祈りによる世界平和運動/霊覚のひかり




この霊覚のひかりシリーズでは、いままでに数多くの霊覚者が残された尊い御教えを紹介してまいります。




「三鏡」――出口王仁三郎聖言集より――


千の利休は明智光秀

『千の利休という人は、明智光秀のなれの果てである。明智光秀は山崎の一線にもろくも敗れて、ついに名もなき一土兵の為に竹やりにて突き殺されたと歴史に伝えてあるが、あれは嘘である。
  天王山の一戦で勝敗の決することは始めからよく承知しておったが、光秀は将士のたびたびの迎えを受けながら、わざとグズグズしていて、ついに勝を秀吉に譲ったのである。
  じつは、とくに光秀と秀吉との間には妥協が成立していたのである。
  聡明なる光秀は、たとえいかなる事情があったにもせよ、いったん主殺しの汚名を着たものが天下の将軍となっては長続きがせぬ、と言うことをよく承知していて、秀吉に勝を譲ったのである。
  そして彼は頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中にあって天下の大事を論じ、謀をめぐらして、秀吉を太閤の地位まで押し上してしまったのである。
  彼はじつに秀吉の好参謀であったのである。朝鮮征伐なども、彼の献策に出たものである。
  茶室に入るには丸腰となってにじり口より入らねばならぬ。元亀天正時代、荒武者を制御操縦するに持ってこいの場所方法であった。第一、秘密に保つに絶好であった。
  のち彼は娘の美貌が禍の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと世に伝えられているが、まったく跡形もないことである。
英雄、英雄を知る、諸般機微の消息は俗人にはわからぬ。』

【筆者がこのお話を伺ってある時のこと、二、三の方々にお話しておりました。たまたま座に岡山の太田栄子夫人がおられて、この話を裏書する面白い物語をせられましたので、左にご紹介致します。
太田夫人は、大正九年の頃、聖師様から「千の利休は明智光秀である」ということを承って、それをまた師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたそうです。そうすると名倉氏はそれをまた家元(当時第十三代円能斎氏)に話されました。
すると円能斎氏の顔色がさっと変わって、しばらくは物も言われなかったそうですが、太い吐息と共に口をついて出た言葉は「まあどうしてそれがわかったのですか」ということであったということです。そして、さらに語をついで「そのことこそ、千家に伝わる、一子相伝の大秘密であって、後を継ぐ長男のみが知って、次から次へと言い伝え語りつぎて世に知るものが絶えてないはずです。どうしてそれがわかったのでしょう」と聞くので、名倉氏は「霊覚によって分ったのです。丹波の国綾部町に、大神通力をそなえた聖者がありまして、その人の霊覚によって、その秘事がわかってきたのです」とて、聖師様に関するお話をせられました。
円能斎氏はいたく驚き、かつ感じ入り、ついに執事を波して綾部に参拝せしめ、ついで自らもまた参拝せられたそうですが、深くこのことを秘して人に語らなかった。
名倉氏もまた秘してしまったのですが、不思議なことには、3人が3人とも、相前後して同じ心臓病のため倒れてしまったそうです。
太田夫人は「これは秘してはならぬと思い、皆さんにお話しております」と語られました。
一座のものはこれを聞いて、いまさらのごとく驚き、聖師様の称え尽くせぬ御霊覚のほどを感じ入りました。
そして聖師様がもし、この霊覚によって訂正さるるならば、世界の歴史もずいぶん変わってくるかも知れないと思いました。(大正十五年五月・水鏡)】





                         ☆ 世界人類が平和でありますように