地 球 人 類 を 救 う 者




               −−−序文に代えて−−−




        地球人類の業想念が

        放射能灰となって

        自らの空や大地を汚しきっている時

        澄み清まった躰をもつ

        聖なる人たちが私たちの身辺に近づいてきた

        その人たちは宇宙をそのまま住として

        星々のように輝き渡っている存在者

        神の御心そのままを

        自己の生活に現している人類

        キリスト、仏陀と全く等しい光明体だ

        その人々には一切の敵はなく

        悲嘆も憤怒も恐怖も不安も

        そうしたあらゆる業想念はさらさらない


         平和を望みながら自ら世界を乱している地球人類よ

         敵を見る思想の中には平和は来ず

         武力に頼っている卑弱な信仰心では

         神の御心に融合することはできない


        宇宙人の声はそう私たちに伝えてくる

        私たちはその真理を知っている

        私たちのすべての生活は

        世界平和の祈り心から生まれてくるもの

        すべての人類が神の子であることを

        身をもって現そうとしているものだ

        宇宙平和の中心者

        大天使宇宙人は

        今私たちの身近にいる

        世界平和の祈りのひびきに交流して

        地球人類救済のため

        その慈愛のみ光りを

        あらゆる地域に放射しはじめているのだ


        私たちは祈る

        世界平和を祈る

        地球人類が宇宙の聖なる使命を果たすための

        清らかな躰に生まれ変わるようにと

        私たちの世界平和の祈り言は

        今日から明日へ

        明日から明後日へ

        益々ひろがりつづけてゆくのである

                          五井昌久詩集/ い の り






           現 代 と 奇 跡

                         五 井  昌 久





事実を見つめて

地球人類は今日まで、様々の大災害によっていくたびか全員滅亡寸前にまで立ち至ったことは、種々の古書に著されているところでありますが、今日はまた、地球人類だけの智恵才覚では到底滅亡を防ぎ得ない最大の窮地に追い込まれているのであります。
この事実は、真剣に人類の運命を考えている程の人なら誰しも肯定しえる事実なのですが、さてこの危機をどうしたら乗り超え得るかという問題になりますと、いずれ甲乙しがたい観念論、理想論になってしまっていて、実際問題としては、どこからどう手をつけてよいか、皆目見当のつかぬような状態になってしまっているようであります。
ある人は政治の貧困を嘆き、ある人は宗教の無力に慨歎し、またある人は実際的には、ソ連首脳部が先ず実行しなければでき得ぬ理想論的平和策を述べたてていたりしています。現今の政治や宗教の無力、無策を嘆くのも悪口するのも結構ですが、自分自身に何らの実行方法がなくして嘆いたり悪口したりしているのは、犬の遠吠えのようなもので実際には世間の人々の心を陰鬱にするだけで、なんらの光明化にもならぬと私は思うのです。
 また自身には自身の理論として立派なものがあるとしても、その人自身やその人の周囲の人々の力では、いかようにも成しがたい理想論をふりまわして、この理想論どうりにソ連や米国がやりさえすれば世界は平和になるのだ式でも困ると思うのです。
何故かと申しますと、理想論はきっと立派な方法に違いないと思いますが、その理想論を実行するのは、自分自身や、自分の国家ではなくして、他国や他国の首脳部であったりするのでは、とてもその理想論は実行されそうもないからであります。
例えて申しますならば、核兵器の国連管理問題のようなこと、あるいはその手前の核兵器実験禁止問題にしても、小国がいくら騒いでみたところで、米国とソ連という二大強国の自国防衛の立場にその問題が利益しない場合は、とてもその提案を受け入れる筈はありません。肉体人間というものは、常に深い洞察力とか、永刧につながる考え方よりも、その場、その場の自己防衛や自己利益で動きやすいものであって、これは国家としても同じことなのです。ですから米国首脳者の立場に立ってみると、真実の深い宗教心になっていない限りは、ソ連が世界制覇の野望を持っていると見ているだけに、ソ連のやり方の一つ一つに対して大きな疑念を抱き、その申出や行動の裏を裏をと考えざるを得なくなるのです。そして、如何なることであっても、ソ連の下風については、米国の国威が損なわれ、世界の信頼を失うに至る、と考えているのであります。
そうした考え方が、ソ連から申し出ても、すぐには核兵器の実験を止めるわけにもゆかぬ原因となるわけで、ソ連と米国の業想念、つまり、ソ連の欲望、米国の恐怖心を取り除かぬ限りは、地球人類の平和は永刧に来ないという結論になるわけです。
ソ連と米国に欲望と恐怖心という業想念、それに現在のような対抗意識がある以上は、各国が如何なる名案を提出しても、それはその時々に幾分の明るさを示すだけで、根本的な世界平和とは、その軌道が違っているのです。 
 人類が今日までのような肉体人間として生きている限りは、永劫に平和は来ないと私は明言できるのであります。
その理由は、個人は個人で他との相対意識で生きていて、個人個人の欲望を離れることはできないし、国家は国家で、各国家間の自己防衛の考えから離れることは出来ないからです。



