祈りによる世界平和運動/『人類の未来』より転載


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             生 命 の 教 育


                              五 井 昌 久





学校教育はこれでいいのだろうか


人がこの世に生まれてきて、十五歳になり二十歳になり三十歳になり四十歳になる。食べて着て遊んで、、そして学問をして就職をする。やがて結婚をして、親となり祖父となり祖母となり死んで行く。
  人によってその生活環境はそれぞれ異なっていても、生まれきて死んで行くということにおいては何人たりとも変わりはない人生なのであります。
  この地球世界にいったい人類は何をしにきたのでしょう。何の目的もなく意志もなく、肉体人間という生命体が、突然に生まれ、そして、増加してきたのでしょうか。自分自身がそれぞれ勝手な生活をして、百歳にも満たずに死んで行く。それで一人一人の人生は全部終了してしまう。それだけの生活に一体なんの意義があるというのでしょうか。
  善いことをした、悪いことをした。そうした一人一人の人間の行為も、死んでしまえばそれまでであって、その人自身が悔やむことも喜ぶことも、死を境にしてすべて無くなってしまう、ということで、人間は真実の満足が得られるものでしょうか。
  現代の世相をみていますと、幼稚園から大学まで、入試入試で親子共々追いまくられ、ただただ学校へ入るだけで、幼年期から青年期までの一番大事な期間を、その時々の試験問題を頭で覚えこもうという、永遠の生命からみてなんの関係もない、その時ばったりの記憶力の練習で過ごしてしまっている状態です。
  そして大学へ入ると、ひとまずほっと安堵して、何か開放感を覚えて、今まで遊べなかった分を一斉に取り返そうとする。破目をはずして遊びたい気分になる。しかし、期末期末のテストがあるから、その時だけはまたまた、頭にだけ詰め込む勉強をはじめる。
  人間にとって最も大事な問題である、人間は如何に生きねばならぬものか、ということも、人類とはいったいなんのためにこの地球世界に生まれでたものなのか、という大切なことも、学校では一切教えてくれないのであります。学校で教えることは、生活の技術的なことであり、生徒の方は一日も早くこのつまらない学問の縛りから抜け出たい、という気持ちで一杯なのです。これは勿論一般論で例外はいくらもあることですが、一般的にみると、こういう具合になっております。
  人間はいったいなんのために学問をするのか、学問知識をつけて学歴をつけて、よい就職をし、この世でのより高い地位を獲得するためにするのでしょうか。それも確かに必要ではあるでしょう、しかしそれだけでよいのでしょうか。そこがはっきりしていないことが、人類が真実の平和生活をつくりあげられない、大きな原因なのであります。
  人間にとっても人類全体にとっても、一番大事な問題を何も教えないでいて、枝葉のことばかり教え込むことより、根本問題を先ず教えて、その根本問題を中心にして、枝葉末節的な学問技芸を教え込むようにしないかぎりは、立派な人間はそう育まれてゆくわけはないし、従って人類が真の目的にそった生き方をしてゆけるわけもないのです。




三つの根本問題


それでは人間および人類全体の根本問題とはいったいなんなのでありましょう。
それは、この肉体人間に宿っている生命、いいかえれば、肉体人間としてここにこうして現われている生命の本質というものはなんなのか、
人間生命というものは、いったいどこからきて、どこに行くのか、地球人類がここに生活している目的はいったいなんであるのか、この三つの大きな問題を根本にしての教育があり、人生観がなければ、地球人類の進化はいつか止まってしまい、滅亡の淵に追いやられてしまうことは必然であると想うのです。
  この重大な三つの問題をなおざりにしておいて、人間を教育しようと思っても、人類の平和を築きあげようとしても、肝心な根本の思想が確立していないのですから、善い教育ができよう筈もないし、人類が真実の平和世界の軌道を進むわけにもいかないのは理の当然なのです。
  現在どこの国でも問題化している、青少年の不良化も、前述の三つの根本問題を世の大人達が真剣に考え、その道に向かって突き進んでゆくようにしないことには、到底解決できないことであります。
  この三つの問題は、個人的には懸命に探求している人々がおりますが、各国家が、国の教育方針としてこの問題に取り組んでいない現在は、教育機関の総体的な地位を占める、国家の認可している学校教育が、この重大な根本問題には一歩も手を触れられぬ状態になっております。
  そして民間の宗教団体が、各自思い思いの方法で、この問題の片鱗に触れて、個人個人の人生観を永遠の生命の道につないでゆこうとしているのであります。しかしこれはあくまで科学的なものではなく、直感的な分野に頼っていますので、宗教というものに触れない人々にとっては、何の関係もないことになります。




