祈りによる世界平和運動/大平和実現の為に




【五井先生著/空即是色】より抜粋






ところが今までの宗教からゆくと、そのように出来ない。悪いものを見るからです。意地の悪い奴、いやなヤロウというのは消えてゆく姿です。「あいつより俺の方がいい。あいつは駄目だ」それも消えてゆく姿です。そう思いがちです。いい人でもたいがい較べてみます。他人と自分を較べてみるのは、業(カルマ)の較べっこをしているんです。業なんで較べたって同じことです。大して違わない。
  そんなことではない。業というのは、みんな消えてゆく姿で、実際にはないのです。あるものは神様の子としての兄弟姉妹なのです。人間は互いに神様の子としての兄弟姉妹、と言う心にならない以上は、地球界は終わりです。と一口にいうけれど、これはなかなかむずかしいことです。
  「先生にああ言われたけれど、まだあの人をよく思えないんです。私はよっぽど悪い人間で、業が深いんですね」と思うからね。それも消えてゆく姿なんだけれども、そうおもいがちなのです。そこで私はそう思わせないように「人を恨む心がある、人をさげすむ心がある、しかしその心も消えてゆく姿なんだ」と教えているのです。
  相手をいつも「いやな奴だな、あいつ。先生にいわれたから、いい奴に思おうと思うけれど、やっぱりいやな奴だ」と思うことがありますね。そこで「いやな奴だな、消えてゆく姿だ、世界人類が平和でありますように」とやるんです。あるいは「あの馬鹿やろうが、世界人類が平和でありますように」と思って、馬鹿やろうと思い、嫌なやつだと思い、蹴飛ばしてやろうかと思う、想いをもったままでいいから、世界人類の平和
を祈る祈りのほうにひっくりかえるのです。初めはなかなかむずかしい。だんだんやっていると、嫌なやつも何もなくなっちゃって、ただ気の毒だとか、あの人が立派になりますように、という祈りが自然に湧いてくるのです。そうなればしめたものです。それは菩薩行ですから、菩薩になるのです。信仰もそこまでいきませんとね。
おしんこやの新香と同じです。お新香だけじゃ栄養にならないでしょ。もっと栄養価の高いものを食べなければいけない。新香ばかり食わせるのが新興宗教(笑)そうでもないけど。私は新香ばかり食わせないで、ご馳走も食べさせようとしているんです。神様の大光明のご馳走を。それが世界平和の祈りなんです。
  だから少しぐらい善いことをしたって、威張ることもなければ、悪いことをしたって嘆くこともないのです。もし悪いことをしたとすれば、それは過去世の因縁が悪いことをしたことによって、消えてしまったのです。だから、アッしまった、悪いことをしてしまった、申し訳ない、と「申し訳ない」と思わなければだめです。
  それを「これはいいことを覚えた。先生がみんな消えてゆく姿だと教えてくれた」というわけで、隣の家の物を盗んで来ちゃって「お前どうしたんだ」「これは消えてゆく姿だ」(笑)。しかし、これは消えてゆきません。なぜかというと、悪いということを認めていないからです。消えてゆく姿を認めてないからです。  悪いことをして、また再び悪いことをするということは、消さないでまた悪いことを持って来たわけだから、だんだん積み重なってしまうのです。「悪いことは消えてゆく姿」というのは、「再びしない」ということなのです。
  たとえば間違って、青酸カリを飲んでしまったとします。そして助かったとします。さて再び青酸カリを飲みますか?死ぬつもりでなければ飲まないです。なぜかというと、青酸カリは毒だということがわかっているからです。悪い想い、悪い行ないは毒なのです。
毒であることがわかった人が、菩薩の道へ入る人なのです。
  消えてゆく姿ということは、この現象世界に現れてくる、すべてのことにあてはまることで、善、悪ともに消えてゆくのです。そしてあとに何があるかというと、神様の絶対善。相対的な善ではなく、絶対的な善がそこに現われてくるのです。だから善も消えてゆく姿なのです。
  善も、いいことも消えたと云う事でないと「私は去年も一昨年もいいことばかりだった。今年もよくて、昨日までいいことをしたんだから、たまに悪いことをしても、プラスマイナスで減りはしないだろう」なんて、うっかりすると思う。それでは駄目なんです。
  たとえば、去年うんと商売して儲かったから、今年は休もうか、ということはないでしょ。もうける仕事はいつももうけていなければ、マイナスになってしまいます。それと同じように、昨日やろうが、おとといやろうが、どんないいことをしようと、今日悪いことをすれば、それが全部ひっくりかえって悪いことになってしまうのです。そこで私がいうのは「いいことも悪いことも、みんな現われては消えてゆく姿なんだ」ということです。





