祈りによる世界平和運動/プロジェクトX(1)

     



某雑誌より転載
「人類はこれまで、さまざまなものを発見、発明してきた。だが、世紀の発見、発明に携わったという名誉に浴した日本人はほんの一握りである。ところが、これまでは欧米各国の人間が最初に関わっていたと思われていたものが、実は最初に発見、発明していたのは日本人だったという事実が、次第に明らかになりつつある。では、地球規模で文明を飛躍的に進歩させたといわれる、そうした偉大な発見、発明は、いったいどのようにして日本人の手からすり抜けていったのだろうか。そこには悲喜こもごものドラマがあった。われわれが今まで知らなかったそれらの出来事は、歴史の片隅に追いやられ、ひっそりと掘り起こされる日を、静かに待っていたのである………。」




二宮 忠八―――「ライト兄弟よりも早い飛行機の開発」



凧作りで目覚めた忠八の才能

その青年は、いつも元気一杯野山を駆け回っていた。手には写生帳と鉛筆を持ち、ひたすら鳥や昆虫を追い掛け回していた。
周囲の大人達は「いい年をして……」とあきれ、子供達はからかい半分に囃し立てた。
「やーい、忠八さん!今日は何を追っかけてるんだよう!」
「おうさ、今日は玉虫の飛び方を調べようと思ってさ!」
気色満面の青年は、そう答えたそばからまた走り出し、ちっぽけな昆虫が飛翔するさまを食い入るように見つめていた。
二宮忠八、23歳―――。
後に世界で始めて、なんとライト兄弟よりも早く飛行機の設計図を完成させた男。が、この時、彼はまだ変わり者の青年としか思われていなかった。
  この時期、彼が野山を駆け回って研究した鳥や昆虫の水平飛行の詳細な写生図は、何と100種を超える。忠八の汲めども尽きぬ情熱――いつの日か大空を飛びたいという願いは、周囲の好奇の目など意に介していなかった。気に留めたこともなかった。研究に夢中になっているとき、忠八の思いは地上を離れ、広々とした大空を駆け巡っていたのである。
  二宮忠八は1866年(慶応2年)、愛媛県八幡浜の裕福な海産物問屋に生まれた。しかし、彼が小学校を卒業する頃には家業が傾き、忠八も幼いながらに働いて家を助けねばならなかった。
  いくつかの仕事を経験した後、忠八は最初の天職に巡りあう。それは凧作りであった。忠八が独自に考案した凧は、普通の凧とは比べ物にならないほど良くあがり、近隣の人々の評判となった。忠八の名前を取って「忠八凧」と命名されたその凧は、まさに飛ぶように売れたという。




30メートルも飛んだ試作機第1号!!


やがて忠八は丸亀の陸軍歩兵連隊に看護卒として入隊する。連隊の野外演習で野山を歩き回るうちに、好奇心旺盛なこの青年は鳥が大空を舞う姿に心を奪われる。
  忠八が特に魅了されたのは、鳥が翼を広げたまま滑るように舞い降りてくるときの美しい姿であった。なぜ鳥達は羽ばたくこともなく、滑らかに飛ぶことができるのだろうか?
  滑空する鳥たちの翼の角度に注目した忠八は、この秘密を解き明かせば、自分にも空飛ぶ機械を作れるのではと興奮した。
  夢はどんどん膨らんだ。忠八は、来る日も来る日も鳥や昆虫を追い掛け回し、飛行機械の設計図作りに没頭するようになる。
そしてそれはついに完成した。
  1891年(明治24年)4月29日、「カラス型飛行器」と命名された日本発の動力模型飛行機が誕生したのである。
夕闇の迫る丸亀連兵場の広場において、日本発の飛行実験が行なわれた。ゴム動力の「カラス型飛行器」は、忠八がおそるおそる見守る中、静かに滑走を始めた。
やがて――。模型はふわりと地上を離れた。そして大空に舞いあがった。忠八が夢見た飛行機の試作機、第1号は、力強く飛翔を始めたのである。
  この瞬間、忠八は涙を流さんばかりに飛びあがって喜んだ。
後に彼は「この時の愉快を忘れることあたわず、いまなお眼底に彷徨せり」と、その感激を語っている。
  この飛行実験において、忠八の試作機第1号は、30メートル以上の飛行距離を達成するという快挙を成し遂げたのである。
  



