祈りによる世界平和運動/世界平和と日本の天命








十 字 架


―――序文に代えて―――


五井 昌久



世代世代に師と云われ


神のみ言葉を伝えつづけ


すでに現身(うつしみ)から消え去った聖者たちの


潔(きよ)く輝かな心の日記を


私は星の光のようになつかしみ


今更師と云われることの厳しさを噛みしめる




一人一人が背負っている


宿業と云う十字架を


キリスト(神)の十字架に代えようとする


私の仕事は生やさしいものではないことが年毎にはっきりしてきたが


私は明るく微笑しながら


人々の運命(さだめ)の波をみつめては


肉身を霊身に代え


柏手を打ち印を結び


空即是色を行じ


神の光明を人々に伝え


此の世の汚れた波を洗い浄める




絶え間なき業生(カルマ)の波状攻撃は


暗黒のしぶきを立てて今も私に迫り


人々を光の国から連れ出そうとする


昨日も今日も亦明日も


私は宿業の十字架を金色の十字架に変貌させようと


衆生救済の浄めをつづける




――五井昌久先生詩集より――


五井先生御法話録より


宗教的な節操というのは、自分の良心に対するね、自分の生命に対する素直さということが節操でしょうね。それを通していくことがね。で形の世界ではいろいろ変わります。
いわゆる生長の家の谷口先生という人は、大本教の出ですよね。
大本教をま、裏切ってね、向こうでいえば裏切ったわけですね。大本教を裏切って出ているわけですね。で大本教の教えを中心にして、そこえくっ付けて、いろんなのくっ付けて、それで別派を立てたわけね。それは、神様がやらせるんですよね。だけども神様がやらせて別に別派を立てた、神の御心ですこれ、それで別派を立てて生長の家ができたことは、非常に重大な意義があっていいことなんですね。だからそれは仕方がない神様がやるんですよね。
ところが大本教の人達から見れば、古い人は、もう虫けらのようにいってますね。谷口は節操がない、ありゃ大本教の教えをとって裏切ったとこういうわけ。
ところが、五井先生ってのがここにいらっしゃるわけね。(笑)その人は、生長の家にいたと、ところが生長の家を出たから、出て別派を立てたから、こう節操がないと生長の家では言うわけですね。ところがそれは、神様の大御心でここに現れたわけ。だから、宗教家ってのは、ドンドン親から子供が独立してゆくみたいにね、ドンドン独立していくわけですね。
ま、比叡山ってのがありました昔ね。それで比叡山に、親鸞やなんかでも比叡山で学んだし、いろんな鎌倉時代の仏教家ってのは、みんな比叡山で学んだわけですね。
それでしかも皆別派を立ててね。親鸞は、あそこを出て法然の門下になって要するに節操がなかったわけだ。そうなると、ところがそういうのを節操とはいわない、進歩というんですね。
ドンドン分列し分列し、ドンドン子供が大きくなっていく事がこれ進歩なんです。子供がいつまでも親の中に入っていて親といっしょに暮してたんでは、親より偉くなるわけありませんですよね。皆独立して、皆進歩していくわけです。
だから、一つの殻から抜けて、新しいいいものさえ創れば、それはね、成就されたことで神様の御心です。これは、悪くなれば節操がないといわれてもしょうがないけどもその教えよりもよくなりさえすればいいわけですね。
だから大本教が出た、一番始めに出た新興宗教の始まりというのは、大本教と天理教ですよね。天理教と大本教。そのだいたい大本教の分かれが、ま、メシア教になったり三五教になったり、生長の家になったりいろいろと別れて、いっぱいあるんですよ。
心霊研究なんか大本教から出てるわけね。またその別れた所から、別れてくるわけね。
ところが、分かれて分かれてきたところ一番尾が大きいのか一番新しいのが大きいのかそれはわかんないですね。本当に神様の御心としては、ダンダンダンダン分割して、分かれたものが大きくなって新しくなればなるほど素晴らしい教えにならなければ、神様の御心が成就するわけにいかないんですね。
ダンダンダンダン教えが悪くなたら、これは、もう進歩ありませんでしょう。
科学にしても、何とか先生がいて、その弟子があったら、弟子が又新しい発見してまた立派になる。そしたら、また弟子が新しい発見をして立派になる。
湯川さんがノーベル賞とったのだって湯川さんだけがやったわけじゃありませんですよね。湯川さんの先生もいたし、そういうの研究したのを湯川さんが成就したわけでしょ。そしてノーベル賞とりましたね。ところが湯川さんの後に出てきた科学者は、皆湯川さんより悪いかというとそんなことはない。もう湯川さんよりずっと進歩した人もいるわけですね。ただ名前が知れてないだけまだね。しかしやがては、湯川さんより有
名になるかも知れません。
それと同じようにね。ダンダンダンダン分割し分化してそれでダンダン立派なものが出てくるわけです。だから私が今いて、まだ50歳になります。48歳です。この間、斎藤さん49歳といって一つサバよんだけどね。私あれ不服なんです(笑)。私まだ48歳です(笑)。48歳というとまだ若者ですね。
若者と年寄りの間ですね(笑)。そうすると谷口先生は、70何歳、もうだいぶお年寄りになってね。もう仕事は、頭がだいぶ硬化しちゃってね。硬化現象になります。そんなこというと、70歳の人いらっしゃると、そんな事ありません私は、なんていう人がいるかも知れませんけどね。そうすると70何歳より40何歳の方がよけい働けることになってますね。だいたい一番働き盛りですね。私の年なんか一番働き盛りですね。
そうするとまだ私は、それほど有名ではありませんね。もう神界では、もう有名だしとにかく凄いんだけども、肉体界の方じゃそれほど有名でないけども、どれだけ有名になるかわかりませんこれからね。70何歳まで23年あるんですね。23歳違うんだから。そうするとその代わりドンドン広がって行くわけですよね。
それで私が70歳になるころには、弟子の中からでも、あるいは他から出るかも知らないけれども、いっぱい又偉い人も出てきます。
そして又、それが私よりもずっといい仕事するかも知れない。そしたら、それは結構じゃないですかね。それは、私は喜んであーそうなさいと云うだろうし、応援するだろうと思います。おそらく私なら応援すると思うのね。
私一番見ててね。法然と親鸞の間柄というのね。法然のところに親鸞が入りまして、師の御坊のおおせならば地獄に落ちてもいいんだといって、ま、念仏一年になりますね。
師と弟子が仲良くて、和尚さんが弟子の悪口も言わないですよね。出てった者は、でてった者でいいわけです。皆出てって分化して皆立派になっていく。
そういう風に、なんて云いますかね。先生というのも弟子というのも、皆、神様ごとなんですね。神の御心の因縁で持って、それで皆先生になり弟子になるわけですよ。だから弟子といっても神様から預かるわけですよね。肉体の自分が教えてんじゃないんでね。五井昌久ってここに肉体の人がいますね。肉体の人は別にこう教えてるって、肉体を通して教えがいくわけですね。だから、教えている人は神様な分けですよ。
皆さんは、神様の宇宙神の直弟子なわけね。宇宙神の救済の働きが大救世主って形であるわけですよね。そうすると皆さんは、守護霊守護神に護られている。それで守護神と大救世主とがつながってるわけですね。それでスーっときて市川の五井昌久って云うところに、いけばいいんだといってみんな来るわけ、知らないうちに来るわけ。
来い来い来いといって呼んでいてくるわけじゃなくて。知らない内に誰かがこう伝えて来るわけね。それでつながるわけです。そのつながるということは、過去世から、みんな決まっていて、皆さんの守護霊守護神と私の本体とがね、もう密接な関係があってつながってるわけですね。だから、来い来い来いといくらいってもこない人は来ないし、来いと云わなくたって来る人は来るし、もういやだいやだといったってついて来る
人はついて来るしいろいろこうあるわけですよ。もう決まりごとなんですね。だから、そういう事は、どこへどういこうとああいこうとそんなことは、あんまり問題にならないんですね。
ただ、誰も彼もが本当に自分の本体が神の分命であることね。神の御心がそのままこの肉体に働いてね。この地球界に世界平和を創るんだと、その一員になるんだ、ということだけが分かりさえすれば、何処の教えやったっていいんですよね。
それで私がつらつらこう考えてみて、こうやって自分の教えも客観的に見ていて、一番、皆さんが神の御心を自然にね。容易にね。やさしく現し得て、しかも世界平和の為に役立つ人間になる、要するに天命を完うする道は、何処が一番いいかというと、この世界平和の祈りが一番いいということをね。
私は、もう大確信を持ってるんです。私以上の教えは絶対にありません。
これはもう世界中に宣言しても間違いない。絶対にないという大確信があんの私は。誰がなんていったって一番凄い教えで一番やさしくて、一番いいんだという大確信が私はあるんですよ。ね。
それで他の宗教家も大確信があるかもしれない。やっぱりやらなければ駄目です。お互いがやることによって、お互いが、ま競い合うってのもおかしいけれど、お互いがやってるうちに、本当のものは本当になって、本当の頭にきて、駄目なものは、枝葉になってしまう。それは、自然が時が解決する。ね。時が自然に解決するんだから、これは、言葉の問題じゃないんですよね。
要するに△△の家なんかと私なんかを比べれば、明らかに、客観的に見た場合にね。
客観的に冷静な判断で見れば、私の教えの方が遥かにいいことは間違いない、これはね。
だけども△△の家の人は、雲がかぶちゃってるから分からないんですよあれはね。分からないんです。
分からないんですよ。自分がその中に入っているとね。だから私なんかいつも自分がこう立場になってね。ま、弟子が周りにいますね。そうすると客観的に見ろよ、すべて教えというものは客観的に見なければ駄目だ、客観的に見て、良いか悪いか判断しなければ駄目だ、自分が主観的になって中に入っちゃってね。良い良いと言っては駄目なんだと、いつも客観的な立場になって良いか悪いかみなさいよって、ま、教えているわけね。
そうしてやって、客観的に見ても、これほど良い教えはないんです。
手前褒めじゃないんですよ。これは神様の教えを褒めるんだから、肉体がいくら威張ったっていいわけです。
肉体がこの教えは一番いいといったって、これは神様から教えて来るんだからね。だから、いいといって別にこれが自惚れでもなんでもないのね。良いか悪いか本当に分かるんだからね。
そうでしょ、よく考えて御覧なさい。一つも人を責めてないんですよね。
あなたの中に悪い想いが出るのも。ね。相手が悪いことをしてくるのも皆その人達が悪いんじゃありませんよっていうのね。過去世の因縁が過去世の因縁因果が、そこに現れて消えてゆく姿として、現れてくるんだから、その消えて行く姿をつかんで、あーだ、こーだといっちゃ、またまた業が入ってきて、また同じことになるから、つまらない、だから、消えて行く姿として、ただ消えて行く姿を何処にやるっかっていうと、やり場は、神様といってもただ神様じゃしょうがない。
だから神様の目的は、何かというと宇宙が平和になって大調和することが、神様の目的なんです。だから、地球人類、ね、じゃなくてもいいんだから、人類という、世界人類と書いたのは、地球人類ばかりじゃないんですよこれ。
世界人類が平和でありますように、という神様の御心をね、そのまま体現して、世界人類が平和でありますようにとそういう祈りごとの中に入れてしまいなさい、この色んな想いをと。
そうすると神様の方じゃ世界人類を平和にしようと想っている大光明で輝いているんだから、その光明界の中に入っていくんだと。
世界人類が平和でありますようにという祈りごとは、大光明の中に入っていく、と大光明の中で知らないうちに、その業を消してくださるんだ、自分の業も相手の業も消してくださるんだから、世界中の業を消してくださるんだから、色んな悪いこと、まがごと、やなこと、自分のやなことも人のやなことも現れたらそれを世界人類が平和でありますようにと、かまわず入れちゃいなさいと、そうするとその中できれいに消してくだ
さるんだよと。いうんでしょう。
どこに、人を責めることもなければ、難しいこともなければ、こんなにいい教えはありません。いいですか、よく比べてください。









