五井先生ご法話




      世界平和の祈りの運動精神



                        五 井 昌 久





 ――個人と人類とのつながり――


 この人間世界は,病気と貧乏と争いとがなかったらどんなに良いであろう,とは誰でも思うことでありましょう。まして,自分や自分の周囲の者が,病気をし貧乏をし,争いごとでみちていた,という経験を持っている人は,殊更に強くこうした悪い事の無い世界を願うに違いありません。 過去からの聖者賢者たちは,老病貧苦をこの世からもあの世からも,すっかり消し去ってしまいたい,という深い願いを持って,世の指導者となったのであります。
 愛深い人々は,そうした人類の苦悩を和らげる為に役立つ事を願って,ある人は医者に,ある人は広い意味の科学者に,或いは社会運動家として,その身を挺身してゆくのであります。病気や貧乏は個人的なものであり,争いごとの大きなもの,つまり戦争は,国家的人類的なものだ,と思っている人もあると思いますが,病気や貧乏も,只単なる個人的なものではなくて,社会国家人類という,大きな集団の力によってなしえるものなのです。
 今日の生活は,個人と国家や人類とが密接不離なる関係をもっておりまして,個人はもはや,単なる個人ではなく,大きな集団の一つの単位としての個人なのであります。ですから愛深い人々は,常に個々人を通し,集団集団を通して,全人類の為の奉仕にその一生を捧げつくしているわけなのです。それが宗教の面においてであろうと,科学の面であろうと,政治の面においてであろうと,その根底は等しく人類愛の心によってなされているのであります。
 実際に今日のように,地球が狭く感じられることは過去の時代にはなかったことです。米国の出来事が同時に,日本においても見聞き出きるというテレビの発達,航空機による旅行時間の短縮等々,他国のことが我がことのように感じられる程,距離や時間が短くなってきているのです。私どもの感覚の上で確かに地球は狭くなったのであり,他国と自国との隔たりが縮められていっているのです。
 それは善いことの上にも,悪いことの上にも,実現されているのであります。文明文化のすみやかなる交流,これは喜ぶべきことでありますが,他国においておこなわれたる核爆弾の実験による放射能は,直ちに我が国にもその影響を及ぼしてくるのであり,他国の伝染病なども,すぐに我が国を脅かすことになるのです。まして,密接なる関係をもつ米国内の出来事は,我が国の経済状態に微妙な影響を与えるのであります。
                                          



 ――心の世界もみなつながっている――

 それは,あたかも太平洋の水が,日本と米国とを一つに結んでいると同じように,空においても,想念波動の世界においても,世界は全く一つにつながっているのです。 海の水がつながっていることや,空が一つであることなどは,すぐに理解できるが、想念波動がつながっているということはどういうことか,という問いがでてくると思います。 ところがこの想念波動の問題を知ることこそ、世界平和を実現する最も大事なことなのであります。 
 想念波動のつたわりということは,音波や電波や光波によってテレビやラジオやテレフオンで,お互いの声を聞き,他国の人の姿をみることができるという科学の原理と同じなのです。 想念波動とは電波や光波や音波よりも,もっと微妙な精神宇宙子の波動なのであります。
 これは私たちが現在研究中の宇宙子科学の原理によってよくわかることなのですが,まだ一般の知識としては,この精神宇宙子のことは判っておりませんので,電波や音波光波よりもっと微妙な波動とだけ思って頂けばよいでしょう。
 この微妙な波動が,人類すべての思い思いの波動となって,世界中を空気の波のように無限の層となって覆いつくしているのです。  その波動は,争いにみちたものもあり,妬みにみちたものもあり,病苦,貧苦にみちたものもあり,恨みや怒りにみちたものもあります。  またそうした汚れた想念波動でない,明るい愛にみちた,善意にみちた光明そのものの波動もあるのであります。
 こうした想念波動の渦は,それぞれがエネルギ−でありまして,そのエネルギ−は人間の肉体に働きかけて,人間にその想念波動の通りの行為をなさしめるのです。
 電気的エネルギ−が流れ出せば,電流となってモ−タ−を動かしえるのと同じように,想念波動のエネルギ−も,人間の肉体を動かし得るのです。
 そして,その想念波動が争いや妬みの暗い汚れたものであれば,働きかけられた人間はそういう行為をするのであり,愛や善意の光明波動であれば,愛の行為になってくるのであります。  人間の肉体というものは,肉眼で見,肉の手で触れれば固まった一定した形をもったもので,口から入らなければ外部のものが中に入ってくることはないようにみえますが,実は常に外部から目に見えぬ種々な要素が入ってきているのです。  眼から耳からは,映像として文字として言葉として音として入り,放射能のようなものは体のいたるところから体内にしみ通ってきます。
 そのように,光線よりもっと微妙である想念の波動は,直接に脳髄に入りこんでくるのであり,神経系統のあらゆるところにもしみこんでくるのです。  ですから人類世界のすべての階層のそれぞれの想念波動は,各個人や集団のそれと合致した想念の渦を持つところに,絶え間なく入り込んできて,その人やその集団は,恨みなら恨み,怒りなら怒り,争いなら争い,情欲なら情欲の渦中からぬけだせないようになってしまうのであります。