常住坐臥の祈りを

悪いものも現われなければ消えないとすると、これも大変です。どれだけ悪いことがあるかわからないですから。
「現われれば消えるというけれど、先生、私は今後どれだけ現われるんですか」と聞きに来る人もあります。それは現われる前に消すのです。幽界で消す方法が一番いい。肉体界に現われないうちに消す方法です。それはどうしたらいいかというと、世界平和の祈りを常住坐臥、寝ても起きても、便所へいっても、顔を洗っていても、電車の中でも、何処でもいいから、いつも声を出して、"世界人類が平和でありますように"とやらなくていいから、心の中に、いっぱい染み込むように、世界平和の祈りをやっていることです。
  やっていると、肉体界に現われるものも、幽界で消えてしまうのです。たとえば大怪我をして三月も四月も入院しなければならないようなものが、かすり傷で治ってしまう。そのようになるのです。だから、世界平和の祈りにすべてを切り換えるのです。
  いいとか悪いとか、向うと相対的に較べていてはだめです。相手を見てはだめ、敵であると、敵とみているうちは、敵になるからです。けれど一度は敵とみてしまいますね。
過去世からのクセで、自分と相手は他人だ、みんな他人だ、と思います。ところがさかのぼってご覧なさい。みんな兄弟姉妹なんです。もっとさかのぼれば、神様の中に入ってしまうのです。それなのに他人だと思う。
  ところがそれは長い間のクセで、また肉体の自分を守る方法として仕方がないんです。
自分の家族の方が他人の家族より可愛いのは当たり前です。自分を可愛がるように出来ているのでして、それはそれでいいのです。
  そういうものが肉体の生活です。とするとその愛情も消えてゆく姿なんです。真理の愛というものは、自分の子も他人の子も同じにみます。この理論をそのまま実行しようとすると、天と地がつながらない。真理がそのまま降りてくれば、「神の愛は平等である。お前の子供も隣の子供も、まわりの子供もみんな同じなんだ。
平等に愛さなければいけない」とやられます。
 それはやってもできっこない。私も出来やしない。その為に個別に人間は現われているのです。この人間の常識の頭では出来ないけれど、神様の頭では出来るのです。
 肉体の人間では、自分の身内の方が他人の身より可愛いいんだから、宗教家がどういおうと、私は私の子供が可愛いんだ、私の妻が可愛いんだ、私の弟が可愛いんだ、ということになります。そうすると理想というものは、この世界では、肉体の人間の頭では成就しないんです。他の国より自分の国の方が可愛い。自分の国より他人の国を可愛がって、他の国のことばかりやっていれば、自分の国はつぶれてしまいます。だから肉体としては自分の国を守り、自分は自分の家を守るように出来ています。だから肉体としてはいつも相対的なんです。いつも相手があるんです。相手と自分といつも競争をしなければならない。
自分の国と他の国とがいつも競争している。だから肉体の人間の頭では、自分の一家と他人とを区別するのだから、平等の愛にはならないのです。絶対に。日本人が日本をアメリカより愛するのは当たり前でしょ。それを理想としては、日本の如くアメリカを愛さなければならない、と思うかも知れないけれども、実際には出来やしない。それを私はよくわかっているのです。
 そこで天と地を、天の理想を地の現実に結ぶ方法を考えているのです。
肉体の人間の考え方でいけば、自分を守るのは当たり前、自分の家族を守るのも当たり前。けれどそれではどうしても世界はよくならない。みんなが平等の愛にならないんだから。ああ、これではもう肉体の人間じゃ駄目なんだ、と手を挙げてしまうんですよ。
「肉体の人間では世界なんか平和になりっこない。自分の心に照らしてみればわかる」と。
 たとえば同じ飢饉の時、自分の息子には食べさせても、隣の息子には食べさせないかも知れない。百万人が百万人そうだと思う。自分の子を捨てても、他人の子を救おうなんていうのは、人類二十何億人かのうち、百人もいません。昔、松王丸なんていうのがありました。主君のために自分の子供を犠牲にする。あんなことは出来やしません。またやったら世間がごうごうと非難します。そんなことめったにあるもんじゃない。
 だから肉体の人間では、自分と社会の、小さな範囲だけでも平等の愛情は通わないんです。出来ないんですよ。まして世界の人類ということになったら、それは出来っこない。
自分の国を愛し、自分の民族を愛するのは当たり前だから。それはそれでいいんです。
それが悪いと言うのではありません。理想家はそれが悪いと言うのです。しかし理想はそのままでは現実にはならない。