肉体人間では駄目なのだ

今日の肉体人間が、どのように口で立派なことをいいましょうとも、自己の利得よりも他の利得に対して、心の底から喜びの声を挙げえる人が幾人あることでしょうか。
国家間も同じことであろうと思います。私は常にこの事実を真剣に考えていたのです。
そして結論として、私を含めて、全人類の大半の人々が、自己本位にしか生きられないのだ、罪悪深重の凡夫なのだ、という考えに落ちついて、肉体人間として人類が生存する限りは、個人も世界も救われることはないのだ、ということがわかったのであります。
ここのところが、個人としても人類としても一番大切な考えどころだと思うのです。
ここのところを真剣に割り切らないと、いつまでもその人は、宙ぶらりんで生きてゆかねばならぬのです。肉体としての人間、つまり肉体人間には、なんの力もないものだ、ということを、はっきり認識し得ないと、折角宗教の道に入っても、また自己の脳裏の業想念の智恵や知識を、あたかも神からきた智恵の如く考え違いして、その智恵や知識を振り回して、宗教以前の世界、三界(無色界・色界・欲界)に舞い戻って、その三界のぐるぐる廻りを、真実の智恵の世界と思いこんでしまったりするものなのであります。
同じような言葉であっても、同じような行動であっても、その人が神仏の世界から言葉を発し、神仏のみ光の行動をしているか、業想念の世界、三界の言葉や行動でことをなしているかは、自ずからはっきりとわかるものなのです。
その見分けは、やっぱり、自己の肉体想念のすべてを一度否定したところ、肉体人間は駄目なのだ、罪悪深重の凡夫なのだ、と捨て去った、いわゆる空になったところからはじまらぬとわかり兼ねるのであります。ですから案外に知識の皆目ない田舎のお婆さんなどが、素直に神様にすべてを投げ出して、大智恵の行動をしたりする場合があるのです。これはそのお婆さんが、自己の想念を神様にすべてお返したことによって得られた智恵なのであります。この世においてあまりに知識をつめこんだ人は、かえってその知識才覚が多いだけにその知識才覚(肉体想念)を捨てかね、いわゆる馬鹿になりかねて真実の智恵の湧き上がりを抑えてしまうものなのですが、そうした人が一度馬鹿になりきって、神にすべてを投げ出した時こそ、パウロ(キリストの使徒)の如き大知恵者となりえるのだと思います。これは個人だけではなく国家にも当てはまることであって、ソ連や中共や米国がそのようにすれば、世界はたちまち大平和の道に突き進んでゆくのであります。しかしこれは、先程から申し上げている理想論であって、私自身や日本国自体がやるのではないのですから、いうだけにとどめて置くより仕方がありますまい。