 この五井先生の御法話は、白光真宏会の方達には特に読んで頂きたく掲載したわけですが、特に文中に出てくる△△の家という個所は、現在の白光会の方達にとっても、とても当てはまることなのです。
何故かと云えば、現在まで西園寺会長は五井先生の御教えに自ら作りあげた教えを混ぜておりますが、実にこれは大変な過ちを犯していることになるのです。
先に紹介した御法話でも説かれておりますが、五井先生は私以上の教えは絶対に出ない、私はそれについて大確信を持っていると述べておられます。(註……この五井先生の御法話は白光会の方達に向けて話されたお話だと思います。ですが実際に私が客観的に見回してみた場合に、確かに現段階では五井先生の御教えが他より優れているものと思われます。
勿論それは、五井先生の教えが他より高度でるという意味ではありません。何が優れているのかと申しますと、個人人類同時成道を前提とした場合と、万教融合の教えであるという点、そして教えが非常に簡単で理解しやすく行じ易いという点においてであります。個人人類同時成道というのはどういう教えであるかと申しますと、個人が救われる為におこなう行法というものが、そのまま世界平和の為に役立っている働きをしているのであるということでありまして、個人が悟るためにおこなう行法がそのまま世界を平和にする為の方法と一つになっている教えなのであるということであります。
 祈りによる平和運動においては、個人と人類というものの幸福は離れてあるものではなくて、直結しているものであると教えております。ですから、世界が平和になる時は、人類の一人一人が本当に幸せになる時でありまして、また人類の一人一人が本当の幸せを得なければ、世界の平和というものは成り立たないものなのであると教えているのであります。これが個人人類同時成道の教えであります。そしてもう一つ、万教融合の教えであるということについてでありますが、これは万教は同根であり万教は帰一であるという事実に根ざしておりまして、いずれすべての宗教が一つに溶け合う時が来るのでありますが、それは自然に行なわれてゆくのであります。それについてこの祈りによる世界平和運動が大きな役割を荷っているのであります。
 そのため五井先生の教えというものは、あらゆる宗教の人達が理解しやすいように創られておりまして、それは真実のキリスト教であり、真実の仏教であり、真実の神道等であるのです。これは各宗教を深く極めた方には必ずお分かりになることなのであります。それは神々の御心によってそうなったのでありますが、祈りによる平和運動においては、各宗教の人達を改宗させなければいけないということはなく、各宗教の人達はそれぞれの宗教的教えとその伝統の中で成長していってくださればよいのであります。
 ただ、現在の世界というものは、先ほどの個人人類同時成道の教えではありませんが、個人というものと世界というものが密接に繋がりあっているわけで、何教といえども何人といえども、その人生の根本に世界平和ということを置かなければならない時代が来ているのであります。
 あらゆる宗教にはそれぞれの祈り言葉があるものですが、それはだいたいにおいて個人の救われと悟りに関係するものでありまして、祈り言葉がそのまま世界平和を表明しており、世界に働きかけるということは非常に少ないのです。祈りによる平和運動はどのような宗派の人達でも、そのまま世界平和の働の中に生かすことが出来るのです。
またあらゆる宗教の人達が世界平和という目的の為に一つに協力し合うことができるのであります。
この意味において、現在までは、他にはこの教えを凌駕するものは今のところ見当たらなく、それは五井先生の天命のしからしむるところでありまして、天命以外の理由によるものではありません。
 しかし、それも一定期間だけのことでありまして、新しい時代には更に時代に適応した高度な教えが人類に提供されることになるのであります。)




 五井先生がこのように教えておられるのに、本来五井先生の弟子であるはずの(勿論覚者でもない)西園寺会長が何故自ら考え出した行法を、五井先生の教えに盛り込んでいるのでしょうか。これでは平和の祈り半分、西園寺会長が考え出した行法が半分となってしまいまして、祈りによる平和運動は玉石混淆となってしまい、完全な働きをなすことが出来なくなってしまいます。
 また、西園寺会長は社会において犯罪行為をなしつづけているわけでありまして、(これは知っている人が多いと思いますが)これが西園寺会長が偽者であることを結論づけております。このような偽者のグループを世界にある本物の霊的グループが認めることは先ずありえません。これは霊的グループと云わずとも、良識のあるグループや個人ならば認めることはないでしょうから、白光会は本人達の感情的な自己満足だけに終始するだけで、その立場は、反社会的な宗教団体ということになりまして、社会から価値のない団体として、また危険な団体として位置づけられてしまうことでしょう。
五井先生の教えである祈りによる平和運動においては、生活の心構えとしては次のように教えております。
『人間は、自己一人だけが、生活したり、自分一家だけが生活したりしているのではないことを、まずはっきり認識して、自己や自分一家の行動が対社会に及ぼす影響ということを考えの根本において、生活することが大事である。自分一家だけの幸福という考え方は、往々、隣と衝突したり、対社会性を失ったりする場合が多いのである。であるから、常に相手のためになるように、相手を傷つけぬように、とともに自己をも傷つけぬように、の心がけを習慣づけることである。すべてを生かす、という精神こそ、誰にとっても一番大事な心がけである。国家の場合も同じである。誰でもが、このような心掛けになったならば、むずかしい理論も何も要らずに、社会も国も、世界もよくなるに違いない。相手も自分も生かす法、すなわち愛。』
 五井先生はこのように教えておられるのに、何故西園寺会長は厚顔無恥ともいえる犯罪行為を、社会において平然となしつづけているのでしょうか。
これは実に憂えるべきことでありまして、白光の働きを妨げるということは、直接日本の天命の消失につながるのであります。それでは世界平和完成の中心国としての働きが出来なくなってしまうのです。日本がその雛型としての使命を成就していかない以上、それではいつまでたっても、世界平和は完成することはなく、世界は混乱したままになってしまいます。


世界大師からの警鐘

世界大師マイトレーヤは日本へメッセージを送っておられます。


  
    『 日本人は自己犠牲をおこなう能力を持つ。それゆえに彼らは成功

     してきた。彼らが自分たちの根を忘れることは破壊的だろう。

     これは日本人が東洋的な(霊的に基礎を置いた)生活様式を忘れる

     べきではないことを意味する。』

                                   

これはマイトレーヤから日本民族へ送られた警鐘といえるでしょう。
マイトレーヤがこのコメントの中で述べている「霊的に基礎を置いた生活様式」とは正に日本の天命そのもののことでありまして、この天命を果たせない以上、日本民族の存在価値はなくなってしまうのです。
では、日本の天命とは何か。
日本は霊的にヘッドの国でありまして、世界平和完成の雛型としての役目のある国なのです。霊的な意味で、この惑星の中心でありまして、世界を大調和させる役目を持っている国なのです。これが古からの日本の霊的伝統なのです。
このようなことを云いますと、これでは戦時中の日本の思想と同じではないかと云われる方達がいるかも知れません。確かにある意味では似ているかも知れませんが、それは当時の政府が戦争の為に神道の教えを利用したからでありまして、本来の日本の天命とは似て非なるものでありまして、根本的に全く違うものなのです。
日本はその天命からいいますと、相対的な軍事力を背景に立つ国ではありません。相対的な武力でもまた経済力でもない、日本は相対力を超えた絶対力によってこそ立たねばならない国なのです。




その絶対力とは何かと云いますと、大調和の力であり大平和の神の御心そのままの力なのであります。故に日本は古来から神国とも呼ばれ大和の国とも呼ばれて来たのであります。
これをもう一寸詳しく説明致しますと、例えば武力における大調和の力とはいかなるものであるかと申しますと、、今までのような相手を破壊する武力つまり軍事力ではないのです。相手の破壊的な軍事力をある方法により調和してしまい無力化してしまうのです。
それは原子よりも素粒子よりも更にもっと微妙なある波動の照射によってなすことが出来るのです。ですから、このような科学力の前には核爆弾といえども全くの無力でありまして、原子や中性子や素粒子はその波動の照射により調和してしまい、破壊的な力は全く無力化してしまうものなのです。これは武道に例えて云えば、植芝盛平翁の持つ合気道の力と同じなのでありまして、相手を破壊する武力ではなくて相手を生かす武力なのです(人類の未来/五井昌久先生著より参照)






