祈りによる世界平和運動/人類の変換する時
人類の変換する時
五 井 昌 久
――最後の審判とは――
新しい人類の誕生
キリスト教では,最後の審判ということをよく言います。これはキリスト教ばかりでなく、地球の最期ということは,他の宗教でも言っております。それはどういうことかと申しますと、地球には一つの周期がありまして、それを仏教では劫と言っております。
一劫が何千年か何万年か、あるいは何十万年かという時間がある。その一つの劫の終りにかけて、地球が大変貌する、人類が変わってしまうという時期があるわけです。それをキリスト教では最期の審判と言っているわけです。
地球人類が全部変わってしまうときには、どのようになるのかというと、今までの地球人類の考え方、生き方ではどうにもならなくなってしまう、という状態になるのです。そしてそういう時期が今、来ているのです。最期の審判というのは今なんです。
もっとも一つの劫の終りというのは、お釈迦様が現われた頃、イエスさんが現れた頃からズ―ッと続いているんです。それでいわゆる最期の審判が来て、そのあとに、新しい人類が誕生するわけです。新しい人類といったからって、何も皆さんが全部死んでしまって、全然、形の変わったのが出るというのではなくて、今の地球人類の考え方、宇宙観、人生観、人間観というものが、まるっきり変わってしまうということです。もっといいかえれば、肉体波動がまるっきり変わって、霊妙なる波動に変わる、というそういう時代が来るのです。それは必ず来るのです。
そういう時代が来る前に、どうしても人類は一つの関門を通らなければならない。今までの古い体から脱皮しなければならない。今までの生き方を変えなければ生きられない。そういう時期が今だというわけです。ですから最期の審判というのは、キリスト教の人たちが解釈しているような、あるいは在る宗教の解釈のように、地球人類が全部滅びるとか、三分のニ滅びて、残ったものだけが立派な人類になるとか、または半分だけ残って半分が滅びるとか、というようになるかどうかは、これからの人間の生き方によって決まるわけです。
最期の関門というものを、大過なく、災い少なく、損害少なく乗りきってゆくために、大神様は、いろんな人を地上に天下らしているわけです。お釈迦様もそうなんだし、イエスもそうだし、いろいろな聖者がその為に出ています。
最後の審判を乗り越えるために
私には世界平和の祈り、消えてゆく姿で世界平和の祈りという祈りの方法と、宇宙子波動生命物理学という科学を、神様が授けてくれたわけです。その運動とその研究をつづけていくことによって、それを完成することによって、地球人類が損傷少なく、被害少なく、苦しみ少なく、最後の審判を乗り越えて、新しい人類として生まれ変ってゆく。新しい人類に成長してゆく。生まれ変ってゆくといってもいいし、成長してゆくと
いってもいい。新しい波動の世界に住み慣れてゆく、ということになるわけだし、そうさせなければならない、と思っているわけですよ。ですから、私どもの提唱している、消えてゆく姿で世界平和の祈りという、祈りによる世界平和運動というものは、最後の審判を願わくば無傷で、誰も苦しまないで超えていきたい、越えていかせなければならない、という運動なのです。
そうした意味で、皆さん一人一人の使命、天命というものは、大変に重要なわけです。
ところがなかなか重要というようには考えられないのです。日常生活のごたごたしたこと、目の前に迫っているいろんなことがありますから、そういうものが大事なような気がして、永遠の生命を獲得する、いわゆる新しい優れた人類に生まれ変るということは、あまり頭にないわけです。
それよりも、この世の中の、今、現れている出来事をうまく処理できればいい、という考えで宗教に入る、あるいはこの世界平和運動に入る、というくらいなのです。だんだんわかって来た人や、あるいは熱心な人が、本当に身を挺して祈りによる世界平和運動をやっている、という形なんです。
私はそれでもいいと思うのです。一般の人が、家庭生活をそのまま営んでいて、現れてくる細かい出来事、つまり日常茶飯事のことをうまく処理するために、祈りをしているという事でも、いいと思うんです。祈りの筋は同じですから。やはり、世界人類が平和でありますように、という時には、救世の大光明の道に入ったことになりますから、どういう祈り方をしても、どういう思いで祈ってもいいけれど、やがては本当のことが
わかってくる、「ああ自分はこの世にとって大事なものなんだな。自分はつまらなそうな自分に見えるけれども、実はつまらない人間ではなくて、世界を本当に平和にする為の天使の一人なんだ、菩薩の一人だったんだ」ということが自覚されてくるわけなのです。
肉体人間としての自分が菩薩でないかもしれない。だけれども、世界平和の祈りをすることによって、当たり前の凡夫が、一般大衆が菩薩に変わってゆく、天使に変貌してゆくわけです。言い換えれば、天使や菩薩と合体して、この地球人類を救う大きな役目を、自分が荷っている、ということになるのです。
だから皆さんが何気なく