生命の神秘の探求で生命礼拝の教育を


  個人生命と永遠生命とのタテのつながりというもの、個人と人類とのヨコのつながりというものを、もっとはっきりさせることもこの三つの問題との関連性によってなされるわけなのですが、これが、テレビの受像機を置いて電気を通じ、ダイヤルをひねれば自ずと画像がうつり、声が聞こえてくる、と同じように、各学校がテレビの受像機代わりになって、こうした講義をすれば、嫌でも応でも、学生の心にはこうした講義の内
容が入ってきます。幼稚園生や小学生には、まだ唯物論も唯神論もありませんので、講義の内容がそのまま入ってゆきます。幼少の頃に覚えたことは意外と根深く心にしみておりますので、大人になってもその事柄が、運命を左右するような決定的な作用をすることがあるものです。
  そこで、幼少の頃から青年に達するまで、生命の問題を講義し探求してゆくような傾向をつけてゆけば、生命の浪費をしたり、他人や他の生物の生命をいたずらに傷つけたりするような人間は自然といなくなってゆくのであります。
  これは、欧米諸国でやっている、教会での日曜礼拝などよりは、もっともっと深いものでありまして、単に宗教的に神を説くというようなことではなく、生命そのものの探求によって、自ずと、生命礼拝の思想になるように、科学的な知識を持って、教育してゆくことが大事だと思うのです。
  宗教的なことだけでは、世の大人達の中には無神論や唯物論者がたくさん存在しますので、そういう教育に反対する人が、スムーズに教育ができにくいと思います。そこで、教育の仕方はあくまで科学的でなければいけないと思うのです。
  世の中には宗教精神を持った科学者もかなりおります。そうした人々の科学の話は巧まずして宗教精神が溢れてくるので、科学的な講義を聞きながらも、生命の神秘に対して、敬虔な気持ちを生徒たちが抱くようになるのは必然的です。
  こういう教育は、幼稚園、小学校からやらねばならぬことで、必須科目としてやるべきなのです。これは民間団体がやったのでは効果は少ないので、あくまで国家がやらなければなりません。