「大本と白光そして日本」


 当時、日本の天命を果たす為の中心機関としては大本教という宗教団体が存在していましたが、大本教は当時の政府から大弾圧をされてしまい、その使命を完全に果たすことは出来ませんでした。
それでは日本の天命は、王仁三郎聖師ひきいる大本教からその後は誰に引き継がれたのでしょうか。私が今までしてきた研究から云えることは、その使命を引き継いだのは五井先生に他なりません。時期的にみても、王仁三郎聖師が御帰神された翌年に五井先生が神我一体の正覚を得ておられまして、まるで王仁三郎聖師から五井先生にバトンが渡されたかのような感があります。
 また、大本教にしましても白光真宏会にしましても、その名前がすでに日本の天命を顕しておりまして、双方とも同じ意味なのです。何故、大本と白光が同じ意味かと申しますと、大本というのは三千世界の大本、つまり大宇宙の根元という意味でありまして、それは、霊的働きが流れいずる根元でもあるわけです。
一方、白光というのは、光の色でその働きを顕しておりまして、この宇宙は七色の光、つまり七つの光線の働きによって、その創造と進化が司られているわけであります。
 この七つの光線が大調和し融合しますと、白光色となるのでありまして、この七つの光線が発する元の光が白光なのです。つまり、両方共に大宇宙の根元を意味しているのでありまして、それが神道的には天御中主大神のおわすところであり、ヒマラヤ密教的には太陽ロゴスに直結している場なのであります。つまりそれが日本列島に他ならないのです。
ですから、この国土の上に住む者たちがその責任を果たせないならば、その存在意義が無くなってしまうわけです。それでマイトレーヤが日本へのメッセージの中で、「彼らが自分達の根を忘れることは破壊的だろう」とまで云われているのです。ですから日本国民が本来の天命から外れてしまっている以上は、その役目を果たさせる為に法則的な浄化を受けることになるわけで、それが経済崩壊という形でもうすぐ表面
化するものと思われます。日本国民は、この経済崩壊のどん底の中から、その生みの苦しみ中で本来の自分達の霊的使命、日本民族の天命を自覚していくことになることでしょう。





祈りによる世界平和運動と日本の天命


 さてここからが本題なのですが、日本の天命を完うするためには、五井先生の御教えを抜きにしては語ることは出来ないのです。
つまり、祈りによる平和運動が土台として中心にならない以上、日本の天命を完うすることは絶対に出来ないのです。
これはアメリカにおられる、キース・ミルトン・ラインハート氏を通じてサンジェルマン伯爵が伝達されていることでもあります。サンジェルマン伯爵はあまりにも有名な方ですが、彼は第7段階上のイニシエートであり、ハイラーキーにおいては文明の大主としての役職を司っておられます。
サンジェルマン伯爵の現在の正式名称はラコーシ覚者と云いますが、彼によりますと、『日本の運命は五井先生主宰の宗教団体にかかっている』ということであります。





五井先生は、祈りによる世界平和運動を推進する方法として、三つの方法を教えておられました。
◎「一つ目は、五井先生の教義と消えてゆく姿で平和の祈りを普及すること。」
これが無理な時は、
◎「二つ目として、消えてゆく姿で平和の祈りを普及すること。」
これも無理な時は、
「三つ目として、――"世界人類が平和でありますように"――・の一言を祈り言葉とし
て普及すること。但しこれは、信仰心のある人に限る。」


一つ目の「五井先生の教義と消えてゆく姿で平和の祈りを普及すること」この一つ目の方法が適用される人達というのは、過去世から五井先生に深い御縁のある人達が殆どではないかと思います。このような人達というのは、縁が熟しますと、積極的に五井先生のご活動に加わり働きはじめることでありましょう。
この一つ目の方法が適用される人達の中には、祈りによる平和運動の母体とも云うべき白光会の会員の人達がおります。現在は道から大きく外れつつありますが、それは五井先生の御教えを未だ深く体得していないからに他ならないのです。
五井先生の御教えである全託ということと、西園寺会長への崇拝と献身とを混同して考えているようで全く困った状態へと落ち込んでいるのです。




全託ということ

 それではここで、全託について五井先生御帰神前の西園寺会長と宇宙子科学メンバーとの関係から考察をしてみることに致しましょう。
五井先生後在世中から、宇宙子科学メンバーは西園寺会長の命令に従うように訓練されてきております。これは宇宙子科学の研究が完成する為にとの配慮の為であり、信仰とは直接関係はないのです。何故なら宇宙子科学の完成の為には、地球科学の知識や常識というものが邪魔になるからです。西園寺会長を介して宇宙天使(宇宙人)の方から流れてくる宇宙科学の原理や数式等というものをありのままに受け取る為になのです。
 宇宙子科学メンバーの中には、科学の専門分野の方達もいるわけで、その科学者としての知識や常識が障害にならないようにとの配慮のためなのです。
また、宇宙子科学の研究の他にも、神様の方から指示された神事等を行う時にもこれは当てはまります。ですがこのような在り方というのは、信仰の道と相容れるなくなることはありませんで、どのような神事も信仰の道から脱線することはありえないのです。
信仰の道というのは、愛と誠、真善美の道のことでありまして、これ以外に信仰の道があると想ったら大間違いなのです。五井先生が教えておりますように、宗教者がその宗教者としての価値を減ずるのは、その宗教者が愛と真の想念行為からマイナスした分だけ、その人々の宗教者としての価値を減じているのである、ということになるわけなのです。
 更にもう一言付け加えさせて頂くならば、真の宗教者には、必ず高級神霊の働きかけがあるわけでありまして、この神霊の存在する場、つまり界層には真・善・美の波動しかないのです。悪というのは、霊波動には存在し得ませんで、それは物質波動の粗い波の現われに他ならないのです。そういうわけで、神霊の働きかけの中で活動している宗教者から、良識を外した非常識な言動が現れることは100%有り得ないことになります。
 これは神霊存在が愛と真だけを現すように努めているとか云う次元の問題ではなくて、神霊波動には悪は存在し得ないから悪が現れないだけなのです。無いものは行うことは出来ませんから。
このような真理をわきまえた時に、社会において犯罪行為を平然と犯しつづけている西園寺会長が偽者なのか本物であるかは考える必要もないでしょう。西園寺会長がどのような宗教的理由を付けようとも、それは西園寺会長の頭がどうにかなってしまっている証拠なのです。




全託修行と執着

 西園寺会長への崇拝と献身を全託修行と混同して考えている方達の中には、五井先生の高弟の方達(例えば斎藤秀雄先生等)の全託修行の在り方を参考にされている方達が多くおられると思います。斎藤先生は斎藤先生で素晴らしいお方であります。私も斎藤先生については大変尊敬しておりますし、見習いたいところが沢山あるお方だと想っております。
しかしだからと云って、斎藤先生の全託修行の在り方を全肯定しているわけではありません。正直云いまして、斎藤先生には五井先生という存在にとらわれすぎている傾向があるように思われるからです。
 どのような素晴らしい存在にも、あるいは事柄にも、とらわれすぎてしまいますと、そのとらわれるというそのこと、そのものによって道を外れてしまうのです。
 真理にもとらわれれば業(カルマ)になります。善にもとらわれれば悪になります。とらわれ、つまり執着とは業(カルマ)そのものでありますから、どのような事柄にもとらわれている時には、真理の道から外れた一歩を確実に踏み出していると考えていいでしょう。
ですから、真の宗教や霊的指導者はとらわれを造るのではなくて、とらわれを放つことを教えるのです。五井先生の御教え等は正にとらわれを放つ教えそのものでありまして、あらゆる角度から執着を解き放つ教えをされているのであります。
ここで一寸教訓的な話を紹介してみたいと想いますが、それはジュアル・クール覚者が未だ覚者ではなく、クートフーミー覚者の弟子として活動されていたころのお話です。
ジュアル・クール覚者は覚者になる前に、クート・フーミー覚者の弟子として働かれておりましたが、彼はその当時、自分が唯一自負できることは、クート・フーミー覚者への献身と崇拝の想いであると思われていたそうです。しかし、ある時、師であるクート・フーミー覚者より注意をされました。その献身と崇拝の想いはグラマーであると。

 この逸話から何を学べばいいかと云いますと、それはジュアル・クール覚者が自負していたクートフーミー覚者への崇拝と献身が、結果的にジュアル・クール覚者自身の進化を遅らせてしまったということです。
この例のように真理の道を進むということは、師への献身でも崇拝でもないのです。
真理の道を進む正しい在り方というのは、法に帰一することです。真理の教えに帰一することなのです。大法に帰依してこそ、その人の前に正覚への道が開かれるのです。
これについて五井先生は、御著書「アナン物語」の中で、釈尊の説法を通して教えてくださっております。

『アナンよ、これのように如来(み仏)の心こそ、そなたの本心であるのであるから、自らの本心に帰依し、法に帰依して、他に帰依するなかれ。また、自らを光明とし、法を光明とすべし、他に光明を求めようとなさば、自らの光明を消すに等しい。自らの本心は光明心そのものであり、法のひびきと一筋のものである。
アナンよ、そなたは内なる心、霊身を観じて、精勤を怠らず、世の人の想いの貧しさ、業想念の憂いを除くことに努めよ。
我が肉身の、そなたの五感に触れずなりたる後は、我が身は阿弥陀仏と一つなるものと観じ、またそなたの本心と一つなるものと想い、自らに帰依し、法に帰依し、光明に帰依すべし。我が滅後において、能くこの修法をなすものあらば、これを真の我が弟子、第一の学者となす。
身は不浄にして常に苦を受けるもの、想念は苦そのものにして常無きもの、法は無我にして仏より発するものである。
アナンよ、能く能くこの真を悟りて、後より来る者を導くがよい。』





実に真理そのままの言葉ではないでしょうか。
斎藤先生も、ご修行中に宇宙天使(宇宙人)から注意されたと云われております。
宇宙人が云うには、
「あなたがいつも唱えている五井先生も消えてゆく姿にしなさい」といわれたというのです。これなども宇宙人から見れば、斎藤先生が五井先生に執着していることが分かりますので、注意をされたのでありましょう。
この例のように、全託の道というのは師への献身や崇拝とは全く関係がないことが分かります。そもそも全託というのは、仏教的に説く空と全く同じ意識状態のことですから、その意識の中に師への献身や崇拝があるわけがありませんで、世界大師であるマイトレーヤ御自身も「私を崇拝してはならない」と教えており、「私は法によって教える」と説かれているのです。世界大師のような高い御身分の方でも「私は法によって教える」とまで云われているのです。私たち真理の道を歩く者は、自他を省みてよくよく噛み締めなければならない教えではないでしょうか。大法とは即ち真理の教えであり、その真理の教えは結局、古代の叡智を復興させているだけでありまして、五井先生にしてもサイババ大聖にしても王仁三郎聖師にしても又はマイトレーヤにしても真理を現代的に判り易く教えてくださっているだけなのであります。勿論、部分的には嘘も方便的な教えはあることにはありますが、それはその時代や環境、或いはその当時の諸々の状況事情等によってなされるものであり、根本的な教えについては各聖者共何も変わりはないのです。
それでは五井先生御帰神後の白光会の人達は、いったいどのような心構えで修行し活動していったらいいのでしょうか。
これについても、「アナン物語」の中から抜き出してみることに致しましょう。最もこの個所は白光の人達以外には当てはまりませんのでそのおつもりでお読みください。