 ――人類愛欠如の原因――

 たまたまは愛の心や柔和な想いが起こってきても、争いや恨みの暗い想念波動の渦巻きが烈しすぎると、そうした善なる想念もたちまち流し去られて、その個人や集団はまた再び暗黒想念を出しつづけてしまうのであります。 それはちょうど、暴力団に入ってしまった少年が、これはいけないと気ずいて,その仲間から抜け出ようとしても、その団員たちの脅迫にあって、どうしても抜け出せない、というのと同じようなものです。 
  世界各国の軍備態勢というものと同様なものでありまして,武力による力と力の均衡によってのみ平和が保たれる、という考えは、お互いの優位を保つ為に、お互いが武力を増強させつづけなければならぬ、という悪循環をもたらし、何にもまして軍備に資金をついやすという状態になってしまい、それでいて、一日として安心していられる日のない、戦争恐怖症の人々をつくりあげている始末なのであります。 
  これは世界にとって最も不幸なる、人間不信感の暗黒想念に踊らされている状態でありまして、世界の指導者がみなこんな心の状態では、とても世界の平和などおよびもつかないことなのであります。
 軍備を増強して相手方を抑圧しようなどという考えのどこに、人類愛の想念がありましょうか、人間は生命において一つのものである、という人間本来の愛の心は、こうした差別心や不平等の想念からは、とても実行できえるものではありません。
 こうした人類愛の欠如は、この人類世界を覆っている想念波動が、争いや恨みや憎悪にみちているからなのであります。  人間は本来神の分生命で、悪や不幸の想念をもっていない存在者なのですが、神の分生命であることを忘れてしまった人々 真理を見失いはじめて、現在のような善と悪との混淆した世界をつくりあげてしまったのです。 
  この光明波動の薄れが、次第に暗黒化してきて、人間不信感の争いや妬みや憎悪の感情想念が生まれいで、地球最大の危機を迎えてしまったのであります。




