秋から冬に入ろうというこの空(そら)の
何という広々とした姿であろう
大自然の営みの清々しい眺めは
収穫後の稲田の安らぎにもあるし
人々の心を十分にうるおした柿ノ木や栗の木の
今年の役目を果たし終えた落ちつきの中にもある
果実も緑葉も北風の冷やかな手振りにつれて
次第に色あせていったが
そうした淋しさにつれて人間の心の底から冬に備える逞しい力が湧いてくる
11月は私の生れた月
大きな宇宙の一環の
地球世界の大使命を
立派に果たさせる役目を荷って
私はこの世に生れ出た
11月
大自然の深い心がしみじみと心に沁みてくる月だ
浮ついた思いがすっきりと消え去って
しっかりと両足が大地に据えられる月だ
やがて訪れる新しい世界の為の
はっきりとした心構えを
この月のうちに自分のものとして
冷厳な冬の姿に対峙するのだ
世界は全く改まる
転倒夢想している人類の想念が
一瞬にして正常に戻る
そうした春がやがて来る
だがしかし私たちは
その前に凍りついた冬の季節を通らねばならぬ
11月
この月こそ私たちの不動心をじっくり顧み
大自然の心の中にすべてを融けこませてゆくのに
最も適した月であるのだ
ああ11月の自然はいいなあ
―――「五井昌久先生詩集より」―――
☆サティア・サイババ公式HP【http://www.sathyasai.or.jp/】
宗教と道徳
五井 昌久
エルベール教授との対話
神社本庁からの紹介で、ジュネーブ大学教授のヒンズー哲学の権威であり、日本神道の研究家、ジャン・エルベールさんが、中西中央大学教授に伴われて、市川の道場に見えられました。氏は神道の研究のため、日本にこられたのだと、中西教授がいわれていましたが、堂々たる体躯で、霊的にも立派な方でした。
このエルベール教授との一門一答の中で、道徳をどのように説かれているか、という問がありました。宗教と道徳問題とは切っても切れぬ密接な関係があるので、宗教者に道徳についての質問をするのは当然なことでありましょう。
私はこの問にどう答えたかと申しますと、「私は道徳について、表面的にはとやかくはあまりいわない。言葉としては、愛と真と勇気を持って生き抜かなければいけない、とはいっていますが、言葉だけではこういってみたところで、誰もそうした道徳的な生き方がしたいのだけれど、業想念の波に蔽われている限りは、その波に邪魔されて、愛も真も勇気も出てこない。善いことはしたい。人のために尽くしたい。真の行いに生きたい、と思いながらも、自分の肉体生活を守ろう、という我欲の業想念があっては、思う通りの道徳生活を送ることが出来ない。ですから私は、道徳の説教をするより先に、まず業想念(カルマ)の波を浄め去ることが大事だと思い、そのための祈りを行じているのです。それが世界平和の祈りなのです。業想念の波を世界平和の祈りの大光明の中に消し去ることによって、はじめてそこに、自然と容易に道徳にかなった行いが出来てくるのです。
人間は本来が神の分生命であり、神の子であって、光そのものなのですから、業想念波にとらわれさえしなければ、道徳的な行いができるにきまっているのです」とこんな内容の言葉を話したのでした。するとエルベール教授は、非常に感動して、私は今日まで、そうした話は聞かなかったが、本当にそうだ、と何度も同感の意を表していました。
肉体人間という者はしかたのないのもで、正しいと思うことでも、自己の生活環境が、その正義に味方することによって崩れ去ってしまうというような時には、いやいやながらでも、自己の意志にそむいた行為をしてしまう。もっと簡単な善悪の場合でも、自己の利益本意の生活をしてしまいがちで、いくら道徳の説教をされても、その時はそうだと肯きながらも、業想念の波のなかに巻き込まれていってしまう。
人間の心の中には、善い事と悪いこと、正しいことと正しくないことは、あまり複雑でない場合は、わかりきっているのですが、自己の都合では、自分の心を自分でごまかしてしまって、正しいように、善のように思おうとするのです。そうしてそうした事の出来ない良心的な人は、自己の心をごまかしきれずに、我と我が心を傷つけ痛めつけてしまうのであります。一般の民衆というものは、そうしたものなのです。
そして、それが党派となり、国家となり、民族という形になると、より大きくより広く、自己保存の本能が頭をもたげ、神の御心である「己の如く隣人を愛せよ」とか「右の頬を打たれたら左の頬をも差し出せ」というような大和の心、大愛の心にはとてもなれなくなってくるのです。
言葉だけの道徳倫理は不必要
そこで、単なる道徳の説教などは、それが浄めの御業と同時に行われぬ限りは無価値に等しいものになり、ある時は返ってマイナスにさえなってしまうのです。イエスキリストの最も嫌った偽善者とは、自己に愛の心が薄いのに(愛の心が薄いと浄めの力が弱いのです)そうした低い心を持ちながら、言葉だけで、愛だ真だ、善だ美だ、と説教するやからのことなのですが、こうした輩の多い限りは、宗教の道が本筋の神の御心の現われの道とはなってこないのです。
私はそうしたことを痛切に感じて、祈り一念、愛一念の生活にまず自己を置いたのであります。だから私の宗教には単なる道徳律の説教などはないのです。この世の道徳というものは、神の御心の現われでありますが、只単に、この世の秩序や社会構成を乱さぬ為にあるものもあります。ですから、道徳律にだけ心を縛られてしまいますと、反対に神の御心本来の自由自在性が失われてしまって、機械のように、形式の世界に心が固着してしまうのです。
道徳というようなものが、言葉で言われ、文が書かれ、一つの形式のように固まってしまうと、神と人間とが全く一つに交流しあって、生命の光の思うさまの自由自在の生活が出来ていた神代の昔からの真実の人間性が、次第に失われてきてしまい、心の狭い、道徳律に縛られた、小さな人間になってしまうのであります。
しかし、これは霊的人間が、地球人類として、物質界に物質的肉体を纏って生活する為には、一応は是非もないことであったのでしょう。神の本来の自由な生命力、霊力がひとたび肉体という物資体の中に閉じ込められて、地球という物質世界に生活し、この地球世界を開発してゆくことになったので、物質界に適応した道徳律や形式が定められてきたのも、無理からぬ事であります。
これを神道では天の岩戸が閉じられたというのです。天照大神が天の岩戸に隠れ給うたというのは、宇宙的な意味でもある、と同時に人間個人個人の光明心の隠蔽のことでもあるのです。と申すのは、個人個人の霊性が肉体の中に隠れて、肉体人間として、各人が地球世界開発の役目をしていることが、それであるからです。