【ある時の説法中に、雨舎大臣がアナンにむかい、
「アナン尊者、このようなことをお聞きするのは甚だおかしなことですが、ある人に問われて答に惑うてお尋ねする次第です、何卒お教え下さるよう。」と前置して、
「釈迦ムニセソンの滅後、セソンと等しいシャモンがございましょうか?………」
と真顔で問うた。アナンはその眸を静かに見返しながら、はっきりした声で、
「セソンの滅後、セソンと等しい比丘はおりません。」といった。
「それでは、セソンの認め給う比丘が等しく帰依し、諸比丘をして自ずから慕いよらせ、礼拝せしめ、和ましめるようなシャモンはおりませぬか?」と雨舎大臣が重ねて問うた。
「おらぬ。」アナンはやや厳しい調子で答えた。
「しからば、尊者はじめ、多くの比丘は誰を中心として、和み、睦み合うのでございますか?」
ウシャが不審そうに問うと、
「ウシャよ、我等は人によらず、ただ法によって結ばれている。我等は共に村を遊行し、集う時には法を知れる比丘を請じて教えを乞い、そのいうところ清浄なれば、共に喜び、その教えを行いに現わし、彼の比丘もし誤りあれば、我等は法に随って教う。かようにして多くの比丘は教えを一つにし、行いを一つにして水乳の和合するが如く和合しているのである。
ウシャよ、私がさきにセソンと等しき比丘なく、依るべき比丘なしというたが、この意味において諸々の比丘はお互いに相依り相教え相拝しているのである。
人に依らしめれば自ずからそこに情が生じて、教えに誤りありても、その誤ちに心づかぬようになる。ひたすら法によりてこそ、威儀を守り、広く学び、友誼を尽し、善を修め、智慧を研することが出来るのである。」
この日のアナンの説法は、ウシャをはじめ多くの人々を深く感動せしめたのあった。
法によらず、道によらざる人と人との交わりは、かえって互いの進歩を傷つけ損じ合うことがあるものである。まして情にもろい人にとっては、非常に考えさせられるべき真理である。
アナンは情に弱い性をもって生れて来たのであったが、セソン入滅後遂にその性情を一瞬にして超え、その情は他への思いやりと変わり、柔和さ穏やかさは、光を放って人々の心を温め和めるに至った。
今のアナンは人に依ることをしなかった。また依るべき人は、今のアナンの境地ではこの世に一人もいなかった。ただ依らしめる人々だけが、彼の周囲にはいるのであった。しかし彼は、彼自身に人々を依らしめていると思っていなかった。人が依ってくるのは、釈迦ムニセソンの法に依って来るのであり、自身は法の仲介者となって、その法を語り、行じてみせるだけなのである、と思っていた。
ウシャへの彼の言葉も、自身を卑下していったのではなく、常日頃の想いのままを説き明かしたのみであった。】


以上ですが、全く素晴らしいといわざるおえません。これは先に紹介した「法に帰一する」という御教えとよく照らし合わせて考えてみるべきでありますが、これは今後、現在の白光会の誤ちが正され、新しく生まれ変わった時に土台とならなければならない教えであります。




宇宙子科学の完成と白光会内における迷信


 それから、宇宙子科学について付け加えさせて頂きますが、五井先生の御教えによると、本来の宇宙子科学の研究というのは、世界に宇宙子科学の場として、天地を貫いた聖なる拠点が七個所できまして、その上で各国の宇宙人(宇宙天使)に選ばれた科学者が集まって来て、その研究がなされ発展していくのだということなのです。しかし、五井先生御帰神後の宇宙子科学の現状はどうでしょうか。世界の本物の科学者が集まって来るどころか、昔の青年部の人達を宇宙子科学メンバーとかしてしまっているようで、全く道を外れてしまっているようなのです。他の論文でも指摘しているのですが、宇宙子科学の研究は既に行われておりません。この事実はいずれ明らかになることでしょう。
 繰り返しますが、宇宙子科学の研究は各国の本物の科学者が集まって来て、その上で完成するのです。しかも宇宙人から選ばれて集まって来るのですから、第2イニシエーション以上の方達であることは確かです。第2段階のイニシエートで科学者といいますと、あの相対性理論を完成したアインシュタイン博士等がそうなのですが、、この様なことからみて相当に高い方達が集まってくる予定であったことが分かります。アインシュタイン博士は御自身が第2段階上のイニシエートであることを知っていたようですが、五井先生もアインシュタイン博士のことを人類の中でも最高級の部類に属する人であると紹介されておられました。最もアインシュタイン博士は、亡くなられましてから、霊的に宇宙子科学の研究に加わっておられたようです。
 余談になりますが、未だ五井先生御帰神前のある宇宙子科学の研究が成されている時に、他の宇宙子科学メンバーが見ている前で、西園寺会長の腕が金色の体毛の生えた外人の男性の腕に変貌現象を起こしてしまったことがあるそうです。それについて五井先生に尋ねると、それはアインシュタインが自分がこの宇宙子科学の研究に加わっているということを皆に知らせる為に起こした現象だよと教えてくださったとのことです。
 それから、宇宙子科学の話の続きではないのですが、五井先生御帰神後の白光においては、非常に迷信がはびこってしまっているという事実を指摘しておきたいと思います。
先ず、シャンバラについてなのですが、白光の人達はシャンバラを魔王が存在している場だと考えている人達が多いようですが、実にこれほど真理から逸脱した考え方はないのです。何故ならば、シャンバラは神智学やヨガの教えでも明確に説いておりますが、シャンバラとはこの惑星の霊的エネルギーの中心なのですから。それを魔王が住んでいると教えているのは、天と地を逆さまにして教えているのに等しいのでありまして、全く馬鹿げているのです。しかもこのような教えを、会の最長老である故村田正雄先生が教えていたのですから信じられません。 実際問題として、五井先生はこのように間違った教えは絶対になさってはおりません。私は五井先生がシャンバラについて説明している肉声のテープを持っておりますので断言できることなのです。
五井先生はシャンバラについて、簡単に救世の大光明をシャンバラといったりハイラーキーと云ったりするのであり、そこに偉い聖者方や神々が皆集まっていると教えておられるのです。それが何故シャンバラには魔王が住む等という教えがはびこる様になってしまったのでしょうか。 このような現象は五井先生御帰神前には見られることはなく、御帰神後に起こり始めたことでありまして、しかもこのようなことを信者に教え
ていた村田先生は「五井先生から教えていただいた」というような意味のことをいっているのです。このようなことは絶対にある筈がありませんで、それは先に説明した五井先生の肉声テープでも明らかであります。では何故村田先生はさも五井先生から教えていただいたかのように話していたのでしょうか。このようなことを会の最長老である村田先生に命令できたのは一人しかおりませんで、西園寺会長の指示によってなされたことは明らかです。
 実際に宇宙子科学メンバーは、(村田先生は宇宙子科学メンバーでした)先に説明したように、西園寺会長の命令の通りに動くように訓練されてきておりまして、白のものであっても西園寺会長が黒といえば黒になるというくらいに訓練がなされているのです。このようなことからシャンバラの悪説がなされたのは、西園寺会長の意図によるものであることがわかります。またこのような話を、本物の霊的グループが耳にしたら先ず笑われてしまって相手にされなくなってしまうでしょう。つまり五井先生の御教えが信用されなくなってしまうのです。これは世界平和運動である五井先生の御教えにとっては大きなマイナスとなるのであります。勿論、左手の道(闇の勢力の下で意図的に働いている者のことを云う)を進んでいる西園寺会長にとってはこれは好都合でありまして、このような状況を作ることによって他の本物の霊的グループが交流し
てくるのを無くしてゆくことが出来るのです。
 次に西園寺会長が洗礼のヨハネの生まれ変わりであるという話なのでありますが、白光の人達はこれをそのまま鵜呑みにしておりまして、西園寺会長の過去世において、ヨハネであったことがあったのだと信じているようであります。これについては真実ではないが嘘でもないと云うことが出来るのです。何故かと云いますと、五井先生はこれについて、西園寺会長はヨハネの魄的な生まれ変わりであると教えておりまして、当時、五井先生からヨハネの魄的な生まれ変わりだと云われている女性がもう一人おりました。五井先生はこの女性に、あなたも霊能者になることが出来るがどうするかと聞かれ、その女性はそれを断り普通の霊能のない人間として生きることを選ばれたようであります。(この方は西園寺会長と同じ時期に五井先生の内弟子になられた女性のことではありません。)
人間の生まれ変わりというのは実に複雑でありまして、前生でAであった人間が今生でBに生まれ変わるというような単純なものではないのです。
 これについて説明していると一冊の本になってしまいますので省きますが、魄的な生まれ変わりについてだけ説明することに致しましょう。魄というのは肉体要素のことでありまして、秘教科学的に云えばエーテル物質のことであります。エーテル物質は現在の地球科学がこれから発見する界層のことであり、その時期はもう、すぐそこまで来ております。
 物質界は七つの亜層に分かれておりまして、固体、液体、気体、これは濃密な物質でありまして、その奥に四段階にエーテル物質の亜層が形成されているのであります。この世の中のどのよな物質も、このエーテル物質の側面を必ず有しているのであります。
人間が転生する際に、その肉体を形成する時、このエーテル物質が使われるのでありまして、あくまでその人間の意識レベルにおける転生ではなくて、精神の器である肉体要素としての生まれ変わりのことなのです。この魄的な転生の次元から云えば、動物が人間に転生し、人間が動物に転生するということが結構あるのであります。
 それは転生する人間の意識の高低によるのでありまして、あまりにも低いレベルの意識を有している人間が転生してくる際は、以前動物に使われていた魄要素が使用されるのでありまして、またその反対にあまりにも低いレベルの意識を持った人間が死にますと、その人間に使われていた魄要素が今度は動物が生れてくる時にその体を構成する魄要素になったりするのであります。神道の神示にありますが、「肉食は共食いをしていることになるのである」という教えは、実にこの原理に根ざしているものと思われます。つまり私たちの食卓に上る肉料理が、以前人間であった魄要素によって構成されている場合が間々あるのであります。この意味において確かに肉食は共食いをしていることになります。
もっとも肉食じたいは、新しい時代においては徐々に消滅していってしまうのでありますが、現在は未だ人類の進化しきっていない不完全な部分として残されております。
さて、このように人間には魄的なレベルの転生があるのであり、その意味において西園寺会長はヨハネの生まれ変わりであるということになるのであります。ですから現在の白光の人達が信じているような、意識レベルにおけるヨハネの生まれ変わりではないのです。
本当のヨハネとしての存在は、もう既に高度に進化をされておりまして、この惑星にはおられないとのことです。
 次にイエス・キリストが十字架に実は架からなかったのであるというような話を、五井先生がなされたと、ある宇宙子科学メンバーがいっていたようでありますが、私はこれも間違いであると思っています。五井先生の御教えのどこを取ってみても、イエス・キリストは十字架に架けられたと教えておられますし、その宇宙子科学メンバーは五井先生から聞いたと話しているようですが、その様な事実を匂わせるような教えは五井先生の御著書やご法話からは見つけることは出来ません。
 五井先生が肯定されていたという竹内文献には、確かにそのような話が出てきますが、竹内文献は王仁三郎聖師が話しているように、間違っている個所も当然あるのでありまして、五井先生が肯定していたというのは、その文献の底に流れている骨子のことではないかと考えております。いずれにしましても、秘教の教えによれば、イエスは十字架に架かった時に第四段階のイニシエーションを授かったのでありまして、それから数年後にタイアナのアポロニウスとして生まれ変わり、この転生において第五段階のイニシエーションを得て覚者となられたのであります。
またイエス・キリストに関してはもう一つ迷信的な話があるようであります。
それはキリストと天皇に関連する御教えについてであります。





