祈りによる平和運動/ 真 の 宗 教 心 (1)




            自 然 と 人 間 生 活


                          五 井 昌 久


                    −−−序文に代えて−−−


        山を切り開いたここは高台

        右手に箱根の山々を眺め

        前方に太平洋の雄大さを見る

        時折り大きな白竜を想わせる新幹線が走ると

        山と海とに囲まれた

        色とりどりの屋根の下の住人の生活が童話めく


        自然の美と人間文化がつくった美と

        二つの調和がここにはあるのだが

        テレビでは日航機乗っ取り事件が

        朝からひきつづき報じられている


      −−−人間の幸せがどうして闘争から得られるものか

         そんな歴史が何度びとなく証明してきた革命ごっこに

         あたら若いエネルギ−を失ってゆく

         若者は大自然の心を知らない

         自然が人間に与えている無償の愛をしらない

         ゆがんだヒロイズム

         目かくしされた正義感

         そんな小さな心で人間世界を動かそうとしてはいけない

         山々が自己の膚をけずり取らして

         人間生活を拡大させているように

         自分を滅した時に

         はじめて偉大な正義がそこに生まれる

         自己顕示欲をひとまず捨てて

         大自然の運行に素直になった時

         その人の力は大きく現れる−−−



        山々も海も夕闇に融け

        新幹線が白竜の目玉を光らせはじめる

        家々にももう団欒の灯がともり

        ここには平和がつづく

        だが 赤軍派を小さな現れとして

        次々と日本革命に向かって進む

        幾つかの団体が

        テレビ報道の陰に見えている









           真 の 宗 教 心

                       五 井 昌 久



−−『誤った宗教の害毒』−−
 新しい宗教といわれるものの害毒は、各国において起こっておりますが、先日南米ガイアナで起こった集団の自殺の記事には驚かされました。教祖が自己の癌で死期の近いのを知って、多くの人達を道連れにしたかった為かどうか、そこのところははっきり致しませんが、この人民寺院と呼ばれる宗団の様子がおかしいので、調査に来た米国の下院議員やその他の人々はそこの狂信者に射殺され、その果て、教祖をはじめ九百名もの信者が集団自殺を遂げてしまい、死から逃れようとする人々にも、無理に毒薬を飲ませて殺してしまった、という邪教そのものの新興宗教団体がありましたし、イタリヤで自分には宇宙人がついているという教祖が、信者達を強制的に断食させたり、無理な行動をさせて、死なせてしまった事件など、数えるとかなり多くの邪教的な宗団が各国に存在するようでした。大体宗教というものは、神と人間との一体観を得ようとして始まっているわけで、神から分けられた人間の生命の自由をこの世において満喫し、神の理念を現実世界の出来事として現そうとして始められたもので、宗教を始めた為に、人間の自由が縛られ失われてしまうような宗教の在り方は誤っているのであります。
 新興宗教ばかりではなく、既成宗教の仏教やキリスト教などにしても、解釈の誤りから邪教的になっている向きもありますし、回教のように、戒律に縛られて、文明文化の新展をはばんでしまう宗教もあります。ユダヤ教信者のように、神に選ばれた民族意識が根強く、他との調和に欠けてしまって、他からうとまれてしまう宗教もあります。
既成宗教としては、ユダヤ教、キリスト教、回教というようにいろいろと分かれてきてはいますが、そのいずれもが、自己の宗教を最大のものとして、お互いが一歩も譲ろうとしてはいません。そこに暗黙のうちの戦いが行われていまして、アラブとイスラエルのように領土問題を表面に立てて、お互いの宗教の権力争いになっているようなところもあるのです。日本にも数多くの宗教団体がありますが、誤った教えをしている宗団もかなりあるのではないかと思います。

−−『肉体の生活の中だけに生きていない』−−
 既成の宗教にくらべて、新しい宗教団体の在り方は、はっきりした現世利益を示す宗団が多いようです。入団すれば、病気が直る、商売や事業がうまくゆく、といった具合です。病気直しも商売繁盛も結構ですが、神様を、常に自己欲望の達成だけに利用して神様や人間の本質を少しも知ろうとはしない、宗教入りというのは、唯神論でも唯心論でもなく、唯物論と同じように、限定された現世の生活だけのものになってしまいます。
 それでは永遠性の神の生命というものが、人間の生活の中に生きてきませんので、真の宗教の道に入ったとはいえないのであります。人間というものは、この肉体生活の中だけで生きているものではない、永遠の生命として肉体にも生き、幽体にも霊体にも神体にも生きているものである、ということを知ろうとして、精進努力してゆくのが、宗教の道なのだと、いうことを勉強してゆかなければならないのです。それでなければ、その場その時々の肉体生活は救われる事はあっても、永遠の生命そのものが自由自在になることはありません。ところが、霊性や神性というものは奥の世界、高い、深い波動の世界で働いているもので、この肉体の五感で感ずることができませんので、つい、肉体生活の浮き沈みにばかり気を取られて、肉体生活の幸福だけを追ってゆこうとするのです。肉体生活の幸福というと、先ず肉体の健康、次に物質の豊富さ、権力の拡充といったように、この肉体生活の自由な動きを拡げる、ということにある、と多くの人は思っているのであります。