さてこれからが、二度目の天の岩戸開きということになるのです。それは、いよいよ人間の霊性が開発されて、物質的肉体を自由自在に自己の心のままに動かし得ることの出来る時代が来るということなのです。人間各自のうちにある天照大神が光を放つことになるのです。仏教的にいえば、大日如来が光を放つといってもよいのです。
守護の神霊の援助がなければ解脱(さと)れない
人間はいつも申すように、神の子なのです。神の子といってもなかなか複雑でありまして宇宙大神様の子という意味もあるし、各直霊の子という意味もあり、各守護神、守護霊の子という意味もあるのです。
そこで私は、人間というものは、宇宙大神様の人類界への働きかけである、七つの直霊から分けられた生命であり、その直霊たちの外面から守護の働きとしての、守護神に守られながら、地球世界開発の役目をしている分霊なのである、といっているのです。そして肉体人間としてこの世で働いた経験のある、いわゆる祖先の悟った霊魂が正守護霊として各人の背後に密着して守りつづけているのであり、その補佐として、各種の副守護霊が存在するのである、と説いているのです。
この守護の神霊たちの援助がなければ、一度肉体界という物質的な粗雑な波の中に入りこんでしまった霊魂は、とても一人立ちして自己の天の岩戸開きをするわけにはゆかないのです。その状態が、いくら宗教者が道を説いても、修養団体で修養しても、種々様々な修行をしても、この地球世界の個人も人類も、業想念波動のなかから抜けきれず、争いをつづけている不調和、不完全な姿として、いつまでも、苦悩しつづけている状態として現れているのです。
ですから、業想念波の中での道徳の説教などではとても駄目なので、守護の神霊のみ光による業想念波の浄めによる無言の説法、いわゆる祈りによる天の岩戸開きによっての、善なる真なる美なる想念行為に個人も人類も生まれ変わってゆくより他に方法がないということになるのです。そして、個人人類同時成道の祈りが、私の提唱している世界平和の祈りの日常生活なのであります。
この地球界には、様々な性格の人々が存在しているわけで、気の弱い人に、いくら気が強くならねば駄目だといっても、それだけで気が強くなるわけにはまいりません。また頭の回転の悪い人に、もっと頭をよくせよ、といってもそれだけではいけません。そうなるための方法を教えてあげなくてはなりません。
普通、人々が性格と呼んでいるのは、神の天命を果たす為の素質と、業想念波の癖の混合でありますので、その癖のほうを消し去って、天命を果たす為の素質だけを浮かびあがらせれば真実の性格が出てくるわけなので、各人がそのようになれば、地球世界は瞬く間に立派になってしまうのですが、どうもこのより分けがなかなかできないでいるのが今日の現状です。
この世の道徳教育とか、修養とか申すのは、このより分けをやる為のものですが、素質を出そうとして、あまりに業想念のほうを抑えつけるようになってしまうので、業想念が消え去るのではなくて、抑圧されてしまい、強い圧力を持ったまま潜在意識として残ってゆき、素質的な道徳にかなったような行いが表面に少し現れているのですが、それは時間的な問題で、転回している潜在意識下の業想念の爆発に負けてしまい、その人の肉体を損ねたり、生活を損ねたり、運命を破壊したりしてしまうのです。
病気とか不幸とか、すべての運命の破壊は、潜在意識にある業想念波動の消えて行く姿として起こってくるのですから、只単にこの現われだけを対処しても、また同じようなことを繰り返すだけなのです。だから、いかに表面の行いだけをよくしようとして、只単なる修養や道徳教育をしてみても駄目なので、やはり、人間の心の底から、潜在意識の底から、業想念波を浄め去らなければ、真実の人間の幸福は訪れないし、人間の真の救いは成就できないということになるのであります。
全身全霊で愛を行じる
そういう事をするのが、真の宗教の道なので、その他のことは、宗教の道としては、すべて枝葉のことなのであります。
道を求めて一度は宗教の門をくぐったが、牧師や僧侶たちの説教と行為とのちぐはぐな状態をみて、かえって宗教に反感を抱き、徹底した唯物論者になったという人々もかなりおります。なかなか人間を導くということは難しいことなのです。私などは、ほとんど相手の話をきいてあげる方が主で、言葉の説教はあまり致しません。ただ相手の心の中に神のみ光り送っているだけなのです。
それだけなのですが、一度来た人は二度き三度き、ついには家族の一員のような親しさにまでなってくるのです。ですからまるで一家族のようなもので、みんなが兄弟姉妹のようで、私が祖父になったり、祖母になったり、父母になったり兄や姉になったり、恋人になったり、相手次第でなんにでもなって、生命の交流をはかり、神と人間との切っても切れぬつながりを強めてゆくのです。
すべては全身全霊で愛を行じなければ駄目なので、いちいち来る人々を批判しているようでは、とても人を立派にすることは出来ません。一人の人間が一人の人間に会うということは、これは過去世からの因縁によるもので、これはすべて守護霊、守護神によってなされるものなのです。そしてその出会いは、光と光の交流の場合もありましょうし、お互いの業因縁の消滅の為のものもありましょうが、結果はどうともあれ、人に会う場合は守護の神霊への感謝を持って会うべきでありましょう。そうすれば、それが消えてゆく姿の出会いであっても何かの悪いことの後から、思いもかけぬ善い出来事が必ず起こってくるのです。これは私の今日までの体験で、はっきり明言できるのです。
前に書いた、エルベール教授との対談でも、エルベール教授を私のところに紹介した人は、神社本庁の富岡氏であり、案内してこられたのは中西教授なのですが、真実の紹介者は、今は霊界にあるインドの聖者、シユリー・オー・ロビンドー師であったのです。
インドの聖者シユリー・オー・ロビンドー
オーロビンドー師は、今はこの世にない人ですが、学識も深く、行いも深い全く解脱した大聖者なのです。エルベール教授はこの大聖者の弟子として、インドにおいて修行してこられた方なのです。