宗教と奇跡

さてここで、本題の現代と奇跡ということに話をすすめてゆくことになります。
宗教者が奇跡を説きますと、必ずといってよい程、学者や知識階級と目されるある種の人々が、その奇跡を説く人を笑いものにしようとするのであります。そしてその尾にふれて唯物論的なものの考えよりできない人々が、その宗教や、その奇蹟的事実を迷信者のたわごとのごとくいいふらすのが通例のようであります。宗教信仰や心霊治療で難病が治まることなどは、私たちの間では、さして奇跡的なことでもないのですが、こうした事実も、現今の学者や知識者と称される人々の大半は馬鹿にしたような口調で否定しきってしまうのであります。
 しかし近頃は二、三の医博やその他若干の医学者たちが、先頭に立って宗教信仰や心霊治療による難病平瘉の事実を、はっきりと宣明しておられるのは、実に結構なことだと思っております。既成宗教特に仏教が一般大衆にとって魅力をすっかり失ってしまっているのは、そうした宗教家たちが、観念論的や学問的に仏教を説いているだけで、祖師たちが現した奇跡の面をすっかり抹殺しさっているからなのであります。
 宗教には奇跡が必ずともなうもので、宗教信仰によって奇跡が生まれぬようならば、その宗教信仰は本物ではないのです。真実の宗教人とは、平常心是道であり、花は紅、柳は緑、眼は横に鼻は縦に、というあたりまえの生活の中にいて、あたりまえの行動をしていながら、常に普通人から見たら奇蹟的な成果を得ている人なのであります。
 私が常に申しているように、常識をはずさず、超常識の生き方ができるようになるのであります。現代ではもはや、単なる常識的な生き方では地球世界を死滅の道に追いやるだけなのです。普通なら常識とは、他人より自己をかばい、他家よりも自家の利益を考え、他国の利より自国の利を考える、という考え方や行動であり、病気になれば医学にだけに頼り、常に自己の身体や生活を、あれやこれやと心配して生き、人間は肉体だけに生きているもので、他界などは有るか無いかわからないと死の間際まではあの世のことを考えず、人間の世界は肉体の人間だけによって動いているものであるとし肉体人間の周囲には常に眼に見えぬ霊魂達が、あるいは守護し、あるいは迷って負担になっているものである等ということは考えたりしない認識の仕方をいうのでありますがさてこんな常識で、果たしてこの世が救われるでありましょうか、絶対に救われっこはないのです。また既成の宗教のように、釈尊やイエスやその他の祖師たちの教えを、奇跡というものを度外視して説いていて、果たして人類が救えるでありましょうか。
 善い教えを聞けば、成るほどその時は気持ちよく、涙の出るほどあり難くなったりすることもあるでありましょう。また経文を読み、賛美歌を歌ったりすれば、確かに一瞬は心が俗界を離れ、読まぬよりは、歌わぬよりは善いことであろうと思います。



大奇跡を生まぬ以上は

しかし、それによって、真実の救われに入れる人が全人類のどれ程あるでありましょうか。この地球人類を取り巻いている業想念は、そのような力弱い善事では到底どうにもならぬ程強力な波をもって、人類を破滅の淵に追い込もうとしているのです。それは、国と国とがお互いの利得の為の政治をやっている現状から考えて、積まれに積まれてしまった業想念(妄念)をはっきりみつめれば直ちに判明することなのであります。
 どのように上等な説法も、どのように自己を慰める芸術も、そこに超常識的大奇跡をうまぬ以上は、地球人類の破滅を防ぐことはできないのです。説法も結構、芸術も勿論結講ですが、まず一番根本の問題は、地球人類の破滅を防ぐ、という一事でなければなりません。そう申しますと、浅薄な人々は、各国に核兵器さえ使用させぬようにすれば、まず人類の破滅はまぬかれる、というように考えたりするのですが、事実はそんな生易しいものではないのです。核兵器を使わなくとも、ソ連のように平和攻勢という手もあるのです。日本がソ連の膝下に組敷かれた時、日本人は全く自由を奪われた国民となることを、ハンガリアの経験に照らしてよくよく考えてみなければなりません。
この平和攻勢の後は、また再び大国間における強力なる兵器争いとなるのは必定なのであります。
 物事を一事逃れ的に考えるくせを日本人はもっていますが、一事逃れ的のものの考えは遂にはその人や、その国を必ず破滅させてしまいます。今こそ、永劫につづく日本の平和、世界の平和を真剣に考えなければなりません。そこで私は、今日までの常識では駄目なのだ、と声高々と叫んでいるのです。常識的な外的生活の中にいて、すべてが超常識にならねばならぬ、今こそ、大奇跡をこの地球世界にもたらさなければならぬ、と私は近頃は特に強調しているのであります。大奇跡がなければこの地球世界は救われないのだ、ということが今日程切実に思われる時はないのです。それは病気が治った、貧乏が立ち直った等という小さな奇跡ではなくして、今日迄の常識的世界観が、底の底からひっくりかえってしまうような超常識、大奇跡の出現でなければならぬのです。



