聖ヶ丘講和



          想いをいつも神界に


五 井 昌 久


           

−『人間のわかり方』−

 人間はこの世界に肉体としておりますと、肉体に捉われているものだから、肉体の生活だけしかわからない。要するに五官の目で見、耳で聞き、手でふれなければ存在というものがわからないわけです。ところが想いが神様の御心の中に入っていますと、目に見えないもの、手に触れないもの、耳で聞こえないものがわかってくるわけです。
 この分かり方に二通りありまして、一つは幽界のものだけがわかるような場合があります。肉体波動のすぐそばが幽体波動なのです。その世界がわかっても、こちらの方が心が高くあればいいんだけれど、逆になって、幽界の生物に使われて「わしは何々の神だ」「何々菩薩だ」という様な形で威張らせる、偉そうに見せて、それで人を導くような形になる。いわゆる行者や宗教家がたくさんおります。
 また一方、そんなところに止まらず、ズ−ッと上の霊界、神界までいって、高い神様の元のひびきの中で、お互いが分かり合い、お互いが連絡しあって仕事をする、という立場もあるわけです。
私などはどういう立場にあるかというと、肉体の自分では何も出来ないんだ、肉体の方の自分ではどうにもならないんだ、と肉体波動を全部捨てきってしまって、全部神様にお任せしてしまった。生きるも死ぬも、どうされるも、すべてが神様がなさる事なんだ、すべて神の御心のままだ、というところから始まったのです。
 初めはどうだったかというと、お金が全くなかった。お金が無ければ食べられないです。それで食べなければ食べないでいい、御飯を食べる事も、寝ることも泊まる事も、何でも神様にお任せして、ただ困った人の相談にいったり、病気の人を治しに歩いていました。お金を一銭も貰わないでね。実際に食べない日がつづきました。今よりズ−ッと痩せていたときがあったわけです。そういう状態で、肉体の自分の想いというものをすっかり捨てきる練習をしたわけです。そうすると何が肉体の自分を支配するかというと、高い所にいる神々の光が自分を導いていたわけです。ズ−ッと見ていると、実はその中心になるのは自分の本体、本心であった、ということがハッキリ分かってきたわけです。だから、お金の事も思わない、地位の事も思わない、生きる事も死ぬ事も思わない、すべて思わない。ただ人を救う、人を愛するという事だけで、今日まで来たわけです。


−『聖者の歩み』−

 こうして来た事は私ばかりでなく、過去における聖者という人は、みなそうしてきたわけです。自分を捨てて、自分を全部神様仏様に捧げてしまって、神様仏様の方から使命として授かった道を進んで行った、というのが聖者の歩みです。ヨガ行者で大師といわれる人がかなりいますが、インドだのチベットの奥だのにいます。そういう方々は自分の修行と守護神の方からやらされる事が全く一つになって、何百年何千年と長い期間生きている様な人もあるわけです。何千年と生きている人達は、肉体の目に触れませんけど、常に地球人類のために働く様な人の側に来て、いろいろな事を教えているわけです。ヨガの七大聖といわれる七人の聖者方等は、ここに私というのがいることがわかっているわけです。それで霊的な人や、宗教家を通して、常に私に連絡を求めてきています。ある時はほとんど姿を現して連絡を求めてきます。そうしたことが今までもあったけれど、今日でもあるわけです。高い聖者というのは、肉体と肉体が会わなくともお互いがわかるわけです。あああそこに誰々聖者がいらっしゃるな、ああここに祈りの御本尊がいらっしゃるな、とわかる。植芝盛平先生(合気道の開祖)との出会いなどは、全然会わないうちから、五井先生というのは祈りのご本尊だって、植芝先生はそういっていたわけですね。そして私は、植芝先生は神人だ、とこう思っていたわけです。だから肉体が会った時は、すでに過去から会っているのと同じでして、肉体が会ったから会ったような感じかちっともしない。初めからわかり合っているわけです。そういう形になるんですよ。ある高さにいるものは、お互いに肉体と肉体があわなくたって、自然に交流して、自然に助け合っているわけなのです。