エルベール教授との対談中、談たまたま、業(カルマ)を全く解脱したという人々の話になり、何人かの人々がエルベール教授から紹介されましたが、その第一の人として、オーロビンドー師の話が出てきたのでした。しかし、その話が出る前から、エルベール教授の背後から私に光を送ってくる聖者の姿があったのを、私は知っていました。そこで私が「エルベールさん、あなたは常にオーロビンドー師によって守られ、援
助されているから、何かにつけてオーロビンドー師を思ってください」と、オーロビンドー師の心を伝言しました。その時のエルベール教授の喜びようは、まったく純粋な喜悦のさまでした。そのへんの対談から、エルベール教授と私の心はすっかり交流しあって、「こんなよい雰囲気のこんな気持ちのよい会談はなかった、ここに来て本当によかった。ここは霊場です」と大喜びで帰ってゆかれました。
外国の人が日本に来て、しかも日本の宗教は高く深いものと思って期待してきているのに、その期待を裏切るようなことがあったら、その人にも悪いし、日本の真価にも傷がつくのですから、エルベール教授が喜んで帰ってゆかれたのはまったくよかった、と私は思っているのです。
なお、エルベール教授を通して、私は多くのインド地方の聖者たちに会うことが出来ました。肉体に固着した人間観では、肉体と肉体が会わなければあったことにならないのですが、私たちの場合には、一人の肉体を持った人と対座しながら、対談しながらも、五感に触れない、多くの人々と同時に会って話すことが出来るのです。
「私たちの世界には時間も空間もないのですよ」と私がエルベール教授にいったら、エルベール教授もその意味がよく分かって、にこにこしながら、肯いていました。
守護の神霊との一体化こそ必要
実際に人間の想念が、時間空間に縛られ形式や物質の世界に縛られているのでは、平和な立派な地球世界になることはかなわないのです。肉体は一つの場として、物質は一つ一つの道具として、霊なる人間、光なる人間が、その生命力を自由に駆使して、神の御心を、この地球界に現わしてゆくのが、真実の生き方なのです。そのためには、どうしても、肉体の内なる分霊が、守護の神霊と一つになって働かなければ、とても駄目なのであります。
いかなる聖者も、守護の神霊の援助なくして、大いなる業(わざ)を行ずることはできえないのです。聖者となるそのことそのものが、もう既に守護の神霊との一体化を為し得た結果にほかならないのです。
今日ほど、守護の神霊がこの肉体波動に接近して働いている時代はないのです。ですから現代は、種々な聖者が各所に現れずにいないはずなのです。それは宗教者必ず聖者というのではなく科学者のなかにも実業家のなかにも、政治家のなかにも聖者は存在するのであります。しかしいまだその光が発顕していないのが現状であるのです。
守護の神霊との一体化が成就した時、その人は内面的に全く変貌します。今までの肉体人間が、その本体を発顕して、霊なる人間として生まれ変わるのです。そうなると、その人の肉体や、生活環境は、神の御心のままなる、霊の思いのままなる様相に変わってくるのです。そして、その人には、肉体人間の思いも及ばぬ偉大なる能力が発揮されてくるのであります。そういう人は、言葉や文字で思いを語らなくとも、自ずと相手に自己の心を伝えることもでき、光明を与えることもできるのです。
エルベール教授の話の中に、裸の聖者と呼ばれる一人の聖者の話が出ました。その聖者は、五十年間を裸のまま、座りつづけているのです。その側で二十四時間エルベール教授も座りつづけていたそうですが、側に座っているだけで大変に浄められたといっていました。私もその聖者にエルベール教授を通してあってみましたが、実に光りそのものの聖者で、快い波動がこちらに伝わってきます。
愛の光が人を変える
人間を良くするというのは、そういうふうに言葉で語らなくとも、文章で現わさなくともできるのですが、私の役目は、言葉で語り、文章で現わし、体から光を放ち、という種々の方法で、世界平和の祈りを行じせしめる役目を持っているのです。
ですから、只単なる道徳的談議などをする気持ちにはならないのです。救世の大光明の光があたれば、誰もかれも、みんなが本心を現わして、どのような場合においても悪い行いの一切できない心の状態になってゆくというのが、私の理想であり、そして、着々と現実化してもいるのであります。霊魂が浄まってくれば、おのずから天の道徳律に沿って日常生活ができてくるにきまっています。なぜならば、人間は神の子であるからです。
浄土門では、いかなる悪も弥陀の光を消すことはできない、といっておりますが、全くその通りでありまして、弥陀の御仏のなかに、称名念仏して入ってゆきさえすれば、その人の罪けがれは必ず消え去ってゆくに違いありません。その時阿弥陀様は、私のいう救世の大光明と等しい人類救済のみ光となるわけです。
私は常に神というものを二つに説いております。それは宇宙絶対者としての一なる神、そして、神の分生命として人類世界に働く人間が、本来の光明身として自由自在にその生命力を発揮できるように、業想念波動を浄めてくださる守護の神霊としての神、この二つに分けて説いているのであります。それでないと、どうしても、人間神の子を説くのには説明ができにくくなってくるのです。
「神の子の人間になぜ不幸や災難や不完全をことがあるのだ、完全ななかから不完全が生まれてくるわけがない」という疑問が誰の心の中にも起こってくるのです。そしてかえって神仏の存在を疑ったりしてしまうのです。お釈迦様はその点をよくご承知で、造物主というような神のことはあまり説かれずに、仏といい如来というふうに、人間自身が人間自身の本心を開発してゆくことを主目標にして、弟子を導いてゆかれたのです。
人間の外部的な神という存在に、それまでの宗教が頼りすぎていて、ちょっとしたことでも外部の神に頼んでしまい、人間の自主性を失ってゆき、いわゆる迷信に陥ってしまったので、そうした弊害を除く為に、釈尊はわざと、外部的な神の話はなさらなかったのだと思うのです。しかしながら仏教には守護神の話は処処に出てくるのです。そこが実に面白いところだと思います。
現代でも、やれ、おがま様だ、やれ何様だと、正体のしれぬ神社参りや、新興宗教入りをしている人々がたくさんおりますが、これは釈尊以前の迷信に陥っていることになるのです。現世利益さえあれば、何様でもよいというのは、これは宗教ではなくて、唯物論なのです。唯物論も、全く自主性のない、自己確立のない、実に幼稚な生き方なのですが、そういう人は、やはりそういうところを通ってこないと、真実の宗教に入れないのですから、過去世の因縁というものは、解脱しない限りはしょうのないものであります。