−−『死後の世界は存在する』−−
 この肉体生活には、最後に死ということがあるのでして、どんなに幸福そうにみえていても、死に直面しますと、そこでその幸福は消えてしまうわけです。どうな物質的富有さも、権力の座も、一瞬にして無に帰してしまうわけです。無に帰してしまうだけならまだよいのですけれども、事実は、その無の後で、大変な苦悩や不幸が待ち受けていることがあるのであります。それはどういうことかと申しますと、肉体の死の後の永遠の生命、つまり霊魂の波動の場が、そういう苦悩や不幸を持っていたということなのです。それは肉体という場は離れてもその人々の生命は消滅してしまうものではなく、肉体の他の階層でまた生き続けてゆくという事実なのであります。こういう事実を知っている人もかなりあるのですが、一般には知られておりません。神の在り方や永遠の生命の原理も知らないで、ただいたずらに死後の生活の存在を知りますと、肉体の生活が苦しいと、その死後の世界に逃避したくなりまして、自殺する人などが多くなってしまいます。自分の生命の生き方、想いや行動をどのようにすれば、どのようになる、という生命の法則を知ってからでないと、死後の世界の存在を知ることも危険なことであります。その為に神様は一般の人々には、はっきりと死後の世界の存在を知らせなかったのかも知れません。しかし死後の世界は厳然として存在するのでありまして、生命の法則の通りに動いているのであります。生命の法則はどのように動いているかと申しますと大調和の方向に向かって動いているのであります。宇宙の星々が、お互いの立場を保って、その存在を確立しているように、小さくは生物の肉体が、諸機関の調和した働きによって、その肉体を保っているように、すべての存在を確率させる為の根本的な生き方が生命の法則なのです。この法則を無視して、ただ肉体生活の幸福のみを追求してゆくことは、肉体離脱後のその人の生命の働きを苦しくし、不幸なものにしてしまうのです。



−−『百尺竿頭一歩をこえよ』−−
 宗教学者や、死後の世界を知らぬ神官や僧侶などが、この肉体世界における心の在り方だけを説いて、肉体生活の幸福を物質的欲望を超えることによって得さしめようとしていますが、物質的欲望を超えるということが、肉体を持った人間にとっては、なかなか大変なことで、常に宗教的心との葛藤を起こしてしまうのであります。そして、その葛藤の末に物質的欲望に打ち勝った人を秀れた人として人々は賞賛するのであります。
しかし心の勝利を得た人は大方は物質的には貧しい生活で耐えるようになって、家族はみじめな生活をするようなことになってしまうのです。しかし、自分ではそこまで出来なくとも、そういう道を進もうとすることによって、自分の宗教的良心を満足させている人や、良心と物質欲との闘いを、高度な文章や説法で説いている宗教学者方の在り方に共鳴して、知識欲を満足させている人々もあるのです。知性派の人々は特に実行より、知識欲の満足という生活を好んで宗教に対したりしています。だがこういう人々は、一旦苦難にぶつかりますと、精神がオロオロしまして、頭で考えるより実行でゆこうと体ごと生活にぶつかっている人より、みじめな境涯になってしまうことが多いのです。
 とに角、肉体人間としてしか、人間生命はないのだと思っていて、いくら宗教的道を進んでいっても、常に頭の中でのぐるぐる廻りで、知識欲をなだめているより仕方がないのです。百尺竿頭一歩を超えよ、という宗教的在り方を実行しなければ、それ以上の進歩はその人たちにはあり得ないのです。百尺竿頭一歩を超えるということは、今日までの常識を飛び越えてしまえということなのです。といって非常識になれといっているのではありません。常識を大きく拡げる、今日までの常識を超えるということなのです。