−『どう心がけるべきか』−

 皆さん方もいつも何を思うかというと、自分の本体が神である。だから今生であるいは来生で、神様の自分を現したいという念願で、世界人類が平和でありますように、守護霊さん守護神さん有り難うございます。−−そういう想いになって、平和の祈りの中でどんどん自分の本体の高い世界に入ってゆく事を心がけないといけませんね。これは練習ですから、知らないうちにそうなります。私など知らない間にそうなったのです。
 何年が何十年の間にかなってゆくわけです。ある年限がいりますね。神様の中に入って、自分は神と一体何だ、自分の本体は神なんだ、それを現したい、と念願したら、もう神様にお任せして、世界平和の祈りをやればいいんだ、と世界人類が平和でありますように、守護霊さん守護神さん有り難うございます。と常に守護の神霊と一つの想いになっていれば、守護の神霊は自分の本体と全く一つみたいなものですから、本体の中に自然に入ってしまうわけです。そうすると高い所から見下ろしているような、富士山から見下ろすといい気持ちですよ。富士山でなくとも、ちょっとした山からでも上からみれば、実にいい気持ちですね。下から上を見ることもいい時があるけれど、上から下を見るくらい好いことはありません。私などはどういう立場にいるかというと、高い所からも見下ろせるし、低い地獄の底からも見られるわけです。どこにいてもいいんですよ。
どの世界にいようと、神界にいようと、地獄にいようと、私にとっちゃ何でもない。
置かれた所で仕事をする。神様のお仕事をしようと思って命が別れてきたのですから。
天国であろうと地獄であろうと、私にとっちゃ関係ないんです。地獄なら地獄で、そこで仕事をすればいい。今、地獄の苦しみみたいな、病気みたいのが襲ってきていまして、その中で仕事をしていて、不平も不満もありません。ああここで仕事をしているという事だけの満足感です。自分の立場がいいから幸せだなあ、みんな家庭が平和で、お金もあるし、着たいものも着られるし、食べたい物も食べられるし、買いたい物も買えるからあり難いなあ、それもいいですよ。その幸せもよし、けれどその幸せを根底にしてその幸せよりもっと深い、永遠の幸せを得なければなりません。
永遠の幸せというのは、神様と一体になることです。どんなにこの現象世界が崩れようと、何しようと、そんなの問題ではない深い高い、幸せな世界があるんです。それではどうしたらそういう境地にいくかというと、たゆみない世界平和の祈りをやっていれば、自然にそうなりますよ、と教えているわけです。


−『とらわれのない世界へ』−

 そう教わって、やっているうちに、みんなそういうふうになって、自分は幸せだ、どうしてこんこんと喜びが湧いてくるのだろう、っていう形になるわけです。
しかし二、三年すると今度は喜びがなくなっちゃって、ゆうつになってしまって、あんなに昔は喜びがあったのに、どうしてこんなにゆうつになったんだろう、どうして、となると、なれからです。ある段階に来ると喜びになれてしまうわけです。
それを突破してもう一つの段階にゆくと、またゆうつの波の様なものがあるんです。
それがかかってきてゆうつになるのです。しかしそれもまた突破し突破して、とやっているうちに、この現象の世界に関係なく、現象の世界がどう移り変わろうと、そんなことに関係なく、心がスッ−と澄み切って、なにものにもとらわれない、そういう境地になるんですよ。表面でとらわれた様にみえても、中ではちっともとらわれていない、という境地になります。表面では何か心配のような気がするけれど、中では一寸も心配でない、という心境になっている人が随分あると思うんですよ。それはやっぱり悟っているんです。心配、苦労がないわけです。しかし現象世界は目に見えます。嫌なものは嫌で見えます。汚いものは汚いもので見えます。しかしそれはみんな消えてゆく姿ということが、中で本当にわかっているんです。そうすると、心の奥が喜びにみちている、なにか清々しい、明るい気分になっているわけなんですよ。





−−『想いをいつも神界に』−−

 そういう人間になるためにも、日々瞬々刻々、世界平和の祈りをして、守護霊さん守護神さんに感謝して、自分の想いをいつも高い神界においておく事です。そういう状態にしていらっしゃれば、はたからみた時、ああ、なんて光輝いた人だろう、なんて明るい、なんて豊かなひびきのいい人だろう、ということになる。
それは神への感謝と世界人類の平和を祈るという、縦横十字交叉の中心、救世の大光明の中に自分がいるわけなのです。そういう状態にならなければいけない。すると縦の大光明波動が横にズ−ッとひびき渡って、誰にも彼にもいい影響を与える、明るい好ましい影響を与えてゆくわけなのです。
そういう人が今にたくさん出来るわけなのです。そういう人が増えれば増えるほど、日本もよくなり、地球世界もよくなるわけなのです。そういうことを胸にしっかりおぼえて、毎日、世界平和の祈りに励んで下さるようどうぞお願いします。




  【−−1978年、五井昌久先生『聖ヶ丘』での御法話より−−】



☆世界人類が平和でありますように