一般民衆というものは、どうしても現世利益に走りやすいものなので、これはどこの国の人々でも同じようであります。その場その場の利益というもので一喜一憂するという人間の悪癖を直さぬ以上は、とうてい一般大衆が真実の救われに入るわけはありません。
世界人類に平和の光を輝かすために
そこで私は、あまり難しいことをいわずに、みんなが手を伸ばしさえすれば、真実の救われの道に到達でき得る道を開かなければいけないと思ったのです。そして私がまず自己自身を守護神に全託して、分霊と守護の神霊との一体化に成功して、今日の霊覚者としての私になり得たのです。そして守護の神霊の存在が確立し、個人人類同時成道の易行道である世界平和の祈りの宣布を始めたわけであります。
守護の神霊の救済の働きがあって、はじめて、人間は神の子の実体が発顕できるのであって、守護の神霊の存在を認めなければ、人間神の子というのは、ただ単なる言葉だけのものになってしまい、人間神の子ならなぜ悪や不幸があるかという疑問に出会ってしまうのです。
人間神の子というのは、あくまで、守護の神霊とのつながりにおいていえることであり、守護の神霊を認めぬ人々は、人間神の子の光明を永劫に発現できえないのです。この汚れきった不調和きわまりなく見える地球世界が、肉体人間の力だけでどうして平和な調和した世界にできえようか、どのように考えてみても、どのような道徳論をふりまわしてもとうていできえないのです。自己のごとく他人を愛し得ないで、自国のごとく他国を愛し得ないで、どうして大調和した世界ができるでしょうか、できえないのは明瞭な事実なのです。
そこに守護の神霊の働き、救世の大光明の働き、世界平和の祈りの働きが、どうしても必要になってくるのです。自他の利害を思う想念、自己保存の本能、そうした業想念のすべてを、世界平和の祈りのなかに投げ入れて、日々の生活を行い、政治政策を行う時、始めて世界人類の平和の光がさし始めるのであります。
この世の道徳律を超えた世界平和の祈りの生活からこそ、天と地が全く大調和した道徳がやすやすとこの世において行われてくるのです。
一日も早く地球を宇宙大調和の一つの世界として仕上げなければならないのが、私たちの使命なのであり、そのためにこそ、世界平和の祈りが絶対に必要になってくるのであります。
《次にハワード・マーフィット著「最後の聖者・サイババ」にシュリ・オーロビンドに関する話が出てまいりますので、皆さんの参考の為に掲載してみることに致します。》
窮地の階段の上で私の足はどこまでも広がる平静という鎧に包まれていた。
輝く神の炎を人間性という深海に運びこんだ。
―――シュリ・オーロビンド
スピリチュアル・リーダーを数人、本で紹介するという当初の私の計画は、サイババに出会い、彼だけについての本になってしまった。しかし、私はまだ何人かの著名で偉大な先生たちの調査に興味をもっていた。特にポンディシェリーのシュリ・オーロビンドの教えには大きな興味を抱いていた。しかし、サイババと一緒でない時間、私はアディヤールで委託を受けた二人の伝記を書く為の調べごとと、サイババの本の執筆に追われていた。そんなことで私はポンディシェリーを訪れる旅には出かけていなかった。そんなある日、リードビーター・チェンバーに金髪の体の大きなニューヨーカーが現れた。
彼の名前はジョン・ケリーといい神智学協会のメンバーだった。彼はアディヤールに数日間滞在する予定だったが、本当の目的はポンディシェリーを訪れることだった。ジョンは過去に何度も神霊現象を体験し、その体験によりシュリ・オーロビンドを彼のスピリチュアル・グルとしていた。もちろんオーロビンドの魂は数年前に肉体を離れてしまっていたが、それでもジョンは彼のアシュラムにできる限り長く滞在する予定だった。その頃、オーロビンドの実質的な助手であったマザー・ミラがまだ生きていて、彼女がポンディシェリーにあるアシュラムの主人となっていた。ジョンは彼女のダルシャンに参加する以外に、そのアシュラムに行けば彼の偉大な先生の魂をもっと近くに感じられるだろうと考えているようだった。
彼はオーロビンドのアシュラムに出かけた後も、たびたびアディヤールの戻り私たちと時間を過ごした。ジョンと私たちはよい友達になった。私たちはジョンをサイババのところに招き、彼もそれを歓迎しているようだった。ある時、ジョンは一人でプラシャンティー・ニラヤムに出かけそこで驚くような体験をした。
その日、ジョンは人々の列に加わり地面に座っていた。スワミは列に沿って歩き、スワミの後に続く少年が持つ籠からお菓子を取り出し、それをプラサード(捧げ物)として列を作っている一人一人に与えていた。とても暑い日でスワミの着ているローブにも汗が浮き出ているのが見えた。何気なくジョンが顔を上げると、そこに光り輝く慈悲深い表情をした二人の男が宙に漂っているのが見えた。スワミは自分の肉体を離れると、二人がいる空間まで上り二人を歓迎した。スワミたちが漂う場所は、まるで別の次元の空間が穴をポッカリと開けた場所のように見えた。その日はヒンドゥー教の神聖なお祭りの日で、高い次元の存在が神の化身であるサイババの所へ挨拶をしに来たのだとジョンは考えた。四次元の世界でスワミが二つの存在を迎えている間、三次元の世界でスワミはプラサードを彼の信者に与える、汗の出る仕事を続けていた。
多分サイババとこの透視能力の強いアイリッシュ系アメリカ人だけが、不思議なフォームに変化した、異次元からの訪問者たちを見ることができたのかもしれない。それから数年後、私もサイババが肉体を離れ違う形に変化し一度にいろいろの場所に存在できることを知った。その間、肉体としてのサイババはそれまで行っていたことを継続することができた。サイババはクリシュナがラサダンスの時に見せたと同じ統制力のある存在だった。クリシュナはゴーピ(乳絞りをする女性)たちの踊りの相手になるために、たくさんの形の存在に分散した。サイババは、アシュラムで私たちが会うことのできる小さな肉体に閉じ込められていないことは確かなことだ。
ジョンは強いESP(超感覚的知覚)を持っていて、その力によりシュリ・オーロビンドに出会うことができた。初めての遭遇は、ジョンがアメリカ陸軍に入隊し第二次世界大戦に参戦していた時のことだった。ジョンは始めそれが誰であるか全く分からなかった。ジョンの前に姿を現わし戦いの戦略を教えてくれた男を、ただの老人だと思っていた。ジョンはこの老人の意見をよく聞き、よい結果を得ていた。実際、そのアドバイスに従って戦いを勝ち抜いていったばかりか、仲間が壊滅的な状況に陥るのを防ぎ自分の生命を守ったことがあった。ある時、ジョンはこの戦いの助言者の名前を聞いた。