−−『誤った霊能』−−
 今日の常識では、人間とは、肉体をもったこうした形の存在、肉体が死ねば生命も無くなってしまう、と思っているわけです。しかし真実は肉体が消滅しても、生命つまり霊魂は、永遠に生き続けるということで、この考えまで常識を拡げ、超常識と今日の眼でみればいわれるであろう、宇宙観にたって、すべての事件事柄を処理し、判断してゆかなければ、地球人類は滅亡してしまうのであります。しかしここに、非常に危険な落とし穴があるのです。それは誤った霊能ということなのです。誤った霊能というのは、真の神、つまり、大生命であり、宇宙の法則そのものであり、すべての創造を司る、絶対者である神と人間との間に、人間の肉体を自由にして自分たちの楽しみにしようとしている、様々な幽波動の中で生活している生物を介在させてしまうことなのであります。
 私の説いております、守護神、守護霊というのは、肉体人間と、絶対者である神との間を素直につなげる為に働いておられる神霊方のことでありまして、人間に永遠の生命を知らせ、大神様の働きの一役をすべての人々が受け持っているのであることを、自覚させるように教育してくれる善神、善霊のことなのです。ところが、誤った霊能者の上に働く幽界の生物は、大神様と肉体人間との間を引き離してしまって、肉体身をもたぬ自分達のマイナスを、人間の肉体を利用して補い、その肉体で様々な快楽を貪ろうとするのであります。
 肉体人間の存在しかはっきり知らない、しかも我欲の為だけに神を求めているような人々の想いは、こうした幽界の生物に波長があってしまうので、こうした人間を幽界の生物は喜んで使うのです。そしてその使われる側の中心者が、あたかも真の神にすべてを教わるかのごとく得々として、我欲で神を求める人々を弟子として引き廻すのであります。こうした幽界の生物は、肉体波動に近い波動をしていますので、肉体波動の動きがよくわかりますから、肉体生活の運命の未来を予言したり、肉体にまつわっている障礙を、それが自己より力の弱いものであれば取り除いて、自己の力を示したりするので、障りによる病気が直ったりするのです。そこで人々は、こうした肉体人間にはできない能力を、神の力として、神様として崇め、その中心者は神の使いのように思ってしまうのであります。しかし、この神様は、大生命につながっている存在ではないので、いつかは更に強い幽界の生物に負けてしまって、肉体人間ごと不幸に陥ってしまうのです。
 先に書いた米国の新宗教団体人民寺院等、その最たる見本で、幽界の強い生物の力で、幽界に引き寄せられてしまい、信者の殆どが自殺を遂げてしまったのであります。
自殺といってもこれは、幽界の生物に殺されてしまったというべきなのです。いわゆる死神につかれたといわれている部類です。大神様、絶対者につながっていない宗教というのは、実は真の宗教ではありませんで、それは肉体人間の我欲と、幽界の生物との遊びとがマッチして出来上がったもので、末は不幸になるに決まっていますし、死後の世界での修業もまた大変なものとなるのであります。いつも申しますように、真の宗教というものは常に大調和の方向に向かっているもので、他との争いや、不調和な状態で、自己の幸福を生み出すものではありません。もし他との争いの想いや、不幸な不調和な状態がおこった場合は、すべて過去世から今日に至る、神の御心を離れた誤った想念行
為が、消えてゆく為に起こった事件事柄であると思って、世界平和の祈りの中で、神々の光明によって消し去って貰いなさいと、私は説いているのであります。



−−『霊肉共なる救われ』−−
 肉体生活に生活している人間というものは、病気が直ったり、貧乏から脱去したりすれば、それだけ肉体生活が自由になったということで、現象の生活は幸福になってきた、ということになるのでしょうが、病気が直ったり、貧乏から抜け出したりした方法が大事なのでありまして、その方法いかんによっては、今後は前よりひどい病気になったり、再び一家心中でもしかねないような貧乏になったりすることがあるのです。
それは、その病気の個所を直す為の強い薬を使ったことによって、他の個所が冒され、一時の病気回復で後には前よりかえって広範囲のひどい病気になってしまったりすることがあったり、貧乏を抜け出す為に他の人々を騙して金品を得たりしますと、貧乏以上の苦難を心身に受けることになります。また宗教的に病気が直ったり、貧乏から抜け出したりする場合にも二種類ありまして、病気が直ったり、貧乏を脱去したことが、そのまま神の愛と大調和の御心と一つになってなされた場合には、まことにおめでたいことで、霊肉共に救われたことになります。しかし、病気の直った原因を霊的に観ますと、幽界の生物の憑依によってなっていた病気を、その生物より力の強い生物が押し退けて、自分がその肉体身の主導権を握ってしまうことがあるのです。そう致しますと、その病気は一時直ったようにみえますが、新しく憑依した幽界の生物にその人間の肉体身は自由に動かされて、ある時は前よりもひどい病体になったり、精神がおかしくなったりします。貧乏からの脱去も同じことで、そのつきものが、金を持った人に想いの波をかけて、金を出させたり、商売人なら、その店で買いたくなるように客を呼び寄せたりして、一時は味方をしますが、元来が自己の快楽の為に憑依している生物なのですから、その肉体身に興味がなくなると、ぽいっと突き放してしまいます。そうしますと、その肉体人間は、本来その人の徳として金品が入ってきたのではなく、いわば借金のような形で入ってきた金品でありますので、たちまちその金品は無くなり、以前に増した貧乏な不幸な生活に陥ってしまうのであります。