天皇とキリスト


キリストと天皇に関しての御教えは、五井先生の御教えの中にはかなりあるのでありますが、その中の「聖書講義」から先ずは紹介してみることに致しましょう。

『イエスが十字架につく時、「父よ、彼らを赦し給え、その為す所をしらざればなり」といっているのは、実に感嘆せざるを得ない立派な心です。イエスが神の子であり、愛そのものの心の持主であることを、この言葉が如実に示しています。不当な理由づけでイエスを十字架にかけるまで追い込んだ、ユダヤ教の人々やバラバの為にイエスを売った人々は、普通の言葉で言えば、憎みてもあまりある人々なわけです。そういう憎悪すべき人々の行為を、その為す所をしらざればなり、といって神に彼らの罪の赦しを乞うているのですから、その愛の深さは大慈悲心という、御仏の心そのものでしょう。キリスト教が世界に広まる要因となった心です。
私がたびたび書く所なのですが、太平洋戦争の終戦後に、天皇陛下がマッカーサーのところに御自身がお出でになられ「戦争の責任は全部自分にあるので、自分はどういう処置を受けてもよいから、国民の生活の安全をお願いする」と申され、天皇は御自身から進んで十字架にかかられて、全国民を救おうと為されたキリストそのままのご行為はマッカーサーをすっかり感激させてしまったのです。天皇のお心を計らず、自分たちの計らいで太平洋戦争に突入した軍部の過ちをも、天皇は自らがお背負いになったのです。そのお心は、全く神そのものの御心でもあり、親の心でもあったのです。まさに天皇であられたのです。あの時、天皇のお体がご無事であったことは、真に生命を捨てて生命を得た大奇跡であり、今日の日本の発展の最大の因となっているのであります。
十字架上のイエスの愛の心と天皇の御心とが全く真理そのものであり、神の大慈悲であることにおいて等しいものといわねばなりません。ただ異なるところは、イエスが天なる父に罪を冒せる人々の赦しをこうたのにくらべ、天皇は、軍部や政治家の過ちを、赦すも赦さぬもなく、自らの責として背負われきったところです。天皇が御自身の意識としては思われてはおられないのですが、そのご行為は天皇御自身が神そのものの立場に立たれていたことになるのであります。その時の天皇の御心は、天地を貫いた神我一体になられた御心なのです。
いいかえますと、イエスには未だ神と我との間隔が幾分なりとあったのですが、天皇には神と我との間隔が全く無かったのであります。それ故天皇は神の名において、誤った軍部や政治家を赦していただく、というイエスのような祈りをなさらず、自らを責め、自らを捨て切り、澄み切った鏡のように自らの真の姿を肉身に写した、神我一体の真の天皇としてそこにおわしたのです。
この真理は普通の方にはなかなかわからぬことでしょうが、なんとなくでもわかっていただくと幸いだと想います。天皇は縦から観た真理(キリスト)であり、イエスは横から観た真理(キリスト)なのでありまして、表と裏ということにもなるでしょう。今日でも天皇を戦争責任者であるとみていたり、軍国主義の中心であると思ったりしている人があるのですが、それこそとんでもない間違いで、天皇は真理そのものの方であ
り、平和そのものの方であり、大調和の中心者であるのです。この聖書講義をかりて一言、天皇の本質の一部分を述べさせていただきました。』
白光の人達の中には、昭和天皇が神我一体の人であると思いこんでいる人が結構いるかも知れませんが、昭和天皇が神我一体の人であったという事実はまずありえません。
進化の段階から推察するならば、せいぜい1段階から2段階以下のレベルの人であったと思われます。神我一体のレベルというのは、人間が第5段階のイニシエーションを受けた時に始めて達成されるのでありまして、この時人間は覚者となります。これを大師とも云いますし如来とも云います。
では何故白光の人達の中に、昭和天皇が神我一体の人であると信じている人達がいるかなのですが、それは五井先生のメタファー的な教えを解することが出来なかったからでありましょう。最もこれは無理はないといえば無理はないことなのですが。






 五井先生は天皇について「宇宙神の地上界における代理者である」と定義されております。そして現在宇宙神の地上界における代理者とはキリストのことなのであります。
五井先生はキリストについてイエス一人のことを指すのではなくて、真理のことを指すのであり、人間が神我一体になった時、その人はキリストになるのであると教えてくださっております。これはキリスト意識の観点から観ますと真実でありまして、キリストと如来と又は大師とは同義なのであります。しかし、キリストにはもう一つ意味がありまして、これは秘教の教えにおいては、ハイラーキーの長のことであり、世界大師あるいは世界教師のことを意味しておりまして、それが五井先生の説く真の天皇のことなのであります。
 この理由の為に、五井先生は天皇の本質について述べる時に、必ずキリストの話を一緒になさっておられたのです。五井先生のどのご法話あるいは御著書を持って来ても、天皇について説く時は必ずキリストの話を合わせて説かれております。これは五井先生の御教えをよく勉強されている方にはすぐ分かることであります。
では何故、キリストと天皇の真の姿についてストレートに説かなかったのでしょうか。
 それはおそらく時期的に未だ早すぎたのではないかと云うことと(この聖書講義が書かれたのも昭和44年(1969年)。)、五井先生の天命として真理を易しく説く役目がありまして、何十年も前のあの当時にこのような話をストレートに説いていたら、教えが複雑になり難しくなりすぎますし、かえって信徒の方達が学理に固着してしまい、肝心の行いがおろそかになる危険性があったのではないかと思えるからです。
真理を小出し小出しにするわけではありませんが、やはりその時代時代にあった説き方をしなければならないのではないでしょうか。実際、時期がくればあきらかになることですから、メタファーとして間接的に説いておけばよかったのではないかと思います。
しかし現代においては、もう時期が来ているように想いますので、祈りによる平和運動の立場からも、このような真実の姿を明らかにしてゆくつもりでおります。
さて、聖書講義の中で、
『十字架上のイエスの愛の心と天皇の御心とが全く真理そのものであり、神の大慈悲であることにおいて等しいものといわねばなりません。ただ異なるところは、イエスが天なる父に罪を冒せる人々の赦しをこうたのにくらべ、天皇は、軍部や政治家の過ちを、赦すも赦さぬもなく、自らの責として背負われきったところです。天皇が御自身の意識としては思われてはおられないのですが、そのご行為は天皇御自身が神そのものの立場に立たれていたことになるのであります。その時の天皇の御心は、天地を貫いた神我一体になられた御心なのです。
いいかえますと、イエスには未だ神と我との間隔が幾分なりとあったのですが、天皇には神と我との間隔が全く無かったのであります。それ故天皇は神の名において、誤った軍部や政治家を赦していただく、というイエスのような祈りをなさらず、自らを責め、自らを捨て切り、澄み切った鏡のように自らの真の姿を肉身に写した、神我一体の真の天皇としてそこにおわしたのです。
この真理は普通の方にはなかなかわからぬことでしょうが、なんとなくでもわかっていただくと幸いだと想います。天皇は縦から観た真理(キリスト)であり、イエスは横から観た真理(キリスト)なのでありまして、表と裏ということにもなるでしょう。』
との一文が出てまいりますが、
『天皇は縦から観た真理(キリスト)であり、イエスは横から観た真理(キリスト)なのでありまして、表と裏ということにもなるでしょう』
との一節は何を意味するのでありましょうか。
これは、十字架上のイエスがその時第4段階のイニシエーションを得たことにも関係しておりますし、またイエスとキリストとの関係についても説明しなければ判らないものと想います。
当時イエスは第3段階上のイニシエートとして誕生し、十字架上に磔にされた時に第4段階のイニシエーションを授かりました。そしてその間、イエスはキリスト(真の天皇)によってオーバーシャドウされておりました。つまり、弟子イエスの肉体を通して現れていたのは、実は真の天皇であるキリスト・マイトレーヤだったのです。
聖書講義中にある「天皇は縦から観た真理(キリスト)であり、イエスは横から観た真理(キリスト)なのでありまして」と云われている「縦から観た真理(キリスト)」と云うのは、キリスト(真の天皇)の実体のことでありまして、「横から観た真理(キリスト)」と云うのは、キリスト(真の天皇)に場所として器として提供しているその弟子の肉体のことを指しているのであります。これは当時のイエスが、キリスト・マイトレーヤにオーバーシャドウされていたという事実をメタファーとして説いているのでありまして、それゆえに五井先生はこの「縦と横との真理(キリスト)」を「表と裏ということにもなるでしょう」と云う表現を使って説明しているのであります。
さらにイエスは、十字架に磔にされた時に第4段階のイニシエーションを体得したわけですが、第4段階というのは未だ神我一体の境地ではありませんで、神と我との間に幾分なりともギャップがあるわけであります。それが「父よ、彼らを赦し給え、そのなすところをしらざればなり」と云う、横の真理(キリスト)であるイエスの肉体側からの祈りとなったのであります。しかし、昭和天皇の場合は『いいかえますと、イエスに
は未だ神と我との間隔が幾分なりとあったのですが、天皇には神と我との間隔が全く無かったのであります。それ故天皇は神の名において、誤った軍部や政治家を赦していただく、というイエスのような祈りをなさらず、自らを責め、自らを捨て切り、澄み切った鏡のように自らの真の姿を肉身に写した、神我一体の真の天皇としてそこにおわしたのです。』
と五井先生は教えてくださっておりますが、実際問題としてイエスと昭和天皇の進化の段階は天と地ほどの差があるわけでありまして、このようにしてイエスと比べることは普通ならばおかしいのではないかとも想えます。
それでは何故、進化の段階のまだまだ低く幼い昭和天皇を、イエスと比較したのでしょうか。それは昭和天皇とマッカーサーとが会見したその時、昭和天皇の背後にキリスト・マイトレーヤがおわしたと云う事実があったからではないでしょうか。あの会見の時、昭和天皇の背後にはキリストがおられたのです。キリストの部分的なオーバーシャドウに、昭和天皇は無意識に自らの自由意志で反応をされたのです。結果的にそれが日本を救うことにつながったわけです。
つまり、五井先生がここでメタファーとして説いておきたかったことの一つは、日本に形式としてつづいている天皇制と云うものと、内的に霊的に実在する真の天皇と云うものが、はじめてこの時一つに重なった、一つの働きをしたと云う事実でありまして、この時初めて縦と横と云う二つの真理(キリスト)が、縦横十字の十字架の姿として完成したということだったのです。十字架には完成と云う意味がありますので。
したがって、五井先生がお説きになるように、真の天皇は真理そのものの方であり、平和そのものの方であり、大調和の中心者であるということになるのです。
このような真の天皇制と云うものは、神武天皇以前に世界において実際に行われてきた制度でありまして、太古の世界では日本におられた天皇によって、世界は治められていたのであります。
このような真の世界の姿が神道において、八紘一宇とか万世一系の天皇制等々というように教えつがれて来たのでありまして、その真の天皇制の姿が日本一国において形式としてだけつづいて来たのが、今の日本の天皇家なのであります。
そして今、太古の時代がめぐり来て、新しい時代へと向けた天皇制がいずれ実現してゆくわけであります。
この新しい時代に天皇となるお方を、私は日本の天皇家から出現するとは考えてはおりません。多分一般民衆の中から、現れるのではないかと想いますが、といのは古事記を解読致しますと、そのような予言がなされているからであります。(これについては、「天皇とキリスト(10)」を参照してください)
いずれにしてもそれは、神権政治の中心者のことであり、これから世界において行われていく霊覚者によって治められる政治の中心者のことではないかと考えております。
このような真の天皇の姿を明らかにするのは、非常に重要な意味のあることなのですが、それを五井先生は終戦直後の昭和天皇の姿と、イエス・キリストの十字架上の姿とを巧みに織り交ぜて、あくまでもメタファーとして解き明かしてくださっていたのであります。
本当に五井先生にはただただ頭が下がるばかりでありまして、その偉大さを再認識させられるのであります。
(註………日本の天皇家が伝統として伝えている形式は神智学で教えているところのマヌと云うハイラーキーにおける偉大な大師がつかれるある役職に関係している事でありまして、このマヌという役職においてのみ古神道で教えるところの万世一系という言葉の意味が当てはまります。現在世界に公に現れようとしているキリストはやはりハイラーキーにおける役職の事でありますがしかしこれは世界を浄化したり教化したりする働きの事でありまして万世一系を生み出す働きの事ではありません。従って現在までの日本の天皇家が伝えている伝統と形式はここには当てはまらない事になります。あくまでも誤解のないように簡単に説明を付け加えさせて頂きました。)