「オーロビンドだ」と男は答えた。
そんな名前は聞いたことがなく、ジョンはそれが何かの暗号だと思ったくらいだった。
私たちはこの話や他の不思議な話を、ジョンに誘われ訪れたポンディシェリーにある彼のアパートで聞いた。ポンディシェリーではマザー・ミラのダルシャンに参加しオーロビンドのアシュラムのリーダーたちにもあった。彼らはジョンの体験を裏付ける話をしてくれた。肉体の外に出ての旅はオーロビンドのヨガの力の中でも最も知られた力ということだった。彼は1926年11月24日を「勝利の日」と呼び、その日以降、よく肉体を離れ多くの時間を人間の幸せの為に費やしたという。
その他に知ったことは、偉大なオーロビンドは連合軍がナチの残酷な軍隊を打ち破り、第二次世界大戦に勝利しなければならないと思っていたことだ。連合軍の勝利が神の目的を助け、もし敗戦した場合は神聖な計画に支障をきたすことになると考えていた。もちろん彼が連合軍を助けたのは我々が知ることのできない神の計画の一部だった。オーロビンドは使える道はすべて使い彼の役割を果たした。ジョン・ケリーもそのうちの一つで、その他にもたくさんの方法を試したに違いない。ジョン・ケリーの体験はオーロビンドが戦いの戦略において援助を行った証明だが、もっと高度なレベルでの援助も行っていた。
それは連合軍の勝利が決定的な意味を持つ状況を作りあげたことだった。それはヒットラーがフランスを陥落した後、それぞれの軍隊の隊長を招集し次にイギリスを攻めるか、ロシアを攻めるかを協議した時に起こった。その協議は戦局に重要な変化を及ぼす話し合いだった。
ヒットラーが集めた男たちが会議室でまっている間、ヒットラーは隣の部屋で瞑想を行っていた。ヒットラーは少年時代をウィーンで過ごし、そこで薬と黒魔術によってこの世界以外の世界の扉を開けたことがあった。この重要な日の瞑想の最中、たくさんの力が彼の周りに漂っていただろうが、最も強力な力を持っていたのはオーロビンドだった。オーロビンドはテレパシーでヒットラーの心の中にロシアを攻めるのが最良の道だ
と囁いた。ヒットラーはその声に耳を傾け、部屋を出て隊長たちを前にした時、すべてはもう決定済みだと告げた。
「ロシアから先に攻める」とヒットラーはいった。
その後、イギリスへの侵略のかわりにロシア陥落に向けての大きな戦いが開始された。
このオーロビンドによってもたらされたヒットラーの判断によりドイツは敗戦を喫する結果となる。連合軍の幹部たちはヒットラーの犯した決定的な間違いがシュリ・オーロビンドによってもたらされたことを知っているだろうか。
ジョンは戦後、戦いの場で助言を与えてくれた存在の姿をニューヨークで再び目にした。彼はシュリ・オーロビンドの写真を見かけ、その後オーロビンドの研究を開始する。オーロビンドに関する本をすべて読み、彼の生涯を知り彼の教義について勉強した。ジョンはそれまで哲学に興味を持ったことはなかったが、哲学の匂いを残すオーロビンドの教えには強く引かれるものがあった。その上、彼のグル、オーロビンドの素晴
らしい教義を深く学んでいくうちに、彼は自分の肉体を離れることができるようになっていた。一度、アディヤールの庭で、「ここの景色は前に見たことがある。空中からこの風景を見た」とジョンは私と私の隣にいたアイルランド人にいった。
それからジョンは以前オーロビンドにつれられ幽体のたびに出た経験を語ってくれた。
彼らはインドの東海岸の上空を飛び、オーロビンドアシュラムのあるポンディシェリーやアディヤール川の河口の神智学協会を訪れた。ジョンのオーロビンドから受けた数々の霊的現象や、彼のオーロビンドに対する深い理解や愛を考えあわせると、このニューヨーク出身の青い目の男と慈悲深い賢人の間には、前世からの結びつきがあるのではないかと思われた。この想像はアシュラムで起こった事件により正しいことが証明されることになる。
アシュラムの母であるミラが個人的なダルシャンを行う時、通常ミラもダルシャンを受ける側も一言も声を出さず、沈黙のうちにダルシャンが行われる。数分後にミラが瞳を逸らし、花を差出すとダルシャンが終了する。しかし、ジョン・ケリーがダルシャンを受けた時、ジョンの話によると、ミラが言葉を発したという。彼女の話の内容は、ジョンが今までの人生の中で行ってきたよくないことを批判するものだったらしい。このことからも、彼女や彼女の先生がジョンの辿る人生に特別な関心を持っていることが分かる。
ジョンのポンディシェリーのアパートはアシュラムの近くにあり、部屋の中の本棚にはオーロビンドの教えに関する本がぎっしり詰まっていた。今までに出版された本のすべてが揃っており、私たちは一緒にオーロビンドの教えについて勉強をした。夕方になるとジョンはオーロビンドのサビトリーという長く素晴らしい詩をアイリスと私に読んで聞かせてくれた。ジョン自身、その詩を読むことが楽しみだったようだ。彼がESPの
能力を持っていなかったら、そのまま何時までもオーロビンドの信者と共にインドに留まっていたことだろう。しかし、彼がヒマラヤのオーロビンドのリトリートに滞在している時に、遠く離れたニューヨークの部屋で交わされている会話を聞いた。その会話から、ジョンの父の死が間近に迫り、家族がジョンの行方を知らないことが分かった。
ジョンは急いでニューヨークに旅立ち、それから長い間、私たちはジョンに会うことがなかった。
ジョンのおかげで私たちはオーロビンドに対し心の扉を開けることが出来た。そして彼がインドから去った後でも、私たちは何回となくオーロビンドのアシュラムを訪れた。アシュラムはいつも特別な光に包まれ、そこにいる人々も輝いているように感じられた。
私たちは特に、このアシュラムの教育システムに興味をもった。いろいろな国の人がボランティアで先生を引き受け、授業は国際色豊かなものだった。生徒は皆とても熱心で、西洋で見られる授業風景とは対照的だった。しかし、最も興味を引かれたのは男性と女性の差別なく行われる運動の授業だった。例えば、サッカーでは男女混合のチームが結成され、フェンシングや柔道という相当な力と技術が必要な競技でも男性と女性とが試合を行っていた。実際、着ているのも同じで、格好からしても男女の区別がつかなかった。未だに記憶に残っているのは、十代の人が道で私たちを追い越した時のことだ。その人は白いショーツと白いシャツを着て髪も短く切っていた。私たちはその人が男性か女性か分からなかった。思うに、西洋の女性運動家がここを訪れたらとても喜ぶだろう。