根本問題の解決に国家は主力を注げ


ところで、こういう提案を私が致しましても、おいそれと国家が受ける状態にはなりませんでしょうし、人間にとって重大な根本問題ということでも、これだけでは抽象的であってわからないし、それが一番わからない問題で科学的にも判然としていないのだから、教育のしようがない、というかもしれません。
  私も実際にそうだと思うのです。だからこそ判然とするような方向に学者や教育者を向けてゆかねばならないのです。自分自体を支えている生命そのものがどこからきたもので、どこへゆくのかということもはっきりしない、人類の目的もはっきりしない。
そんな根本問題をはっきりさせずにいて、国家の政治だとか、人類の指導だとかいうことが善くいえると私は思うのです。
  そういうことは民間の宗教者が勝手にやればよいことで、国の政治をあずかる者や、人類世界の平和をあつかう国連の担当者は一切あずかり知らぬことだ、では、国家や人類の首脳と目される人々の人格を疑わざるを得ません。
  人間や人類にとって一番大事なことは、国や人類にとって、一番責任の軽い民間の宗教者にやらせておいて、枝葉末節的な当面の政治政策だけを自分達がやればよい、というのは、これは全く反対のことではないでしょうか。実に面妖なことであります。
  人間にとって最も大事なものは生命であることは論を待ちません。生命がなければ人間はありません。生命があってそこに生活が生まれ、国家や人類の存在があるのです。そういう生命の存在を探求するのに、国家や人類がなぜ全力をあげて当たらないのでしょう。
  肉体が最初にあって生命が生まれたのでないことは誰でも知っています。大自然の中に生命エネルギーがあって、諸々の生命が生まれ、肉体人間という存在もそこから生まれでたものです。その生命の実体を探求する学問に費やす経費は微小であって、世を破壊する兵器に費やす経費が莫大であるなどということは、実に正気のさたではありません。
  人間生命が肉体の中だけあるものなのか、それとも肉体が死滅した後々までも存続するものなのか、また、肉体未生以前の生命は、どのような形で存在したものなのか、こうした問題が判然とすれば、お互いに相手国を敵とみて兵器を競い合うなどという愚かなことをする必要がなくなります。
  神とか仏とか霊とか幽とかいう名称を使わなくとも、大自然の生命の流れの一齣一齣の在り方として種々と探求してゆけば、無神論、唯物論の人々でも抵抗を感じないでしょう。
  それには国家にとっても、人類全般にとっても研究費というものがいります。兵器にかける費用は惜しまないが、そうした経費は惜しんで与えない、というのは世界の政治家たちがいずれも、顛倒妄想の人々といわねばなりません。こういう昔ながらの悪癖が世界の政治家の心を占めている限りは、地球世界はやがて滅亡に至るより仕方がありません。何故ならば、そういう国家や人類は根の無い木のようなもので、強いあらしがくれば倒れてしまうからです。砂上の楼閣ともいえましょう。




宇宙船の建造より身近な生命の探求を

人類の偉大な科学する智慧を、何故ゆるぎない人類世界創設のために使わないのでしょうか。科学は人類のためになっている、という人がいるかも知れません。なっていることは確かです。しかし、それは現象面の僅かな利益のためでしかありません。
  そうした智慧を何故永遠の生命と個々人の生命との関連に向けて行かないのでしょう。少しの人の力で、それも僅かの費用で、そんな重大な研究をしようとし、させようとしてもそれは遅々たる歩みにすぎません。心有る科学者はそれを嘆いているのです。
  大宇宙の中心はやはり生命エネルギーです。大宇宙はそのまま大生命体として生き生きと活動しているのです。月や金星や火星を目指す宇宙船の建造も結構です。しかしもっと身近でもっと安価で、もっと重大な根本問題である大宇宙の生命と人間生命とが、一つにつながる、一つにつながるということは、大宇宙の神秘な中心的なことがわかる、とい云うことです。そうした大事なことが、この肉体を持った人間自体を通して判然としてくる科学の研究方法があるということです。ヨガの行法なども禅宗の座禅などもその宗教的なやりかたの一つです。
  そうしたことを宗教という名を借りずに、科学の研究としてやることが必要なのです。そういう方面に個人の団体でなく、国家が音頭を取って、科学者を中心にしてやることを必要とするのです。
  科学者が中心になってやらなければ、一般の人たちは納得を致しません。その費用はあくまで国家が負担するようにするのです。個生命の探求と大自然大生命の探求ということに国家が本腰をあげられるように、私達は宗教の面から人々を導き、宗教と科学との一致点をつくりあげることを心掛けているのであります。
  私達にとっては、人間生命とは肉体にのみあるのではなく、各種の体を持って活動しているものであることは、当然のことと思われています。私など体験としてよく知っているのです。そしてこの地球人類というものが、この地球世界の物質波動の中で、大宇宙の大調和の一環として調和世界をつくりあげる大目的のために生存しているのである、ということもよく知っているのであります。宗教的にいえば、神の御心を地に顕すために、この肉体人間として地球界に住んでいる、ということになります。
  そして、一人一人の人間それぞれに天命がありまして、その天命を果たしきるまでは、何たびでも地球世界に生まれてきて、やがてその天命を果たすと、他の界や、他の星の世界に移住してゆくのであることも知っております。
  しかし、これは宗教的な体験でありまして、科学的に説明するまでにはまだ至っておりません。ところが、私どもが神の御心を地に顕すための世界平和の祈りの運動をつづけておりますうちに宗教と科学との一致点をはっきり打ち出せる、宇宙子波動科学という科学の智慧を大生命、直接には宇宙天使によって教えられ始めたのであります。
  これはそのままが大調和科学でありまして、調和の心の波動のないところに生まれでない科学なのです。この科学の生まれた目的は地球世界を大調和させる目的で生まれでたのでありますから、それにたずさわる人々は、いずれも調和した心的波動の持ち主でなければなりません。
  世界平和の祈りを祈りつづけていた私達の心の波動がそのまま大調和科学の原理と一致したのであります。一口に科学科学といいますが、科学の出発点は宗教と同じように、直感的な想像力でありまして、科学の開祖たちは、直観力、創造力のすぐれた人々であったのです。




