらしく、それゆえに中途半端な討伐隊を出し見事返り討ちにあった。
 彼らを保護した侑希音は、物言わぬ魔術師たちをロンドンへ送り届け、事の顛末を知る。イスマエルが貨物に紛れ、サンダーランドの港から協会の影響力が薄い日本へ逃れたということを。
 そこで侑希音は半ば無理矢理にイスマエルの追跡を引き受け、酉野市周辺に目星をつけたのが四日前のことだ。
「…と、そんなところかな」
 そう言って、侑希音は締めくくった
 亜沙美は何やら考えている様子だったが、残り少なくなったコーヒーを一口啜り、呟いた。
「イスマエルか…あのタコスケ、そんなことになってたのか。…で、討伐隊の隊長は?」
「ジョージ・マクスウェル。もっとも、本人の口から聞いたわけじゃないけどね」
 侑希音がタメ息混じりで言うと、亜沙美は何か納得したという風に頷く。
「さすがに、あのタコスケといえど十年の月日を無為にはしなかったか…。マックスウェルのシルバーハンマーを退けたということは、メタイリジウムの瞬間生成をモノにしたのだな」
「メタイリジウムっていうと…今の魔術で作り出せる最も硬い金属だよな。ああ、なるほど、それで…」
 と、呟く侑希音。亜沙美はそれを見て、目を細めた。
「なんでイスマエルが処分されず人格矯正だけで済んだのか、わかっただろ」
 侑希音は眉をひそめた。震えるその声は、怒気を孕んでさえいた。
「レアで利用価値のある研究をしていたから…か」
「そうだな。ヤツの技術が上手いこと確立すれば、いろいろと旨味があるからな」
 亜沙美も頷く。そして少し間を開けてから、言葉を続けた。
「なんなら、手を貸さんでも無いぞ。協会よりも早くヤツを確保するってのは、色々な意味で面白いだろうからな」
 
 これが、侑希音と亜沙美が手を結ぶに至った大まかな経緯である。
 蛍太郎は番台に腰掛けて茶を啜りながら、考えをまとめた。
 やはり、敵は魔術師だった。その、ジブリル・イスマエルという男がどれ程のものなのか蛍太郎には判らないが、いつぞやの地底人よりも手強いだろうという推測は当たりらしい。
 もう一つ気になることがある。亜沙美が話を聞く気になったのは本当に暇だったからだろうか。侑希音もそれを考えただろうが、一刻も早くイスマエルを見つけることを優先し、多少のことには目を瞑ることにしたのだろう。
 そしてそれ以来一週間、捜索活動は続いているが、今のところ新たな手がかりは無いそうだ。
 蛍太郎はゆっくりと口を開いた。
「ロンドン経由なら、僕のコネも多少は使えますね」
「そうだな。私は政治はさっぱりだから、お前が居ると助かるんだが…」
 と、話の途中で亜沙美は、入り口に人の気配を感じた。蛍太郎もそちらを見ると、侑希音が居た。結局昨日も不調に終わったという経過報告するために蔵太庵に寄ったところだったのである。
「…やっぱ、ここにいたか」
 と、侑希音は蛍太郎の姿を確認するなり、頭をかきむしった。
「失敗したー! やっぱ、あんな相談するんじゃ無かったよ」
 それで、つかつかと番台まで来て、蛍太郎の額に指を突きつける。
「蛍太郎君、まさか係わろうってんじゃないよな?」
 気圧されながらも、蛍太郎は答えた。
「そのつもりだよ。あ、璃音ちゃんは山に行ってもらったから、僕がここに来ている事は知らないよ。斐美花ちゃんは綺子と遊びに行ったしね」
「…今はよくても、すぐバレるぞ」
「多分ね。でも、後方支援に徹すればなんとかなるんじゃないかな。それに短期間で済ませれば、露見する可能性も減るさ」
 侑希音はタメ息を吐いた。
「そうだといいけど…。そろそろ行き詰まりを感じてるから、蛍太郎君が手伝ってくれるなら、そりゃありがたいけど…」
「いずれ、このまま長引くと危険が増すだけだよ」
 だが侑希音は、妹たちの安全を考えると、素直に頷けない。特に、璃音は蛍太郎が関わっているとなれば、どんな制止も振り切って首を突っ込んでくるだろう。しかし一方で、手間取れば手間取るほど、彼女たちが巻き込まれる危険性が増す可能性が高まるのも事実。これは、賭けである。
 こういうとき、侑希音は勝負に出ることに決めている。蛍太郎の肩を叩き、言った。
「じゃあ、頼むよ」
 それを見ていた亜沙美は、しめたとばかりに手を叩いた。
「よっし、これでチーム成立だな。それを記念して、これから飲みに行こうじゃないかー」
 それに、侑希音と蛍太郎は冷たい視線を投げかけた。
「…昼間からかよ」
「ってか、目立たないようにしようという雰囲気だったと思うんだけど、察してくれなかったのかな」
 亜沙美は、身体を小さくして呟いた。
「…だって、腹減ったし」
 言われてみれば、昼食の時間は過ぎている。腹が減ったと言っている本人はもちろんのこと、侑希音も蛍太郎も昼食を摂らないでここに来ていることに気付いた。つまりは、全員空腹である。
「じゃ、じゃあラーメンでも…」
 蛍太郎の鶴の一声で、外食に決まった。
 
 年中無休の博多ラーメン"半ドン"は商店街のメインストリートを挟んで、蔵太庵の丁度反対側だ。帰りにはいい腹ごなしになるだろうと、連れ立って歩くことにする。
 裏通りを抜けた直後、頭上で爆発が起こった。
 蛍太郎は、勘弁してくれと身体いっぱいで表現しながら呟いた。
「あいつらか…」
 見上げると、雑居ビルに入っている消費者金融がナパーム風の爆炎を上げていた。次いで、稲妻のようなものが水平に飛び追い討ちをかける。煙の向こうで色々なものが弾ける音がした。この無法な破壊活動を行ったのは誰か。それはいうまでもない。この街の悪しき名物、酉野紫の面々だ。付近を通りがかった市民は逃げる者あり物陰に隠れて様子を窺う者あり、デジカメを構える者ありと思い思いに行動している。
「はーはっはー! これぞまさにテッツイ! 地獄のゴーカに焼かれろトガビトども!」
 あちこちトチりながら叫ぶのはバーナー。そしてもう一人、ボルタが宙に浮かんでいた。先ほどの稲妻は彼の仕業だ。
「頭悪いくせに難しい単語使ってんじゃないよ。自分の言葉で喋れないヤツぁ、ハッキリ言ってダサいぜ」
「うるせーよボルタ。勉強できるからって威張れるのは学校だけだタコ! 酉野紫は実力社会なんだよ!」
「はいはい。じゃあ見せてもらおうか、お前の実力というものを。次はどこやる?」
「そうだな。…よし、年金だ! 年金といえば…えーとあのーあれだ。あれ、なんだっけ…」
 バーナーは何か考えてるっぽい動作をしているが、どうせ答えは出ないだろう。ボルタは代わりに言ってやった。
「社会保険事務所か?」
「そう、それ! ちょうど言いかけたところだったのに」
 ―嘘吐け。
 その場にいた全員がそう思ったが、誰も敢えて口には出さなかった。
「よっしゃ、次はシャカイホケンジムショだ。酉野紫世直しツアー第二弾、行くぜ!」
 どうやら今日の酉野紫の活動は、最近のニュースで話題になっている団体の施設を破壊して回ることらしい。なんとなく世間の好感を得られそうな雰囲気ではあるが、所詮は犯罪行為であることに変わりはない。それに、末端の人間を傷つけたところで何もならない。実にくだらない、単なる暴力だ。そして藤宮侑希音が最も嫌うものが、まさにそれである。彼女は既に、一歩前へ進み出ていた。
「おい、お前ら!」
 立ち去ろうとしていた酉野紫を呼び止める。
「バカな事をやってんじゃあない。暇と体力を持て余すのは勝手だが、人様に迷惑かけるなっての!」
 バーナーとボルタは揃って振り向いた。声の主と思われる背の高い女と、その横で冷や汗を流している男。そして、少し離れて退屈そうに明後日の方向を見ている赤い服の女が目に入る。どこから見ても強そうには見えない。
「なんだお前、このバーナー様にそんな口を利くのか? どうなっても知らないぞ」
 そう言って、下品に笑うバーナー。それをボルタがたしなめた。
「底抜けのアホだな。今までそれで酷い目に遭い続けてるじゃないか。学習能力ゼロか」
「なんだと!」
 文字通り火を噴いて怒りだすバーナーを無視して、ボルタは侑希音たちへ視線を向けた。
「で、ケンカを売られたら全力で買うのがウチのやり方なんだけど。それでも良ければお相手するぜ。俺はそこのバカとは違って、相手を見た目でナメてかかるようなマネはしない」
 それを聞いて侑希音は不敵に笑った。
「いいぞ、かかってきな。だが、最初に闘うのはコイツだ。蔵太センセイ、出番だぞ」
 不意の指名を受け、亜沙美はあからさまに厭そうな顔をしている。
「なんで私が…」
「なんでじゃない。だったらアンタがあっちへいくか?」
 侑希音が指差した先では、消金のオフィスが燃えていた。
「ああ、ダメ。人助けとかガラじゃないし、無理。絶対無理」
「だろ。じゃあ頼むぞ」
 そう言うと、侑希音は駆け出していた。蛍太郎も後へ続く。救助活動に加わった方が役に立てるという判断だ。
 侑希音は一足飛びで階段を駆け上がると、消金の事務所入り口前へやってきた。営業時間中だったのでスチール製一枚ドアは開けっ放しだったはずだが、内開きだったものが爆風で閉じられ、外側に向かって膨らんでいた。ビルに入る前に外壁が吹き飛んでいるのを確認したので、ドアを蹴破ってもバックドラフトは起こらないだろう。その前に、侑希音はドアを強くノックしてみた。少しして「おーい!」と中からの声が聞こえてくる。生存者はいるようだ。
「ドアを破るから、離れろ!」
 叫ぶ。そして侑希音は後ろ回し蹴りを放った。
 その時、彼女のディヴァインパワー"ミス・パーフェクト"は蹴りのフォームを完璧に調整し彼女の恵まれた肉体から最大限の力を引き出す。結果、プロの格闘家に匹敵する蹴りが叩き込まれ、鉄製ドアはベニヤ板のハリボテのように、あっさりと吹っ飛ばされた。
 そこへ階下から取ってきた消火器を抱えて蛍太郎が現れる。状況を見て取ると、すかさず中へ向けて消火剤を噴射した。
「急がないと!」
「ああ、そうだな。とりあえず、動ける者は外へ誘導してくれ」
「それもだけど、亜沙美さんが…」
 心配そうな顔をしている蛍太郎に、侑希音は何を言っているんだと半ば呆れ顔で応えた。
「アイツなら平気だろ。ただのケンカだったら私より強いんだし」
「そりゃそうだけど、あの人には善行補正が…」
「あ。…でも…そこまで弱くはならないと思うんだけど…たぶん…」
 
