ヒマラヤ聖者の生活探求/第一巻・人間本来無限力よりーーー
《人間の本質は宇宙の本質と同じである。故に人間には無限の能力がひそんでいる。その悟りと行によって、人間は超自然的現象、いわゆる〃奇跡〃を起こすことが出来、人間が真に自分自身と宇宙との主になることが出来るのである。
本書は、荒廃の現代に光明を与え、人間開眼と神性開顕の驚異の書であり、かつて、実際に探検隊が見聞した奇跡の数々を、ありのままに描写したものである。》
五日目の四時頃、私たちは予定の村に到着した。ここでエミール師が、約束したように私たちを出迎える筈である。読者に私たちの驚きが想像できるだろうか。私たちは間違いもなく、唯一本しかない道を、途中で交換して日に夜をついで急行する飛脚は別として、この国では一番早い交通機関でやってきた。ところが、年齢も相当いっている筈の、またどう考えても九十哩の道のりを私たち以上の短い時日では来られない筈の人が、ちゃんと先着しているではないか。
皆その訳を知ろうとして、いっせいに質問を浴びせかけたのも無理からぬことである。
「あなた方がお発ちになるとき、ここで皆さんをお迎えしましょうといいましたね。その通り私は今、ここにいるわけです。人間は本来実相においては無限であり、時間・空間・制約を知らぬものです。一度人間がその実相を知れば、九十哩の道のりを行くのに五日もとぼとぼと歩かねばならないと云うことはないのです。実相においては、どんな距離でも一瞬にして到達できるものです。距離の長さなんか問題ではありません。私はほんの一瞬間前には、あなた方が五日前に出発した村にいました。皆さんがごらんになった私の肉体はまだそこで休息しています。あの村に残っている皆さんの同僚は、四時数分前までは、私が「もう今頃はついている筈だから、出迎えの挨拶に行きましょう」といったことを証言するでしょう。
このことは、只、私たちがどんな約束の場所、どんな定められた時刻にでも、肉体を残したままであなた方に挨拶に来られることを、お目にかけるためにしたのです。皆さんにお供してきたあの二人にも、同じことがやればやれたのです。そういうわけで、私たちが、皆さんと根源を同じくする普通の人間でしかないこと、又、神秘めかしいことは何もなく、父なる神、全能にして偉大なる一者が、全ての人間に与えたもうた力を、ただ皆さんよりも多く発現させただけであることが、いっそうよくおわかりになったでしょう。私の肉体は今晩まではあそこにおきますが、その後でこちらに引き寄せます。それで皆さんの同僚の方もこちらに向けて出発し、いずれそのうちに到着することになるでしょう。さて、一日ここで休養をとってから、ここから一日分の旅程先の小さい村に行き、そこで一晩泊まってから、またこちらにもどって例の同僚にあって報告を聞くことにしましょう。今晩宿舎で集会をします。ではしばらくの間ご機嫌よう。」
その晩、一同が集まっていると、突然ドアーも開けずにエミール師が私たちの真ん中に現れて、こう言うのである。
「皆さんのいわゆる魔法のように、私がこの部屋に現れ出たのを、皆さんは今、目撃しました。さて、今度は皆さんに、肉眼でも見える一つの簡単な実験をしてみましょう。皆さんは肉眼で見てから始めて信ずるのですからね。どうぞ、よく見えるように、円く輪を作って寄ってください。さて、ここに皆さんの中の誰かが今しがた、泉から汲んできたばかりの水が一杯あります。見てご覧なさい。
水のちょうど真ん中に氷のいっぺんが出来かけて来たでしょう。一片々々、だんだん固まってきた氷の部分が増え、とうとうコップ一杯凍ってしまいましたね。一体どうしたのでしょうか。私は水の真ん中の分子を私の想念の力によって「普遍なるもの」の中におき、それが形をとるようにしたのです。言いかえれば、そのバイブレーションを下げていって、遂にそれが氷となり、その外の分子群もその周囲に集まって形をとり、遂に全部が氷と化してしまうというわけです。