 ――想念波動の重大性――

 こうした危機を救うには一体どうしたらよいのでしょう。  どんな方法を用いたらよいのでしょう。 武力の増強をつづけてあくまで、力の均衡でやってゆけばよいのでしょうか、それではいつまでたっても、人類から戦争の恐怖は去ることはありません。 さるどころではなく、いつかは実際に世界大戦がはじまってしまうでしょう。 人間の心には、造ったものは使ってみたい、強めた力は試してみたい、という想いがあるのでして、いつか何かのはづみで、核兵器のボタンを押さないとは限らないのであります。 
 私はここで、今まで申し上げてきた、想念波動の重大性ということについて、皆さんにじっくり考えていただきたいと思うのです。
 想念波動を浄化しきらない限り、世界は絶対平和になることはない、ということです。 そして世界が平和にならない以上は、個人の平安はあり得ないということです。たとえ、病気が直ったとしても、貧乏から一時ぬけでたとしても、それだけでその個人が平安になったというわけにはゆきません。それは一時の平安でありまして、永遠の平安ではありません。 
 私は個人の平安と、世界人類との完全平和が、一つにつながってなされる、という方法を願い求めたのです。そして生まれ出たのが世界平和の祈りなのであります。  個人個人の体は、肉体としてはお互いが離れてあるようにみえますが、想念波動の世界ではお互いが結びあい交流しあって、お互いに影響を及ぼしあっているのです。それは、親子兄弟とか、親戚知人とかいう間柄だけではなく、一個人の想念波動は一瞬一瞬の間にも地球上をへめぐっているのであります。  ラジオやテレビに伝わってくる音波や光波は、絶え間なく大気中を流れているのでありますが、ラジオやテレビのスイッチをひねって電流を流し入れ、ダイヤルをそれぞれの音波や光波に合わせなければ、そこになんの音も聞こえず、なんの映像も写ってこないのです。  
 人間の想念波動も全くそれと同じでありまして、自己の出した波動が地球上をへめぐっていると同時に、すべての人類の想念波動は、自分の上に流れてきているのであります。ただ自己は、自己の意識、意識といっても表面に出ている顕在意識だけではなく、潜在している潜在意識を含めた想念波動の部分のダイヤルをひねっていることになるのです。



 ――個人と人類が同時に救われなければ――

 そこで、人類すべての想念波動が自分の上に蔽いかぶさってきているのですけれど、自己の廻しているダイヤルの分だけ、自己の運命となって現れてくるのでありま す。  これをいいかえますと、自己の出している想念が憎悪や争いの想念波動であれば、その想念波動は、同じような想念波動をもっている地球上の多くの人々の上に影響を及ぼしているのであります。 
 そして、この想念波動が、愛や善意の光明波動であれば、地球人の多くの人々は、その光明波動によって、しらぬまに浄められているわけなのです。  この真理を考えますと、個人の想念行為は、自己にその報いが必ずやってくると同時に、人類全般にその影響を及ぼしていることになるので、どんな小さな想念行為でもゆるがせにできないのであります。
 私はこの真理をよく知っておりますので、個人と人類が同時に救われなければ、世界は平和になることはないと言っているのです。  個人個人の想念の在り方を問題にしないでいて、世界平和も戦争は嫌だもあるものではありません。
 戦争が嫌な人は、先ず自己の想念を、平和な調和したものにしておくことを心がけなければいけません。  戦争反対を叫び、世界平和を叫びながら、その運動を闘争という名で呼んだりしている団体や、自己の団体の権力を強めることのみに全力を挙げていて、大自然の法則そのものである、調和の精神を踏みにじっている宗教団体などがあることそのものが、暗黒業想念の所産なのであります。
 個人の平安と世界人類の平和を達成するためには、憎悪や妬みや権力欲等々の業想念波、暗黒想念波動を、大光明波動によって浄めさらなければならないのです。

                                                           