「バーニングファイア!」
 絶叫と共に、バーナーの掌から吹き出た炎が意思を持つかのようにうねり、亜沙美に直進する。そして爆発。だが熱は亜沙美に届くことはなく、魔術で作られたフォースフィールドによって阻まれた。全くの無傷だ。しかし、この攻撃は亜沙美のヘソを徹底的に曲げさせることには成功した。怒りを露骨に眉に貼り付け、反撃の術を放つ。
「しゃらくさい。マジックミサイル!」
 四つの光弾が飛ぶ。バーナーはサイドステップで難なくかわした。あらぬ方向へ向かったかと思われたマジックミサイルは軌道を変え反転、バーナーの背中に全弾命中した。
「うべ! なんだそりゃ!」
 潰れた蛙のように地面に沈むバーナー。亜沙美は不敵に笑う。
「だから、"ミサイル"だって言っただろ」
 しかし、会心の笑みもそこまで。バーナーは元気良く飛び起きた。
「へっ。ちっとばかり驚いたが、意外に痛くねぇな」
 虚勢ではなく、明らかにダメージを受けていない。亜沙美は舌打ちした。
(ちっ…やっぱりこの程度か。あまり気分が乗らないからな…。だいたいさ、暴れたいヤツは飽きるまで暴れさせときゃ良いと思うわけよ…私に迷惑かけない限りだけど)
 魔術は精神力をパワーソースにしているため、その出来はモチベーションに大きく左右される。つまり、術者自身が望む目的のためでなければ、百パーセントの効果は期待できないのである。そして蔵太亜沙美にとって、信条から最も縁遠い行為こそがボランティア活動なのだ。だから済し崩し的にヒーローの真似事をしてみても、全く力が発揮できない。魔術師というのは、本当に正直な連中なのだ。
 そういうことなので、ここで虚勢を張らなければいけないのは亜沙美の方だ。立ち上がったバーナーを一瞥すると、空中に留まったままのボルタを睨みつけた。
「おい、お前は何をやってるんだ。なんなら、一緒にかかってきてもいいんだぞ」
 それをボルタは一笑に付した。
「ふん。そいつが実力を披露してくれるって言うから、見てやってるだけさ。出来れば俺の出番が来るように祈っているよ。まあ…今日はもう一人いるんだけどな」
 ボルタが視線を向けた先、噴水広場の中央にそいつはいた。青と緑を基調にしたタイツと水中眼鏡。口から伸びた管は背中に繋がっており、見たところアクアラングのようだ。両手でライフルのような物を構えており、噴水の池に半身を沈めたままこちらを狙っていた。
「アイツはアクアダッシャー。海の覇者さ」
 三対一。しかもコンディション不良。通常なら鎧袖一触で片付けられる相手にそれなりの戦力を投入せねばならないという事実に、亜沙美は舌打ちした。
「ちっ…貴様ら如きチンピラ相手に使う羽目になろうとは少々泣ける話だが…まあいい。我が最高の力を以って粉砕してくれようッ!」
 亜沙美の黄金の瞳に凶暴な光が灯る。同時に、空気が止まった。亜沙美の声だけが場を支配する。
「カヴカリカ・カラヴィカ・カノマ・カレノン・カレカステ・ネイ! 来たれ白刃!血風戦ぐ剣戟の宴を、いざ!」
 光が弾けた。亜沙美の前に立ち昇る光芒は、次第に人型を成していく。
「ははは! 見るがよい。これぞ我が象徴機械―」
 現れ出でしは、玲瓏たる純白と艶やかな赤に彩られた神像。鋼糸の髪をたなびかせ、白銀の如き輝きの肢体を誇る優美なる造形は、かの物が戦の道具であることを忘れさせる美しさだ。だが、腰に佩いた剣とガンベルトが露骨なまでに主張する。"我、ただ闘争の為にあり"と。そして、刃金の機械は静かに貌を上げ瞼を開いた。秀麗な白面に光る眼差しは、血の如く鮮やかな赤だ。
 これぞ、蔵太亜沙美の操る魔術の具現。象徴。その名は―。
「アームズオペラ!」
 名乗りと同時に、その機体に走るエネルギーが大気を振るわせた。周囲の窓ガラスが小刻みに震える。血風のダンスが始まるのを待ちきれぬかのように、機体が唸る。
「へっ…なんだか知らねぇがブチ壊してやるぜ!」
 バーナーは攻撃のために腕を上げる。いや、上げようとした。だが不意に両肩に激痛が走り、彼の腕は動かすこともままならない状態になってしまった。唐突に両腕の感覚を失い、バーナーは混乱した。
「な、何が…」
 絞り出した声は、殆ど呻きだった。殆どを足元の石畳で占められた視界の端に、アームズオペラの姿が確認できる。そいつは、両手に持った銃をバーナーに向けていた。
 (オレ、撃たれたのか…!?)
 その事実を確認すると同時に激しい衝撃が頭部を襲い、バーナーの意識は黒く塗りつぶされた。
 上から一部始終を見ていたボルタは密かに恐怖した。バーナーは頭こそ悪いが、戦闘に関する感覚はチームでナンバーワンである。その彼が為す術もなく銃弾に倒れるなど全く初めてのことだ。しかも、あのアームズオペラがいつの間に銃を抜いたのか、スーツで強化されている感覚を以ってしても全く見えなかった。ゆえに介入することも出来なかったのだ。そして、亜沙美の呟きが、ボルタに決定的な打撃を加えた。
「…やっぱり、反応が鈍いな」
 ボルタの背中から冷たい物が一斉に噴き出した。だが、震えている暇などない。相手の銃を封じるべく、ボルタは即座に行動した。まず、自らの電気を操る特殊能力により、腕を突き出し電撃を放った。電気は光速で移動するが、ボルタの能力によって作り出された稲妻も例外ではない。石畳が爆ぜる。だが、攻撃を読んでいたのかアームズオペラは射線から外れていた。もっとも、それも予測の範疇。ボルタは既にイオノクラフトによる空中浮遊を解除し、地を走っていた。既に、三歩踏み込めばパンチが当たるという間合い、即ち近接状態である。これならば銃など使い物にはならない。しかも、彼が攻撃の対象としたのは亜沙美である。回避行動のためにアームズオペラが移動した隙を狙ったのだ。
「おおおおりゃぁ!」
 雄叫び一発、腕に電撃を纏わせ振りかぶる。だが、背骨がツララになったような強烈な悪寒に襲われ、ボルタは硬直するように停止した。
「ほう」
 亜沙美は、暢気に感嘆の声を上げていた。
 ボルタの喉元には銀色に輝く刃が触れていた。全身の血の気が引き、足が震えだした。膝に力が入らず直立するのも辛いくらいだが、これが原因で喉を斬ってしまっては笑い話にもならない。ボルタは必死で堪えた。
 恐る恐る、視線を刃の元へ向ける。いつの間にか、真横にアームズオペラがいた。銃はすでにガンベルトに収まっており、代わりに剣を抜いている。その刃がボルタに突きつけられていたのだ。
「…見えていたのか、それとも勘か。いずれにせよ、この太刀をかわされるのは久しぶりだ。だが…」
 亜沙美の声は、冷徹そのものだ。
「次があるのかないのか。それはお前自身がよく判っているはずだ。どうする、続けるか?」
 ボルタは動けない。生き延びる為には敗北宣言しかない状況だ。仮にこの場面を逃れたとしても、相手の攻撃を全く知覚できないのでは勝負にならない。一対一では勝ち目ゼロだ。震える喉から、その言葉を搾り出そうとした瞬間、炎の塊が飛来した。アームズオペラは切っ先を引くと、袈裟懸けに剣を振り下ろした。刀身が眩い光を放ち、火球を両断する。コントロールを失った炎は四散して消えた。
「おや? どうした」
 亜沙美が目を丸くする。炎が飛んできた方向には、バーナーが立っていた。左腕は力なく下がったままだが、まだ立てるらしい。その横に、先ほどの攻撃にまぎれて離脱したボルタが降り立つ。
「…手加減って難しいな」
 亜沙美は舌打ちした。一方、ボルタはバーナーの生存を喜んだ。
「お前、生きてたのか!」
「当たり前だ。そう簡単にくたばるかよ」
 傷は痛むのだろうが、バーナーは不敵に笑って見せた。対照的に、ボルタの顔色が急速に翳る。
「しかし状況は悪いぞ。残念ながら、相手は俺たちより遥かに上手だ。ハッキリ言って次元が違いすぎる」
 だがバーナーは、仲間の肩を力強く叩いた。 
「次元が違うだァ? クリリンみたいなこと言ってんじゃねぇ。力を合わせればきっと勝てるッ! 団結だッ! 友情パワーだッ!」
 そう言って、ニヤリと笑う。やたらと並びの良い歯がキラリと輝いた。バーナーの思いがけない言葉に、ボルタは震える声を抑え、照れ隠しに憎まれ口を交えつつも熱く叫んだ。
「…お前が言うと違和感バリバリだが…それしかないな。よし、タンデムフォーメーションでいくぞ! 俺達の力を見せてやろうぜダチ公ッ!」
 だが一転、フォーメーションと聞いた瞬間にバーナーの顔からヤル気という物が消し飛んだ。いかにも怠惰なヤンキー兄ちゃんそのものな物腰でボルタに反論、いやケチをつける。
「えー、またそれかよ。反対はんたーい。そんなの意味ねェよ。いっつも作戦作戦って言ってるけどさ、成功したことってあったか? ってか、昨日だって見事に失敗したじゃねぇか。フォーメーションなんてチラシの裏にでも書いてろ、な」
「…団結だの友情だのと言った舌の根も乾かないうちにそれか。作戦通りに事が進まないのは、いつもお前のせいだろッ」
 ボルタの怒りに呼応して、周囲の空気が帯電してスパークする。そして、バーナーのこめかみからは炎が噴き出した。
「なんだと! テメェの頭脳がヘボいからだろうがッ」
「違う! お前の知能が昆虫未満だからだ! ミジンコッ! アメーバッ! T2ファージッ!」
 あっけなく仲間割れを始めた酉野紫を、亜沙美は呆れ果てた様子で眺めていた。 「…早く逃げてくれないかなぁ。いい加減面倒になってきたぞ」
 正直な話、さっさと殺してしまった方が手っ取り早いのだが、ここではそれも憚られる。軽く揉んでやれば逃げると思っていた亜沙美だったが、相手は予想外にアホで引き際を知らない。そんな相手への対処に慣れていない分、追い詰められているのは亜沙美といえるかもしれない。半ば途方に暮れかけたところに、侑希音と蛍太郎が現れた。
「なんだ、まだやってたのか」
 侑希音がいかにも呆れた様子で言うので、亜沙美のこめかみに血管が浮きあがる。
「うるさいよ。破壊活動以外は苦手なんだってば。ブッ殺していいってんなら五秒で片付けてやるよ!」
 こちらの雲行きも怪しくなってきたので、蛍太郎が慌ててとりなした。
「あー、ほら。これで二対二ってことでさ」
「なんか、もうひとりいるけど?」
 亜沙美が噴水を指差す。そこに陣取っているアクアダッシャーは、相変わらずライフルを構えたままだった。その動きも気にはなるが、亜沙美はとりあえずケンカ中の酉野紫二人に声をかけた。
「オイお前ら! コッチは人数が増えたけど、まだやるのか?」
「おいおい。責任もって一人で片付けろよな」
 侑希音が毒づくが、亜沙美は無視した。
「なんなら、もう一人も混ざってもいいんだぞ」
 その声で、ボルタとバーナーはようやく状況に気付いた。
「あ。増える…」
「確かに…。けどさ、残り二人は普通の人間なんじゃないのか?」
 と、バーナー。だが、ボルタはいかにも小バカにした口調で返した。
「おまえ、何にも知らないんだな。男の方は、藤宮蛍太郎だ。まだ二十代で大学の助教授だそうだぜ。つまり、頭脳明晰ってことだ。それであのルックス、顔。さらに、嫁さんは可愛いときてる。まさに完璧超人だぜ」
 バーナーは興味なさそうに口を尖らせた。
「…だからなんだ。たしかにそれはそれでムカつくが、別に腕っ節が強いってわけじゃないだろ。女の方はどうなんだ?」
「知らん。てか、あっちの赤い女ひとりに普通に敵わないんだから、いずれにしてもピンチには変わりないだろ」
 殆ど投げ遣りに答えたボルタだったが、対するバーナーの声には覇気が宿っていた。
「いや。残り二人のどっちかを攻撃して、それを防いでる間に隙をつけばダメージを与えられるぜ」
 バーナーが言う。ボルタは内心舌を巻いた。やはりケンカに関しては彼の方がセンスがあるのかもしれない。頷いてみせると、バーナーはサムズアップで応えた。
 一方、亜沙美は酉野紫たちの話がなかなか終わらないので、すっかり焦れてしまった。
「おい、いつまでグダグダやってるんだ! 蛍太郎のことなんてどうでもいいだろ。どーせコイツは頭数に入ってないんだからさ」
「そりゃそうだけど…ハッキリ言われると辛い…」
 蛍太郎はションボリしてしまった。侑希音は黙って相手方のやり取りを聴いていたが、何かを思いついたのか不意に蛍太郎の肩を小突いた。
「なあ、アイツら君のことを知ってるみたいだな」
「そうみたいだけど…名前とか知られてるっていうのは、意外だなぁ」
「有名人だろ、君は」
 そして侑希音は、わざとボルタたちに聞こえるよう不自然ではない程度に大きな声で続けた。
「まあ、それにしてもなんだね。頭脳明晰だの顔が良いだの、随分な褒めようだな。…でもさ、取っておきのが抜けてるだろ」
「とっておき?」
 これには、蛍太郎本人も含めこの場の全員、ギャラリーも揃って首をかしげた。侑希音はしっかりとタメを作って勿体ぶってから、口を開いた。
「"あれ"がデカイ」
「は…?」
 皆、言葉を失う。少しして、ひとりふたりと視線を向け始める。蛍太郎の下半身へと。それに気付いた蛍太郎は、耳まで真っ赤にして叫んだ。
「んなこたない! そんなに大きくないから!」
「そだっけ?」
 とぼけた顔をする侑希音。予期せぬ自体に、蛍太郎は必死である。
「そうだよ!」
「えー。じゃあ、どれくらいだっけ?」
「こんなところで訊くことじゃないってば!」
 半分日本人だけあって、意外と慎ましい蛍太郎。だがそれは単に個人の性格ゆえで民族性などとの関係は薄いだろうと、侑希音は思い直した。もちろん、それを理由に遠慮することは全くない。
「いいじゃん。減るもんじゃなし」
「減らないけどッ!」
 この妙な流れに、亜沙美も興味津々と言った様子で乗ってきた。目の輝きが今日一番である。
「で、どうなのさ?」
「…修学旅行で猥談に興じる学生と同レベルですか、貴方は…」
「いいからほら、教えなって」
「どうせ、嫌だって言っても喋るまでしつこく訊くつもりでしょ」
 亜沙美は、グイっと胸を張って高らかに言い切った。
「もちろん!」
 あまりに予想通りの言葉に折れかけた蛍太郎だったが、寸での所で思いとどまった。別に、言わなきゃ言わないで良いのである。
「あっそう。でも言いませんからね。そんなの自慢してもしょうがないじゃないですか」
 正論。あまりに正論。この近辺にいる者の胸に爽やかな黄金の風が吹き抜けるくらい、正論。だが、酉野紫だけは例外だった。
「…クソ…なんだその優等生な発言は。ムカつくぞ!」
 と、バーナー。
「自慢したらしたでムカつくくせに…」
 ボルタが、沸点を迎えつつある相棒を小突く。
「うるせぇな! だがな、これで目標は決まったぞ!」
 バーナーが高らかに宣言すると、タイツ男二人は同時に跳躍した。
「藤宮蛍太郎だぁあ〜ッ!!」
 双方、己のパワーを拳に集中させ蛍太郎に殺到する。
「えええ〜〜〜!! 何で!?」
 バーナーの火球が蛍太郎に直進する。アームズオペラの剣がそれを掻き消した。
「貰ったぁ!」
 その隙を狙って、ボルタが亜沙美の背後から電撃を飛ばした。だが、既に張り巡らされていたフォースシールドに弾かれる。
「あ…」
「術者への直接攻撃には、当然備えてるよ」
 余裕の笑みを浮かべる亜沙美。そして、ボルタの背後には侑希音が立っていた。
「うげ…」
 次の瞬間、後ろ回し蹴りでボルタは薙ぎ倒された。アスファルトに強烈なキスをして、ボルタは動かなくなる。
 仲間が倒れるのを目の当たりに、バーナーは身構えた。だが、
「クソッ」
 アームズオペラの銃口が向けられていることに気付き、手を挙げるしかなかった。まずは難局を脱し、蛍太郎は大きくタメ息を吐いた。
「うわぁ、怖かった…」
「まだ終わってないよ。噴水のところに、もう一人いる」
 と、アームズオペラの銃をバーナーに向けたままの亜沙美。
 まだひとり、アクアダッシャーが残っている。コイツが未だに何も仕掛けてこないのが逆に不気味だ。それとも既に、相手の術中に入っているのか…。とりあえず侑希音が、足元に転がっているボルタを蹴って訊いてみた。
「おい、アイツは何をやっている」
 ボルタは痛みを堪えながらも、不敵な笑みを作った。
「あっちの女には言ったがな…。アクアダッシャーは海の覇者なんだよ」
 沈黙。少しして、恐る恐る、亜沙美が口を開いた。
「…なあ、アイツが構えてるのって…もしかして水中銃か?」
 ボルタは無言。誰にも視線を合わせないように目を逸らしている。
「………死んでしまえッ!!」
 亜沙美の怒りの声と共にアームズオペラの銃が火を噴いた。アクアダッシャーは、あっさりと池に沈む。
「うわぁ! なんてことを…無抵抗の人間をイキナリ撃つなんて!」
「ヒデェ! 鬼! 悪魔!」
 ボルタとバーナーが同時に叫ぶ。
「やかましい! 峰打ちだ!」
 憮然とした表情で吐き捨てる亜沙美。それに対して、その場にいた全員が声を揃えて叫んだ。
「嘘だ!」
 妙な流れで周囲の空気が緊迫していく。だが、それを破るように空から黒い影が舞い降りた。いつものロングコートとマスク、しかし急いでいたのか足回りはジャージにサンダルだった。
「Mr.グラヴィティ!」
 蛍太郎が歓声を上げる。そして酉野紫の顔はみるみる青くなっていく。この騒ぎを聞きつけて、いつものようにMr.グラヴィティが駆けつけたのだ。
「遅くなってすまない。もう殆ど片付いているようだが…後始末は私に任せてくれたまえ」
 グラヴィはそう言うと、バーナーを殴り倒した。これで本当にトラブルが解決して、蛍太郎は安堵の声を洩らした。
「ふう、良かった」
 その間にも、酉野紫の三人はグラヴィの手によって淡々と拘束され、警官隊に引き渡されていく。護送車に放り込まれた彼らは、市場に売られていく子牛のような哀れささえ感じさせた。
「それにしても…」
 亜沙美は、そんな荷馬車と共に去って行くグラヴィの後姿を見送りながら呟いた。
「アイツ、遅くなったとか言ってる割には結構タイミングよく出てきたよな…。"あれ"のサイズが気になって聞き耳立ててたんじゃないのか?」
「…んなわけないって」
 蛍太郎は疲労感タップリに呻くだけだった。
 
 
5−
 街中心部に程近いあたりに高層マンションが多く並ぶ区画がある。そのうち一つの最上階をまるまる改装したコンドミニアムが貴洛院玲子の住居である。地上二十階、広大な床面積もさることながら大きな窓が連なり町を一望できるのがこの部屋の最大の特徴だ。
 バスローブ一枚を肩にかけた玲子は、濡れ髪をタオルで弄りながらワイングラスを傾ける。窓の外に目をやると、お気に入りの景色が広がっていた。
 夜が更け眼下の夜景の輝きが終焉へとさしかかかる頃、昏い海の彼方にイカ釣り船の灯りが点る。この、夏の到来を予感させる光景は、時に彼女の思索を過去へと誘った。
 
 貴洛院玲子は、五歳から高校卒業までをこの町で過ごした。
 一門の跡取りとして育てられた玲子はその期待に見事に応え、飛びぬけて高い能力を身につけていった。あらゆる分野でトップを走り続けたといっても過言ではなかった彼女を、大人たちは神童と呼んで大いに持て囃した。そしていつの間にか、、この少女の周りには、そんな大人たちしか居なくなっていった。それでも玲子は、神童であり続けた。いや、そうしなければならなかったのである。それだけ一族の、とくに創業者である祖父の期待は大きかった。
 中学に上がる頃にはグループが出資していた英春学院が軌道に乗っていたため、そちらに入学。そこで、永森蛍太郎と出会った。すでに海外の大学院を卒業しているという彼が何故こんなところにいるのか、玲子にはまるで理解できなかったが、彼の存在は思いもよらない変化を玲子にもたらした。
 トップで居続けることから開放されたのである。
 そのために生まれた余裕は彼女の人格をある程度柔軟な物に変え、初めて同年代の友人を得ることが出来た。まさに、このめぐり合わせが玲子を変えたのだ。
 それに気付いた時、玲子の中で蛍太郎への好意が芽を出す。しかも生徒会活動で図らずも行動をともにすることなり、運命的なものを感じもしたが、結局それを伝えることは出来ずに一方通行に終わり、以後の六年間、この二人は友人として学生生活を過ごすことになった。
 高等部卒業後、玲子は経営者になるために海外留学し、数年を経て貴洛院電子社長として酉野に戻って来る。この時、この町との久しぶりの再会に色々と期待はしていたのだが、蛍太郎には婚約者がおり、自分にはというと、厄介な異母弟が出来ていた。
 
「姉さん…」
 その声が、玲子を追憶から呼び戻す。
 窓の外、貴洛院基親がそこにいた。玲子はバスローブの前を閉じてから、鋭い視線を飛ばす。
「何をしているの」
 貴洛院は大げさに肩をすくめながら、するすると前に進む。窓に触れ、それをそのまますり抜けた。明らかに普通ではない方法で部屋に入った貴洛院は事も無げに言った。
「だって、いくら呼び鈴を押しても応答無しだっただろ。なにせ、オートロックをはじめとして最新セキュリティ完備のマンションなんだから、こうでもしないと入れないじゃないか」
 言っていることは理屈にかなっているが、実際にそれを実行するなど不条理もいいところである。
「だからって、ホントにやるやつがあるかっ。人に見られたらどうする」
「うるさいな。じゃあ、さっさと中に入れればいいだろ。なんなら今度は、すぐ気付くようにサーバント・クーインの格好で来てやろうか?」
「冗談じゃない。やめてよ」
「ま。どうせ、ぼーっとしてただけなんだろうけどさ」
 確かにその通りだったので、玲子は返す言葉が無かった。それならと、話題をすり換えることにする。
「ときに基親。酉野紫とかいうあの連中、全然ダメじゃないの。毎日捕まっては脱獄の繰り返しで、進歩ってものはないわけ? あれじゃあ、アンタの超越能力も全くもって甲斐無しね」
 姉の言葉に貴洛院はまた、肩をすくめた。
「まあ、中身に問題があるからね。それでも、ある程度の成果は出ていると思うけどね。特に、姉さんが供与してくれた最先端科学技術は実に見事に機能してるよ。貴洛院電子謹製の脳波受信素子なくして、酉野紫スーパースーツはありえませんて」
「…ウチの機密があんなしょうもない連中に使われてるって知ったら、スタッフ一同首縊っちゃうかもね」
 玲子は冷ややかに笑って、続けた。
「彼らの能力が発揮されているということは実験としてはまあ、成功はしてるってことだけどさ。それにしても、あの新メンバーは酷くなかった? 動物以下よ、あれじゃあ」
 それは貴洛院の悩みの種でもあったようで、軽く額を押さえて呻いた。
「全くだよ…。さすがにあれじゃあどうにもならん。素材に使った肉があまりに安過ぎたのかも知れないな」
「幾らだったの?」
「二百グラム、百二十七円。特売で」
 玲子は息を呑んだ。
「…それ、食べられるの?」
「食えるでしょ。椅子やテーブルじゃないんだし」
「そうだけどさ…」
 玲子は少し考えてから、キッチンへ向かった。そして、発泡スチロールトレイに入った肉の塊を持って来る。
「これならどう? 高級霜降り黒毛和牛サーロインステーキ、三百グラム一万円」
 貴洛院は受け取った肉をつぶさに観察した。脂と赤身が絶妙に交じり合う艶やかな表面はまさに芸術の域。しかも分厚くボリュームたっぷりで、文句なしに極上の輝きを放つ逸品だ。
「何となく買ったのはいいんだけどさ、こんなにたくさん一人じゃ食べられないことに気付いて困ってたの。だからあげるわ、それ」
 庶民なら目も眩むほどの物に対し、何の感慨も無く言ってのける玲子。貴洛院も特に表情を変えず、頷いた。
「なるほど。いいかもね」
 