この真理を、皆さんは小さいコップだけではなく、桶や池、湖や海、はては地球上の水全体にまで適用出来るのです。そうするといったいどうなるでしょうか。皆凍ることになりはしないでしょうか一体何のために?目的なんてないのです。それは一体いかなる権威によってそうするのか、と皆さんはおたずねになるでしょう。「完全なる法則の使用によって」と私はお答えしましょう。ではこの場合は一体何のためか?何のためでもありません。それは、べつに何かの為になることもなかったし、また為になるようにも出来ません。もし私がこの実験を徹底的にやり続けていくとすれば、結局どうなるでしょうか。それは反動が来ます。誰に来るか?私にです。私は法則を知っている、だから私の表現するものは忠実に私に返ってくるのです。故に私は善のみを表現します。したがって善のみが私に善として返ってきます。もし私がどんどん凍らせ続けていったら、最後の目的を遂げるずっと前に、冷寒が私に跳ね返ってきて、私まで凍ってしまい、私自身の冷凍という形で私は自分の希望の収穫物を刈り入れることになるでしょう。だから私が善を表現すれば、私は永遠に私の善果を収穫するわけです。今、この部屋に私が現れでたのも、こういう風に説明が出来ます。あなた方が私を残して出ていった小部屋で、私は自分の肉体を普遍なるものの中に置き、肉体の波動を高めることによって普遍なるものに戻した。私たちの言い方をすれば、いっさいの質料が存在する「普遍」なるものの中にいったん奉還したのです。
それから私の神我、即ちキリスト意識を通して、肉体を心の中に置くとそのバイブレーションが下がり、遂にこの部屋のここで具体化し再現して皆さんにも見えるようになる――というわけです。この過程の一体どこに神秘があるのでしょうか。神の「愛ぐし子」を通じて父なる神が私に与えたもうた力、別言すれば法則を使っただけではないでしょうか。この「神の子」というのが、あなた方であり、私であり、人類全体ではないでしょうか。ではどこに神秘がありましょうか。どこにもないのです。
芥子種に象徴された信仰のことを考えてごらんなさい。その信仰は我々人間すべての中にすでに生まれている内在のキリストを通して、「普遍」なるものから私たちに来るのです。
それはきわめて微細なる一点として、「内在のキリスト(実相)」即ち超越心、即ち、私たちの裡にある接受機関を通して入ってきますが、私たちの裡にある山嶺、至高所、即ち頭の頂上までいったん昇って、そこにとどまります。
そこから聖霊が下るようにしなければならないのです。そこで次のような訓戒が出てきます。「汝、思いを尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、心を尽くして主なる汝の神を愛せよ」この意味を考えてご覧なさい!どうです、分かるようになりましたか?想いといい、魂といい、力といい、ここまで来ると、もうこれら全部を神、即ち聖霊、即ち絶えず働きたまうところのことごとく霊なる神我、全我霊に引き渡すよりほかにどうしようがあるというのですか。この聖霊は色々な方法でやってこられます。とりわけ中へ入れて貰おうとして戸を叩き求める小さき者達としてね。私たちはこの聖霊を受けて我が裡に入れ、光の小点、即ち、智恵の種子と結びつき、それを中心に廻転し、丁度今先、氷の分子が中央の分子に密着したように皆さんはぴたっとくっついていなければなりません。そうすると丁度氷のように、次々と分子ごとに、あるいは群れごとに成長して形をとるようになり、ついには困難という山に対しても「汝動きて海に入れ」と命じ得るようになり、命じた通り実現することになるでしょう。このような現象を四次元とか、あるいはその他、お好きな呼び方をしていてもよろしいが、私たちは内在のキリストを通じての神の表現といっているのです。