  
  ――想念の浄化運動が主体――

 私たちのやっている世界平和の祈りの運動は、想念波動の浄化ということが主であるわけで、世界人類の想念波動が浄まらなければ、世界平和は決してできるものではない、と思っているわけです。
 物質欲や権力欲で対立している場合は、それそのものが誤りであることはすぐ判りますが、思想と思想との対立というものは、どちらの思想にも、それぞれの理がありまして、それぞれの思想に同感するものが、お互いに相対した集団となってくるので、どちらにも理がありながら、結果的には、世界を二分し三分してしまう不調和想念波動を世界中に流してしまうのであります。  これは宗教団体の場合にも全く同じことがいえるので、自己集団の教えを固執していますと、教えそのものは別に悪くないとしても、神の御心の一番根本のものである大調和精神に反して、他集団との不調和をきたすのです。  世界平和の祈りの運動精神は、すべての想念事柄を、ひとまず、神の御心そのものである、大調和の中に入れきってしまおうとする運動なのであります。  各自各国、種々様々な思想ややり方があるではありましかょうが、一番大事なことは、この地球世界を滅亡させないことにあるのですから、枝葉末節的な方法や手段は後廻しにして、世界平和という人類の大眼目の中に、一人でも一国でも多くの人々の想念を結集してゆかねばならぬと思っているのです。  枝葉末節的な小さな自我欲望を出していると、自己も人類も、暗黒想念波動に巻き込まれていって、遂には破滅してしまわねばならなくなります。
 自分の方が正しいのだ、自国の方が正義なのだ、という正義のやりとりも、そのやりとりによって、お互いの心に怒りや憎しみの想念が湧きあがるようなものであったら、その正義感は、もう神の御心そのものではなくなっているのです。
 ここのところを世の指導者たちは心をいたさなければいけないとおもいます。
 地球を滅亡させてしまって、なんの正義でありましょう。  自国の利益も人類の利益も共に消滅してしまうのであります。  人類の生命を尊重するのは、直接相手を傷つけ痛めなければよいというだけではなく、相手の生命を生き生きとさせてやる、ということにあるのです。  お互いの生命が、神の御心のままに生き生きと働けるような、お互いの天命が完うされるような、そういう個人であり、そういう国家であるように、私たちは、自他共にならなければいけないのです。
 それには何度も繰り返すようですが、世界平和の祈りが大事なのであります。
 世界人類が平和でありますように、私達の天命が完うされますように、という祈り心が大事なのであります。  世界中の想念を、ひとまず、完全平和を願う祈り心に結集してしまうことが、何事にもまして大事なのです。
 各国各人の損得はその後で話し合えばよいことなのです。  世界中の人たちの誰一人として望んでいない地球の滅亡に追いやるような、大三次大戦のぼっぱつを防ぐことこそ、何国何民族であろうとも、人間一人一人の大きな責任である筈です。




 ---人類の一人としての責任を自覚しよう---

 その大きな責任を果たすためには、自分達の欲望はひとまず後廻しにしてもよいではありませんか、地球が滅びてしまって、一体どこで自己の欲望を果たそうというのでしょう。  自分一人ぐらい何をしたとて、世界人類となんのかかわりもないなどと思っていることは、とんでもない間違いです。
 人間一人一人の想念行為が、今日ほど大事な時は他の時代にはなかったのです。
 前から申しておりますように、一人の人間の想念が暗黒想念(自分勝手な欲望)であるか、光明波動(愛と真の心)であるかによって、世界人類の運命は、滅亡にも完全平和にもなりえるのであります。
 昔からいわれる宗教の極意である、善にも悪にもとらわれず、今日このままをすべて素直に受けてゆこう、今日このままの姿は、付け足すところも、減ずるところもない、神の御心そのままの世界なのだ、という教えを更に一歩進んで、実在世界の完全円満な相を、世界平和の祈り言を通して、一日も早く、しかも、最小の苦悩の経験によって、この世に顕現せしめよう、という、大救世主の御心を、私はこの肉体を通して、多くの人々に宣布実践しているのであります。
 今日、世界平和の祈りが、日本において生まれいでたことこそ、神の御心そのものなのでありまして、この祈り心によって、世界人類の暗黒的業想念波動が、次第に光明波動に浄められてゆくのであります。
 どうぞ皆さんもこの真理をよく噛みしめられて、より一層世界平和の祈りの運動に邁進して頂きたいのであります。

                         『神は沈黙していない』より


         


☆世界人類が平和でありますように