 
 その日、璃音が帰宅したのは夜の十一時を回ったころだったらしい。『らしい』というのは、いつ戻ったのか正確な時間が定かではないからだ。玄関に入るなり床に倒れた璃音は、ツナが鳴いていることに気付いた斐美花に発見されるまで、そこで寝ていたのである。
 だが璃音は疲れきっていても食欲は旺盛で、駆けつけた蛍太郎の声を聞いた瞬間に飛び起き、現在食事中である。
 テープルに空の皿が積みあがっていく中、次なる料理が運び込まれた。
「茹でリゾットのトマトソースだよー」
 茹でリゾットというのは、スープで炊くリゾットとは異なり、米を塩を入れた湯でパスタのように茹でたもので、トマトソースやチーズをかけたり、野菜と一緒に茹でたりして食べる。夕食用に炊いてあったご飯は丼でのおかわりが続き敢えなく無くなってしまったので、十五分程度で出来る、このメニューの登場となった。
「ありがとー」
 璃音はさっそくスプーンを手にし、一口。
「おいしい」
 弾けるような笑顔でそう言われると、蛍太郎も作った甲斐があるというもの。それからは物も言わずに食べ続ける璃音を見て、蛍太郎は目を細めた。
 トマトソースの元になっているのは、三ヶ月に一回くらい航空便でやってくるイタリア南部からの直送品だ。南部の農家では収穫したトマトをドラム缶で茹でて一年分の瓶詰めにする。蛍太郎の父の実家も例外ではなく、しかも作った瓶詰めをこうして孫にお裾分けしてくれる。これこそまさに、"お袋の味"の再現には欠かせない逸品だ。もっとも、蛍太郎の家では父親が料理担当だったので、その呼び方には少々語弊があるが。
「やっぱ、お祖父ちゃんとこのトマトは美味しいよね」
 そう言われて、璃音は幸せそうな顔で頷いた。
「うん。これを食べると、わたしにも家族が居るんだなって思うよ。あ、別にお姉ちゃんたちがそうじゃないって言うんじゃなくて…」
「判るよ」
 蛍太郎はいつもの穏やかな眼差しを璃音に向けた。
 璃音は、物心着いた頃には母親が既に居なくなっており、姉二人は寮制の学校へ、家には父親と数人のお手伝いさんという環境で育っている。しかも、その父は高齢で、璃音にとっての祖父母はとっくに他界していたから、多くの家族に囲まれるという経験は持った事が無いのである。その分、たくさん愛情を注がれてきたけれど、夏休みに祖父母の家に行ったという友人たちの話を羨ましく思っていたのも事実だ。
 だから璃音は、真っ白になるくらい皿を綺麗にしてから、手を合わせた。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
 蛍太郎が片付けを始めると、璃音もそれを手伝う。
「璃音ちゃん、疲れてるだろ。休んでていいよ」
「ううん、いいの。けーちゃんのお手伝い、楽しいから」
 璃音があまり嬉しそうに笑うので、蛍太郎は思わず璃音の頭を撫でていた。だが少しして、洗い物をしたままの手で撫でていたことに気付き、慌てて手を引っ込める。蛍太郎がおずおずと顔を覗うと、璃音は上機嫌で、
「濡れちゃったよ」
 と、笑っていた。
「ごめんね」
 相手が全く怒ってはいないとはいえ何も言わないのも角が立つので、蛍太郎は小さく頭を下げた。すると璃音は少し思案してから、子供のような悪戯っぽい笑顔で言った。
「じゃあさ、明日…っていうか昼っていうか、とにかくどっか連れて行ってよ」
 蛍太郎にも断る理由は無いので、二つ返事でOKした。侑希音のための調べ物は殆ど夜中にすることになるので、昼間は殆ど空いているのである。
 

 
 明くる日曜日は、雨こそ降ってはいないが愚図ついた天気で、高原へドライブに行こうと思っていた蛍太郎の目論みはあっさりと潰えてしまった。これでは、どこまで行っても靄と雲で何も見えない可能性が高いからだ。だからといって、一日中寝室に篭っていても璃音が可哀想だ。
 そういうわけで、今日は商店街へくり出した。
 璃音の服装は肩の開いたリボンブラウスの上にミニのキャミワンピ。ワンピースの胸元と裾には多めのフリルがついていて、いかにも女性的で可愛らしい。足元はくるぶしまでの靴下がすっぽり隠れるハイカットのスニーカー。色は上から下まで白とピンクで揃えられている。
 最近の流行に比べれば特に目立つ程の服ではないが、着ているのが璃音なので、丸くて可愛らしい顔や大きな胸、股上から五センチ程度しかない裾から覗く白い太腿などなど、注目を受ける材料は事欠かない。現に、すれ違う男の何人かは確実に振り向いているのが蛍太郎にも判った。こういうのはやはり男として鼻が高いが、反面心配でもある。出掛けに、
「スカートが短すぎやしないか?」
 と、訊いたところ、
「大丈夫」
 とのこと。見せパンの類を穿いているのだろう。それで何が大丈夫かはともかく、水着みたいなものだと思えば本人は気にならないのだろう。
 蛍太郎は、去年買った贔屓にしているサッカークラブチームのポロシャツとジーンズという、無難な格好である。これから行くのは日曜の町であり、高価なスーツを着なければならない場所でもない。
 日曜日の昼間に手を繋いで歩いていると、昔のデートを思い出してこそばゆくなる蛍太郎だったが、お互い未だに恋人気分なところがあるので、
(いいもんだなぁ)
 と、内心ご満悦だ。璃音もご機嫌で、蛍太郎を引っ張るように半歩先を歩いていた。昔から変わらず、手を繋ぐとこんな調子だ。まるっきり尻に敷かれているようだと言われたこともあるが、蛍太郎にとってはそれが心地よく感じられてしまうのだから仕方が無い。そういう意味では、夫婦らしく"あなた"と呼ばれるよりも"けーちゃん"と呼んでくれる方が余程しっくりくる。それは璃音も同様で、先月末以来、一度も蛍太郎を"あなた"と呼んだことはなかった。
 まずは璃音の要望で、やなぎやに立ち寄ることになった。先日ここの前を通りがかってから、ずっと気にしていたのである。
 甘味処・やなぎやは、この町で一、二を争うデザートショップだ。ケーキやタルトなどなど、多種多様のメニューが女性のハートを捕らえて離さない。そのうえ丁寧に淹れられたコーヒーや紅茶も好評で、付き添いでやってきた男性にも受けが良いのが特徴だ。時代の流れにより本格的な喫茶店が無くなって久しいので、コーヒーを目当てに入店するサラリーマンも多い。その中には隅の席でコッソリとケーキを食べる者もいて、この店の味の確かさを証明する逸話のひとつとなっている。
 蛍太郎の手を引いて手近な席に着いた璃音は、メニューを見て目を輝かせた。
「うーん、どれ食べようかなぁ」
(いっぺんに全部食べそうで怖いな…)
 口の端からヨダレが垂れそうになっている妻を眺めながら、蛍太郎はそんなことを思う。いずれ、こんなところで金に物を言わせるようなマネをしてもみっともないだけなので、今回はせいぜい三品以内といったところだろう。すこしして、璃音は何か見つけたようで、メニューをテーブルに広げて、その一角を指差した。
「これ食べたーい」
 そこにあったのは、特大のチョコレートパフェだった。写真では隣に通常のパフェを並べて大きさを示していたが、単純にジョッキとバケツほどの差があるように見える。ここのパフェはただでさえボリュームがあるので、どれほどの大きさなのか蛍太郎には正直想像も出来なかった。さすが、"ギガントパフェ"という名は伊達ではないらしい。これを二十分内に食べ終われば無料ということだが、失敗した場合の請求額は三千五百円である。
 蛍太郎は意外な品の存在に目を丸くした。
「へえ。この店にも大食い自慢メニューがねぇ。流行ってるのかな」
「この前は無かったよ」
 璃音ならこれを見るなり間違いなく注文していただろうから、実に説得力のある言葉である。
 注文が決まったので、蛍太郎は呼び出しブザーを押して店員を呼んだ。ほどなく、
「おまたせいたしました」
 と、ウェイトレスが現れる。制服は白いブラウスに黒のタイトスカート、それにクラシカルなエプロンという上品なもので、妙なキャラクター付けを為されていないため男女問わず人気がある。
(この服、璃音ちゃんにも似合うだろうなぁ…) 
 埒も無い空想に耽りかけた蛍太郎だったが、まずは手早く注文を出した。
「コーヒー二つと、フレンチトースト。それから、ギガントパフェをお願いします」
 ウェイトレスの復唱が途中で止まった。
「ギガント、パフェ…ですか?」
「はい」
 ウェイトレスは、目の前の客二人を見比べて首を傾げた。
「あの…こちらは、二十分以内に食べきると無料ですが、時間オーバーすると代金を頂くことになるのですが…」
「ええ、判ってます」
 蛍太郎が頷くと、ウェイトレスは身を屈め声を潜めて言った。
「ここだけの話し、十人近いお客様が挑戦なさったんですけど、まだ誰も完食してないんですよ」
 彼女なりに気を遣っているのだろう。だが蛍太郎としてはどっちに転んでも不都合は無い。
「大丈夫ですよ。それでお願いします」
 それを聞くと、ウェイトレスは一礼してから足早に奥へと引っ込んでいった。その背中を見送りながら、璃音はニコニコと微笑んだ。
「どんなのが来るんだろう。楽しみだね」
「うん、確かに」
 端から見ている分には、大食いメニュー自慢は好奇心を駆り立てるものがある。蛍太郎は璃音と出会ってから、特大盛りだのド根性だのといった、およそ人が一人で食べることを想定しているとは思えないメニューを幾つも見てきたが、今回はどれ程のものが来るのか。まず確実に完食するだろうという安心感があるだけに、もう普通に楽しみだ。
 五分ほどしてから、先ほどのウェイトレスが戻ってきた。トレイに乗っていたコーヒーを二人の前に置き、
「フレンチトーストのお客様」
 と、言いながら既にトーストの皿は璃音の方へ向かっていた。すかさず、蛍太郎が手を挙げる。
「あ、それ僕です」
 ウェイトレスは目を丸くしたが、客の言うとおりにフレンチトーストを蛍太郎の前に置き、何やら腑に落ちないような顔をして戻っていった。
 璃音に、
「冷めたら美味しくないから、先にどうぞ」
 と、促され、蛍太郎はフレンチトーストを口にした。焼き加減が良いので香ばしく焼けた外側とふんわりした内側の違いがよく出ている。味付けに蜂蜜をたっぷりかけているが、あまりしつこくない。これが砂糖だったらと思うとなかなか恐ろしいモノがあるが、良い具合に全体のボリュームアップに貢献している。まさに軽食といった感じの量感が、このメニューのいいところだ。
 蛍太郎の一番のお気に入りはブルーベリータルトだが、璃音の食べ過ぎ対策のために昼食を済ましてから来たので、ここは軽めに済ますことにしたのだ。
 ふと蛍太郎は、璃音が物欲しそうに自分を見ていることに気付いた。
「食べる?」
「うん」
 あまりに嬉しそうに頷く璃音の様子に笑みを洩らしながら、蛍太郎はトーストを一切れ分けてあげることにした。
 璃音は、
「あーん」
 と、口を開けて待っている。それにフォークに刺したトーストを近づけると、パクン、と一口。何か、魚釣りの水中カメラ映像を見ているような気にさせられる光景だ。
 トーストを頬張った璃音は、 
「うん、おいしい」
 と、満面の笑顔を浮かべた。それを見ると、蛍太郎も幸せな気分になってくる。
「もっと、あげようか?」
「うんうん!」
 これで気を良くして、さらに大きめのを一切れ。こんな調子ではフレンチトーストが無くなるのには何分もかかるものでもなく、あとはコーヒーのおかわりを貰いながら、とりとめもないお喋りを楽しみつつ本命の到着を待つことになる。
 そして十五分後。それは現れた。
「す、すごい…」
 店中に注視されながらやってきた物体に、蛍太郎は思わず息を呑む。まさにそれは、伝説の巨人・ギガンティスの名を冠するに相応しいシロモノだった。
 ギガントパフェとは、一抱えほどはあるガラス製の墫のような容器に山と盛られた、アイスとホイップクリーム、フルーツの集合体だ。
 パフェというと何かと可愛らしいイメージが先行する。事実、この店のパフェはリキュールで漬けたフルーツを使った鮮やかな盛り付けには定評があり、目でも存分に楽しめるのだが、この特大パフェにはそんな可愛らしさが全く無い。飾り付け自体は同様に行なわれているのだが、そのあまりの巨大さゆえに、チョコソースとクリームが寄って集ってフルーツに暴力的な振る舞いをしていると言って差し支えない状況だ。
 ウェイトレスが砂時計を置く。これが落ちきると二十分、試合終了ということだ。
「じゃあ、いきますよ?」
 相変わらず困惑の表情のままのウェイトレスが砂時計をひっくり返しチャレンジ開始を宣言すると、
「いただきます」
 璃音は手を合わせ満面の笑みを浮かべ、スプーンを手に取った。そして一口。
「おいしいよー」
 それからは言葉を発することなく黙々と食べ進めていくが、少しして、手を止める。
「けーちゃんも食べる?」
 だが、蛍太郎は首を振った。
「そんなことしたら、失格になっちゃうよ」
 大食い自慢メニューなのだから、一人で完食しなければ意味が無い。ウェイトレスはとっくに引っ込んでいったが、当然ながらどこかで店員が目を光らせているだろうし他の客の目もある。不正行為は即、破滅につながる。
 しかし、璃音の一言で蛍太郎も普段は食べないパフェを試してみたくなってしまった。いつものことだが、彼女の食べっぷりがあまりに美味しそうに見えるので、釣られてしまったのである。
 だが、おなじメニューでは自滅するだけだ。それに、フレンチトーストを食べた後なので通常サイズでも荷が重い。そういうわけなので、まずはこのギガントパフェのどの辺が美味いのか、訊いてみることにした。
「璃音ちゃん、どう?」
「おいしいよ」
「うん、それは君の顔を見ていれば判るんだ。僕もさ、ちょっと同系統のものを食べてみたくなったんだけど、色々種類があるだろう? だから、どれにするか判断する材料が欲しくてね」
 璃音は少し考えてから、言った。
「フルーツの酸味が効いているのが良いと思うよ。だから、甘いだけじゃないの。チョコも苦味が強い感じだし」
 それを聞いた蛍太郎は、すぐにブザーを押した。やってきたウェイトレスにオーダーを伝える。
「フルーツパフェのハーフサイズを」
「…かしこまりました」
 注文伝票を書き込む間にも、ウェイトレスの目は璃音に釘付けだった。この小柄な少女の胃袋に、ギガントパフェはもう半分は収まっていたからである。これだけでも十分驚異なのに、そのペースは全く衰えていない。璃音は行儀よく、だが次々と途切れなくスプーンを口に運んでいく。顔に苦悶の色は全く無く、眉根の緩みっぷりは幸せいっぱいな彼女の心を見事に表現していた。
 今ここに、ウェイトレスは伝説の誕生を予感した。
 