さて、キリストの生まれた経緯はこうでした。先ず偉大なる母マリアが理念を覚知し、それが心に抱き続けられて、魂という土壌の中に孕まれ、一時そこにとどまり、やがて完全なる長子、神の一人子なるキリストとして生まれました。
それから、女性の最良のものを与えられつつ養育と保護とを受け、見守られつつ慈愛の下に少年期を経て、成人に達したのです。内在のキリスト(実相)が私たちすべてに実現する同行もまた同様です。まず最初に神の土壌―即ち神のまします中枢部―に理念が植え付けられ、完全なる理念として心の中に維持され、やがて遂に完全なる神の子、即ち、キリスト意識として生まれ出て来るのです。
あなた方は今しかたの出来事を見はしたものの自分自身の目を疑っています。しかし私はあなた方を責めようとは想いません。皆さんの中の誰からか知らないが、「催眠術だ」という念波を受けましたが、同胞達よ、今晩あなた方が目撃したような神の与えたもうたすべての能力を行使する力が自分にはないと想っている人がいるのですか。私が何らかの方法であなた方の考えや視力を支配したと、例え一寸の間でも思う人がいるのですか。あなた方の中の誰かに、いや、あなた方全部に、私が催眠術的魔力を投げようとすれば出来るとでも想うんですか。あなた方は知らないのですか。あなた方の偉大なる書、聖書に、「イエスは戸がしまっていたのに入り給うた」と記録されているではありませんか。イエスは丁度私がしたように入って来られたのです。偉大なる導師にして教師であり給うイエスが、いかなる方法にせよ、他人を催眠術にかける必要でもあるとお考えなのですか。イエスは今晩の私のように、神の与え給うた彼自身に内在する力を用い給うたのです。くれぐれもことわっておきますが、私はあなた方の誰にでも出来ること以外は決してやっていないのですよ。あなた方だけではない、この世、いやこの宇宙に、今生まれてあり、又生まれたことのある子らには、すべて今晩のようなことを成し遂げる力があるのです。このことを皆さんははっきりと把握してほしい。皆さんは神の分霊であって、決して肉我ではないのである。あなたがたは自由意志であって自動人形ではないのである。イエスには催眠術を他人にかける必要はなかったし、私たちもまたしかりです。私たちの正直さが完全に納得のいくまでは完全に疑うがよい。しかし、催眠術という考え方だけはここしばらくの間でも捨ててしまうか、少なくとも、あなた方の仕事がもっと深く進むまでは心を受け身に保つがよい。私たちが皆さんにお願いすることは、心を解放しておくということです。」
『掲載者付記』
ここに掲載した一文はーー「ヒマラヤ聖者の生活探求」の第一巻/人間本来無限力ーーから抜粋したものでありますが、この話は実話でありまして1894年に極東を訪れたアメリカの調査団がヒマラヤの大師方と交流された体験談であります。
現在は、世界大師マイトレーヤと多くの大師方が我々の世界に公にお戻りになられる瀬戸際におりますので、この参考文献を通しまして、多くの方々が少しでも大師方の実像に触れられますことを希望するしだいです。
また興味のある方は、ヒマラヤ聖者の生活探求/全五巻が霞ヶ関書房より発売されておりますので、熟読されるようお願い致します。
☆大師とは覚者の別名であり他にアデプト(聖師)等とも呼ばれる。仏教徒は彼をアセカAseKa(原義は、弟子ではないこと)という。その理由は、彼はもはやこれ以上学ぶべきものがなく、人間としての可能性はすべて身に現じているからである。彼の意志は普遍意志、唯一無二者の意志と一つとなっているが故に、ヒンドゥ−教徒はジ−ヴァンムクタJivanmuKta(解脱した生命、自由となった存在)という。彼はたとえ肉体をまとって地上にとどまる事を選んでも、覚醒意識においてさえも常にニルヴァ−ナの光の中にいる。肉体を脱するとさらに高く、単にわれわれの言葉だけでなく想像をも超えたモナド界層に上がるの