このアシュラムのメンバーはここを去っても、最低一つのスポーツを一生涯続けていくという。その為か、ここで出会った老人たちは元気で健康そうだった。ここの教育システムにマザーミラの考えがどのくらい反映されているのだろう。彼女は今世紀のはじめ、フランスで有名をテニス選手だった。私たちが会った時は既に相当な年齢だったが、彼女はまだ週に何回かはテニスをしていたものだ。
オーロビンドの教えには西洋の影響や考え方が強く反映されているように感じられる。オーロビンドは西洋と東洋の二つの文化を取り入れ、興味深い不思議な調和を作りだした人のように思える。オーロビンドは1862年にベンガルで生れ、少年の頃から親英家の父の影響でイギリスの学校で教育を受けた。その後もインド文化から離れ、イギリスに留まりケンブリッジ大学に入学した。ケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業し、西洋の学識者として母国インドに戻ったオーロビンドは名声が得られるインドの公務員の口を蹴って、インドの大学での教職の道を選んだ。それから彼の母国インドに関する勉強が始まった。
しかし、ちょうどその頃インドでは独立の気運が高まり、オーロビンドも当然のごとくインド独立運動に巻き込まれ、その結果刑務所に送り込まれた。オーロビンドは刑務所にいる間も時間を無駄にすることはなかった。インドに古くから伝わる精神的な書物を読み勉強を進め、クリシュナ神と毎日のように交信を持った。しばらくして刑務所から解放されたが、それでもイギリス当局から再逮捕される可能性が高く、友人たちは彼
に身を隠すように勧めた。しかし、その時点でオーロビンドにはギリシャの哲人ソクラテスがそうだったように、内なる声が聞こえていたようで、その声が隠れるように指示した時にどこかに身を隠すと友人たちに告げた。
最終的には身を隠せという声が響いたようで、オーロビンドはぎりぎりのところで逮捕を免れる。身を隠す為には彼はミナミのポンディシェリーに向かった。そこにはフランス領になっていたので、イギリス政府から拘束される危険はなかったのだ。ポンディシェリーでインド文化の一部として長く秘蔵されていた、永遠の真理についてさらに勉強を続けた。その間に彼を慕う人々が増え、オーロビンドは自分のアシュラムをこの土
地に設立した。彼のアストラル体は、前に紹介したように、いろいろな場所を旅したが、彼の肉体はそれから最後までポンディシェリーを離れることはなかった。
このアシュラムで生活する間、オーロビンドは多くの書物を著し、今彼の教えはたくさんの書物の中に記されている。彼の教義の中心であるマグナム・オーパスは神聖な生活というものだ。彼の教えを読むと、インドに古くから伝わる英知が、西洋の経験論の知識を学んだ人物を通して、生まれ変わっているのが分かる。オーロビンドは哲学的思考の持ち主であると共に、詩的なセンスも兼ね備えていたので、彼の永遠の叡智に対する叙述は哲学的ありながら、なおかつ詩的な文章となっている。
人間が必要とする永遠の叡智は、神から古代インドのリシたちに授けられた、と神智学との指導者は語っている。ベーダ、その中でもウパニシャッド経典に記されている真理以外に、特筆するような真理はない。そこで、ラマ、クリシュナそしてサイババに及ぶすべての教えや哲学は、古くから伝わる神の啓示を再び説いているにほかならない。もちろん偉大な人物たちは異なる言い方をしているかもしれないが、最終的には同じところに到達する。彼らは違う言葉を使い、違う部分を強調し、講義のやり方も異なる。
しかし、教えを奥深く理解すればするほど、結局言葉ではすべてを語り尽くすことができないと理解するだろう。インドの古書に書かれているクリシュナの教えを読めば、今日サイババの口から発せられるのと同じ真理が見つかるだろう。しかし、サイババの方が現在の語彙を使っている為、私たちにはわかりやすく、それだけ受け入れやすくなっている。サイババの教えは古代の教義から発生しているが、それを今日生きている多くの人々に伝わりやすくしているのだ。
オーロビンドは西洋の科学的文化を吸収し、その後インドの心である古代叡智を学んだ。その為、彼の教えは哲学的な部分が多く、万人向きとは言い難いところがある、と私は思っている。たとえていうなら、それは彼の偉大な心の中で味付けされ、彼独特な素晴らしい香料をふりかけた食物のようなもので、知識人たちにはご馳走だが、すべての人々の口に合うかは疑問だった。サイババはゴーカク博士に宛てた手紙の中で、オーロビンドは個人の為のアバター(神の化身)で、サイババは万人の為のアバターだと語っているが、それはこのことをさしているのだろう。
その他にも、オーロビンドの教えの中で、他の精神的教義では見られない興味深い教えがある。それはベーダからの洞察により生れたものだ。一般に人間の最終的な目標は地球とのつながりを脱し、ブラーマと一体になることとされている。違う言葉で言えば、人間は地球という教室で学び、学習が終わると祝福の光に照らされ、教室を永遠に後にし至福の地であるナルバーナに到着する。地球を後にしナルバーナに足を踏み入れた人間は、二度と地球を訪れることはない。
ところが、オーロビンドの教えではこの人間お目指す最終地点が異なるのだ。人類から超人類になる過程で、人は地球を離れる必要がなく、その地に留まったままでの変化が可能だという。今、超人類に変化する人が増えお互いに交信を行う中、オーロビンドは地上に存在する魂を更に数多く変化させるよう努力している。今日の科学者がいうように、すべての物体は実体であれ霊体であれ、特定のエネルギーが特定の場所で振幅された結果である。超人類の目的はすべてのものを霊的な高さに引き揚げることだ。それは人類を霊的に解放し啓示を与えることだ。神々の国が地上に出現し、地球での生活は天国のそれと同様なものになる。これは神聖な神の計画の達成と、神のもとでの体制の終了を意味する。進歩的な考えを持つ現代の哲学者の中には、もう神の国が地球に出現しているという人々がいる。それを感じられないのは、人間が実際に目にすることが出来ないからだという。