先見の明がなかった軍の幹部たち

  試作機の成功に気を良くした忠八は、いよいよ人を乗せて飛ぶ本格的な飛行機の製作に着手する。
研究はトントン拍子に進み、設計図も完成、2メートル大の模型も作り上げた。すべてが順調に進み、世界初の飛行機が大空を舞う日はもうすぐかと思われた。  が、その矢先、忠八に思わぬ挫折が訪れる。
  飛行機研究の重要性を説いた彼の上申書は、軍の幹部たちによって「そのような夢物語、研究することあたわず」と、否定されてしまったのである。
忠八は途方にくれた。
  模型を作るぐらいまでは個人の力量でもできる。が、本格的な飛行機を製作しようとすれば、潤沢な資金と多数の技術者が必要となる。どう考えても軍の協力は必要不可欠だ。
  やがて軍隊にも航空機時代が到来するであろうことを何度も上申したが、忠八は冷たくあしらわれた。まだ自動車さえ一般化されていないこの時代、飛行機など夢のまた夢、忠八は奇人変人扱いされてしまったのである。
  失意のうちに彼は軍を辞めた。民間企業に就職した忠八は、それでも飛行機への夢をたちがたく、研究資金をコツコツと貯めていた。設計図は完成している。資金さえあれば、いつか大空を舞う飛行機を完成させることができる―――。
  そんなある日、彼はある新聞の記事に目を丸くした。その記事は「米国ライト兄
弟、世界初の飛行機実験に成功せり!」とあった。
  忠八は震える手で新聞を読み終えると、思わず両手で顔を覆った。
「先を越された――」その悔しさで胸が一杯だった。忠八が飛行機の設計図を完成してから、すでに15年が経過していた。
  この日以降、忠八は飛行機研究のすべてをあきらめてしまった。
が、もしもあの時、軍部の上官に先見の明が少しでもあったなら、世界初の飛行機完成の栄誉は、日本人に与えられたかも知れない。
  1921年、陸軍中将長岡外史は二宮忠八に向けて長い謝罪の手紙を書き送る。それは、忠八の上申書を却下した当時の陸軍の不明ぶりを詫びた手紙であった。
  忠八が飛行機製作の意見を上申してから、すでに30年の歳月が流れていた。



五井昌久先生著「非常識常識超常識」より抜粋―――――――――――――――――



現在の常識だけを至上のものとしていますと、人類の進化は現在以上には進まなくなり、やがて人類は滅亡してしまいます。すべて進化の止まったものは、過去のものとなり、滅びの世界に近づいていってしまうものですから。
常識を広げ高めてゆく道を、私は超常識の道と呼んでおります。そして常識を破壊し、人心を傷つけ損ない、人類の進化を後退させるような在り方を非常識と私はいっております。そこで私は地球の未来を輝かせるため、超常識世界の開発に全力をそそいでいるのです。


☆世界平和の祈り

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます

☆この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明 が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化大調和に絶大なる力を発揮するのです。

【五井昌久先生の紹介】
大正五年東京に生まれる。昭和二十四年神我一体を経験し覚者となる。
祈りによる世界平和運動を提唱して、国内国外に共鳴者多数。昭和四十四年、ブラジルの権威ある団体より、宗教と哲学の探究者、世界平和の為に努力し、熱烈なる運動を展開する人道的思想家としてコメンダドールの称号と勲章を受ける。昭和五十五年八月帰神される。

 

☆世界人類が平和でありますように