真剣に取り組んでほしい生命の問題

人生を同じように歩いていながら、宗教者としてたつような人は、その生命のひびきを、心の問題として取り上げて、内面的に深く掘り下げて神の御心にまで達しようとするし、科学者として立つような人は、自らの生命のひびきを外的な大自然や物体に結び付けて、大自然や物体の分析解剖によって、この世に直接役立つような分野のものとする。しかし、両者いずれも生命のひびきをとらえて活動することにかわりはないのです。
  生命のひびきを内に向かって探求してゆく宗教者も、外に向かって探求してゆく科学者も、いずれも根本的には、大宇宙(神)の御心に深く入ってゆこうとしているのであります。
  宗教者や科学者として立っていない人々でも、どちらかいずれかの想いを多少なりとも持っているものなのですが、その日その日の収入を得る生活のために、表面にははっきりそうした気持ちが浮き出てこないのであります。
  ですから、国家や人類の指導者達が、生命という問題を表面に打ち出して、何にも増して、生命の問題を考えるということを指導していったら、世界は急速に明るい方向に変化してゆくことでありましょう。
  誰も彼も生命を問題にしていない人はいないのです。ただそれが肉体という生命だけを問題にしているところが駄目なところなので、永遠の生命としての生命、大宇宙大自然の生命というものとの連関性としての、個々の肉体生命というものを、はっきり考えさせるようにしてゆくことが大事なのです。
  個々の肉体生命が実はその底深いところにおいては全く一つのものなのである。親子の生命が全く一つに思われることがあるように、誰も彼もが、生命においては兄弟姉妹なのである、ということを、科学的にも宗教的にも教えることができるのですから、各国、あげてこの問題に力をそそぐべきなのであります。
  それから宗教的にいう、因縁因果の説を、科学的に説明できるような研究も必要であるし、想いの波動のありかたの研究も科学的にできることなのですから、こういう研究も必要なのであります。
  人間を使って、大自然のあり方、大生命の流れというものを、かなり深く研究することもできるのですから、やることがたくさんあります。科学の眼を外にばかり向けずに内に向けようというわけです。逆に宗教の眼を内にばかり向けずに外にも向けよ、ということもできます。
  宗教家が、個人の悟りにばかり眼を向けていて、社会や人類の問題を冷然と見ているのもどうかと思いますが、近頃は大分、社会人類という大乗的な立場に眼を向けている宗教者も多くなってまいりました。
  ところが、これがまたいき過ぎてしまって、宗教者が唯物論的になってきまして、心の問題をよそにして、社会改革とか、政治問題とかいう、外面の問題だけに力を集中しようとしている傾向も出てきております。
  宗教者はやはり、あくまで心の問題が主でありまして、心の問題を主点にして、そして、大衆の利益にも力を貸してゆくということでなければ本末顛倒してしまいます。