 店を出ると相変わらず空は曇っていたが、璃音の顔は晴れやかだった。今さっき、見事にギガントパフェ制覇第一号となったからだ。
 拍手喝采の中で記念撮影が行なわれ、その写真は店頭に飾られた。ちなみに、このときの璃音のコメントは以下のとおりだ。
「コーヒー代だけで済むから、今度からこれを食べます」
 店長の顔が青くなっていたように見えたが、蛍太郎は気のせいだと思うことにした。
 それから二人はウィンドウショッピングと洒落こんだ。別段用事がなくても、一緒にわいわいやってるだけで充分に楽しい。それがそのまま笑顔になって現れる。
 何件か脈絡も無く店をハシゴしてから、衣料品専門店にやってきた。真っ直ぐに若い女性向けのコーナーに行く。五月も終わりに近くなっているため、ディスプレイで最大のプッシュを受けているのは夏物が中心だ。水着と紙一重なものや殆ど股下と大差ないようなスカートなど、璃音の短いワンピースが生易しく見えるくらいの刺激物が大盛りだ。それを眺め、蛍太郎は呟いた。
「なんか、年々露出度が上がっていく気がする…」
 もうすぐこれらを着た学生がキャンパスに溢れかえると思うと、複雑な心境だ。
「その方が嬉しいんじゃない?」
 璃音が悪戯っぽく微笑むが、蛍太郎は肩をすくめた。
「複雑だね。まあ正直な話、ついつい視線が向いちゃうんだろうなぁとは思うけど、別に僕のために選んで着てるってわけじゃないだから、そういう意味じゃ、大して感慨も無いかな。ファッションなんて本人が楽しんでるならそれで良いと思うしね」
「じゃあさ、わたしが着たら喜ぶ?」
 璃音の言葉に、蛍太郎は首を傾げた。
「えー。どうなんだろ…。
 君の肌をあまり人に見せたくないなんて思っちゃうけど…。だからって、あまり野暮ったい格好をさせるわけにもいかないし…。璃音ちゃんが気に入って着てるなら、それで良いと思うよ」
 あまり肯定的な答えではない。今度は璃音が首を傾げる。
「水着は?」
「それとこれとは別」
「だよねぇ」
 これには、ふたり揃って頷いた。それから、少し間を置いてから蛍太郎が口を開く。
「なんていうかこう、璃音ちゃんはヒラヒラしたのが可愛いと思うんだ。今日みたいなのとかさ」
 可愛いといわれて、璃音の笑顔が一段階明度を上げる。
「そう?」
「そうだ。この間、貰ったやつは? 僕的には大ヒットだったんだけど」
 ラプラスの一件でジウリーから現物支給されたコテコテのロリータ服のことである。璃音は、せっかくの笑顔を少し萎ませた。
「あそこまでいくと、ちょっと…」
 璃音は丈の長いスカートが好みではない。活動的な性格から動き難い格好は苦手で、惜しげもなく脚を出しているのはそのためだ。もちろん、その趣向は靴にも及ぶため自前のパンプスやハイヒールは一つも無く、結婚式の時には不慣れな靴に難儀したものである。かといって所作が汚いわけではなく、和服が好きだったりするのが不思議なところだ。
 そんなことに思いを巡らせつつ、蛍太郎は少し真面目に考えた。
「じゃあ、あそこまでいってなければ良いんだね」
 そう言って、真剣な眼つきで周囲を見渡す。璃音は思わず目を丸くした。
「お。もしかして、買ってくれるの?」
 だが、蛍太郎ははぐらかすように笑う。
「いや。これからの参考にしてくれればと思って」
「なんだよー、けちー」
 璃音は口を尖らせて蛍太郎の肩をペチペチと叩くが、顔は笑っている。蛍太郎も釣られて笑ってしまい、それで二人揃って声を出して笑った。ただし、少し周りが気になってきたのでボリュームは控えめに。だが、どうしたことかいつまでたっても一向に笑いが収まらない。何が面白いのか判らないが、とにかく二人とも笑いが止まらなくなってしまった。本当になんでもないことなのに、楽しくてしかたないのである。それは二人で一緒だからで、それ以外の理由は蛍太郎にも思いつきそうにない。
 十年以上の付き合いで結婚までしてしまったというのに、それでもこんな気分でいられるなんて自分は何と幸運なのか。蛍太郎は素晴らしい妻と、彼女との出会いに感謝した。
「璃音ちゃん、楽しい?」
 すると、璃音は本心を率直に答えた。
「うん、楽しいよー」
 期待通りの言葉に、蛍太郎は嬉しくなってしまった。そして、さらに追い討ち。
「ふたり一緒だからだね」
 それで、蛍太郎は顔を真っ赤にしてしまった。
「…言うね、君も」
 当の璃音は思っていることをそのまま口にしただけなので、なぜ蛍太郎が赤面しているのかわからない。小首を傾げて見上げると、蛍太郎の顔は耳まで赤く染まっていた。
「どうしたの?」
 真っ直ぐに瞳を向けてくる璃音。蛍太郎は脈拍が上がっていくのに耐えきれず、思わず目を逸らしてしまった。
「な、なんでもない」
 それを聞いた璃音は、顔を曇らせて俯いた。
「わたしには『楽しい?』って訊いておきながら、けーちゃんはなんでもないの? なんだか寂しいなぁ…」
 蛍太郎は慌てて弁解した。
「ああっ、違うんだ。そういうんじゃなくて…。こんなところでさ、一緒だから楽しいみたいなこと言われたら、照れるじゃないかっ」
「へえ、照れてたんだ。やっぱりね」
 一転、璃音はニコニコと頬を緩めていた。
「…やっぱりって」
 からかわれていたのだ。呆気にとられる蛍太郎。
 思えばもう長いこと、こんな調子な気がする。それは多分、璃音が子供じゃなくなってからだろう。これではもはや歳の差など無くなってしまったようだ。つい最近も同じパターンでやられた気がするが、これに関しては何度食らっても学習効果など期待出来そうにない。
「えへへ。可愛いな、けーちゃん」
 そう言って、璃音は蛍太郎の腕にしがみつくように擦り寄った。下腕部が柔らかいモノに押し付けられて、蛍太郎はまた顔を赤くした。夜な夜な直に見るどころか揉んだり吸ったりしているモノなのに、こういうところで服越しにその存在を感じると妙にドキドキしてしまう。璃音の夜の顔を思い出してしまうからだ。今ここで見せている向日葵のような笑顔と、記憶の中にあるベッドで見せる顔とが交ぜになって、あまりにかけ離れた二つの顔を同時に見てしまう。それが蛍太郎の心拍数を上げるのだ。
 これが家の中なら押し倒しているのだろうが、ここではそうもいかない。蛍太郎の逆襲は夜までお預けのようだ。
 そんな風に悶々としている蛍太郎の心中を知って知らずか、璃音は、
「しゅきしゅきー」
 と、無邪気に蛍太郎の二の腕に頭を擦り付けた。蛍太郎は照れ隠しに笑みを浮かべていたが、これだけ騒いだのだから手ぶらで出るわけにもいくまいと、あたりの物色を始めた。腕を組んだままの璃音も一緒にくっついて歩く。それからしばらくして、蛍太郎はキャミソールを二枚を選んだ。そのうち一つには大きめのフリルがたっぷりついている。璃音はその意図を悟って、半ば呆れ気味に言った。
「よっぽど気に入ったんだね、あの服…」
 蛍太郎は笑って誤魔化した。シルエットを軽めにすれば、ロリータファッションでも活動的に見えなくも無いだろうという意図である。
「それなら着てあげてもいいよ。ホント言うと、けーちゃんが選んでくれたのが良いかなぁ…なんて、思うけど」
 その言葉に、蛍太郎の目が輝いた。
「ほんと!?」
「可愛いのにしてね」
「了解でーす。あ、こっちも買って良いよね?」
 蛍太郎は、さっき選んだキャミを掲げながら言った。
「うん、いいよ」
「よーし、行くぞー」
 珍しく璃音の手を引っ張って、蛍太郎はこのフロアのレジへと向かった。
 ここの三階には音楽を愛好する若者向けのコーナーがある。学生が多いこの町では、そういった物の需要もしっかりある。蛍太郎のお目当てはそこだ。
 
 一時間後。
 右手には璃音、左手には大きな紙袋。これが今の蛍太郎の状態だ。紙袋の中身は言わずもがな。そのから、二人は駅の隣にあるデパートへとやってきた。のんびりし過ぎたお陰で昼になってしまい、飲食店は混雑が予想されるので時間潰しをしようというわけだ。
 この店は、二昔前の年金生活者専門の百貨店から多様な雑貨を中心とした量販店へと変貌を遂げ、イメージチェンジの甲斐あって幅広い客層を獲得できている。特に、若者や外国人には調理器具と食器の需要が高い。この規模の地方都市で、パスタメーカーやパエリア鍋を店舗で買える所はそうそう無いだろう。
 広場からつながる正面入り口から中に入ると、璃音と蛍太郎は同時に異変に気付いた。人の流れがおかしいのである。まだ昼間だというのに、客が出口に殺到している。何があったのか判らないまま流れに逆らって数歩進むと、その原因が視界に飛び込んできた。
 酉野紫のバーナーである。
 二人に目を留めた赤タイツ男は、あまり品の良くない笑みを浮かべた。
「おやおや。どこかで見た顔が揃ってるじゃねぇか。えーと、誰だっけ…まあいいや。ちょいと付き合ってもらうぜぇ」
 
 
6−
 酉野市内からクルマで一時間。高原へと続く道から大きく外れた山中に斐美花の母校、晴間学院がある。
 晴間学院は全寮制のミッション系女学校で、小学相当の初等部から高等部までを一貫して教育する。希望者は短期大学部への進学も可能で、斐美花は今年の三月までそこに在籍していた。
 姉から借りたアルファロメオから降りると、斐美花は改めて母校を見渡した。卒業から何ヶ月も経っていないが、そもそもこの光景は入学した十三年前から全く変わっていない。森に抱かれたこの空間は、時の流れが下界とは異なるのではないかと錯覚させる。
 そんな世界からはとっくに弾き出されてしまった斐美花がここを訪れたのは、世話になった教諭への近況報告のためだ。
 その教諭の名は蔵太晋といい、神父の職にあり学院の校長でもある。侑希音と斐美花が晴間学院へ通うことになったのは彼の存在が大きい、らしい。父の知己で年齢も近く、そのため何かと無理を聞いてくれる間柄だったのだろう。そうでなければ、斐美花に特殊な能力との向き合い方を教えてくれるなどということはなかったはずだ。
 何故、そういうことが出来たのか、それの理由は彼の経歴に求められるのだろうが、そのあたりのことは誰も聞かされていない。外交官だった祖父に連れられ欧州を点々とするうちに教えの道に入ったらしいが、噂によると一人で帰国し、そのままこの学校の母体となった教会へ転がり込んだらしい。もっとも、そのあたりの経緯は謎に包まれており、三年前に彼と同じ姓を名乗る魔女が現れた時も蔵太神父は何も語らなかった。
 かように判らない事の多い人物ではあるが、好々爺然とした外観と同様に温厚で、それでいて父性を覗かせる厳しさもあり多くの生徒たちから尊敬を集めている。
 斐美花が今日に訪問することにした理由は、当然ながら蔵太神父の日程を考慮してのことだ。
 毎朝の礼拝の説教は各教員の持ちまわり制だが、日曜は殆ど彼が担当している。だが休息日ということで他に公務が無い。確実に学校にいるうえに時間が空いているということで、この日取りになった。
 待ち合わせ場所の礼拝堂へ行くにはまだ時間に余裕があるので、斐美花は職員室に顔を出すことにした。
 ここは日曜でも寮住まいの教員は外出しなければ職員室にいることが多いので、彼らに用があれば学内を歩く生徒もいる。さらに図書室は勿論、部活顧問の許可を得れば部室も使えるとあって、平日ほどの賑やかさはないにしても日曜の学校とは思えない風情だ。
 廊下では彼女とすれ違う生徒の全てが振り向き、感嘆のタメ息を吐く。今日の斐美花は髪を紫のリボンで高い位置で結い、白いジャケットにパンツルックという出で立ちは美しく整った面差しに長身も相まって実に颯爽としている。生徒の中には、
「斐美花さまっ」
 と、感情の昂ぶりを隠さずに話しかけてくる者もいた。
 同級生は一人も残っていないが、なにせ一貫教育なので彼女を知っている下級生なら幾らでもいる。眉目秀麗・文武両道の才媛として、藤宮斐美花の名は広く聞こえていたのである。
 職員室に入るが、そこには斐美花の見知った教員はいなかった。それどころか無人である。別に彼らと予定をあわせて来た訳ではないが、少々拍子抜けしてしまう。ただ、輪転機の稼動音がザックザックとリズミカルに響いているだけだった。
 ここには用が無くなったので、斐美花は踵を返した。ドアに手をかけた、その時。輪転機の音が止まり、
「うわーっ!」
 と、悲鳴が響いた。
「まただーっ! 天気か!? この天気が悪いんかっ!? うおおおおおーッ!!」
 身も世も無いといった風情の泣き声が耳を突く。
 輪転機というものは、天候によりその機能を大きく左右される機械だ。天気が悪いと紙が湿気を吸うために、晴天なら晴天で静電気の影響で紙詰まりが頻発する。つまり、いつでも詰まる時は詰まるとしか言いようがない。つまりダメな時はなにをやっても、全くダメなのである。そしてそれは、使うものの精神を良い具合に追い詰め荒ませてしまう。そういうわけなので、斐美花は恐る恐る、そちらを覗き込んでみた。
 輪転機のカバーを開けて頭を抱えているのは私服のジャージを着た生徒、もちろん女子だ。中肉中背、それなりに起伏があるといった感のある身体つきで目覚しい特徴があるわけでもなく、背中までの髪を三つ編みにしているのが目立つといえば目立つ。メガネをかけた横顔は化粧っ気が無いがそれでも良く整っており、人の気配に気付いて振り向いたその顔は、正面から見てもやはり美人の部類に入る顔立ちだった。
 その女生徒は、驚きに目を丸くしていた。
「斐美花さま!?」
「やあ。佐野」
 斐美花が軽く手を挙げると、女生徒は卒業生に駆け寄って抱きつこうとする。だが、
「待った! ストップ、ストーップ!」
 と、必死の静止を受けて思いとどまる。斐美花が無言で指差した先、女生徒の手にはトナーがベッタリ付いていた。
「たはは、すいません…」
 女生徒は両手をヒラヒラさせてから、駆け出した。手を洗いに行ったのだろう。
 この女生徒、佐野みやこ は高等部の二年生だ。
 中等部から生徒会に所属しており、それが縁で斐美花と面識を持った。年齢差の関係で一緒に仕事をすることは学祭のときくらいしか無かったが、それでも何故か折に触れくっ付いてくるので、いつの間にか妹分のような存在になってしまっていた。
 その妹分がいなくなり手持ち無沙汰になった斐美花は、とりあえず輪転機の紙詰まりを直すことにした。佐野は触らなくていいところを触って手を真っ黒にしてしまったが、本来であればそんなことはしなくて良い。
「しょうがない子だなぁ」
 斐美花は苦笑しながらテキパキと紙詰まりを除去し、カバーを閉じる。警告ランプが消えて印刷可能状態になったところに、佐野が戻ってきた。
「あ、佐野。これ、やっちゃっていいの?」
 斐美花が声をかけると、佐野は、
「あああああああっ!」
 と、叫びながらバタバタと駆け寄って来る。
「相変わらず、せわしないね」
 半ば呆れた斐美花だったが、懐かしさから頬が緩んでしまう。佐野は大げさに肩で息をしながら、斐美花にしがみついた。
「…斐美花さま、見ちゃいました?」
「見てないけど」
 排紙口には印刷済みのモノが山積になっていたが、斐美花は周囲を警戒して見ていなかった。
「そう、良かった」
 安堵のタメ息を吐く佐野。その様子を見れば、何を作っているのかは明らかである。
「えっちなマンガ?」
「…はい」
 寮の名物、佐野みやこ先生のレディコミ風味同人誌である。もっとも名物といっても、これが受けるのは文系の生徒の間だけである。
「しかし、これを職員室で刷るなんて…いい度胸だね」
 斐美花が感嘆すると、佐野は事も無げに答えた。
「あれ、お忘れですか? 今日は音楽部連合の定期演奏会ですよ。だから、ここはもぬけの殻なんです」
「あ、そうか。すっかり忘れてた」
 斐美花は手を叩いた。佐野も、伊達に十年近くこの学校にいるわけではないらしい。
 晴間学院はその性質上、音楽が盛んだ。礼拝堂のパイプオルガンを使うオルガン部、そして声楽部が宗教行事を彩っているし、お嬢様学校ということで管弦楽部も人気だ。こちらは希望者の多い楽器は自前だというのに新品持参でやってくる新入生が後を絶たない状況だである。この三つに加えてマーチングバンド部があり、三ヶ月に一回のペースで合同定期演奏会を行なっている。これが、この学校と市民との数少ない接点である。
 だが斐美花個人はそちら方面に友人がいなかったし興味もなかったので、演奏会のことなど端から頭になかったのである。ある意味、創立記念日に登校して来たウッカリさんのようなものである。
 そういうことならと、斐美花はマンガの内容に興味が湧いてきた。
「ねえ、ちょっと見ても良い?」
 佐野は難しい顔で首を捻る。
「うーん、ちゃんと形にしてからにしたいんですが…まあいっか」
 途中で、思い直して笑顔に変わる。
「サンプルってことで、サービスしちゃいます。だって、斐美花さまですし」
「ありがと」
 斐美花は刷り終わって積み上げられている紙束から一枚を手に取った。製本前なのでそれだけではストーリーは判らないが、佐野の確かな画力で描かれた絡み合う男女は、それだけで充分、心を掴むものがある。
 しかし、それ以上に斐美花を驚かせたモノがある。従来作とは明らかに異なり、やたらに描き込みを増している箇所があったのだ。それは、全寮制の女子校という環境では決して得られない境地だった。
 自分が山を降りてから、佐野に何があったのか。斐美花は問いたださずにはいられなかった。
「佐野…どうしたの、"これ"。やたらリアルじゃない?」
 当人は事も無げに答えた。
「それですか? 実は、冬のイベントで出会った子から資料貰ったんですよー。で、ずっと練習を重ねてたんです。『これだから腐女子は…』なんて、もう言わせませんよっ!」
 最後の方には、佐野は握り拳で吼えていた。
(『婦女子は』って…誰がそんなことを言うんだ…。これ見るのは女子しかいないだろうに…)
 学内の男性といえば教員のみということになるから、見られたら大変である。斐美花の内心のツッコミなど知る由もなく、佐野は無邪気に続けた。
「そういうわけで、四月まで新刊がなくて斐美花さまには何も差し上げられなかったんですよ。だから、最近の分と一緒に差し上げますね。使ってくださったら嬉しいです」
「うん…」
 曖昧に頷く斐美花。その様子に、佐野は首を傾げた。
「そういえば斐美花さま。もしかして"これ"の実物って見たことあるんですか? 下に降りて二ヶ月しないうちに、急展開とか?」
 斐美花はブンブンと首を振って否定した。
「ないない。ないよ」
 佐野は、安心したのと残念なのが入り混じったように肩をすくめた。
「そうですよねぇ。斐美花さまって美しすぎますから、並の男の人じゃ却って尻込みしちゃいそうですもんね。だからって、変な男に引っかからないでくださいよぉー。ウチの卒業生って、純粋培養のお嬢様だって有名なんですからね」
 それには、斐美花は深々と頷く。
「うん、そうみたいだね。外に出て実感したよ。お嬢様だから簡単だと思われてるんだか何だか知らないけど、ナンパされまくり。最近じゃもう、ほとぼり冷めたけどさ…」
 すると佐野は心底心配そうに目を潤ませていた。
「気をつけてくださいね、斐美花さま」
 それから、またコロッと表情を変える。
「で、なんか飲みます?」
 こんな風に佐野の話が突然変わるのには慣れっこなので、斐美花は何とも思わずに返答した。
「じゃあコーヒーで」
 職員室に隣接した給湯室にあるのは建前上は白湯のみだが、茶とコーヒーも装備している。富裕者の子女を育てるという学校の性質上、味覚が壊れていると後で何かと困るからだ。そういう理由から食堂でも使う食材にも極端な制限は無い。何年も色つきマッシュポテトだけを与えて世間に送り出したら、それこそ大変である。
 それからしばらくの間、斐美花は佐野と一緒に製本作業をしながら昔話に花を咲かせ、"土産"を持たされて職員室を後にした。
 いくらバッグに入れているとはいえ"土産"を礼拝堂に持ち込むのは気が引けるので、急いで取って返しクルマのトランクに放り込んでから、斐美花は本来の目的地へと向かった。
 礼拝堂は、晴間学院で最も壮麗な建物である。床面積という意味での大きさでは寮や校舎の比ではないが、町からはこの尖塔だけが樹木の合間から見え、まさに学院の象徴としてそびえ立っている。
 半開きのドアをくぐる。
 体育館並みの広さの講堂の奥からは壮麗なステンドグラスが光を導き、祭壇上の聖者を照らし、その左側にはパイプオルガンの威容。ある意味では我が家より見慣れた光景である。
 だが今日は違う。
 そこに、異物が存在していたのだ。
 祭壇の前、神父の姿をした老境の男、蔵太神父と対峙しているのは、臙脂色のコートをまとった人間だ。ヒョロリとした長身で髪が短い。男だろう。
 はじめは先客だと思い物音を立てないように壁際に行こうとした斐美花だったが、コートの男が放つ只ならぬ気配に足を止める。この空間に全く似つかわしくない、ドス黒いモノが滲み出ていた。
 その正体に気づいた斐美花が駆け出すのと、男が何かを振り上げるのと、それは殆ど同時だった。
 空を切る唸りのあと、何か鉛同士をぶつけたような鈍い音がした。
 斐美花は文字通りに机をすり抜け、一直線に走る。見ると、最前列の机が斜めに切り裂かれていた。
 木製の机を割ったのなら、もっと乾いた音がする筈だ。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
 蔵太神父は祭壇の前に尻餅をついていた。
 コートの男が手に持っているのは、鉈だろうか。それにしては異常に大きく、刃渡りが一メートル以上ある。それが再び振り上げられた。
「やめろ!」
 斐美花は叫んだ。相手の動きが止まればそれでいい。案の定、不意の闖入者に男はゆっくりと振り向く。虚ろな面に目だけが炯々と輝く、死者のような眼差し。斐美花の背に冷たいものが走った。
 だが、ここで震えているわけにはいかない。斐美花は跳ぶように歩幅を広げ、さらに距離を詰める。
 コートの男は無言のまま左の掌をかざした。そこで何かが閃く。斐美花は反射的に髪を留めていたリボンを引き抜くように解き、それに"冬の王"をかけた。
 金切り音のあと、遅れて、重いものが落ちる鈍い響きが礼拝堂の空気を隅々まで揺らす。動きを止めないまでも双方、驚きに目を見開いた。
 コート男が撃ち出した物は床や机の上に落ち、そこに傷や亀裂を残していた。五百円玉ほどの大きさの金属球で、銀色をしているが表面が粗いので光沢は無い。それが三個。そして、これを打ち払ったのが斐美花の手にある紫の棒。いや、板状となったリボンだ。
 普通の布切れに過ぎなかったリボンが冬の王の効果により量子の運動を停止されられたため、時間が止まったような状態になり硬質化しているのだ。それが金属のつぶてを叩き落したのである。
「斐美花さん!」
 蔵太神父が叫ぶ。
 それを合図にしたかのように、男は斐美花に向けて鉈を振り下ろした。すでに充分に距離が詰まっていたので、三歩踏み込むだけで切っ先が斐美花の頭に届く。
 斐美花は、リボンの"腹"に両の掌を添える形でかざし、それを受け止める。
 だが、これはあくまで振り回したリボンを固めたものでしかない。細いだけでなく全体が反っているし厚みはそれこそ布一枚程度、それに持ち手側も手に添うような形状をしていない。つまり、武器としてマトモに機能するものではなく、刀や棍棒のように効率よく力を伝えるようには出来ていないのだ。これでは、つぶてを払いのけることくらいは出来ても、充分な重量と力を持って打ち下ろされる鉈を受け止めるには不相応だ。リボン自体は時間が止まった物質と化したようなものなので破壊されないが、鉈の刃を逸らしてしまい、いずれにしても斐美花の身体を傷つけるだろう。
 だから斐美花は、鉈がリボンに触れる直前に次のアクションを起すつもりでいた。
 そのプランは、結果的に斐美花を救うことになる。
 鉈が振り下ろされた瞬間、斐美花は床に"潜った"。その途中、斐美花は確かに見たのだ。未だ冬の王の影響下にあるはずのリボンが、真ん中で分断されたのを。
 慌てて潜行スピードを上げたお陰で、鉈の切っ先は床に食い込むだけで斐美花には傷一つつけることは無かった。
 コートの男が慌てて辺りを見渡すと、祭壇の前にいた神父が、石が池に沈むように「スポン」と床に消えた。
 目標を失った男はケタケタと自嘲するように笑うと、コートの裾を翻し外へと駆け出した。
 