肉体の人間には何も出来ない

そこで天と地の真ん中、理想と現実を真ん中で成就させるためには、どうしたらいいかというと、この肉体人間は駄目なんだ、ということをまず思わなければいけない。
「肉体の人間というものは単なる器でもって、みんな消えてゆく姿なんだ、自分を守ろうとする想いも、人を憎もうとする想いも、相対的に考える想いも、みんな消えてゆく姿なんだ。ああ、みんな消えてゆく姿なんだ。世界人類が平和でありますように」と、自分の頭の中の想念行為を、全部なくすために、世界平和の祈りの中にみんな入れてしまうのです。そうすると、神様のほうから、守護霊、守護神の方から、その人の心を傷めず、相手を傷めず、うまい具合に調和して、うまくやってくれるのです。
 たとえば自分は一日に百円いるとします。どうしても百円なければ生きられない。向うは全然ないとします。向こうへ五十円やればいいんだけど、五十円やったら両方とも食べられなくなってしまう。そうするとやりようがない。全部百円向うにやるか、自分が百円で食べるか、どちらかでしょ。そうなったら、どうしても自分は生きなければならないから、隣を見過ごしても、自分は百円で生きます。
 そういう時に「これは自分じゃどうにもならないんだ。世界人類が平和でありますように。どうか隣の人をお救いください。どうぞ神様お願いいたします。守護霊さん守護神さんありがとうございます。私どもの天命を完うせしめ給え、隣の人たちの天命を完うせしめ給へ」というように祈るのです。そうすると、向うの何処からか、五百円も六百円も、一万円も十万円も持った人が助けてくれるわけです。(これは昭和30年代位の話で今とは貨幣価値が違います。この頃はカレーが一杯20円くらいだったと思います。)
 なぜかというと、神様は無限だからです。無限の富、無限の愛、無限の智慧で、神様がいくら出しても絶対に減りゃしないのです。だから神様の中から出してあげればいいんです。神様の中から智慧を貸してあげ、神様の中から物質を出せばいいのです。そうする方法はどうしたらいいかというと、それは世界平和の祈りなのです。
 肉体の人間がどうやったって、本当の平和は出来っこない。本当の安心は出来っこない。
どうしたら自分も安心し、隣の人もお向かいの人も安心し、この国が安心され、あの国を安心させられるか、というと、世界平和の祈りの中へ自分の想いを全部入れこんでしまって、入りきりになると、神様の方から、あの人にもよくし、この人にもよくし、あの国にもよくし、この国にもよくする、というように、みんな富が分配されるのです。
そうすることによって地上天国が出来てくるのです。だからどうしても一度、この肉体人間は駄目なもんだ、ということを思わなければ駄目なんです。それを私は一生懸命といているのです。
 それを他力というのです。法然親鸞がやった南無阿弥陀仏なんです。それを私は、"世界平和の祈り"という現代で一番やさしい教えにしているのです。