−−『自然に神と一体化させる』−−
 それもその筈で、神からの富は途中で幽界の生物にさえぎられて、その肉体人間にとどかないのです。とどかないというのは、肉体人間のほうで真の神の愛に呼びかけないで、自己の物質欲で幽界の生物にすがってしまったのですから、是非もないことです。
どんなに宗教的にみえても、自我欲望を捨て去らなければ、神との一体化は出来ません。しかし、なかなか自我欲望を全部捨てきるということは出来にくいので、私は自分で欲望を捨てようと力まないで、素直に神様に感謝するつもりで、世界平和の祈りを唱えつづけなさい、と説いているのであります。自分の意志力で我欲を捨てようとしてもそれは大変なことなので、自分の意志力は、世界平和の祈りを祈りつづけるというところにもっていって、病気が直りたいも、貧乏から抜け出たいも、自分の心を清く正しいものにしよう、などというすべての願い事は、そのままでよいから、そのままの心で、世界平和の祈りを祈りつづけなさい、というのです。そう致しますと、日常生活はそれぞれの環境のままで、いつの間にか、自我で力むのではなくて、自然に神への感謝が強まり、自然と神との一体化がなされてゆくのです。そう致しますと、病気も直ったり、貧乏から抜け出られたり、いつの間にか、自分で嫌な自分の想いなども、消えてしまって、呑気なおおらかな、楽天的な自分になっているのであります。
宗教的な戒律や習慣性で、無理な常識外れの行いをしなければならなかったり、自分の心の自由を奪われてしまったりするのは、誤りなのですから、あくまでも、調和な方向に自分の想いが向いてゆくように、神をはじめあらゆるものごとに感謝のできる人間になるように、それさえも忘れて、世界平和の祈りをつづけてゆくとよいのであります。



                                             五井昌久先生著『信仰と直観』より


『掲載者付記』

 邪教や幽界の生物等につきましては、祈りによる平和運動/闇の勢力をあわせてご覧下されば、より詳しく理解できるものと思います。

『教義』−−−人間と真実の生き方−−−−

人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守られているものである。
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。



            ☆世界平和の祈り

         ☆『 世界人類が平和でありますように

            日本が平和でありますように

            私達の天命が完うされますように

            守護霊様ありがとうございます

            守護神様ありがとうございます 』




              夜 半 に 想 う


       半鐘が鳴っている

       すりばんが鳴っている

       近くの何処かで誰かの家が燃えているに違いない

       私は夜半の寝床の中で

       世界平和の祈りそのものになって眼を閉じる

       家が焼けるのは悲しいもの

       人が倒れるのは哀しいもの

       半鐘はその人たちに救いの手をさしのべようと打ち鳴らされる



       半鐘が鳴っている

       すりばんが鳴っている

       世界人類の消滅を防ごうと

       しきりに半鐘が鳴っている

       右往左往の人の群

       火をあふりたてるように

       自我欲望の渦にまかれて

       盲いた人々は活路を知らず

       業火のまわりを飛びまわる



       半鐘が鳴っている

       人類の業(カルマ)の夢を打ち破ろうと半鐘が鳴っている

       世界平和の祈りによる

       光の半鐘が鳴っている

       人類の業火消滅の

       真の道を切りひらく

       光の鐘が鳴っている

       世界平和の道ひらく

       祈りの鐘が鳴っている

                       五井昌久先生詩集『いのり』より






『掲載者付記』

 この−−真の宗教心−−という作品を作成したのは、去年の中頃だったと思いますが、この作品はけっしてオウム事件を予言したものではありません。
これは白光会の西園寺会長が現在おこしている事件に対して警告をしているものでありましてオウム事件とは関係はありません。
 この西園寺会長がおこしている事件は、革命(内乱)ともいえる事件でありまして、これについてはいずれ他の作品で言及するつもりでありますが、ですが実際にはこの事件こそ重大事件でありまして、これはハイラ−キ−に対抗するものであり、そしてこれから公に出現するであろうキリスト(世界教師)への挑戦であります。
ですが五井先生の創設された会において、このような事態になるのは本当に悲しいことであります・・・・・。
                                                      −−95年9月−−


            ☆世界人類が平和でありますように