 礼拝堂の外に出ていた斐美花たちは、走り去るコート男の背中を見送ることになった。
「追わなきゃ!」
 斐美花が駆け出すのを、蔵太神父が抑えた。
「待ちなさい。あれは、貴女のかなう相手ではありません」
「でもっ」 
 鉈を持った変質者を女子校に野放しに出来るわけが無い。斐美花の行動は正しい。だから、神父はゆっくりと深く頷いた。
「私も行きます」
 その言葉に斐美花が目を丸くすると、蔵太神父はいかにも心外といった風に口を尖らせた。
「あのね、あれは不意討ちだったんです。誰だって、魔術師を名乗る人間にいきなり殴りかかられたら慌てるでしょう? 銃を突きつけておきながら、撃たないで蹴ってきたようなものですよ、あれは」
 神父は腹を立てているらしく、少々早口である。しかも、言っていることがよく判らない。
(…魔術師を名乗る人間に出会った時点で慌てます、普通)
 ツッコミを入れたいところではあったが、斐美花は黙って頷いた。
 さっそく二人は、コート男の後を追う。男の靴底には鋲が打ってあるらしく、足跡は容易に確認できる。それは校舎の側に向かうことなく、真っ直ぐに森へと消えていた。斐美花は安堵したような拍子抜けなような、そんな思いで踏みしめられた下草の先を眺めた。
 神父が言う。
「これ以上、追う必要はないでしょう」
 それを聞いて、斐美花は神父が襲われていたことに思い至った。
「先生、お怪我は…?」
「私は大丈夫です。それより…」
 蔵太神父に促され、斐美花は礼拝堂に戻った。今度はドアを閉める。
 神父は荒れてしまった祭壇前を行き来して、破壊された床や机を観察していた。
「すいませんね。今日は先生たちが出払ってるから丁度いいと思ったのですが…。おかげで助かりましたよ。ありがとう」
 そんなことを言う神父に、斐美花は恐縮しきりである。
「いえ、そんな…お役に立てなくて…」
 斐美花はまず、拾い集めた金属のつぶてを神父に見せた。神父はそれを一つ摘み上げ、難しい顔をして唸った。
「それ…ご存知ですか、先生」
「ええ。突然鉈を振るってきたものだからどうかと思っていましたが、魔術師だというのは本当だったようです。この金属は、地球上では精製できないものですから…」
 斐美花は頷いてから、気になっていた事を訊いた。
「あのコート男は、自分から魔術師だと名乗ったのですか?」
 蔵太神父は少し間をおいてから頷いた。
「そうです。どうやら、この町に強力な魔術師が居ると思っていたようで…。たぶん、祖父と関連があると思って、私のところへ来たのでしょう」
「先生のお祖父様…ですか?」
 神父の経歴に触れる話が出てきたので、斐美花は俄然興味をそそられる。だが、それに対する神父の言葉はそっけなかった。
「まあ、記録はあるところにはあるんですよ。"そっちの業界"にはね」
 それから改めて、神父は斐美花に向き直った。
「では斐美花さん、後でお使いを頼んでもいいですか? でも深入りは禁物です。蛇の道は蛇といいますから、ね」
「…はい」
 斐美花が真剣な面持ちで答えると、蔵太神父は表情を崩した。
「よろしい。では、現場検証と行きますか。もちろん警察には連絡しますけど、その前に私たちの目でも見ておかなければならないでしょう。
 …なにか、探偵小説みたいでちょっとワクワクしますね」
 神父が茶目っ気を出して微笑むと、斐美花もつられて頬を緩めた。
 まず、二人が目をつけたのは両断された机である。その切断面は鉈で斬ったわりには妙に綺麗で、神父曰く、
「真剣で斬った大根みたいですね」
 とのこと。コート男の鉈が見た目どおりに鉈だったら、こうはならない。冬の王で"停止"させたリボンが両断されたのことからも、あの鉈には何らかの細工がなされていたと考えられる。斐美花は改めて、あの鉈を回避した判断が正解であったことを知った。
 得体の知れない相手の攻撃だけに、自分の身体をすり抜けさせるのは気味が悪かったからだけなのだが、あれをもし"透過"でかわそうとしていたら、今頃は取り返しのつかないことになっていたかもしれない。そう思うと、今更ながらに背筋が寒くなってくる。
 その間にも神父がなにやらしているのに気付いて、斐美花は首を傾げた。
「あの、何をなさってるんですか?」
 すると、神父はどこか楽しげに答えた。
「いやなに、本当に大根斬りみたいなら、こうすればくっ付くんじゃないかと思いましてね。まあ、そんなことは無いと思いますけれど…」
 そう言いながら、神父は割れた机の片割れを押して、もう一方に近づけようとしていた。
 まさか、と思いつつ斐美花はそれを見守る。
 それから数秒後。
 斐美花たちはついつい大声をあげてしまい、礼拝堂の素敵な音響効果を思い知ることになった。
 