人類の使命


宗教も科学も政治もすべて、大宇宙神の御心(法則)をこの地球界に顕現するためのものなのですから、すべて大宇宙の法則に乗ってゆくということを心がけなければなりません。
宗教者や科学者は政治化を助け、政治家は宗教者や科学者の研究発展を助けるようにしてゆかねばならぬのですが、宗教者にしても科学者にしても、その本道を外れた人々がありますので、この見分けをすることが大切なのであります。
  その見分け方を一口にしていえば、そのいく道が調和に外れているか外れていないか、調和であるか不調和であるか、ということなのです。
調和の道を外れているのは、宗教と科学とを問わずこれは人類の使命に反するものなのであります。
  何故ならば神のみ心は大調和心であり、宇宙万般はみな調和に向かって進んでいるからなのです。しかし、そうおっしゃるけれど、この世の中は不調和そのもののような状態がたくさんあって、宇宙は調和に向かって進んで行くようには見えないが、と言う人もあると思います。  
  この現象界は確かに不調和そのものに見える点がたくさんあります。動物たちの弱肉強食などその最もなる例です。その他地震や暴風雨や洪水や種々とあります。
  しかしこれらはみな過去世からの、いいかえれば生物が発生してきた頃からの未発達な生命体のその生命要素を交流し合う様相の引き続いて行なわれている状態でありまして、生物が進化してゆくにしたがって、そういう状態は消え去ってゆくのです。地球人類はまだそういう状態の消え去らぬ生物体なのでありますが、地球人類の中でも、もうそういう未発達の状態を抜けっきって、調和そのものになりきってしまった人々がかなり出ているのです。聖者賢者と言われた人々はみなそうなのです。
  ですから私どもがすべて聖者賢者と同じような想念波動を持つようになれば、私どもの眼に現在触れておりますような、弱肉強食の姿も、天変地異も全くなくなってしまうのであります。進化した星の世界はそういう羨ましい状態が現実としてあるのであります。
私達に宇宙子科学を指導していてくださる宇宙天使というのは、そういう進化した星の世界の住人なのであります。
  そういう世界には、地球人類の想像もできないような、超越科学が完成されておりまして、どのような形にも現われ得る、まるで忍術を地でゆくような、科学力を備えているのであります。テレビで子供の時間によくやっている宇宙人のやるようなことが真実に科学的にできるのであります。
  そういう宇宙人に私達は、日々科学の智慧をいただいているのです。これは文章で蝶々すべきことではなく、やがて何年かの後には、実現させての上に説明したいと思っています。
  そういう私達の宇宙子科学はそれは実現した上でのことではありますが、現在の地球の不安混迷を一日も早く救うためには、先ほどから申しておりますように、地球人類の使命は、宇宙大霊の大調和の御心を地球界に実現するための働きであるのでして、すべての力を調和の方向に進ませてゆかなければならないのです。これは国家や人類の指導者の何をおいてもやらねばならないことで、科学も宗教も教育もすべてそこに重点をおいてやっていかねばならないのです。
  私はそれを世界平和の祈り、と言う行為にして宣布しているのであります。すべての悪や不幸は過去世の未発達だった頃からの因縁の消えてゆく姿である。だからその消えてゆく姿を、宇宙神の御心そのものである、大光明そのものである世界平和の祈りの中に、日々刻々入れ切って生きてゆきましょう、と説いているのであります。それが個人個人の誰にでも容易にできる人類の使命達成の道なのであります。