西園寺会長の迷妄と伊勢神宮


 それから最後になりますが、西園寺会長が87年の元旦統一会において、「伊勢神宮の神様から、そんなに光をおさめられた方が伊勢に参らなくてもよいと云われた」と信者の人達に話していたことについて一言させていただきます。
これはともすると信者の人達は、これは西園寺会長は五井先生を越えたのではないかと想わせるような発言だったのではないでしょうか。何故かと云いますと、五井先生は伊勢神宮への参拝を大変大事な神事として年に一度必ず行っていたからなのです。確かにこの頃、つまり87年頃からの数年間は、西園寺会長の口からは自ら自身が地上最高の聖者にでもなったかのような発言が特に目立ちました。
これは、西園寺会長が自らの立場を五井先生より上の立場として、巧妙にすりかえようとしていたからに他ならないでしょうが、確かにこのようにすることによって五井先生の御教えを自分の意のままに作り変えてゆくことが可能になってくるのです。しかし、冷静に考えてみてください。西園寺会長はどのように見ましても2から3段階程度のレベルのものでしかありません。それに対して五井先生はコズミック・アバターであ
りまして、第7段階クラスのレベルにあるものであります。どのように逆立ちしても、西園寺会長がその立場を逆転させることは出来ないのです。したがって、その御教えを勝手に変えてゆくのは可笑しなことなのであり本来出来ないことなのです。私はこのような西園寺会長のハッタリとも云える発言を数年の間聞きながら、五井先生の偉大さをあらためてヒシヒシと感じておりました。弱い犬ほどよく吠えるの譬えではありませんが、西園寺会長は自らの偉大さを(本当は偉大でもなんでもないのですが)内外に宣伝するような行為ばかりが目立っておりました。それに比べて五井先生は、その偉大な力をまったく宣伝しようとはなされずに、普通の常人として御自身を現しておられたのです。これは五井先生にまったく我が無いことを現しておりまして、深い空の境地からくる高い悟りの状態を現していたからに他ならないでしょう。
 ある宗教評論家が、五井先生のことを次のように批評しておりました。この評論家は他の様々な新興宗教についてかなり辛辣に批判をしておりましたが、五井先生についてはその評論家の先生曰く、現代の新興宗教の教祖にしては珍しく変なところの無い人であり、まったく常識的な人である。その教えについては、誰でも作ろうと想えばすぐに作れるような教義であると述べておりました。まったく本物の教えとはこのようなものなのであります。まったく普通の人から見ても当たり前の道なのであります。修行の足らない者から見るとまったく味気ない教えに思えることでありましょう。しかし、真理の道というものは案外単純なところにあるのでありまして、要はその教えを理解し実行
することが出来るかどうかにかかっているのであります。
伊勢神宮の件にしましても、五井先生が参拝をされていたのは、神様(宇宙人/宇宙天使)からの要請によるものでありまして、伊勢神宮の働きを妨げている業因縁(カルマ)を祓い浄めにゆかれたのであります。五井先生は教えてくださっております。「伊勢は日本の中心であり、富士山は世界の中心である」と。ですから、伊勢神宮が日本にそして世界にその光を放てなければ、日本にとっても世界にとっても善くないわけでありまして、その為にこそ五井先生は神様の要請により年に一度伊勢神宮の働きを妨げている業想念波動を祓い浄めにいかれたのであります。ですから、五井先生が伊勢に参拝されていたのと、西園寺会長の一件とはまったく意味が違うのであります。
だいたい私は西園寺会長が伊勢の神様から云われたということについて自体を信じてはおりません。当時の西園寺会長はすでにかなり可笑しな言行が目立ち始めておりましたので。
最後に参考までに付け加えさせていただきますが、伊勢の内宮に働いている神様と云うのは天照大神ですが、天照大神と云うのはユダヤ教で云うエホバのことでありまして、聖書では日の老いたる者や天の父として記され、他にも永遠の青年とか世界の天帝とも呼ばれております。そしてこれは秘教で教えるサナート・クマラのことなのです。
サナート・クマラをわかり易く説明すれば、この惑星のロゴスのことでありまして、その惑星ロゴスのエーテル界における表現体のことなのです。もっと簡単に云えば地球の中心の神様のことです。このお方はシャンバラにおられ、この惑星における神々の中心として総指揮を取っておられます。シャンバラはエーテル界に実在しており、それはゴビ砂漠の上空に存在します。ここがこの惑星の霊的センターなのですが、伊勢神宮や富士山はこのシャンバラの物質界における顕現といえるのかもしれませんし、雛型的現われなのかもしれません。
これは日本列島が、この惑星における霊的特殊性の故だと想われますが、実際日本列島というのは世界の五大陸の縮図でありまして、伊勢という地名も言霊学的に解読すると、イスラエルという意味になるのであります。これは、大和民族とユダヤ民族の霊的使命の特殊な関係から考えますと、伊勢という場には重大な秘密というか、秘められた霊的働きがあるのではないかと想えるのであります。





外宮と内宮と世界最高の超能力者


一方、伊勢神宮には内宮だけではありませんで外宮も存在しております。外宮に働かれている神様は、王仁三郎聖師によれば国常立命のことでありまして、国常立命はこの太陽系のロゴスである大国常立命の分身的存在で、やはりこの惑星のロゴスのことなのであります。つまり、内宮に働いている神様も外宮に働いている神様も、この地球のロゴスのことでありまして、この関係を人間の構造に例えますと、サナート・クマラはパーソナリティーである肉体人間、国常立命はその肉体人間に内在している真我である魂として捉えることが出来ます。
ちなみに惑星ロゴスの本体は竜神でありまして、その御自身のお姿を日本列島として顕現したのであり、その為日本列島は竜の形をしているのであります。そしてまた日本列島は地球世界の縮図でありますから、この地球はすべて竜王の物質的な現われなのであります。五井先生はこれを地球霊王と呼ばれておりました。
伊勢神宮については、霊覚者と云わずとも高級な霊能を有している方なら、その霊的磁場の特殊性に気付かれるのではないかと想われますが、その一つの例として海外の有名な霊能者であるベラ・コチェフスカさんの体験を『日月神示外伝(徳間書店)』より付して紹介しておきます。