破滅か地上天国の出現か

地球世界は今や、破滅か地上天国の創設かの二つに一つの時代になってきているのであります。このことをはっきりと認めないといけないのです。神示はいかなる霊覚者にでも、地上天国の出来ることを知らせてくれています。しかし、その地上天国のできるまでには、地球人類の大半の死滅を予言しているものが、かなり多いのであります。
 私も地上天国の出来上がることを確く信じております。だが、その前に起こる甚大なる損失を肯定するものではないのです。自分たちだけが救われることで満足ならば、私たちや私たちの周囲の者は救われるにきまっております。何故ならば、私たちは、如何なる不幸も災難も過去世の因縁の消えてゆく姿であり、その業因縁の消え去った時、真実の自己、神の子の真性が自己に現れるのだ、という真理を知っておりますし、常に守護の神霊が身近で守っていて下さることを、いずれも体験として知っております。
 ですから、何事が起こっても、一般の人々のように、あわてふためいて、泣いたり騒いだりは致しません。ただ一心に守護の神霊のみ名を呼び、世界平和の祈りの中に運命を託してしまうでしょう。もしこうした想念で死んだ場合には、必ずよりよい他界に誕生することを私たちはもう数多くの人の体験で知っておるのです。そう致しますと、私達はこの世を去っても、この世にとどまっても、どちらでもよいのであります。その心境には幾分の相違はありましょうが、とに角、阿鼻叫喚の巷にさまよう心境の者はいないのです。それはたゆみなき世界平和の祈りの効果であります。このことは、私達の問題でありまして、人類全体の心境ではないのです。ですから私は、もしやの場合に、人類の一人でも多くの人が、苦悶の果てに死ぬようなことのないようにと、心の底から願っているのであります。この地球人類の犠牲者を一人でも少なくしたい。私の願いは、この一点にかかっているといっても過言ではないのです。



大奇跡は出現する

そのためには、一日も早く私の願っている大奇跡がこの世において起こってくれることが大事なのであります。その大奇跡とは何か、それは、度々申しておりますように、宇宙人の出現による超越力との協力であり、神霊の肉体化、つまり神霊がそのままの姿を肉体界に現して、超現実力を現して下さることの二点にあるのであります。これは二つのことであって、実は一つのことであるかも知れないのです。
 いいかえれば、業想念で固まっている大国たちの力以上の力の出現であります。現在の地球世界には米ソを抑える力が出現しない以上は、米ソの業想念が遂には正面衝突して、各国の業想念ともぶつかり合って、世界は取り返しのつかぬ事態に突入してしまうに違いありません。
その超越力を私は願っているのであります。私が願ったというより、宇宙の星の人々が地球世界の無軌道ぶりを見るに見かねて、少しでも平和の地が地球世界にできれば、我々がそこに降りてその地を根拠地として、その地の人と協力して超大力を振るおうと、私達の世界平和の祈りに感応して、あちらから通信してきたのであります。
 超大力といっても地球世界のように武力ではありません。如何なる武力をも抑ええる科学力であります。その科学を私達と協力して発揮して地球世界の平和達成に協力しようと申し出てこられたのであります。 地球世界には今までは真実の平和の地がどこにもなかったのでしたが、私達が神事による世界平和の祈りをはじめたことにより、次第に私達の周囲の雰囲気が浄まり、平和な気が満ちみちてきたのであります。私達は他のどのような行事をしているわけでもありません。
 各自が各自の職業や仕事にたずさわりながら、根底の心として世界平和の祈りを行事つづけているだけなのであります。