祈りの中にすべてを投げ入れる

 それで私はどこにいるか、というと、天の理想と地の現実をつなぐ真ん中に、空っぽになっているのです。そして「世界平和を祈りなさい」とみんなに教えているのです。皆さんがお祈りすると、この空っぽの肉体を通って、ス―ッと神様の中へ入ってゆくのです。
そうすると、神様の光が流れいってきて、自分の体を通して横にひろがり流れてゆくのです。
 皆さんが空っぽになりさえすれば、世界平和の祈りの中へ自分の思いを全部入れてしまいさえすれば、自分もよくなるとととに、その周囲が必ずよくなるのです。ですからまず自分というものをいっぺん捨てなければいけないわけです。それは昔からいわれているのだけれど、「空にならなきゃだめだ」といいながら、空になる方法を教えてくれないんです。
 昔、偉い坊さんがたくさんいました。「空にならなければ駄目だ。ただ座れ。座禅観法して、空になる練習をしなければ駄目だ」というのです。「お師匠さん、どうしたら空になれますか」「カーツ!」と怒鳴られるだけです。しかし、今、この忙しい世の中の中で、いつ戦争が始まるかわからない世の中で、ただ座ってばかりではいられません。商売もしなければならないし、お勝手もしなくてはならない。そこで私はどういっ
ているかというと、お洗濯をしながらでも、煮物を煮物をしながらでも、お芋の味をみながらでも「世界人類が平和でありますように、この味噌はしょっぱいか。この煮付けは甘いか、世界人類が平和でありますように」と祈っていればいいんだ、というのです。
 いつでも世界人類の平和が、自分の中で鳴っている、そういうように思うのです。座らなければいけないというものではないのです。いつでも、世界人類が平和でありますように、と祈っているのです。それはやっぱり統一なのです。そうしていると、いつの間にか中身がだんだん、だんだん変わってくるのです。今まで、憎らしい、憎らしいと思ってしまうのを、なんとかして憎らしい想いをなくそうと想って、「恨むまい、恨む
まい」と想っている人が、世界平和の祈りをやっていると、知らない間に、憎らしいとか恨めしいとかが無くなっちゃって、「あの人もかわいそうな方なんだ、業に包まれているんだ。あの業が消えますように、あの人の守護霊さん、守護神さんお願いします」というふうに、自然に愛の心が湧いて出るのです。
 何故、自然に湧いて出るかというと、世界平和の祈りというものは、神様の御心なんだから、自分の想いが神様の御心の中に入って、神の御心と同じようになって、今度は、自分の心から流れる。そうすると自然に人が愛せるようになるんです。あの人が憎らしい、なんて思わなくなっちゃう。湧いて来てもスーッと消えてしまいます。
 本当に消えてゆく姿がわかってくると、妻と夫が喧嘩しそうになった時―――夫が会社でムカムカしたことがあって、我慢して帰ってくる。そして妻は自分のいう通りにしてくれない。「このヤロウ!」と思ってきても、消えてゆく姿ということがフッと浮かぶと、「この――」であとは無くなってしまう。喉あたりまで出て来て、消えてしまうのです。
 はじめはチャンチャンバラバラやる。その次はチャンぐらいやる(笑)その次はこの辺(喉元)で消えてゆくんです。ばかばかしくなってしまう。みんな消えてゆく姿なんだから、はじめからやるまい、というふうに自然になってくるのです。自然法爾(じねんほうに)、ひとりでに良い行いが出来るようになってくるのが、世界平和の祈りなんです。
そしてそれがやがては世界人類を救う祈りになるんですよ。