現在の超人類のはたす役割は、いまだに成長していない兄弟ともいえる人類を取り巻いている、神の国を存在を実感させることなのかも知れない。その国の存在が現実のものと分かれば、人類も次々と変化していくことだろう。
オーロビンドの霊的変化と生命と物質の行方に対する考え方はクリスチャンの理論と同様なものを感じる。キリストが処刑された後、彼の肉体は墓のなかに留まっていなかった。墓の中のキリストの肉体に消えてしまったのだ。肉体は聖ペドロがいう「霊的肉体」または「神の栄光を得た肉体」に変化してしまったのだ。最初にその変化に到達したイエス・キリストは「最初の果実(ファースト・フルーツ)」と呼ばれた。すべて
の人間もこれと同様な変化を経験し、肉体は霊的なものに変わっていくとキリスト教では教えている。キリスト教でも人類の最終目標は霊的に高まった肉体が神と結合することだ。
1951年にローマン・カソリック教会の法王が聖母マリアの肉体は地上から天に昇り、父と子と精霊の魂と結合していると述べた。キリスト教では父と子と精霊はそれぞれの姿を持ち存在している。この意味ではオーロビンドの教えはベーダンタよりもキリスト教に近いといえよう。
私が知っているオーロビンドのアシュラムのリーダーたちの中には、マザー・ミラが肉体の変化を達成し死を回避できることを期待している人達がいた。彼女の身体からは光が発せられているようで、彼女自身、体に変化を感じるといっていたが、結局肉体の変化を来たすことなく、イエス・キリストを除いたほかの人々と同じように肉体を後に残しこの世を去ってしまった。肉体の変化に到達することが人類の最終目標であれば、その時期はまだ到来していない。そして、これから先もずっと長い間、到達することがないのかも知れない。
しかし、シュリ・オーロビンドは重要なことを達成した。それは私たちに重大な意味を持つ「勝利の日」を迎えたことだった。それは1926年11月24日のことで、オーロビンドのアシュラムにいる人々は今でもこの日を祝福の日としている。オーロビンドは長い間、彼がクリシュナの意識と呼ぶ存在を地上に迎えるように働きかけていた。そして、この日に彼はその目的を達成したと告げたのだ。クリシュナの意識が地上に降り立った。その為、この日は彼と人類にとって、「勝利の日」になったのである。
オーロビンドが「勝利の日」を告げる一日前、つまり1926年11月23日にサイババがインドで誕生している。私を含むサイババの信者はサイババをクリシュナの生まれ変わりだと信じている。オーロビンドの「勝利の日」の宣言と、サイババの誕生は単なる偶然なのだろうか。クリシュナの意識を継いだサイババがインドのプッタパルティで23日に誕生し、その意識を感知できるオーロビンドが彼のアシュラムでその翌日に宣
言を行っている。そして今、サイババはクリシュナの意識、または神の意識と呼ばれるものを地上に広めることに力を注いでいる。彼は昼も夜も、地球の霊的領域から地上のすべての人の心の中に、神の意識を浸透させる為に働きつづけているのだ。
叫び声がした。「誰も足を踏み入れたことのない場所に行け。深く掘り、さらに掘り頑強な土台の石にぶつかるまで、そして鍵のかかっていない門を蹴り飛ばせ」
―――シュリ・オーロビンド
今まで紹介してきました五井先生とハワード氏のこの二つの文章の中でオーロビンドについて、五井先生は大聖者であると紹介されサイババ大聖はオーロビンドは個人の為のアバター(神の化身)であると教えてくださっております。他方、この場では紹介しておりませんが、クレーム氏の師である覚者の情報ではオーロビンドは第3段階上のイニシエートであると紹介されております。私もオーロビンドの進化のレベルを客観的に考察してみた場合に、やはり第3段階のレベルではないかと考えておりますが、それは、イエス覚者が当時第3段階のイニシエートでありまして、オーロビンドとだいたい同じような能力を示していたと考えられるからであります。最もあの頃のイエス覚者は、キリスト・マイトレーヤにオーバーシャドウされておられまして、オーロビンドと違い役目上数々の奇跡を現しておりました。
オーロビンドに関する進化のレベルについて、五井先生とサイババ大聖、そしてクレーム氏の覚者の情報は多少異なりますが、それはそれぞれの役目の違いでありまして、私から見ますとクレーム氏の覚者が提供してくださっております進化の段階のリストも、現段階では本当の情報は未だ明かされていないように思われます。例えば、五井先生の進化の段階は第7イニシエーション以上でありまして、その働きもコズミック・アバターであります。サイババ大聖もコズミック・アバターでありましてその働きはこの地球だけではないのです。
それでは最後に、ハワード氏の著書からサイババ大聖が世界の将来に関して言及している個所を「最後の聖者・サイババ/アバターの行いの章」から紹介して締め括らせて頂きます。尚、この文中にサイババ大聖がシバ神の化身であるとの個所が出てまいりますが、シバ神とはキリスト教で説くところの「父と子と聖霊」の聖霊の働きであり、日本の神道ではこれを神スサノオノ大神の働きとして説いておりますが、いずれも宇宙神の救世主神としての働きのことであります。人間の肉体は乗り舟であり器ですから、どこの国に現れようとも一なる神の働きが天命として顕現しているだけなのであります。
したがって、サイババ大聖は日本の神道から云えば神スサノオノ大神の化身として現れているのであり、そしてこれは五井先生も全く同様のことなのであります。
世界が悪と不正に包まれ美徳の力が衰える時私は常に姿を現す。その為、私は時代を超えて正当なものを救い、悪徳なものを破壊し美徳の再建を行う為に現れる。
クリシュナ「ザ・グレート・インサイト」
エドゥアード・シュアー著より
数年前、私はいつも不思議に思っていたことをサイババに質問した。
「スワミジ。インドの聖典によると地上に存在する神の化身は皆ビシュヌ神の意志を継いでいると書かれていますが、人々はあなたはシバ神の化身といっています。これはどうしてですか」
サイババは微笑みながら答えた。
「全ては一つだ。一つのものしかないのだ」
これはサイババの教えの大切な部分で、神は一人だけだが、いろいろな異なる姿で現れるため、違う呼び方をされているという。たくさんの顔を持つ神だが、インドでは三人の神がいるとされている。インドの聖典ではその神はブラーマ、ビシュヌ、シバと呼ばれている。そこで、私はサイババは一人の神でも、シバ神の面を備えている神の化身だという風に考えることにした。