゛世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈るたのしさ〃

という短歌の心を心として、同志たちは和やかな自由な気持ちで、世界平和の祈りをしているのです。中心者の私は、空即実相の姿で、印を結び、柏手を打って、ひたすら個々人の浄めと地球世界の業因縁の消滅の行をやっているのであります。
大神様の御心は、大愛であることを皆さんは常に憶っていてください。そしてその大愛の御心は各守護神として、皆さんの運命を守り、国家民族の運命を切り開く大いなる力となっていることを知っていて下さい。 
 大神様は厳然として存在されます。また守護神は、様々のみ姿で慈愛の眼ざしを人類にむけておられます。そしてあなた方の祖先の悟った方々は、あなたの最も身近なところで、守護霊として必ず護っておられるのです。
この事実は、多くの人々が確認しておられる事実なのですから、あなた方は自己の運命に臆せず世界平和の祈りを唱えつづけて、堂々と生活していってください。



あなたの祈りが地球人類を救う原動力

迷信といって嗤う人がいたら嗤わしておきなさい。その人たちも必ず近いうちに、守護の神霊の存在を認めざるを得なくなります。時期は近づいているのです。この時期をより近くし、人類の損失を少なくするために、あなた方の世界平和の祈りの応援をお願いします。自己の運命の改善と同時に、人類の運命を開いて、遂には地上天国を完遂させる祈りである、世界平和の祈りをこそ、今日の日本人が気を揃えてやらねばならぬと思うのです。
 世界人類が滅びて、なんで個々人の運命がありましょうか。個人の生活は世界人類という、大きな輪の一環であるのです。個人個人の生活の動き、想念の波は、直ちに世界人類の運命に関係し、世界人類の動き、国家の動きは、個人の運命をどのようにでも変化せしめ得るのです。今こそ、今日までの常識を超えて、しかも常識を外れず超常識の生活に生きなければならぬ時代になってきているのです。この世が破滅の一歩手前にきているということは、過去世からの業想念の波が、すべて表面に浮かび上がってきているからで、この業想念が自然運行の法則どうりに動きつづけていったら、全人類滅亡という悲惨事になってしまうのですが、そうしたことは大神様の大愛が各守護神のみ働きとして、救世の大光明として、地上界に働きかけ、最少限度にとどめ得るようになっているのです。そのみ働きが、今こそ全面的にこの地球界に働きかけてきているのであります。そのみ働きが、今こそ前面的にこの地球界に働きかけてきているのであります。そのみ働きが、今こそ全面的にこの地球界に働きかけてきているのであります。
 そのみ働きが私には世界平和の祈りの運動をなさしめ、救世の大光明を、この世の人の五感に感ぜしめるような形において働き得さしめようとしているのであります。
物質はすべて振動数の粗い波動であります。 そして五感にふれぬ幽質、霊質は遂次振動数の微妙になっている波動でありますが、振動数が微妙になるにつれて、その光の度合いが強くなってゆき、遂には大光明といわれる、大知恵、大愛の働きとなるのであります。常識の頭脳では、この粗い物質的波動をのみ、実在として認識していたのでありますが、科学の進歩は、今や電子学から波動学にまで突き進んで、常識の幅を急速に拡大したのでありますが、一般の人々は未だに依然として、物質が固定した実在であるという観念を忘れ得ずにいて、しかも科学性科学性と科学性に頼っているのであります。
 これは実におかしなことであります。一般大衆の認識範囲より、自然科学の方向は数等倍先に進んでいるのでありますのに、一般大衆は科学性に信頼しながら、実は今の科学をはるかに遅れた認識の世界に生活しているのです。 それを私達は内面の祈りの世界から、大光明波動である神の実在を、一般大衆の認識の世界に顕現せしめ得ようというのです。
 この大奇跡は必ず今に実現するのです。その時こそ、地上天国への第一歩なのであります。それを実現せしめ得る原動力こそ、世界平和の祈りなのであります。このことを改めてはっきり認識して下さることを皆さんにお願い致します。


                                                          五井昌久著『人類の未来』




         ☆世界人類が平和でありますように