大平和実現のために

 この間、レバノンにアメリカ兵が、ヨルダンに英国兵が上陸しました。それについて日本政府は、国連で何をいったかというと、査察団として国連の兵隊をアメリカの兵隊に代わらせればいいだろう、という案を出した。がそれはソ連に却下されました。けれどその案を見た国連総長から「日本からも一つ査察団を出してくれ」と要請されたのです。すると日本は「憲法上、また実質上そういう海外派兵が出来るようになっていないから、ご免こうむりたい」と断ったのです。変な話ですね。アメリカ兵を引っ込ませるために、国連各国が代わりに出兵させればいいじゃないか、といっておきながら、自分のところの兵隊を出さないわけでしょう。実際、日本は軍隊などあリャしないんだから、出せやしません。そういう宙ぶらりんなことをやっている。そういうのを無定見というのです。いいだしっぺなのに自分はやらない、というのは本当におかしな話です。
 これは日本人でなくともよくあるんだ。ああすりゃ、こうすリャいいじゃないか、みんなが金出せばそれぐらい出来るんじゃないか、と、みんなにスッカラカンお金を出させておいて、自分は出さない。それと同じことを日本はやったのです。全く国際間の信用はゼロです。それは政府が無定見だからです。どうして無定見かというと、何も方針がないんです。ただ他人の鼻息をうかがいながら、政治をやろうと思っている。誰が
やってもそうです。誰がやっても「自分の肉体の人間は駄目なんだ、神様に全部任せなきゃ駄目なんだ」と、それこそ神の御心の霊感をいただいて、神智でもって政治を行わなければ、絶対駄目なんです。岸首相だって信仰がないわけじゃないだろう。けれどいいかげんなのです。
 アイゼンハワーはクリスチャンです。岸さんよりよっぽど信仰があります。アイゼンハワーの周りにもクリスチャンがたくさんいます。いながらもやはり小国の自由を奪うための兵隊を出しています。何故かというと、いいかげんな信仰だからです。全部神様に任せて「ああ、生きるも死ぬも神様に任せて」と霊感でやっているんじゃなくて、自分の頭の中で、考えを搾り出してやっているわけなんです。敵とみていますから、あれ
ぐらいのことしか出来ないのです。そういうものはいくらやっても駄目なんです。日本ばかりでなく、どこでも駄目なんです。ですからこのまま放っておくと、世界は破滅するより仕方がない。
 そこで大平和実現のためにはどうしたらいいかといったら、今までの考え方を全部捨てなければ駄目です。人間の頭で「ごまかしてればどうにかなる」という、ごまかしの考え方、ごまかしの生き方、ごまかしの人生観、人間観というものを、全部変えて、「人間というものは肉体ではないんだ。人間というのは神の分け御霊であって、神様が全部知っているんだ。だから世界を救うためには、自分たちが全部神様の中へ入りこんでしまって、改めて神の光として、この地上界に君臨しなければ駄目なんだ」という考え方になるのです。そのやり方の一番やさしい方法は、世界平和の祈りなのです。
 世界平和の祈りをしていると、自分の想いが全部なくなって、光が全部入ってきて、それが宇宙全体、地球全体に放射されるんです。そうすると戦争しようする考え方も変わってくる。いろいろ変わってくる。それともう一つは、宇宙人が助けに来る。宇宙人が降りて来て、守護神が降りて来て、我々と手をつないで横暴なる大国を押さえてくれる―――そういうことにもなるわけです。

(昭和33年8月2日)



☆世界平和の祈り      世界人類が平和でありますように
                 日本が(※自国が)平和でありますように
                 私達の天命が完うされますように
                 守護霊様、
                 守護神様、
                 五井先生ありがとうございます

☆この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明 が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化大調和に絶大なる力を発揮するのです。


【五井昌久先生の紹介】

大正五年東京に生まれる。昭和二十四年神我一体を経験し覚者となる。
祈りによる世界平和運動を提唱して、国内国外に共鳴者多数。昭和四十四年、ブラジルの権威ある団体より、宗教と哲学の探究者、世界平和の為に努力し、熱烈なる運動を展開する人道的思想家としてコメンダドールの称号と勲章を受ける。昭和五十五年八月帰神される。

          
       
                      ☆世界人類が平和でありますように