 
 駅前デパートの屋上、イベントスペースに五十人ほどの客が集められていた。もちろん強制的にである。その中に璃音の姿もあった。
 ステージの上には全身タイツの男が五人、腕組みで立っている。その真ん中に立っている緑と黄色の男、ボルタが手にしたマイクに向かって声を張り上げた。
「えー、お集まりの諸君。今日は我ら酉野紫から重大な発表がある。よぉーっく、聞くように!」
 そして、大仰に右拳を振り上げる。
「今よりっ!」
 そう言って、ボルタはなぜか沈黙した。
「…今より…」
 もう一度腕を上げ、今度は上を見る。そして、舞台袖に向かって怒鳴り散らした。
「おい照明! なにやってんだッ!」
 そこでは、蛍太郎が照明機器を操作していた。
「な、なんで僕が…」
 いかにも渋々といった感のある口調どおり、蛍太郎は仕方なしにスポットライトのスイッチを入れた。すると、頭上から逆光気味にボルタの姿が照らし出された。。
 光を浴びたボルタは鼻息も荒く、高らかに宣言した。
「今より、酉野紫『アメージング5』の結成会見を行なう!」
 その声は、屋上の隅々まで響き渡った。…響き渡った、だけである。
「…おい、拍手しろや」
 バーナーが凄むと、客席から万雷の拍手が響いた。それを受けて、ボルタがマイクに齧りつくように叫ぶ。
「よぉし、いくぜ野郎ども! まずは、メンバー紹介だ。この町のアホどもの中には、『酉野紫は何人居るのか判らないし、区別がつかない』とかほざいてるのがいるらしいからなァ〜あ〜。この機会に、キッチリと名乗りを挙げさせてもらうぜ。もちろん、それぞれメッセージ付でなァ! オォイェエーッ!!」
 エキセントリックにまくし立てた後は一転、ボルタは声のトーンを下げて淡々と喋る。
「おっと、最初に言っておくが写真撮影は自由だ。だが、その画像は個人で楽しむだけにしてくれ。くれぐれも無断転載転用は禁止だぜ。特に商用利用は断じてお断りだ。発覚した場合、オレらのスポンサー筋がキッツイお仕置きをするから、そのつもりでな。
 つまりだ。アホなお前らのために噛み砕いて言うと、無許可でTシャツだの生写真ブロマイドだのを作りやがったら、死なすってこった。判ったな?」
 判ったな、と言われても当然リアクションは無い。それに構わず、ボルタはもう一度テンションを上げた。殆どパンク歌手のシャウトのような声で叫びまくる。
「ウオーーーシッ!! いくぜェッ!! オレら、トォオオオオリィーノォォムゥラァサァキィ―――――――――ャァァッ!! ぶっこみ隊ッ! アメェズィングゥゥゥゥゥゥ――ッ、ファアアアイイイィィィヴゥウウ――ッ!!!」
 男祭りなBGMが流れる。
「一番手は、リィィダァーの、このオレ様だァッ!!」
 ノリノリのボルタに、バーナーが食ってかかった。
「まてコラ、誰がリーダーだ」
「あ? オレが一番だから、オレだっての」
「ざけんな! テメェが加入したのはクーインが現れてからじゃねぇかッ」
「ンなこと関係あるか。テメェらの中でオレが一番賢いから、リーダーなんだよォッ」
 二人の口論がケンカに発展しそうなくらいにヒートアップしてきたので、退屈で仕方なかった客のテンションがあがってきた。中には、
「やっちまえ!」
「潰せ! 潰せ!」
 と、声援を送る者もある。璃音はというと、彼らのケンカにも自己紹介にも興味が無いので、
(おなかすいたよ…。早く終わってくれないかなぁ)
 と、願うばかりである。よほど、パワーを使ってさっさとやっつけてしまおうと思ったが、観客が大勢いるので滅多なことも出来ない。そもそも、そうでなければ蛍太郎を舞台袖などに連れて行かせはしない。
 何となく成り行きを見守っていると、クイックゼファーが二人の間に割り込んで何やらまくし立てている。だが、早口すぎて何を言っているのやら全然判らない。それに対する彼らの反応もそれぞれである。
 バーナーは頭を抱え、
「やめてくれ! 頭が割れそうだ!」
 と、絶叫し、ボルタは腕を組んで頷いていた。
「言いたいことは良く判らないが、まあ、お前がそう言うなら…」
 こちらも何を言っているのかまるで判らないが、とにかくケンカは終わった。ボルタは気を取り直してマイクを握る。
「よぉし、まずは一番手! 百七十三センチ、七十キロ。デイズ・オブ・サンダー、ボルタ様だ。必殺の電撃は百万ボルト、邪魔する奴らは一発でダウンだぜ!」
 次に、ボルタを押しのけ赤いタイツの男が吼える。
「百八十センチ、九十キロ。地獄よりの使者、レッド・ホット・インパクト、バァナァー! 燃える炎と常人の二十倍の筋力で、誰だろうとブン殴ってみせらぁ。でも、飛行機だけは勘弁な」
(それはネタのつもりなのか…)
 ツッコミも言うに言えない観衆を置いてきぼりに、マイクパフォーマンスは続く。青と黒の男が、斜め向きのポーズでニヒルに口の端を歪めた。
「百七十六センチ、五九キロ。サドゥン・インパクト、クイックゼファーだ。その気になりゃ音速を超えるスピードで、ノロマな連中を置いてきぼりだぜ。オレの姿? 見えやしねぇさ」
 青いタイツにダイビング用具一式を身につけた男が、ペッタラペッタラと進み出る。
「百六十九センチー、乾燥重量七十キロー。フィアレス・トーピード、海の覇者アクアダッシャーだよー。水中銃は百発百中ーそこに水がある限りー、どんなところでもーぼくはー無敵なのさー! マリアナ海溝にだってー潜って見せるよー」
 そして最後の一人、タイツというよりも肉襦袢や着ぐるみの域に達した褐色の牛型スーツの男が、その巨体を誇示する。そして何と、人間の言語を口にした。
「二百二センチ、百四十二キロ。特選最高級霜降、マンビーフ。拙者、黒毛和牛でござる。チーム最高のパワーと読み書きソロバンが特技だが、見ての通り浪人者でござるよ」
 前回は獣以下だったマンビーフが曲がりなりにも日本語を話していることに、観衆は驚きを隠せない。黒毛和牛と自称しながら黒くないことも忘れてしまうほどの衝撃だった。
 それからタイツ男五人が揃ってポーズをとると、照明が落ちた。曇天とはいえ昼間なので視界が奪われるほど暗くなることはないが、ステージの華やぎがいっぺんに消し飛んでしまった。
「おい、照明!」
 ボルタが叫ぶ。
 だが、舞台袖に居たのは蛍太郎ではなく、黒いコートをまとったアイマスクの男だった。
「なるほど…色んなのが入れ替わりで出てくるからよく判らなかったが、これでようやくメンバーを把握できたぞ。ありがとう」
 冗談めかした口調で皮肉に笑うのは、Mr.グラヴィティである。もちろん、ボルタは声を荒げた。
「テメェ、オレらをどこぞアイドルグループみたいに言うんじゃあねぇ!」
 それに合わせて、残り四人も怒りを露わにする。客は事態の急変に敏感に反応した。我先にと逃げ出したのである。
 バーナーが叫ぶ。
「オイコラ、逃げんな!」
 激昂したバーナーは客に向けて火球を発射した。だが、璃音がエンハンサーで壁を作り、それを遮る。
「君ねぇ、それはやりすぎなんじゃないの?」
 目の前の出来事の他にも様々な要因が絡んでのことだが、璃音は怒り心頭である。エンハンサーがグラグラと光と熱を撒き散らし、今にも飛びかからんばかりの勢いだ。グラヴィの手引きでこっそりと舞台袖を抜け出していた蛍太郎が、慌てて駆け寄る。
「璃音ちゃん、ここは彼に任せよう」
 グラヴィも頷く。
「うむ。こんなチンピラどもは私一人で充分だ。君たちは、皆を外へ誘導してくれ」
 促されるまま璃音たちが外に出ると、デパートの周りは早々に逃げ出した者や騒ぎを聞きつけた者、そして駆けつけた警官でごった返していた。当然、警官は避難を指示するのだが、野次馬根性丸出しの連中が難色を示し、騒然とし始める。
 そんな中、忙しく陣頭指揮を執っているのは京本部長刑事と廿六木刑事だ。
 蛍太郎は殆ど呆れて、爆発音やら何やらが聞こえてくる屋上を見上げ呟いた。
「…三日連荘は頑張りすぎなんじゃないのか」
「ムシャクシャしてるんだよ、きっと」
 璃音の推論は正しい。憂さ晴らしのために暴れているのに、その度にやられて留置所送りでは余計にイライラが募るというものだ。
「で、結局今日も返り討ちにあうんだろうに…」
 憐憫すら感じさせる表情で蛍太郎が目を伏せる。その時、今までで一番大きな轟音が町を揺らした。
 そして何やら黒い塊が真っ直ぐに、道路の真ん中に落下した。割れたアスファルトの上、高温でタールが溶けたのか白い煙が燻る、そこにめり込んで倒れているのは、誰あろう―。
 Mr.グラヴィティだった。
 その場に居た者は皆、言葉を失った。
 グラヴィ墜落。
 初めて見るヒーローのピンチに、野次馬たちの間にも動揺が広がっていく。グラヴィは立ちあがることも出来ないまま、戸惑いを隠せず呻いた。
「くっ。何なんだ、あれは…」
 それを嘲うように、まずはバーナーが屋上から飛び降りた。
「とおっ!」
 落下の勢いを下への火炎噴射と爆風で殺し、荒っぽく着地する。クイックゼファーが壁を駆け下りてくる。そして、ボルタがプラズマを身にまとい、ゆっくりと舞い降りてきた。
「ふふふ…さっきまでの威勢はどこへいったんだァ?」
 酷薄な笑みでグラヴィを見おろすボルタ。それにあわせるようにデパートの自動ドアが開き、アクアダッシャーを肩に乗せたマンビーフが現れた。
 グラヴィの舌打ちは、静まり返ってしまった人々の耳にしっかり届いた。それが、どよめきに変わって広がるのに時間はかからなかった。
 頼みのヒーローの旗色が悪いので、京本部長刑事と廿六木刑事は冷や汗を垂らしながら状況を見守っていた。
「どうなってるんだ…」
 その時、一陣の風が等々力を掠める。いつの間にか、その男はグラヴィの傍らに居た。
「助太刀に来たぞ」
 忍装束の男、斬月侠は静かに拳を構えた。
 廿六木が叫ぶ。
「ニンジャマン!」
「オレはニンジャマンじゃないっ! …と、今はそんなことはどうでもいい」
「よかぁないだろっ」
 斬月侠に詰め寄ろうとする廿六木を、後ろから京本がシバく。
「何やってんだバカ! さっさと働けっ」
 そう言われ、廿六木は渋々と避難誘導を再開した。それを背に仁王立ちする斬月侠に対し、アメージング5は一人を除き歩を進め、輪を狭めるようににじり寄る。だが、斬月侠は少しも動じず鋭い眼光を飛ばす。
 緊張感が走る中、マンビーフがさらに一歩、進み出た。
「いつぞやは世話になったでござるな、忍者」
 斬月侠は無言。内心、獣以下だったマンビーフが口を利いたことに驚いたが、それは逆に言えばマヤカシが通用するということだ。知らぬことだろうが、これでは最大の強みを放棄したと言って良い。
 だが、グラヴィが倒れているという事実がある。斬月侠は油断無く、目の前の牛を注視した。マンビーフは四股でも踏むかのように腰を下ろすと、拳に力を込める。そして、叫んだ。
「あの時の借りを返すでござる。拙者の新しい能力を見せてくれるわ! 変身ッ、黒毛和牛フォーム!!」
 マンビーフが両腕を天に突き上げると、スーツの色が次第に濃くなり黒へと変じていく。
「むんっ」
 完全に黒くなり、文字通りに黒毛と化したマンビーフからエネルギーの波動が噴き出した。
「いけない!?」
 グラヴィが叫んだときには、斬月侠はもちろん、その後ろの人々もくまなくその波動を浴びていた。
 蛍太郎は、自分の手や隣に居る璃音の顔を見比べ、首をかしげた。
「なんともない、けど…」
 その波動は熱や衝撃波を伴うモノではないようだが、放射線ならば…。自らの想像に顔を青くする蛍太郎。すると璃音が蛍太郎の胸に手を当てて、言った。
「大丈夫。どこもやられてないよ」
 璃音のヴェルヴェットフェザーを使って何も起こらなければ物理的な損傷は無いということだ。つまり、あの波動は破壊のためのエネルギーは持っていないことになる。
(ならば、いったい…)
 蛍太郎が思考を巡らす間にも、その効果は既に現れていた。
「か、身体が動かない…っ」
 廿六木が呻く。
「どうしたっ」
 京本が慌てて肩を揺すると、廿六木は力なく地に膝をついた。 
「わ、わかりません…。なにか、強い力で押さえつけられているような…そんな感じで…」
「ちっ」
 辺りを見渡すと、部下の警官隊も膝をつき、動けなくなっていた。そればかりではなく、市民の殆ども同じようにうずくまってしまっていた。
「これは一体…」
 京本は、傍にいる立ったままのカップルに声をかけた。
「貴方たちは、なんとも?」
 声をかけられた璃音と蛍太郎は無言で頷いた。それで蛍太郎の存在に気付いた廿六木が呻く。
「あっ、藤宮先生…。これ、どういう、ことですか…っ?」
「こんなの、判るわけないでしょう…」
 蛍太郎も半ば諦め気味だ。
「はははははっ! バッチリ効いてるみてぇじゃねぇか」
 バーナーの笑いが響く。そしてボルタと二人で、斬月侠に近づくと、両側から肩に手を置いた。
「どうした? オレ達はこんな傍に居るぜ?」
 ボルタが顔がくっ付くほどに近寄るが、斬月侠は微動だにしない。いや、できない。
「くっ!」
 それをバーナーが嘲う。
「どうやら、さしもの忍者さんも年貢の納め時らしいぜ。おい、マンビーフ。冥土の土産に教えてやれよ。お前のパワーの凄さをよぉ」
 マンビーフは舌打ちをしたが、満更でもないのか口を開く。
「まったく、口の軽い男でござるな。まあいい。武士の情け、教えて進ぜよう。
 拙者は、高級霜降り黒毛和牛サーロインステーキ、三百グラム一万円の力を得て、全く新しい存在に生まれ変わったのでござる。以前とは別次元の存在にのう」
 高級、霜降、一万円、という言葉に、ざわめきとタメ息が漏れる。さらにマンビーフは得意げに続けた。
「これにより黒毛和牛フォームに変身した拙者は、高級食材のパワーをエネルギーに変えて照射することが出来る。名付けて"高級波動・エクスペンシブオーラ"! 庶民は皆、拙者の前に平伏すのでござる!」
 人々の間に驚きと、現状に納得したのか諦めのような空気が広がる。一万円もする高級ステーキを前にすれば、理屈はともかく感覚として、気圧されて動けなくなるのは判る気がしてきたのだ。斬月侠も、無念の声を洩らす。
「そ、そういうことだったのか…。さすがは牛肉様…逆らえない…ッ」
「つーわけで」
 バーナーは左手で斬月侠の襟首を掴み、吊り上げた。
「…お前は終わりだ」
 そして右拳に炎を燃やし、撃ちつける。
 ナパーム状の爆炎が上がった。
 黒煙の中、斬月侠はビルの壁にめり込むほどに叩きつけられ、力なく倒れた。
「はーはっはーっ! 脆い、脆過ぎる! 当たっちまえばこんなもんかよ!」
 バーナーの哄笑が響く。それに続いて、ボルタがプラズマの拳を握った。
「とどめは俺にやらせろ。重力野郎は譲ってやるからよッ!」
 ボルタは渾身の力を込めて、電撃を放った。
 だが。
 それは、赤く輝く壁に弾かれ虚空に消えた。
「なんだッ!?」
 驚くボルタに鋭い声を飛ばしたのは、赤い光を身にまとった少女だった。
「いい加減にしなさい! これ以上は許さないんだから」
「へっ、どう許さないってんだよ!」
 璃音の眼光に気圧されたのを隠すために、ボルタは虚勢を張る。
「おいマンビーフ、やっちまえ」
「承知。エクスペンシブオーラ!」
 マンビーフの生み出す波動が璃音に直撃する。
「今だ!」
 ボルタの号令で、電撃と炎が同時に殺到する。だが、璃音はそれをジャンプでかわし、一直線に飛んでマンビーフにパンチを食らわせた。マンビーフはもんどりうって、アスファルトに沈む。 
 離れて見ていたアクアダッシャーが悲鳴を上げる。
「何でだ!」
 ボルタは歯軋りして呻いた。
「そうか…。あいつは、この町で一番のお嬢様だったな。高級肉なんて食い慣れてるってことかい」
「つまり、ハンデ無しでござるな…」
 いつの間にか立ち上がっていたマンビーフが、ゆらりと前に進み出た。
「拙者をただ高級なだけの男と思うなよ! バトルフォーム! ぬううううんッ!!」
 気合とともにマンビーフの体表が膨れ、形が変わる。そして、牛の頭を持つ黒糸縅の鎧武者と化した。
「蹄具足と牛角刀じゃ。これにて、お相手仕る」
 だが璃音は怯むことなく、エンハンサーの出力を上げた。それをボルタが嘲う。
「おいおい。オレたちも居るんだぜ」
 バーナーも同様に、火を噴きながら笑う。
「へっへー。いいじゃねぇか、ボルタよぉ。遊んでやろうぜ、楽しくサァ」
 璃音は眉をひそめ、エネルギー弾を放った。それがバーナーを直撃する。
「このアマ!」
 これを合図に、三対一の戦いが始まった。
 一方、倒れ伏したままのグラヴィの前にはクイックゼファーが居た。踵を立てて、頭を踏みつける。
「へへへ。イイザマだな、グラヴィティさんよぉ」
 グラヴィは為す術も無い。
「クソッ」
「ふっふー。お前の最期を演出するに当たってだな、ちょいとした趣向があるんだ。…おい」
 促され、アクアダッシャーが進み出る。その意図を悟り目を剥くグラヴィをクイックゼファーは心の底から嘲った。
「はっはー。気付いたか、気付いてしまったか。そう、今のお前なら、コイツの水中銃で充分なんだよ。陸の上の水中銃でな。んっん〜、屈辱だなァ」
 まさに絶体絶命の危機。京本が拳銃を抜く。だが、
「ちっちっ。無粋なマネは止せよ」
 銃は既に、いつの間にか隣に居たクイックゼファーの手の中にあった。
「くそ!」
 歯軋りする京本。
 こうなってしまっては、あの男に望みを託すしかない。蛍太郎は叫んだ。
「立ってください、斬月侠!」
「しかし、まだヤツの術が…」
 力なく、斬月侠は呻いた。だが、蛍太郎は構わずまくし立てる。
「貴方が背負ってるのは何ですか! どんなに高級な肉だって、切らなきゃ食べられないでしょう!」
(切らなきゃ、食べられない? 切らなきゃ…)
 その言葉を頭の中で繰り返し、そして、斬月侠はその言葉の意味に気付いた。
「そうか…ッ」
 動かぬ身体に鞭を打ち、気合だけで手を伸ばす、その先には―。
 この動きに気付いたクイックゼファーは慌てて駆け戻り、斬月侠を蹴りを入れる。壁に寄りかかっていたところを勢い良く蹴り上げられ、斬月侠は大の字でコンクリートにのめり込んだ。
「忍者め、妙なことしてんじゃあねぇ。おいアクアダッシャー、嫌な予感がする。さっさと片付けちまえ!」
 だがアクアダッシャーは足ヒレでグラヴィの顔をペチペチと叩きながら肩を揺すって笑っていた。
「なんでー? 今、すげー余裕じゃーん。かなりイイ感じだしー、もっと楽しんだ方がイイと思うんだーまじでー」
「『なんで?』ってバカかッ! 嫌な予感がするって言ってんじゃあねぇかよ!!」
 激昂するクイックゼファー。だが今度は、彼が笑われる番だった。
「くっくっく…嫌な予感、ねぇ」
 その声は、斬月侠のモノだ。
「実はさぁ、お前が蹴飛ばしてくれたお蔭なんだよね。肩が上がらなくて困ってたんだけどさ…」
 斬月侠は蹴られて大の字に姿勢が崩れ、両腕が上に投げ出された状態になっていた。そのため、重力に任せて肘を曲げるだけで背中の忍者刀に手が届く。
 斬月侠は刀の柄を握り締め、吼えた。
「おおおおっ! どんな肉だって…切らなきゃ食えねェんだよ!! だぁああああああッ!!」
 白刃が煌いた。
「な、刀を抜いた!?」
 クイックゼファーは息を呑んだ。そう、斬月侠は自らの力で刃を抜き放ったのだ。そして、
「とおっ」
 クナイが空気を裂いた。それは三発全てがアクアダッシャーの水中銃に突き刺さり、赤い光を放ち、…爆発した。
「あーれーなんでー」
 気の抜けるような悲鳴とともに、アクアダッシャーがもんどりうって吹き飛ぶ。だが、すぐに立ち上がる。さすがにマリアナ海溝まで潜れるだけあって頑丈なことは頑丈らしい。だがこれで彼は、唯一の武器を失ってしまった。
 クイックゼファーは怒りを露わにした。
「クソッ! なんだか知らねぇが、エクスペンシブオーラから逃れたっていうのか!?」
「そのとおり!」
 斬月侠は不敵に目を細め、刀を逆手に構える。予期せぬ復活劇にグラヴィも息を呑んだ。
「何故だ? 君も…いや、君は私以上に家計が厳しいだろうに…」
 見事に決め付けられ、斬月侠は首をかしげた。
「なんで判るんですか…」
「だって…コスチュームの縫い目とか明らかに手作りっぽいし…。スーパーヒーローのくせにミシンも持ってないのか?」
「ほっといて下さい。それより、ここはオレに任せて」
 斬月侠の勇ましい後姿に、グラヴィは苦笑した。
「まあ、私は動けんからな」
 この状況の変化に京本は敏感に反応した。蛍太郎に向かって叫ぶ
「動ける者だけでも避難させよう! 金持ちそうなのとか…それとお年寄りは大丈夫、なんせ年金生活だからな」
 蛍太郎は済し崩し的に手伝うことになってしまったが、とりあえず頷いた。璃音のことは気になるが、ただ見ているだけでは何にもならない。それよりなら、幾らかでも彼女にとってやりやすい状況を作ってやる方が助けになるハズだ。
 蛍太郎は間近に居た老人に手を差し伸べ、肩を抱いて京本の方へ連れて行く。京本は何人か一まとめにして通りの向こうへと送り出した。
 少しして、京本は思い出したように呟いた。
「ところで先生…。刀を抜いただけで、どうしてオーラを破れると?」
 蛍太郎は苦笑混じりで答えた。
「ほら、どんな肉だって包丁みたいな刃物で切らないと食べられないじゃないですか。そう思い至って、もしかしたらあのオーラはそういう性質のモノじゃないかと考えたんです。なんというか、概念の兵器化というか。
 もし、その仮説が外れたとしても、思い込みで回復するんじゃないかなァと思って…。その…彼、単純そうだし…」
「なるほど」
 京本は頷いて、それから近くに居た老婆に手を貸した。
「ご婦人、お怪我は?」
「ありませんけれど…買い物袋をひっくり返してしまって…」
 老婆の足元には手作りであろうMy買い物袋が転がっていて、中身が零れ落ちていた。それらを拾い集めた蛍太郎は、ある一品に目を留めた。
「そうだ、これで…」
 