『掲載者付記』




宇宙人の超越科学

 『生命の教育』の文章の最後で、五井先生は宇宙人の科学力について触れておられますが、ここで述べている―――忍術を地でゆくような超越科学力―――を宇宙人たちは如実に現在地球人たちに見せ付けております。
その代表的なものの一つが、ミステリーサークルと呼ばれているイギリスを中心として、世界中でおきている麦畑等に忽然と出現する巨大な絵模様です。
 このミステリーサークルは十数年前から忽然と出現するようになったのですが、最初は円の形から始まりました。これについてイギリスの科学者は、最初、風で出来たのだろうと真面目に推論を述べていたようですが、しかしながらしばらくすると、その推論をあざ笑うかのように、どのような風が吹いても出来得ない形が出現し始めたのです。
 この次に出て来た説が当然ですがイタズラ説です。(イタズラ説については勿論最初からありました)で、実際に私達が作ったのだとマスコミに名乗り出る人たちも現われました。そして実際に彼等はミステリーサークルを作って実演して見せたのですが、しかしそれはすべてのミステリーサークルを説明するにはあまりにも説得力のあるものではありませんでした。しかしながら、その二人の活躍(?)によってそのイタズラ説を信じた人たちもおおぜい現われたわけです。ところが、そのイタズラ説が世界中で話題になっている頃、彼等がどのように逆立ちしても作り得ないミステリーサークルが、これまた忽然と出現し始めたのです。そのミステリーサークルの中には、非常に興味深いものがありました。それは、ポルトガル語で"OPPONOASTOS"という文字が現われた現象です。
 その意味は「我々はずるいこととペテンには反抗する」というものでありました。


消滅し始めたイタズラ説

 最近ではイタズラ説を主張する人も少なくなってきているかと思いますが、実際本格的にミステリーサークルを研究している人達から、イタズラ説が出ることはないのではないかと思います。何故ならそれは、あまりにも巨大にして複雑かつ精巧を極めており、高度なテクノロジーがそこに介在しなければ作り得ない状況だからです。
 実際、今の地球の科学を持ってこれを作り上げようとしても無理ではないでしょうか。何故なら、麦畑には人が入った形跡は一切なく、農場の経営者は勿論、世界中から押しかけてくるミステリーサークルファンや真面目な研究家の個人やグループが、ミステリーサークル形成の瞬間を押さえようとして、一日中見張っているからです。そんな中、詰めかけている人たちの期待を裏切るかのように、本当は期待に応えているのかもしれませんが、サークルは忽然と姿を表すのです。
 その姿形も巨大で、数十メートルはざらで数百メートル級のサークルもたくさん出現しているのです。その数は、このようなサークルメーカーにとっては困難と思われる状況のなか減るどころか年々増え続けているのです。その数は驚くことなかれ年間何千個のレベルです。しかし一番興味を引かれるのは、その出現の在り方や姿形の巨大さは勿論ですが、その姿形の内容なのです。それはあらゆる専門分野の専門の知識が、その姿形のなかに織り込まれているからです。ですから最初はその形を一般の人たちが見ても判らないのですが、その筋の専門分野の方達が見た時にはじめて、その形の特殊性に気付くという現状なのです。(勿論、一般の人たちが見ても判るような形も数多く現われています)
それは音楽から科学や気象学、芸術や数学、考古学や宗教等など多岐にわたっています。
またイギリス政府はミステリーサークルが出来ると、農場主にお金を与えて麦を刈り取らせてしまうそうです。何故イギリス政府がそのような行動に出るのかは知りませんが、最近のミステリーサークルは麦を刈り取ってさえ、その後に刻印を残すのです。
 それは廻りの草が茶色く枯れていても、サークルのあった部分だけは青々と植物が繁茂しているのです。そこには美しい青い絵模様が残されているのであります。それはまるでサークルメーカーが自分達は良い影響しか与えないと主張しているかのようでもあります。
 この様な、――『忍術を地でゆくような超越科学力』――を宇宙人方は持っておりまして、その様な超越科学力を駆使して、かげから地球人類を守護してくださっているのが現状なのです。
そのため、五井先生は宇宙人のことを、宇宙人と呼ぶよりも宇宙天使と呼ぶようにしていましたが、宇宙天使からみれば五井先生は自分達の代表的な存在であったわけでありまして、世界平和の祈りの団体と宇宙天使とのあいだに密接な協力関係があったわけで、今まで説明してきましたミステリーサークルを作っている宇宙天使は、五井先生が交流をされていた宇宙人と同じ存在なのであります。
 そのためかどうかは知りませんが、去年のミステリーサークルの中に日本の忍者の「くノ一」=「女」を現わす形が現われました。このように宇宙天使は何等かのメッセージをサークルなどに込められる場合があるわけでして、それは五井先生の御著書の一節を指摘しているように私などには取れるわけです。これは五井先生の御教えが大切であることは勿論ですが、今の人類にとって『生命の教育』が何よりも大切なことを教えてくださっているのでしょう。これはマイトレーヤが、世界中の家々の窓に現わしつづけている、光の十字架がやはり五井先生の御著書の中に、予言とも取れるような言葉で綴られている事などと同じと観るべきで、マイトレーヤも宇宙天使も五井先生を指し示しているのです。
 これは五井先生なくして日本の天命は有り得ず、日本の天命なくして世界完全平和の確立は有り得ないからです。その為去年のミステリーサークル、つまり新しきミレニアムの年に、日本の皇室の紋章である菊花紋が、これはユダヤ教からいえばメシア章ですが、この形が出現したのは当然であるとみるべきでしょう。