『ここで一人、ご紹介しておかねばならない外国の女性がいます。
彼女の名は、ベラ・コチェフスカ。「世界一の超能力者」の異名を取る、ブルガリア在住のバイオエネルギー・セラピストです。
四、五年ほど前、フジテレビなど日本のマスコミの招請で二度来日し、テレビ番組に登場したこともあるので、覚えていらっしゃる方もあるかも知れません。
ベラ女史のことは、拙著「封印された日本建国の秘密」の中でも少し触れましたが、初めてその名を聞く読者の為、もう一度その得意なプロフィールをご紹介しましょう。
彼女は平成五年(1993)の時に47歳でしたから、今年(平成9年)は51歳になるはずです。ブルガリア政府公認というお墨付きをもらっている、ベラ女史のバイオエネルギー・セラピストという職業は、中国の「気功」のように、患者の身体に触れずに、掌から「気」を送って治療を行うというものです。やり方は気功ににていますが、本質的にその力は気功とは異なると彼女は言います。
だいいち、その治癒能力がけた違いです。一日に治療を行う患者は、平均60人で、時には100人余りの患者をさばくこともあります。なかには、現代医学から見放された難病の患者も含まれ、脳腫瘍の患者を10日間で治したり、小児麻痺の子供を歩けるようにしたり、といった「奇跡」が続出しているようです。それが良いことか悪いことかと云う評価は別にしても、彼女にはそのような大変に特異な能力がある。という訳で、彼女を頼って訪れる人は大変な数にのぼり、診断予約リストは、すでに1万3千人の名前で埋まっている(4年前の時点で)のだそうです。
ブルガリアのシューメン大学では、医学、生物学、物理学などの各分野の科学者が結集して、ベラ女史の能力を研究する為の学術的なプロジェクト・チームまで組まれているとのことで、また1990年には、旧ソ連科学アカデミーからの招請があり、モスクワを訪れています。
ロシアは昔から超能力研究に熱心に取り組んでいるところですが、厳密なテストを繰り返した後に、同アカデミーが彼女に下した結論は、「ベラと同じ超能力を有する人間は、この地上には存在しない」というものでした。以来、ベラさんには、「世界一の超能力者」という肩書きがつくようになりました。
そのベラ女史が、「自分の前生は日本人で、いつか日本にいくことも判っていた。十年前から伊勢神宮のビジョン(幻視)を見続けており、日本へ行ったら必ず伊勢へ参拝に行く」と言っていたというのです。
それが、日本側スタッフの助力により、平成4年(1992年)に実現したわけです。
何故伊勢なのか、ということは、彼女自身もよく理由は分からないようです。ベラ女史は、日本の古代史や宗教についてまったくといっていいほど知識がありません。にもかかわらず、実に不思議なことに、ベラ女史の発言は、私たち真正なる神道を学んでいる者にとって、驚かされることばかりなのです。
例えば、彼女は、「日本は地球のヘソのようなものであり、宇宙からのエネルギーを一番ストレートに受ける特別な聖地」なのだといっています。そればかりではありません。
イエスも、モーゼも、釈迦も、マホメットも、皆日本に来たことがあり、日本で多くのことを学び悟ったのだそうです。そのうちイエス・キリストは、肉体ではなく霊魂として日本を訪れ、日本の神々から様々な霊的研鑚を積んで帰られたのだそうですが、あとの、世界を代表する大宗教の各教祖たちは、皆日本に肉体を持ったまま、実際に来たことがあるというのです。
世界の聖者たちが皆日本に修行に来たという話は、偽書中の偽書として名高い異端の古文書「竹内文書」の出てくる話とそっくりです。ですが、ベラさんは今述べたように、日本の歴史や宗教、習俗、文化については何も知りません。ましてや「竹内文書」のことなど事前知識には絶対あるはずがない、というのは事実なのです。
自分は何も知らないけれども、神様がそう教えてくれるのです―――淡々と語るベラさんに、日本人スタッフ一行はただ唖然として耳を傾けていたそうです。





――伊勢神宮参拝の時に起きた神秘な感合現象――

「文藝春秋」平成五年三月号に、ジャーナリストの天野龍一氏が、「世界一の超能力者来日日記」と題して、ベラさんが訪日された時の話をまとめておられます。私自身は、申し訳ないことにほとんど民放の娯楽番組は見ないので、ベラさんが出演されたというその番組も全然知らなかったのですが、この記事で、初めて彼女のことを知りました。
「文藝春秋」と言えば、硬派、保守で知られる、日本の出版界を代表する月刊誌の一つです。その「文藝春秋」に、外国の「超能力者」なんぞの記事が載るなんて珍しいな、と最初に私は想いました。超能力による病気治癒に関する話は、私の研究分野からすると興味の対象外なのですが(一般的にはこういう話の方が受けるのでしょうけれど)、ベラさんのリーディングの内容は、とくに日本の古代史や超古代史について触れている部分では、非常に強い興味を覚えながら、我を忘れて読んでしまいました。
私は、「封印された日本建国の秘密」を出版した後に、ベラさんを日本に招請した日本人スタッフの渡邉延朗さんから直接お手紙を頂き、都内でお会いして当時の模様をいろいろと伺いました、確かに、あの記事に書かれたことはすべて嘘偽りのない、真実の話しなのだそうです。また、記事に書かれていないこと、後にいろいろと判ったことなども教えて頂きました。
ベラさんは、日本に行ったら伊勢に参拝したいと最初から場所を特定して言っていたわけでなく、渡邉さんが、「日本に行ったらまずどこへ行きたいか」と尋ねてみたところ、「日本で一番大きなお宮に行きたい」と言うので、それなら伊勢神宮しかないだろう、ということになったのだそうです。
そして希望通り、渡邉さんら日本人クルーは、平成4年(1992年)11月30日、ベラさんを伊勢におつれすることになるわけです。この時の模様は「文藝春秋」に書かれてありますが、少し私からも補足しながら、要点を述べてみましょう。


伊勢神宮はご存知の通り、天皇家の祖神である天照大神(天照皇太神)をまつる内宮と、天照大神の食事をつかさどるとされるミケツ神・豊受大神をまつる外宮の、二宮から成っています。
不思議なことは、一行が外宮正殿に参拝した直後に起こりました。あたかも何か見えない力に引っ張られるかのように、突然、ベラさんが後方の急勾配の階段を駆け登りはじめました。その速さは、同行していた若いスタッフも追いつけないほどであったといいます。
外宮正殿の後方の小高い丘の上には、豊受大神の「荒魂」をまつるとされる多賀宮があります。拙著「真正日本神道」の中で、筆者の家内が、今から15年ほど前に伊勢外宮に参拝した折り、人間に取っての正しい食と真の神道の復活を切望される崇高なる意志を、響きとして霊聴した話を書きましたが、この神秘体験が起こったのは、正殿前ではなく、多賀宮の神前でした。そしてベラさんも、自らの意志に反して正殿後方の多賀宮に駆け上がって行きます。
「神様が私を引っ張っていく」――ベラさんはこう言ったそうです。
ジャーナリストの天野龍一氏は、この時の印象をこう書いています。



「多賀宮の神前に進み出ると、ベラは感極まったように膝を折り、額ずいて祈った。するとにわかに神気というか、霊気というのか、ただならぬ気配が一帯に立ち込めた。僕も思わず手を合わせてしまったが、身体に目に見えない圧力がのしかかってくるようで、頭を上げられない。この時の気配というものを的確に表現する言葉を僕は知らない。それは生れて初めての経験だった。祈りを終えたベラは、顔中を涙で濡らしてい
た」(文藝春秋/前傾号356頁〜357頁)

ベラさんが、多賀宮の神前で何を感じたのか、何かメッセージのようなものを受けたのか、それは判りません。ただ彼女は、祈りを終えた後に、「こんな聖地はない。ここには世界中の人々が祈りにこなければいけない」という意味のことを言ったそうです。
その「聖地」とは、多賀宮のことなのか、伊勢外宮のことなのか、あるいは伊勢全体のことなのかは、定かではありませんが、確かにベラさんはこの地場に強烈な聖なるエネルギーを感じ取ったようです。――(中略)――前出の渡邉氏は、ベラさんを外宮におつれした後、次のような質問をしました。
「あなたが伊勢参拝の時に涙を流した多賀宮は、古くからイスラエルの神がまつられている…・具体的には、エホバがまつられているとも言われていますが、あなたはご存知ですか?」
すると、意外なことに、ベラさんはこう答えたのだそうです。
「もちろん、ヤハウェがまつられています」
豊受大神の正体は、ユダヤ民族の神・ヤハウェ(エホバ)であるとベラさんも言うわけです。
「あなたは、ブルガリアをでる前からすでにそのことは判っていたのですか?」
「伊勢に参拝して、そのことが判りました」
「もしそれが本当なら、世界の宗教は元は一つである、ということですね」
「もちろんそのとおりです」
ベラさんは、世界の宗教が統一される日は必ず来る、その時に中心的な役割を果たすのが日本であるという、大変な予言をしておられるのです。


――ベラさんの日本古代史に関する驚くべきリーディング――
ベラさんが来日中、彼女の身の回りに起こった不可思議なエピソードは、枚挙に暇がないほどあるそうです。
「文藝春秋」前傾号には、こんな話が書かれています。


ある時、スタッフ一行は、日本の古代史に関するベラさんのリーディングを聞いていました。その最中にベラさんが突然、「しまった!言ってはいけないことまでしゃべってしまった」と言い、頭を抱え、自分の頬を平手で打ちはじめました。ベラさんの場合、神様より教えられていろいろと判っていることがあっても、言っていいことと、いってはいけないことがかなり厳格に決まっているらしく、言ってはいけないことに関しては決して言葉に出そうとはしないのです。
この時は、古代のある時期に、ユダヤの「失われた十部族」が日本に渡来したという仮説にまつわる話だったのですが、傍らではビデオカメラがずっと回っており、しっかりとベラさんの話を収録していました。ところがテープを後で再生してみると、彼女が口をすべらせたタブーの部分は、音声だけがきれいに消えていたというのです。
――(中略)――
ベラさんは、日本人に対してこういうメッセージを遺しています。
「これからは世界は混乱の一途をたどるでしょう。しかしそれは、人類がどうしても経験しなくてはならない試練でもある。重要なことは、人類がその試練から何を学ぶかです。
核の洗礼を人類で最初に受けた日本は、混乱の世紀末から次の世紀にかけて、人類が平安を取り戻していく過程で、とても重要な役割を果たすことでしょう。そういう義務があるのです」(文藝春秋/前傾号358頁)』