 口に刀を咥えた斬月侠は、それぞれの指の間にクナイを計四本挟み、いっぺんに投擲した。
「しゃらくせぇ!」
 標的となっていたバーナーは側に居たアクアダッシャーの首根っこを引っ掴み、盾にする。クナイは次々と盾に着弾、爆発。だが、立ち込める煙の中から火球が飛来した。斬月侠が避ける。目標を失った火球を璃音が回し蹴りで空中に蹴り上げた。少し間を空けて、上空で爆発が起こった。
 バーナーは舌打ち。
「ち…しぶとい奴らだだ」
 その右手には、ぐったりしたアクアダッシャーがぶら下がっている。
「なんでーぼくがーこんなー」
「フン。こうなっちまえば、お前の取り得は頑丈さだけだろ」
 事も無げに言い切るバーナー。まさに非情の男である。その頭上を飛び越えて、クイックゼファーが跳躍する。
「フラッシュソニックマッハキィーック!」
 掛け声も勇ましく、クイックゼファーは璃音に向けて飛び蹴りを放つ。だが、いかに早くても一直線の攻撃では簡単に読めてしまう。璃音は半身になってそれをかわす。そこへ、電撃が襲いかかった。 
「きゃっ!」
 璃音の動きが止まったところに、マンビーフはその辺から引っこ抜いた街頭を投げつけた。
 轟音がビルを揺らす。
「璃音さん!?」
 盾装備型バーナーと交戦中だった斬月侠が目を向けると、デパートの一階部分に街頭がザックリと突き立っていた。
(おいおい、大丈夫か?)
 斬月侠はそちらへ足を進めかけたが、火炎の直撃を食らってしまった。
「お。さすがによそ見してる時は当たるな」
 不敵に笑うバーナーは、アクアダッシャーを放り投げると改めて拳を構える。その直後、地響きで足元が揺れた。デパートから街頭が抜け落ちたのだ
「…頑丈な女だな、おい」
 呆れたように呟くバーナーの側頭部に衝撃が走る。あやうく転倒しかけたところを何とかバランスを保ち、ふらつく頭を振るバーナー。彼にわざと見えるように、斬月侠は振り上げた脚をゆっくりと下ろしていた。
「仕返しだ」
「…野郎ッ」
 バーナーは歯軋りした。こめかみがヒクつくたびに炎が噴き出す。
「…これからが本番だぜ。この、ポッポポッポハトポッポ…じゃねぇ、レッドホットコンパクト、バーナー様の力を見せてやるぜ」
「なんか、キャッチフレーズ違わない?」
 頭上から声。
 見上げると、璃音が浮かんでいた。
 
 
7−
 マンビーフが投げた街頭に直撃され、デパートに突っ込んだ璃音は、店内ではなく建物の隅、柱と壁のところに当たってしまい、コンクリートの破片の山に埋まることになってしまった。しかし璃音は自力で街頭を押しのけ、瓦礫から這い出した。
 顔を出してあたりの様子を伺うと、自分がたてているのとは明らかに違う物音がする。その方向を見てみると、蛍太郎の姿が目に入った。必死に瓦礫を掻き分けているのは、璃音を掘り出そうとしているらしい。
 短気をおこして瓦礫を吹き飛ばさなくて良かったと、璃音は胸を撫でおろす。夫の行動は嬉しかったが、いつまでも見ているわけにはいかないので声をかけた。
「けーちゃん? こんなところにいたら危ないよ」
「あ…大丈夫?」
 蛍太郎は、安堵と心配が入り混じった複雑な表情で璃音を見つめている。
「平気平気。早いところやっつけちゃって、皆を助けないとね」
 片手でガッツポーズを作ってみせる璃音。散々やられているようだが、今まで受けた攻撃は有効なダメージにはなっておらず、その肌には傷一つ無い。それでも、蛍太郎の顔色が変わらないので、璃音は少し大げさに微笑んで見せた。
「大丈夫だよー。式子さんのアドバイスでパワーの使い方を少し変えてみたの。シールドに使ってたタイプのエンハンサーでずっと全身を覆ってるから、殆ど痛くないよ」
「じゃあ、今まではただ光ってただけなんだ…」
「ま、まあ…そうしないと"スイッチ"入らないし…」
 璃音はバツが悪そうに呟く。何となく気まずくなりかけたところで、蛍太郎は本題を思い出した。
「ああ、そうだ。今はそんなこと言ってる場合じゃなくて…」
 そう言って蛍太郎は、片手に収まるほどのプラスチック瓶を璃音に手渡した。
 
 そして今、璃音は戦場と化したデパート前広場を見下ろしていた。
 真下には斬月侠とバーナー、そしてとっくにダウンしているアクアダッシャー。クイックゼファーはキックでアスファルトに突っ込んだ自分の足をようやく引っこ抜いたところで、ボルタは飛び道具持ちという特性を生かし、少し離れたところから隙を覗っていた。そしてマンビーフは太刀を抜き、斬月侠に斬りかかろうという構えだ。
 広場を遠巻きにしていた野次馬たちはマンビーフのエクスペンシブオーラによって駆けつけた警官隊ともども立ち往生している。ただ、人垣は幾らか疎らになっていて、京本が動ける者を避難させた成果が出ていた。
 璃音が状況を確認した直後、電撃が肩を掠める。続く攻撃を璃音は旋回してかわし高度を下げる。そして、手に持っていたビンをオーバースローで投擲した。身構えたボルタだったが、その目標はマンビーフだった。
「しゃらくさいわ!」
 マンビーフは瓶を迎え撃つべく、気合とともに太刀を振り上げた。璃音はエネルギー光球を薄い円盤状の光輪に変え、二つ放つ。一つはマンビーフの太刀に命中、それを弾き上げ、もう一つは、プラスチック瓶を両断したところで破裂した。
 光輪の破裂によって、瓶の中身に入っていた液体がマンビーフにブチ撒かれた。周囲にごま油と醤油の濃くてあまり品のよろしくない匂いが立ち込める。
「こ、これは…」
 怒りと戸惑いでマンビーフの肩が震える。追い討ちをかけるように、璃音は得意げに微笑み、人差し指を立てる。
「焼肉のタレだよ」
 それを聞いた途端、マンビーフは頭を抱え膝をついた。
「な…なんてことをッ!! この、ふ、不心得者がッ! 拙者レベルの高級肉は塩コショウだけでブランデーでフランベが一番美味いってのに、こんな、こんな安物の…ッ、うぎゃあああああああーッ!!」
 悲鳴を上げてのたうち回るマンビーフの身体が徐々に元の褐色へと戻り、鎧も溶けて消え去っていく。状況を見守っていた京本は戸惑いを隠せない。助けを求めるように蛍太郎に視線を送った。
「どうしたっていうんだ…?」
「思ったとおりだ。あの黒毛和牛フォームは、どういう理屈かは知りませんが一万円の高級霜降ステーキ肉がエネルギー源なんです。…彼が自分でそう言ってるんだから、僕をそんな目で見ないで下さい。
 それが、あの一本百円の一番安くて脂っこいばっかりの焼肉のタレで高級感を台無しにされたことで、黒毛和牛エネルギーを失ったんです。
 …ほら」
 蛍太郎が指差す先、褐色に戻ったマンビーフは、
「ぶもーぶもー」
 と、唸るだけの動物同然の存在に逆戻りしている。見事に策が的中し、蛍太郎は胸を撫で下ろした。実は、攻撃に使う調味料には二つの選択肢があったのである。
(ヤバかったな。塩コショウをかけたら、強くなってたのか…)
 さらにマンビーフ弱体化は、もう一つ重大な影響を及ぼす。 
「おおっ、身体が動く!」
 廿六木が歓声を上げた。続いて、警官隊と市民が次々と身体の自由を取り戻していく。黒毛和牛エネルギーの消失によりエクスペンシブオーラが無効化されたのだ。
 いっぺんに風向きが変わり、ボルタは冷や汗を流し後ずさりした。
「おいおい。ヤバいんじゃないのか、これは…」
 バーナーも顔を引きつらせていた。
「オレもそう思うぜ」
 クイックゼファーは皮肉な笑みを浮かべ口の端を歪めた。
「珍しいな、オレ達三人で意見が合うとはね」
 アクアダッシャーは無言のまま横たわり、
「ぶもー」
 マンビーフは唸るだけだった。
 そして。
 彼らの目の前には、黒いコートをはためかせ、Mr.グラヴィティが仁王立ちしていた。
「とりあえずさ…」
 ボルタが呟く。
「あのタレを洗い流さないと、マンビーフは実質戦力外だよな…」
 残りの二人も頷く。
「そうだな」
「同感…」
 だが、そんな事をする余裕は無さそうだ。それどころか、今すぐ謝った方が良いかもしれない。勿論、それで許される筈は無いのだが…。
 すっかり意気消沈した酉野紫の面々を端から順に睨みつけ、グラヴィは指をパキパキと鳴らしながら口の端を歪めた。
「さぁて。これからお仕置きターイムが始まるわけだが。えーと、なんだっけ?」
「"アメージング5"です」
 と、璃音。グラヴィはわざとらしく頷いて、続ける。
「そうそう、そうだったな。アメージング5の諸君。言い残したいことがあるなら、二言三言くらいは聞いてやるぞ。でも、あまり長いようだったら弁護士にでも聞いてもらってくれ。私はご免だ」
 その隣では斬月侠が刀を収め、掌に拳を打ちつけて凄んでいる。吊り上がった目を見る限り、仕返しする気満々だ。
 ボルタは遂に決断を下した。
「に、逃げるぞぉッ!」
 一斉に回れ右をする三人。だが、その脚が止まる。頭の上から強烈な力で押えこまれたのだ。突然体重が増えたように、身体が重くて動かない。このような現象を引き起こすのは誰の能力か、それは身に沁みて判っていることだ。
「く、くっそぉーッ!」
 クイックゼファーが立ち上がろうと渾身の力を脚にこめた瞬間、グラヴィは重力操作を解除した。不意に正常な環境になったために、ボルタとバーナーはバランスを崩す。そしてクイックゼファーはバランスを崩したまま全力で大地を蹴ってしまい、物凄い勢いで五メートル先の路面に頭から突っ込んだ。
「クソ、やられたか…」
 手をついて体勢を整えたバーナーが顔を上げると、丁度真上にグラヴィの姿があった。
「加重力ヒール!」
 速度と重さを増したキックがバーナーの脳天に打ちつけられる。その凄まじい威力はバーナーを中心に周囲を陥没させるほどだった。
 仲間が次々と倒れ、ボルタは震え上がった。その前に、突如として巨大な蝦蟇蛙が現れる。
「カエルゥ? な、なんでー!?」
 青ざめたボルタを、蝦蟇が舌を伸ばして絡めとる。
「ま、まさか…」
 その、まさかである。蝦蟇は大きな口をパックリと開けていた。
「ひいいいいーッ、やめてーッ!」
 蝦蟇の舌が縮む。そのままボルタは蝦蟇に飲み込まれてしまった。さらに、
「あちあちあちあちあぢーッ!!」
 くぐもった悲鳴が響く。蝦蟇の口の端から火が漏れているところをみると、口腔内が炎で満たされているらしい。やがて静かになった口内から、黒焦げになったボルタが吐き出された。
 術を解いた斬月侠と動かなくなったボルタを交互に見て、グラヴィは満足げに頷く。それから、パワーを使ってバーナーをクイックゼファーの上に、そのさらに上にボルタを積み上げた。
 もう一方では、
「ぶもー!」
 獣じみたというより、獣そのものな咆哮が周囲の窓ガラスを震わせた。マンビーフが拳を振り上げて璃音に襲いかかったのだ。二メートルを超える大男の、丸太を思わせる豪腕が唸る。璃音の頭に向けて真っ直ぐに突き進んだ拳は、何かに進路を遮られた。
 璃音の掌だった。
「ぶもー!」
 さらに力を込めるマンビーフ。だが、子供の頭ほどある拳は、日本女性の平均より明らかに小さな璃音の手を押しのけることが出来ない。それどころか、押しても引いてもビクともしない。巨漢の拳は少女の細腕にガッチリと受け止められてしまっていた。
 マンビーフは慌ててもう一方の拳を上げる。それを待っていた璃音は空いている方の掌を突き出し、相手の頭部に向ける。
 そして、光弾が放たれた。
 光が閃く度に鈍い爆発音と衝撃が空気を揺らす。至近距離から直撃を受け、マンビーフの足元がふらつく。
 三発、四発、―五発。
 遂に、マンビーフは膝をつく。璃音は両手でマンビーフの手首を掴み、
「えぇぇいッ」
 と、放り投げる。宙を舞った巨漢は、タワーとなった仲間たちの上に積み上げられた。
 その様子に、グラヴィは改めて頷く。なんのかんので、思い切りやられて気分を害していたようだ。
「ようし、良くやった」
 などと言っている。だが少しして、
「おっと、肝心なのを忘れてたぞ」
 と、わざとらしく手を叩き、ダウンしているアクアダッシャーの首根っこを吊り上げた。
「お前には世話になったな、ん?」
 そして、自分の手でアクアダッシャーを運び、タワーの一番上に座らせた。
「よし、完成だ。
 …それでは警官隊の諸君、検挙してくれたまえ!」
 グラヴィの大げさな手振りによる合図で、警官隊が"アメージングタワー"に殺到、警棒で思い思いにタイツ男たちを殴打した。まず、一番目立つ場所にいたアクアダッシャーが集中攻撃を受ける。飽きるまで散々殴られてボロ雑巾と化し、スクラムのなかのラグビーボールのように警官の群れから押し出されてきたアクアダッシャーに、廿六木が手錠をかけた。
 次に、仲間たちを覆いつくしているマンビーフだ。表面積が大きいだけに、実に殴りやすい。まさに、安くて硬いステーキ肉のように容赦なくブッ叩かれ続けた。一部の野次馬たちも参加して、もはやお祭り騒ぎだ。
 そんな光景を、グラヴィは何も言わず眺めている。斬月侠は、思わず半歩引いて肩を震わせた。
「…うわ、怖っ。よっぽどムカついてたんだな」
 璃音も顔を引きつらせていた。
「ま、まあ…彼も人間だし、気持は判るよ。正直、わたしも最後はやりすぎちゃったし…」
「それは、オレもだなぁ…」
 と、額を押える斬月侠。ますます盛り上がりを見せる警官たちをよそに、ズンズンと気分が沈んでいく。ここだけ反省会ムードである。
 遂に斬月侠は居た堪れなくなって、
「じゃ、オレはこれで…。忍者らしく、忍んで消えるわ」
 と、どこかへ消えてしまった。残った璃音も、人波に半ば紛れるように立っている蛍太郎のもとに駆け寄った。後が面倒なので、こういうときはさっさと居なくなるに限る、というのが蛍太郎の教えである。
「けーちゃん、おなかすいたー」
 夫の腕に飛びついて璃音が甘える。蛍太郎が頭を撫でてやると、璃音はぐりぐりと擦り寄ってくる。お蔭ですっかり乱れてしまった髪に手櫛を入れてやりながら、蛍太郎は満面の笑みを浮かべた。 
「そうだね。ちょっと時間潰しするだけのはずだったのに、大変な事になっちゃったもんなぁ」
 それでも無事に済んだので表情は明るい。さっそく昼食のことを考えだしたところに、璃音が袖を引っ張ってくる。
「どうしたの?」
「壊しちゃったの、直さなくていいかな?」
 璃音の視線の先には、すっかり様相を変えてしまったデパート広場がある。蛍太郎は首を横に振った。
「何度も言ったけど、あれは、あまり人前でやらない方がいいよ。こういうのの修繕工事で仕事にありつける人だっているんだからね。そもそも、今日は君が壊した物なんて無いじゃないか」
 こんなことを言うのも、何か壊れるたびに璃音が呼び出されるようになってしまっては困るからだ。この点に関しては蛍太郎が子供の頃から目をつけていたのが奏功し、璃音のヴェルヴェットフェザーは身内や親しい者以外には知られていない。そういう意味では半月前の送電線の件は非常に危険な状況だったから、蛍太郎はMr.グラヴィティをたっぷり絞っている。
 ともあれ、この話を長く続けるのは望ましくないので、蛍太郎はさっさと話題を変える事にした。この場合は昼食の候補地を挙げるのが手っ取り早い。
「よし璃音ちゃん、ラーメン食べに行こう。吉祥がいいかな?」
「うん、行く行くっ! けーちゃん、大好き!」
 璃音は飛び跳ねて喜んだ。
「ねえ、早くぅ」
 もう璃音は待ちきれなくなってしまって、蛍太郎の手を引っ張る。蛍太郎もその気になって、あらぬ方向を指差しながら威勢良く号令した。
「よーし、行くぞぉー」
「うーっす」
 璃音は威勢良くそれに応えて、早足でズンズン進む。蛍太郎もそれに歩幅を合わせてついていく。だが少しして、璃音はいきなり立ち止まった。危うくぶつかりそうになった蛍太郎だったが、寸での所で足を止める。
「どうしたのさ」
 蛍太郎が怪訝な顔で覗き込むと、璃音は首を傾げて見上げてくる。
「あのね、前から疑問に思ってたんだけどね。ド根性ラーメンにチャーシュー追加してド根性チャーシュー麺にしたら、チャーシューの分はやっぱりお金払わないといけないのかなぁ?」
 突然の質問に、蛍太郎は言葉に詰まる。
「さ、さあ…。っていうか、あれにチャーシュー追加するの?」
「うん。ダメ?」
 蛍太郎は、その物体を想像して何も食べていないのに胸焼けしてしまった。
「…ダメなこたぁないけどさ。ちゃんと食べるんだろうし…。いやいや、それは僕が決めることじゃないよ。店の大将の一存なんだから。
『ド根性チャーシューなんて邪道だ、外道だ!』なーんて言われたら、それまでだよ。…そういう言い方はしないと思うけどさ」
 それを聞いて、璃音はすっかりしょげてしまった。
「そっか、残念…」
「だから、僕が決めることじゃないってば」
 そんな風に取りとめの無い話などしながら、歩くことしばし。オフィス街のビルの谷間へとやって来た。
 そこにひっそりと佇む知る人ぞ知る名店が、吉祥である。
 名店といっても歴史は浅く、今年で五年目。それ以前の大将は県外で食品関係のサラリーマンをしていたらしいが、ある日突然思い立ってこの町でラーメン屋を始める決意をしたそうだ。そういう経緯から同業者との横のつながりが薄く出版社とのパイプが無いので、地元情報誌には全く掲載されていない。それゆえに、知る人ぞ知る店なのだ。
 だが、こだわり抜いた独自の味は口コミで地元民に広がって強い支持を受けており、三城大学の学生は新入生や後輩を四月のうちにこの店に連れてくる。さらに、昨年あたりからはインターネット経由で店の存在を知った者が遠くからやってくるなど、二十席ちょっとの小さな見た目よりはずっと繁盛している、らしい。らしい、というのも、大将は頑固という言葉とは無縁の人当たりの良い好青年で会話も巧みだが、過去の話も自慢話もしないので、その辺のことは何かの拍子に大将が口にした言葉を客同士で情報を断片として拾い集めて推測するしかない。
 つまりは、非常に美味いラーメンを出すという以外は、判らない事が多い店なのである。
 蛍太郎がドアを開けると、店内は半分くらいの席が埋まっていた。璃音を先に通して、ドアを閉める。昼から一時間以上過ぎているが客足は引いていない。それどころか昼の部は午後二時半までなので、駆け込みの客で逆に混む可能性もある。幸いにも丁度良い時間に来ることが出来たようだ。
 カウンター席に並んで座ると、大将が寄ってくるのを待って注文を取ってもらう。
「大、お願いします」
 蛍太郎の注文は実に地味だった。この店は丼のサイズが並と大の二種あるのだが、大のほうは一般的な成人男子なら腹八分目といったところの物だ。
 対して、璃音の注文には、客の視線が一斉に集中した。
「ド根性ラーメン、チャーシュー麺に出来ますか?」
 可愛い女の子が来たということで注目を浴びていただけに、店内にどよめきが走る。
「な、なんだって…ッ」
「おい、あれって…」
 ド根性ラーメンの見本模型の後ろに立てられたコルクボートには"殿堂入り"を果たした猛者どもの記念写真が貼られている。当然、その中に璃音の写真もある。しかも、五枚。それと実物を見比べる客もいた。
「あ。写真の子か…って、マジ? あんなちっちゃいのに…」
「胸はデカイけどな」
「彼氏、羨ましいなぁ…」
「私は、あの彼氏が羨ましいよ。凄いイイ男じゃん」
 そんな雑音は余所に、大将はジッと目を伏せていたが、
「…出来るよ」
 と、徐に口にした。
「もちろん、時間内に全部食べきればタダです。そうじゃなければ…チャーシュー麺が百五十円増しだから、二千百五十円頂きますよ」
(それっぽっちの上増しでいいのかよっ)
 当事者以外は内心で総ツッコミだ。もちろんそんなことは知る由も無い璃音は、満面の笑みで頷いた。
「じゃあ、おねがいしまーす」
「へい、畏まりましたっ」
 大将の威勢の良い返事と共に、店内は奇妙な緊張感と期待感に包まれた。
 果たして、そのド根性チャーシュー麺はいかなるバケモノとしてこの世に生を受けるのか、そして勝負の行方は? 勝利の記念撮影を見て歴史が作られる瞬間に立ち会いたいという思いと、なにかにつけ悲劇的結末を期待してしまう野次馬の心理。それらが混じりあった空気が場を張りつめさせ、温度を上げた。
 程なく、蛍太郎の前にラーメン大がやってきた。そして、陶器製の洗面器…いや、特大の丼が鈍い音を響かせてカウンターに置かれる。
「おまちどうさん!」
 その威容に、蛍太郎は唖然とした。
「それが百五十円増しの分!? おかしくないか?」
 そいつのシルエットは、殆ど球状と言ってよかった。通常のラーメンは丼に盛られている以上、外観は半球となる。しかし、このド根性チャーシュー麺は、ただでさえ巨大な丼に麺とスープがたっぷりと盛られた上に、その麺とほぼ同等の体積なのではないかと思われるほど大量のチャーシューが文字通り山となっていた。
 だが、このラーメンの化物を目の前にしても、璃音の目は輝いていた。
「わあ、凄ーい。チャーシューだけでも丼一杯分はあるよね? ね?」
 笑顔を向けられた蛍太郎ではあるが、丼の内容物というか積載物というべきか、それ見るだけでも胸やけを禁じえない。
「あ、あるねぇ…」
 と、呻くだけだった。しかし、いつまでも呆然としているわけにもいかない。せっかくのラーメンが伸びてしまっては勿体無いので、蛍太郎は気を取り直した。
「じゃあ、食べようか」
 それを聞くと、璃音は幸せそうに頬を緩ませて、小さく手を合わせた。
「いただきまーす」
 璃音はチャーシューの山の麓を崩してスープを掘り出すと、麺を一口啜った。
「おいしーい」
 心底幸せそうな笑顔で璃音は喜びを表現した。蛍太郎も自分のラーメンを食べる。ここのラーメンは胃もたれ知らずのあっさり味で文句なしに美味い。それに、目の前に可愛い妻の笑顔があれば美味しさ倍増である。ただし、少しでも視線を下に向けると黒褐色の塊が圧倒的な存在感を放っているので、胸焼け防止のためにそちらは見ないでおく。
 概ね、人はラーメンを食べる時は無口になるものである。それに今回は二人もとも酷く空腹だったので、モノも言わずに黙々と食べた。
 璃音は麓の穴から麺を啜り、チャーシューをそこでスープにつけて食べる。それを繰り返すうちに、麺が減ってきてチャーシューの山が三合目くらいまでスープに沈む。そして山の頂上も大分平らになっていた。
「…減るもんだね」
 蛍太郎は舌を巻いた。璃音とは長い付き合いだから、その健啖ぶりには慣れっこで午前中にはギガントパフェを難なく食べきるのを見ているが、このド根性チャーシュー麺は格が違う。一体どこの世の中に、麺と同じ量のチャーシューが入ったチャーシュー麺があるというのか。ハッキリ言って、大将が自棄を起こしたとしか考えられない。
 だが璃音は平然と言う。
「うん、お肉もおいしいよー」
 確かに、ここのチャーシューは蕩けるような脂身が文句なしに美味い。それでも、常人なら丼一杯食べたいとは思わないだろう。なにせ、美味さの肝が脂なのだから。それでも、璃音の勢いは止まらない。蛍太郎が麺を食べつくした頃には、残り三分の一程になっていた。時間は、まだ十分しか経っていない。
 相変わらず、ゆっくり味わいながら食べる璃音を見ていると、蛍太郎もつられてもっと食べたくなってくる。だが夕飯のことを考えるとこれ以上は食べられないので、スープを飲む。塩ベースの癖の無いスープはすんなりと喉を通っていく。このスープにライスを入れるとまた美味いのだが、今回はパスだ。
 それから八分ほどして、璃音の幸せそうな声が店に響く。
「ごちそうさまー。おなかいっぱーい」
 ド根性サイズの丼は、スープの一滴も残さずに空になっていた。
 口をポカンと開けた大将。客は感嘆のタメ息を吐く。蛍太郎も、半ば心配するような顔で璃音を見ていた。
「大丈夫? なんか、かつてない量だったと思うんだけど…」
「うん。ちょっと調子に乗ってたかも。次からは、普通にド根性ラーメンにする」
「…そ、そう」
 ド根性ラーメンを普通と言い放つあたり、もはや風格すら漂っているような感もある。
 我に返った大将がポラロイドカメラを持ってきたので、璃音は空丼が見えるように持ってニッコリと微笑む。フラッシュが焚かれると、店内に拍手が起こった。
 セレモニーが終わり、蛍太郎が自分の分の代金を払っていると、ドアが開いて、覚えのある声が聞こえてきた。
「あれ、先生? なんか奇遇ですねぇ」
 見ると、京本と廿六木だった。
「あ、どうも」
 蛍太郎が軽く頭を下げると、京本は手を振って応えた。
「時間が空いたんで、昼飯です。
 それはそうと、先生も、ここ贔屓にしてたんですねぇ。オレ達もなんですけど、まあ、ここんとこ忙しくて、一ヶ月くらいご無沙汰なんですがね」
 その言葉に、大将が笑う。
「はは。いやぁ、見捨てられたと思ってましたよ」
 廿六木も笑みを返す。
「すんません。ところで…」
 と、ド根性ラーメンの見本に視線を送る。
「これ、食べた人いるの? …って、マジ?」
 と、言ってコルクボードの勇者目録に気付き、目を丸くする。
「居るもんですねぇ」
 大将は笑顔で言う。
「そりゃ、学生さんとか多いですからね。ほら、そこのお嬢さんなんか、六勝目ですよ。しかも、今日はチャーシュー麺ですから…。もう、かないません」
 璃音は照れ笑いを浮かべ、身をよじった。
「へへ。チャーシュー麺は、もういいです。ちょっと食べすぎちゃいました」
 それを聞いて、京本と廿六木は揃って驚きの声を上げた。
「ちょっとかよ!」
 
