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この霊覚のひかりシリーズでは、いままでに数多くの霊覚者が残された尊い御教えを紹介してまいります。
大望、大望、と御神諭にある 艮(ウシトラ)の金神様、三千年あまりての御経綸の幕も切って落とさるる時期は次第に近づきつつあるのであるが、この大神業は人間の想像の範囲を脱した目覚しいものだと考えらるる。
「中略」
王仁(わたし)はかつて、わずか金五十銭をもって金竜殿建築に着手したのであるが、周山の山奥でふと得たヒントは、わたしをして弥勒殿、黄金閣と、次へ次への建築を成就さす動機となった。
王仁が山の辺に立って一服していると、木こりたちが杉の丸太を切り出して筏とすべく、下へ下へと流している。流すといってもチョロチョロとした細い渓流で、太い箸を流すにやっとくらいの水量である。どうして太い丸木を流す力などあるものでない。
そこで見ていると、木こりたちはその渓流に一つの堰を造った。だんだんと水がたまって杉丸太を浮かべるによい量となると、やがて材木を転がしこむ。そして一度に水を切って落とすと、ほとばしる水勢によって丸太は勢いよく流れ出す。かくて一本二本と流し、かなりの数に達したとき、また第二の堰を切って落とす。
かくの如きものを度重ねて、ついに本流にと流しだし、そこで筏に組んで、ゆうゆうたる大河へと運び出す。
箸を流すにも足らぬチョロチョロ流れも、溜めておいて、切って落とすときは、優に大きな材木を流し出す力となる。
これだ、王仁はこうしたことに教えられて、かのかなり大きな建造も、また他の多くの仕事も易々とやってきた。だが、そうした仕事は、ウシトラの金神国常立尊様の御経綸に比較すると、じつに千万牛の一毛にも値もせぬことである。
一度あって二度ない仕組と、たびたび神愉に出ているが、たとえば三千年かかって溜めた大きな湖水のようなもので、いよいよ切っておとさるるということになると、その勢いの猛烈さは想像のほかにあるではないか。
しかも一度切って落とされたら最後、溜めるのにまた三千年かからねばならぬわけである。
だから一度あって二度ない仕組と申さるるので、この水溜りたるや、ちょっとも漏らされぬ仕組、すなわち水も漏らさぬ仕組なのである。
三千年というても実数の三千年ではない。何十万年という遠き神代の昔からの経綸であるということは、たびたび神愉や霊界物語によって示されている通りである。
大本の神業は日に月に進展して、いまや全世界にその福音が宣べ伝えられつつあって、その偉大なる仕事は世人の注目の焦点となっている。だが、それも御仕組のほんの一部にしか過ぎないので、ここに水溜りがあるということを知らすための、ほんの漏らし水である。
神様の御仕事の広大無辺なることは人間にわかるものではないのであるから、かれこれ理屈を言わずに神様にしたがって信仰を励むが一等である。(後略)。(昭和七年八月・玉鏡)
神様は、人間を神に似せて造りたもうた。
しかるに国祖御隠退以後の世界は、八頭八尾の大蛇や金狐の悪霊、六面八臂の邪鬼のすさびに犯されて、だんだんと神様と離れて、悪魔に近い人間になってしまった。人道日に廃れ、世のため人のため、国のためなど考えるものはなく、ひたすら私利私欲にのみ耽る世の中になってしまった。
このままで進んでいったならば、世界も人類も滅亡するよりほかはない。これはどうしても、ここに一大転換が来て、全人類が廻れ右を断固として行わなければならないことになるのである。
悪魔を離れて、神様にむかわなければならない時がくる。かかる転換の期にあたって、人類は、かなり重大なる苦しみ、悩みの上に立たされることは、必然である。
日常、神を信じ、神にしたがう大本の信者の上にも同じ悩みは落ち来るのである。
大本信者のみが、独りこの苦しみを逃れて特別の場面におかるるような虫のいい考えをしていたものも往々にして昔はあったが、そういうわけにはゆかぬ。
ただ、真の信仰にあるものは、かかる際、神様におすがりすることの出来る強みをもっている。そして常に教えられつつあったことによって、先がいかになりゆくかの見当をつけることが出来る。
この二つの信念のため、ただ自己をのみ信ずる無神無霊魂者より、はるかに容易くこの艱難を切りぬけることができるのである。
人間の力をのみ頼みて生活しつつある人々が、人力をもっていかんともすることのできない事実に遭遇するとき、その悩みは名状すべからざるものがあろう。
人間は造られたるものである。造り主たる神様の御意志にしたがって行動してさえおれば、間違いないのである。
来らんとする大峠に際し、信仰なき人々をそぞろに気の毒に思う。(昭和七年六月・玉鏡)