宇宙船の建造と生命の探求

 五井先生は『生命の探求』の章の中で、宇宙船の建造よりも生命の探求の重要性を説いておりますが、これこそ日本が国家を挙げてやらなければならない研究でありまして、宇宙船の建造や他の天体の探索等は、他の国に任せておけばよいのです。(勿論、気象衛星などの必要性のあることは重要なのですが)
 といいますのも、一般的には信じられないことかも知れませんが、人間が宇宙意識を開発しますと、他の天体のことや宇宙のあらゆることが、手に取るように判ってくるようになるのです。そのような方たちが、地球世界には少数ながら存在していまして、本来はそのような宇宙意識を開発した方たちを宇宙人と呼ぶべきなのです。
 ですから日本は、宇宙船の建造や宇宙探索に力を注ぐのではなくして、宇宙生命と人間生命との霊的、科学的な探求に全力を注ぐべきでありまして、本来生命とは霊という言葉や神と云う言葉の別名でありまして、つまりこれは宗教的に云えば、個人と国家の霊性の開発に通じていくのでありまして、これが日本民族の天命の完うへと発展していくのであります。
 宇宙人のテクノロジーはミステリーサークルを見れば判るように、どのように逆立ちしても地球人類の手の届く範疇のものではないのです。彼等のテクノロジーが地球人類に与えられるのは、地球人類側が霊性の開発を進め彼等の波動と同じ波動をかもし出せるようになった時しかないのでありまして、そのような神聖な波同圏の中でしか、宇宙天使のテクノロジーを受け継ぐことは出来ないのです。
 私達の世界平和の祈りは、まさにそのような波動圏を作り出すためにこそ為されている運動なのでありまして、五井先生の教えにあるように『宇宙人の心の波に、世界平和の祈りのひびきが合わせてくれるのであります。』
 その光は、一人一人の個人から日本を照らし、日本から世界を照らし、この地球世界を宇宙の重要な平和境へと進化せしめてゆくのです。



今後のミステリーサークル

これからのミステリーサークルには、五井先生や出口王仁三郎聖師そして日本を意味するような内容が必ずや盛り込まれてゆくことでありましょう。(出口聖師に関しては数年前のミステリーサークルにおいて数多く出現しておりました。それは見る人が見れば分るのです。)
 これは日本の天命の重大さの故なのですが、五井先生はその御著書『神は沈黙していない』の中でこのようにお書きになっております。
『―――さて、ここで、生まれ変り生き変わって生きつづけている方の永遠の生命は、どうしても一般大衆に知って貰わぬと、地球世界の平和達成が遅れてしまうと思いますので、私が現在やっている方法と、これから行われるであろうと思われる在り方を申し上げます。