 それから、他の客の迷惑にならないよう適当に挨拶を済ませて、璃音と蛍太郎は吉祥を後にした。
 二人で並んで歩いていると、璃音がぽっこりと膨らんだお腹をさすりながら、蛍太郎を見上げてくる。
「ねえ、見て見て」
 蛍太郎と視線が合うと、璃音は悪戯っぽく笑った。
「けーちゃん、四ヶ月だよ。パパになった感想は?」
 目眩がするような感覚に額を押えて、蛍太郎は呻いた。
「ラーメンを子に持つつもりはありません」
 すると一転、璃音は両手で顔を覆う。  
「酷いっ…認知してくれないんだ」
 蛍太郎は今までの疲労が一気に出たかのように、ガックリと肩を落とした。
「…そういうのは洒落にならないからやめようね」
「はーいっ、ごめんなさーい。もうしないよー」
 言葉とは裏腹に璃音は笑顔を弾けさせて、スキップに近い足取りで進んで行く。それを見ると今日のデートを楽しんでくれたのが伝わってくるので、蛍太郎も口元が緩むのを止められなくなってしまう。
 腹のことを考えゆっくり歩いて来たので、商店街に戻ってきた時には三時を回っていた。なんとなく噴水広場に来たが、今まで行き当たりばったりに行動していたので、蛍太郎はどうするか迷ってしまう。すると、璃音が言った。
「ねえ、夕飯とかの買い物って済んでたっけ?」
 蛍太郎は、今朝見たの冷蔵庫の中身を思い出して、眉をひそめた。
「あ…。夕飯どころか、明日からの分、買わないとなぁ」
「じゃあさ、お買い物いこうよー」
 だが、蛍太郎は首を振った。
「待ってよ。今お腹いっぱいだから、あまり食べ物を買う気になれないよ」
「そういうもんなの?」
 璃音は首を傾げるので、蛍太郎は大きく頷いた。
「そういうもん。…でもいずれ、買い物はして帰らないとなぁ。とりあえず、どっかで休むか」
 それで二人で周りを見渡すと広場のベンチが目に入ったので、そこ休むことにした。もちろん、並んで座る。
 蛍太郎は、一息ついて視線を巡らせた。
 周りはいつもの日曜と変わらず実に賑やかで、家族連れや若者、お年寄りなど、多様な人々が行き来している。駅前デパートの騒ぎは、距離が離れているために全く関係なかったようだ。ここにいる人の何割かは、家に帰ってからニュースであの騒動を知るのだろう。事が『超能力者(と、思われる)集団の騒擾事件』だという割には、神経が太いと言ったら良いのか鈍感で危機感が無いと言ったら良いのか、蛍太郎にしてみれば違和感を感じずにはいられないところである。前にそんな話を璃音にしてみると、
「この町の人たちは、のどかなんだよ。それにMr.グラヴィティみたいな人が居ても、"空手とか武道の達人"くらいにしか思わないんだ」
 と、いう回答が返って来た。日本に来る前の友人から聞いた話だが、アメリカ在住のミュータントが日本に行ったら「カッコイイ」と熱烈歓迎を受けたらしいし、案外この国はそういうところなのかもしれない。
 そんな埒も無い思考から、蛍太郎は璃音の視線で引き戻された。気がつくと、璃音が蛍太郎の横顔をじっと見つめていたのである。
「どうしたの?」
 と、訊く。
「ん? 考え事しているときの、けーちゃんの横顔って素敵なんだもん。見惚れちゃった」
 少しはにかんで、そんな風に答える璃音の頬は薄紅に染まって見える。全くの不意討ちに、蛍太郎の胸が高鳴った。
(そういえば昔も、こんなことあったっけな。何度も…)
 懐かしい思い出がいくつも脳裏に去来するなか、蛍太郎はあることに気付いてしまった。
「ねえ、もしかしてさ…」
「なになに?」
 璃音は興味津々といった感じで身体をすり寄せて、蛍太郎の顔を見上げる。蛍太郎は少し目を逸らして、言った。
「璃音ちゃんさ、昔よく僕のことを質問攻めにしたじゃない。勉強のことだけじゃなくて、子供相手には難しかったり微妙に答えにくかったりする事とかさ。
 それってさ…。もしかして、僕の考えこんでる顔が見たかったからなの?」
 黙って聞いていた璃音は、ぺロっと舌を出して笑った。 
「バレちゃった」
 悪びれずに微笑んでいる璃音に、蛍太郎はガックリと項垂れた。
「…それだけのために? 僕、いつも真面目に答えてたんだけど。"赤ちゃんはどこから来るの"系には、どれだけ苦労したか…」
「十年経ってやっと気付くくらいだから、ホントに真面目に考えてくれてたんだね」
 璃音は嬉しそうにしているが、蛍太郎は項垂れたまま。それどころか、
「うう…男の純情を弄んでたんだな…」
 と、恨めしげに呻いた。
 すると璃音は蛍太郎の頭を撫でて、いつもの向日葵のような笑みを浮かべる。
 そして、
「ありがと」
 と、唇を寄せた。
 それはいつものように甘いけれど、ちょっとだけ油っぽいキスだった。
 

 
 翌日、月曜の朝は全く以って、いつも通りだった。
 最近ハマっている朝のセックスをしてから璃音はシャワーを浴びて、蛍太郎は食事の支度。それから、いつも通りに食事をして学校へ行く。
 制服に着替えた璃音は、
「いってきまーす」
 と、玄関を駆け出した。玄関から門までの道すがら、いつもなら散歩中のツナが寄って来るから、璃音は周りを見ながら歩く。だが、今日は黒猫の姿はなかった。
「ツナ、どうしたの?」
 心配になった璃音は、道をそれて庭に入った。植え込みを掻き分けて、奥へ進む。すると、名前もよく知らない草の茂みがざわめいた。
「ツナ?」
 その声に応えたのか、黒い尻尾がヒョコっと飛び出す。それから、ツナはお尻から茂みを出てくる。何かを咥えて運んでいたようだ。
 璃音が目を凝らし見守る中、ツナはその"戦利品"を草むらから引っ張り出した。緑に黄色のギザギザ模様の柄が入った丸い物体である。さらによく見ると、肌色の部分や人の唇のような…。
「これって…まさか…」
 そう、首だ。
 これは、人の首である。いわゆる生首というやつだ。
 その主は、何せ昨日見たばかりなだけに、璃音にも見覚えがある。
 これは…。
「…ボルタの、首…!?」
 そう。そこにあったのは、酉野紫の電撃怪人・ボルタの生首だった。
 ツナは自慢げに胸を張り一声鳴くと、前足でソレを転がして遊び始めた。
「うわーっ、ちょっと、やめなよーっ!!」
 璃音は頭を抱えて叫ぶ。そして、ツナをボルタから引き剥がそうと後ろから抱き上げる。だがツナは、ボルタの首に爪を立てて抵抗する。
「だめだよ、離しなってばっ」
 璃音は必死にツナを揺する。だが、ツナも粘る。しまいには…。
「痛てててっ痛ぇっ痛ってばっ! ツメーツメーツメーッ!!」
 と、悲鳴を上げた。
 …ボルタが。
 璃音は目を丸くした。相変わらずツナが爪を立てる中、首だけのボルタが鳴きそうな声で呻いた。
「痛いんだよ、爪が…。猫パンチ怖いよ…助けてくれぇ…っ」
 
 
…#4 is over.  

モドル