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私どもの天命が完うされますように
神様ありがとうございます
といっている祈り言は、知らないうちに、自分を高い高い波動の世界に運び込んでいるのです。皆さんが気がつかなくてもそうなんですよ。
一番大事なこと
ですから一番大事なことは、常に常に祈りをする。常に生活が祈りに始まって祈りに終わる。日常茶飯事が全部、世界平和の祈りを根底にしてやってゆく。その中で悪い感情が出たり、人を憎む思いが出たり、自分を駄目だと思う思いが出たり、間違ったことをしてしまったりしたら、「ああこれはいけないことだな。こんなことではいけない。これは消えてゆきますように、どうか神様一日も早くこういう悪いものを消して下さい。
もう私は再びいたしませんから、どうぞお願いいたします」と言って、その思いも込めて、その思いを消えてゆく姿として、世界人類が平和でありますように、という、大光明の中に常に入れていると、もうたゆみなく入れていますと、知らない間に、自分の体が光明燦然たる肉体身になるわけです。肉体身がそのまま霊体のように、光明燦然と光を放つ体になるのです。
練成会で手帳に「あなたの世界平和の祈りは、近頃だんだん光りを体内から発するようになって来た」というように書かれる人があります。そのように、世界平和の祈りが本当に軌道に乗ってくると、自分の体から光がパーッと出てゆくわけです。自分の本心の光も出てゆくわけですよ。救世の大光明と合体して、本心の光が出てゆく。そのようになってくるわけです。
そうすると、自分が言葉でとやかくお説教するんではなくても、自分が気がつかなくて相手が浄化されてゆく、相手が立派になってゆく、ということになるんです。声の言葉で相手を立派にするというよりも、人格そのものが、その人がそこにいることによって、まわりが浄まってゆく。知らない間に、柔和ないい人に変わってくる―――そういう人間に皆さん一人一人がなることが、一番大事なんです。
声の言葉というのは、つまり説教というのはいやがる人もずいぶんある。唯物論者や宗教のない人は、宗教の説教なんかいやがります。しかし柔和な、温かい、親切な人柄に接すると、その人柄から発する光によって、言葉を使わなくても、口をきかなくても、ああなんていい人だろうな、とか、何か好意を持つ場合がたくさんあります。それには唯物論者とか信仰とか関係ありません。人間と人間、いのちといのちがふれあってゆく、そういう関係になってくるわけです。
想念が光になる
だから宗教を説かなければ駄目だ、というものではないのです。宗教の説教がわからないから、あいつは駄目だ、ということもないんです。言葉以前の言葉、想念が光になっている。言葉以前の自分の人格というものが、光り輝いているようになれば、好意で「あんた、こうしなければ駄目ですよ」なんていわなくても、光が向うへ伝わっていって、向うは同化されてゆく。
そういう人間に一人一人がなることが一番大事だと思うのです。その為には、たゆみなく消えて行く姿で世界平和の祈りをすることです。消えてゆく姿というのは、反省のことです。ああこれはいけないな、と反省して、それを世界平和の祈りの中に入れてしまう。これを日常茶飯事に続けていれば、何時の間にか、自分で何とも思わないうちに、知らない間に、自分の魂は立派になっているし、自分の行ないは立派になってゆくのです。
ですから消えてゆく姿で世界平和の祈りをしていて、その行ないが立派にならないとすれば、その人の行ないがどこか違っているんです。反省がないとか、自分は思いあがってしまったとか、そういうことであって、常に謙虚な気持ちで、消えてゆく姿で世界平和の祈りをやることですね。どんなに年数が古くなっても、これをやっていかなければいけませんね。
最後の審判を何も恐れることはないのです。自分が消えてゆく姿で世界平和の祈りをつづけていれば、その人にとって恐れることはない。その周囲の者にとっても恐れることはない。そういう人が多くなればなるほど、この地球人類は怪我少なく、損害少なく、新しい波動に合わせて、新しい世界、地球人類の天国を創っていけるわけなのです。
(昭和41年2月20日)
☆世界平和の祈り 世界人類が平和でありますように
日本が(※自国が)平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
五井先生ありがとうございます
☆この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明
が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化大調和に絶大なる力を発揮するのです。
―【五井昌久先生の紹介】
大正五年東京に生まれる。昭和二十四年神我一体を経験し覚者となる。
祈りによる世界平和運動を提唱して、国内国外に共鳴者多数。昭和四十四年、ブラジルの権威ある団体より、宗教と哲学の探究者、世界平和の為に努力し、熱烈なる運動を展開する人道的思想家としてコメンダドールの称号と勲章を受ける。昭和五十五年八月帰神される。
☆世界人類が平和でありますように