私の指導方法

私は世界平和の祈りを根本にしての個人的救済と人類平和の達成の為に、救世の大光明団体の器として場所として働いているのでありますが、救世の大光明の働きである世界平和の祈りに人々の想念を統一させる方法として、消えてゆく姿と守護神、守護霊への感謝行を教えるわけなのです。
 人間はすべて神の子であり仏性であって、永遠の生命をこの世において生かしているものである、というのが大乗の教えであり、私の教えているところでもありますが、これだけでは、この苦難にみちた業想念波動の世界をどう判断していいのか、頭のよい人ほど悩みつづけることになります。そこで私は、この世の苦難や業想念波動(憤怒や嫉妬や恐怖等々)はすべて、神の子仏性である人間の本質から離れた、つまり光を離れた無明の所産であるのだから、そうした環境や業想念はいついかなる時でも世界平和の祈りの中に投入していさえすれば、世界平和の祈りの大光明の働き永遠の生命の光の中に、業想念波動はいつのまにか消え去ってしまって、人間本来の神性、仏性がその人そ
の人の環境として想念行為として現われてくるものである、というように巧まずして永遠の生命を体得させるようにしているのであります。
 そうして、もう一方では、私自身が個人的に人々のあの世までへの運命指導をしているのであります。
 死んでしまえば個性がなくなって無に帰してしまうとか、神と全く一つになってしまうとかいう、誤った思想でいますと、肉体を抜け出た時に、その人々の霊魂の行き場所がなくなり、親類縁者の肉身によってきて、親しい人々を病ませたり、苦しませたりしてしまうのですから、そうした誤った思想はいち早く改めぬと自他共に死後までも苦しみ、苦しめることになるのです。


死んでも個性は永遠に生き続ける

人間は死んでも、個性的に永遠に生きつづけてゆくものであります。死んだら想念がなくなってしまうなどとは決して思ってはなりません。個性として永遠に生きつづけながら、その個性が神の光明にすっきりとつながって生きつづけてゆくことを悟りというのでありまして、そうした悟りに生きる人々は、神そのものの永遠の生命と、個性としての永遠の生命とが、全く一つに融けあって、肉体にあっても霊界にあっても、どちらにあっても、業想念波動にとらわれぬ、それこそ仏教流にいう思慮分別にとらわれぬ、空即是色の生き方が出来るようになるのであります。
 そうした人の最大の人を仏陀といいキリストというのでありまして、宇宙人と私達が呼んでいる人々も、そうした境界の人たちであるのです。そうした人々の協力による地上天国が、私達の世界平和の祈りの実生活に波長を合わせて、やがて、近いうちにその実際活動がこの地球上においてなされてゆくのであります。守護の神霊団体と宇宙人と、世界平和の祈りを行じている地球人との三者が一体となっての地上天国開現の日のために、私達は日々世界平和の祈りを根底にした日常生活をしているのであり、この生き方こそ、何人にも勝る宗教的生き方なのであります。むずかしい宗教理論やご利益宗教は私たちの活動とは無関係でさえあるのであります。』
 このように宇宙人と守護の神霊団体(ハイラーキーと大師方)と、世界平和の祈りを行じている地球人との、三者が一体となったところにこそ真の地上天国が開けてくるのであります。その為にこそ宇宙天使の実際活動がミステリーサークルとしてもなされているのでありまして、この為これからのミステリーサークルは五井先生や王仁三郎聖師、そして日本を強調するようなメッセージが頻繁に込められてゆくことになることでしょう。
 まさに、神は沈黙していないのであり、これらの宇宙人の活動は人類への『生命の教育』の一環といえるのではないでしょうか。

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 ☆世界平和の祈り      世界人類が平和でありますように
                  日本が(祖国が)平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます

☆この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明 が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化大調和に絶大なる力を発揮するのです。

―【五井昌久先生の紹介】
大正五年東京に生まれる。昭和二十四年神我一体を経験し覚者となる。
祈りによる世界平和運動を提唱して、国内国外に共鳴者多数。昭和四十四年、ブラジルの権威ある団体より、宗教と哲学の探究者、世界平和の為に努力し、熱烈なる運動を展開する人道的思想家としてコメンダドールの称号と勲章を受ける。昭和五十五年八月帰神される。

  
           
                   ☆世界人類が平和でありますように