祈りによる平和運動と日本の天命


それでは話をこの辺でもとに戻すことに致します。
二つ目の「消えてゆく姿で平和の祈りを普及すること」と、三つ目の「世界人類が平和でありますように・の一節を祈り言葉として普及すること」のこの二つの方法が適用される人達というのは、過去世からの五井先生に対するそんなにも深いご縁はないが、五井先生以外の他の霊的教師にご縁のある方達ではないかと思います。
宗教者というのは、皆が皆同じ修行をしてきているのではなくて、それぞれがそれぞれの霊系統に沿った様々な修行をしてきているものなのです。ですから、その過程において様々な霊的指導者の下で修行をなしてきているわけでありまして、そのご縁に結ばれまして、人それぞれ、様々な教えや指導者に引かれていくわけであります。
このような方達は各自それぞれの道においてその活動や修行に励んでいるわけでありますが、それはそのままその活動に励んで頂けばよろしいのです。只、現在は個人と人類が離れてあるものではなく、何人といえども世界平和ということをその人生観の根本に置かなければならない時代なのです。勿論、世界平和の為にあらゆる運動に積極的に活動されておられる方々は沢山おられます。しかし、その様な方達も日本の天命については未だ知らない方が多いのではないでしょうか。日本に重大な天命が架せられている。日本には世界平和の中心国としての特殊な霊的使命があるのだということを少しでも気付いてくださった方々は、この五井先生の提唱されている祈りによる平和運動に協
力してくださるようにお願いしたいのであります。宗教宗派の別による細々とした教えの違いは一先ず置きまして、宗教心(霊的真理を理解できる人達)のあるもの達が自分達の信仰や生活をそのままに、祈りによる平和運動という形で結集することが理想であります。ある意味において、ここであらゆる宗教(霊的グループ)を包含した一大平和運動を確立してゆくことが可能になるわけです。しかし、残念なことに、本来その母体ともいうべき白光は、そのリーダーである西園寺会長が五井先生の御教えを汚しに汚しその働きを妨げておりましてどうにもならない状態なのです。
五井先生が常々説かれておられた大奇跡、神霊の物質化現象は既に実現しておりまして、大救世主マイトレーヤはロンドンに、他の覚者方も世界中のセンターにその位置を定められ、その働きを始めております。大神の大計画は着々と進行しているのです。
本来、宗教者や霊的グループが持っております使命の根本は、世界平和ということと、大救世主の再臨の準備ということの二つにあるのです。いかなる宗教団体や霊的グループにしても、神からの使命つまり天命を本当に戴いているならば、この二つをその教えの根本に据えている場合が多いのでありまして、これは教義や教えとして説いていなくても、その方達の働きが必然的に「世界平和」と「大救世主の再臨」として役立っているのであるはずなのです。






二つの大眼目と日本の天命


祈りによる平和運動にしても、この二つがそれぞれ大眼目でありまして、五井先生はそのお役目として大救世主を迎える為の急先鋒としての働きがありまして、そのための世界平和の祈りであり、祈りによる平和運動なのです。これは大救世主の再臨の準備としては最も土台となさねばならない活動でありまして、これなくして大救世主の再臨が地上に確立されることはありません。何故かといいますと、人類の業想念波動がある一定線以上に浄化されていませんと、例え大救世主がそのお姿を人類の前に大々的に現して、世界に呼び掛けたとしても、対抗する業想念波動がありますので、賛同する人達も勿論あるでしょうが、必ずそれに対抗しようとする勢力が出現するものなのであります。
これは必然でありまして、このような否定的な勢力は、人類の過去世から蓄積されている闇黒業想念波動の浄化に伴い減少していくことになります。五井先生の「祈りによる世界平和運動」は、まさにこの為に生れてきたのでありまして、真実の政治も経済もそして科学等々も業想念波動の中には有り得ません。それは業生(カルマ)を超えた人類の真我(神我)の世界に実在するものであり、そして私たちの真我は大救世主(大神)から分かれた一筋一筋の光としてとらえてもいいのであります。ですから、祈りによる平和運動が進展すればするほど、人類の業生は消滅してゆき、真我の光に基づいた新しい世界が現れてくることになるのであります。
そしてこの祈りによる平和運動は、日本においてこそ活発にならなければならない運動なのであり、それは日本の天命そのものなのであります。ここにおいてこそ、日本の国土、つまり日本列島が持つ特殊な霊的磁場を生かすことが出来るのであり、それによって世界に救世の大光明のエネルギーが充満してゆくことになるのであります。これによって、人類の過去世から蓄積されている業想念波動が急速に消滅して行くことになるのであります。
日本に光明が充満すると、世界は自動的に大光明で包まれることになるのでありまして、これは、そういう霊的原理になっているのであります。神道の神示の中には、「世界から見るから日本が日本ぞ。もう一つ上の世界から見れば世界は日本ぞ神国ざぞ」と示されておりまして、また「一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ」とも示されているのです。実に霊的側面からみますと、日本は世界の親国でありまして根の国なのであります。これを日本の古神道においては、日本を世界の雛型として、そして世界のエナとして、その霊的原理を説いていたのであります。
これについて五井先生のご法話から一寸紹介してみましょう。
『−−−祈りによる平和運動を行じつづけていき、広まっていけば嫌でもおうでも日本に本当の姿が現れる。日本にね。日本に本当の大調和の姿が現れれば、世界中は必ずね、大調和していくとそうなってるわけです。
 日本人なら日本人の一億の人間が、全部調和した心になれば、それはもう凄いいきおいでね、凄い大光明波動になって世界中をつつむわけです。 だから一人でも多く平和の祈りをする人が増えれば、 それだけ日本はよくなるし、世界の戦争は防げるし、世界の天変地異というものは防げるわけなんですね。そういうことになってるわけです。
 天変地異も戦争も、皆、過去世からの業因縁が、波がおおいかぶさってきてそこに現れるわけですね。だから世界中に大災害として、大戦争として現れる前に私どもの『世界平和の祈り』でね、その大光明波動でそれを消してしまおう、そう思ってね一生懸命私達はやっているわけです。
 だから皆さんも。 自分の不幸や災難があっても、あらゆることがあっても、それは皆消えてゆく姿としてドンドンドンドン平和の祈りの中に入れてしまってね、自分が幸せになると同時に日本を幸せにし世界を幸せにするように、そうやって日々生きていくことが大事だと思いますね。−−−』この五井先生の御法話と同じ様な言及を、エドガ−・ケイシ−のリ−ディングにも残されていますが、それなどは日本の天命について実に端的に表現しているものと思います。
ではケイシ−のリ−ディングを次に紹介してみましょう。
【すべての日本人が、地球の豊饒を祈り、神の大愛の精神に戻ったならば、宇宙エネルギ−を地球に呼び込む巨大な念波のパワ−が生まれる。そのため、地球内部にも高密度の宇宙エネルギ−の高速循環が起き、ごく短期間で、日本及び地球は持ち前の素晴らしい活力を生ずることが可能である。】・・・・・・・・・・・・・・・

 
祈りによる世界平和運動が発展し、その使命を完うしてゆく時、日本の天命の光はいかんなく発揮され、人類の業因縁はごく短期間で急速に消滅し始めることでしょう。
その中で人類は、自らの真我の親であるべき、大救世主の真実の姿を理解し、認知し始めることになるでしょう。そして、世界は新しい時代の夜明けを迎えることになり、新しい世界が開かれてゆくことになるのであります。

このような大事な時に、日本の天命を完うする為の母体であるべき白光は、その本来の働きを失っております。まったく西園寺会長は、アンチ・キリストの化身といっても過言ではなく、亡国への先導者です。
ですから、こういう重大なことに気付いた方々は、白光、その他の教えを信仰しているに関わらず、枝葉末節は一先ず後回しにしまして、本来の宗教者や霊的グループが天命として有している「世界平和」と「大救世主の再臨」、そしてこの二つを障りなく成さしめる為にこそある「日本の天命」と。このような根本的な使命においてこそ、つながり合い、理解しあい、そして協力し合ってゆくべき時が来ているのであります。
そしてこの「祈りによる世界平和運動」を盛り上げてゆき、日本国民の運動へと高めあげてゆくべき必要があるのであります。
自分達の生活はそのままでいいのですから、自分達の信ずる祈り言葉に「世界人類が平和でありますように」という一言を付け加えて頂き、後は自分達の信仰している神仏に感謝の祈りを捧げて頂ければいいのであります。
どうか、世界平和の為に、そして日本の天命を完うする為にも、光の十字架を心に背負ってくださる方々が、一人でも多くなることを私は祈っております。





  

       白光の道

                


私の行くのはこの道だ
        
そうはっきりきめたその日から
        
胸の中にほかほかと火がともり
        
頭上の太陽が身近な光になってきた


        

私の歩む道は横広がりの道ではなく
        
青空の中に昇ってゆく道だ
        
黒雲と黒雲の間を縫って
        
私は光の道を昇ってゆく


        
私の道は縦に真っ直ぐの道
        
青空に行きつくと
        
それから横広がりになっている道だ


        
行き交う光の交叉点
        
輝く白雲  紫金の雲
        
天使のコ−ラスは美しい虹となり
        
神々の笑いが光の雨となって
        
私の顔にふりかかる道だ


        
此の道を行く人は
        
不思議とみんな素裸で
        
赤児のやうに微笑んでいる
        
みんな静かな謙譲なそして明るい容貌で
        
水晶のやうな心の持ち主
        
もの云わずして心通ひ
        
一瞬にして久遠の友となる
        
彼らに心の皺はなく
        
そのいのちの声は
        
時空を超えたひびきとなり
        
世界大調和への距離を短縮する


        
私たちの歩む道は無限を一点にする道
        
天と地を一つにつなぐ道
        
完成された調和音を
        
縦横十字にひびかせる道
        
宇宙の真実の姿をうつし出す為の道


        
私は今日も背中に太陽を背負ひ
        
大地に足をつけ
        
体を青空にあづけて
        
私の選んだ道を歩いている

                           

                           五井昌久先生詩集
                           『ひびき』より




《99年12月大掃除の日に記す》



☆ 世界人類が平和でありますように