シバ神は破壊と同時に新生の神である。それに、ヨガの修行を積むヨギを守る神でもあり、ヨギたちが時間のベールを打ち破り、果てしなく続く時の流れを発見する助けとなっている。シバ神の化身が地上に存在する理由は、人間の意志の進化を妨げる邪悪なものを破壊するためだろう。この二千年の間に悪が善を支配してしまったように感じられた時代がたくさんあった。しかし、それは人間の目から見た時の話で、神の目からすれば悪と善のたゆみない戦いの中で、一時的に悪の力が勝っていた時間だったのだろう。そのバランスを回復させるため、神は人間の姿に身を変え、地上に降りてくるのである。これから何世紀にもわたって続く宇宙のドラマを継続させるため、善の力を回復させるのだ。
サイババは前の世紀の終わりにシルディ・サイババとして地上に存在していたのだが、サイババはいかなる時代が未来に来ると案じていたのだろう。それは物質的価値や一見科学的な考え方が、人間を真理の道から遠ざけ、既存の宗教的価値をも押しやろうとする時代だ。少し前から人類は物質という間違ったものを神として信仰しだしていた。その結果として、ヒットラーのもとでユダヤ人の大虐殺がおこり、専制的なスターリニズムが生れ、核爆弾が落とされ、冷戦の時代に突入し核が人類の存在の脅威となってきたのだ。この流れを誰も止めなければ地球は破壊され、神の人間に対する計画もそこで終わってしまう。この災いへの脅威がそれから三代にわたる神の化身であるサイの誕生を招いたのだ。
1960年代、冷戦がもっとも硬直状態だった頃、核を使った第三次世界大戦が起きる可能性をサイババに聞いたことがあった。
「神聖な力に包まれた神の化身が地上に降りて来ているので、そんなことは起こらない」とサイババは確信に満ちた声で答えた。
私たちの目からすると、身体の小さなこの赤いローブを来た人間が、そんな重大なことを成し遂げられるのか信じられない気がする。
「神の化身は失敗するようには出来ていない」というのが彼の答えだった。
誰が質問をしても、サイババは同じ答を繰り返した。サイババにこの質問をした一人にボンベイに拠点を置く有名な新聞のマネージング・エディターがいた。彼はサイババのインタビューを紙面に掲載し、後にサイババを熱心に信じる一人になっている。新聞記事はスワミ(サイババ)の保証の言葉を正式に記録したものになった。しかし、多分それほど多くの人がスワミの言葉を信じたわけではなかっただろう。ある日、私たちはスワミに他の質問をしてみた。
「どの国の人々も世界を滅ぼすような戦争は好みません。でも、政府はどうですか。政府が引き金となる事態は起きないのでしょうか」
その頃、私たちはソ連政府のことが気になっていた。
「そうだね」とサイババは答えた。
「今ある政府は変わらなくてはいけない。そして、変化はやってくる」
シバ神が打ち鳴らす太鼓にはリズムがあり、すべてのものには適切な時期がもうけられている。その時期が到来し、私たちはロシアの驚くような変革を目のあたりにした。冷戦と核による人類滅亡の脅威は一夜にして消え去ってしまった。世界はほっとため息をつき、それを目撃した私たちは神の化身が約束を守ってくれたと喜んだものだった。
再び、冷戦の頃の話に戻るが、スワミは近いうちに人類にとっての黄金時代がやってくると語っている。小規模な戦争や人類として苦痛を伴う出来事は起こるが、二十一世紀の始めから人類は黄金時代に向かい、まずまずの平和と調和を獲得することが出来るという。
「それでは、プレマ・サイババは何をするのですか」と私たちは聞いた。
「することはたくさん残されている」とサイババはいった。
「世界の平和を継続させ、さらなる調和を図るのだ」
プレマ・サイババとは神聖な愛を持つサイという意味だ。この言葉通りプレマ・サイババがサティア・サイババよりもっと深いプレマを与えることが出来れば、人類の未来は明るいといえるだろう。しかし、神聖な計画の中には常にある程度の対立が含まれている。個人の対立は国家や世界の対立に発展する可能性があるが、神聖な意志の目標は対立を暴力に発展させないところにあるようだ。そうなれば、相対的にみて常に調和と平和が得られるわけだ。
世界に変革をもたらす場合でも、神の化身は個人単位の意識に働きかける。これは政府を変える時でも同じで、政府の中にいる個人の意識に働きかける。スワミの力の作用は目で確認できる種類のものと、表面からわからないものもあるが、どちらかというと、表面下で作用するものの方が多い。人の心の中の変化なども目に見えない作用の一つだろう。スワミは多くの人の心の最も深い部分に影響を与えてきたし、これからも何千人の人々の意識を変えていくだろう。しかし、いったいどうやって地球上に存在する何十億の人々に訴えかけていくのだろう。
ここまで考えて、実際にスワミがすべての人に直接彼の意志を伝えなくてもよいと思い至った。私はイエスのことを考えた。イエスは天国で小さなものを好んだ。それは、後に大きな木となるマスタードの種だったり、パンを膨らます時に使う酵母だったりした。力を内に秘めるものは、小さなものでもその数倍の影響力をもち、はるかに大きなものを作り出すことができる。もし、ソドムに十人の賢者がいたら市全体を救うことが
出来ただろう。千人の人の心の中に芽生えた神聖な光は、数百万人の心の中に浸透していくだろう。全体の中のある何人かが常に変化を経験すれば、人間性という名の船はバランスを取ることが出来、少しずつ神聖な目標に近づいていけるに違いない。神はどんな状況下でも、人々の窮する求めに応え、人間の心に啓示の光を投射し、平和を作りつづけていくのだろう。
時にアバターは神聖な輝きの一部として現れ、時には神聖な力を十分に備えた存在として姿を見せ、ある時には特定の目的を成し遂げる為
に出現し、そしてある時はその時代全体を変えてしまう為に私たちの前に姿を見せる。
私は最も精深な調査や、細心の測定を凝らした探求を超えた存在だ。
私の言葉は絶対に間違うことはない。私が存在していくように私の言葉は現実のものとなる。
私はこのアバターの目的を必ず果たす。この真実を疑うことのないように。
(サティア・サイババ)
☆サティア・サイババ公式HP【http://www.sathyasai.or.jp/】