信仰と医学――五井先生の御著書『宗教問答』より――






【問46】 信仰と医薬との関係を先生はどうお考えですか。

【答】  信仰と医薬とが、特別に関係があるとは、私は考えてはおりませんが、信仰生活をしていると、自然と精神が平安になって、病気なども何時の間にか直ってしまうので、信仰と病気、そして、病気とは切っても切れぬようになっている医薬とが、つい反応的に対照的に考えられるようになったのだと思います。
 宗教信仰は、純粋に精神の問題であり、霊的な問題なのですが、この世では、精神と肉体とは別に話して考えることは出来ないので、宗教信仰が、肉体の状態にも影響を与えることになってくるのです。そこで信仰によって精神がしっかりしてくると、医薬に頼らずに病気が直ったりするので、信仰宗教の多くの人々が、信仰だけしていれば医薬はいらない、医薬などは、かえって体に害がある、という極端なる言語を吐くようになって、科学と宗教とが対立しているような感じを人に抱かせたりするのです。
 私の宗教は病気直しを看板にするような教ではありませんが、私の教えを実行しているうちに何時の間にか難病の直っていった人々も沢山あります。しかし私は、医者にかかってはいけぬとか、薬を服んではいけないとか、いうことは一言も申しません。そうしたことは宗教家である私の範疇ではないことで、医薬者と患者との問題であるのです。
 ただ私が、病気治療専門のような宗教者と、医学者の一部の人に云いたいことは、宗教者は医薬のすべてを毒物視して、医薬と宗教治療を同時に受けたいような人々に、「薬を服めば薬毒が体に入って私の治療がきかなくなる、医者にかかるなら私たちは治療をしない」とか云って、信者を混迷させたりしてはいけない、という事です。
 その宗教者や、それに心から同調して、その宗教治療で病気は必ず直る、と信じている人々には、それでもよいでしょうが、自分からそこまで信じきれぬ人々に、前期のようなことを云うのは、一種の脅迫になるからです。
 アフリカの奥地にいって、多くの未開人の病気治療に当たっているシュバイツアー博士のような愛深い人の行為によって、放っておけば死んでしまう筈の病人が沢山癒されている事実があるのですから、自分が一つのことを信じているからといって、他のすべてをけなし去るような態度はいましむべきだと思います。
 また一方の医学者の一部には「病気を直すような宗教は迷信だ」と、宗教信仰によって病気の直った事実を探求もせずに、迷信扱いしたり、人間の内部の自然治癒力という、神からきている偉大なる力を、少しも顧みずに、ただ注射や、薬にばかり依存している人々がありますが、その人々には、人間は動物とは違って、精神の力が肉体に大きな影響力を持っているものであるので、まずその精神力を発動させるような治療をした上で、適当な医薬を用いるべきであり、ただ簡単に注射をうってごまかしているような態度は非良心的である、と云いたいのです。
 もう一言進めていえば、医学者はすべて、霊的人間の研究を為すべきで、いたずらに肉体の症状を消し去るような医薬にばかり依存していては、到底今後起るであろう様々な病状に対処することが出来なくなってくるであろうということです。
 医学者(科学者)と宗教者がお互いに人類救済のために援け合ってゆく時こそ、この世に病気や不幸がなくなってゆくのではないかと私は思っているのです。
(昭和34年)



【問69】  妹が心臓をわずらって、永いこと寝ております。なんとか直したいと思っているのですが、病気を直そうと思っている間は、病気は直らない、とある人から云われました。これはどういうことなのでしょうか、また病気を直すためには、周囲の者がどうしたら一番よいのでしょうか、お教下さい。


【答】   人間生活の中で、一番心をわずらわすものは病気と貧乏であろうと思います。いかに健康であっても、日々の食生活に追われていては、楽しい暮らしが出来るものではありません。
 そこで人間愛、人類愛に富んだ人々が、この二つの苦しみをこの人類世界から消し去りたいと思って、科学者(化学・医学)となり、社会運動家となり、または宗教者となって、自らの身を捨てて、働きつづけているのであります。 あなたの家のように、若い育ち盛りの少女が病気でいることは、老人が病気で寝ている以上に、家人の心をわずらわすもので、なんとも云えずお気の毒に思います。
 しかしその病人を直すためには、家の人々が、ただ可哀想だ可哀想だと思いつづけて、悲しみの思いをその病人に送ってばかりいてはいけません。そうした暗い想念は、それがいかに愛情から出ているものであっても、かえって病人のためにはマイナスの働きしかしないのであります。ですから病人の看護は親兄弟より、他人の方がよいとさせえ云われているのです。
 大体、病気の原因というのは、生命の働きと想念行為とが、アンバランスになったことが根本なので、それが前世からのものと、今生でのものとがあるだけです。幼い子供達の病気はほとんど前生からの業因縁が、肉体を通して消え去ろうとして現われているものでありますが、その病人の苦悩を増さしめるような状態は、すべてその両親の想念行為にあるのであります。
 病気を直そうとしているうちは直らない、と誰かに云われたそうですが、それは病気と云うものに想いが把われ過ぎていては、消えてゆく姿であるべき業想念を掴んでいて消え去るのを止めているのと同様だからという意味だと思います。
 健康というのは、生命の力が、想念行為に、邪魔されずに肉体全体にゆきわたって働いている時の状態でありますが、一度び、想念行為が生命の力の素直な働きを阻止しだすと、阻止しただけが、肉体の働きのマイナスあるいは、生活環境のマイナスになってゆくのです。そのマイナスが肉体的であった場合が、病気となって現われるのであります。
 ですから病気でも、貧乏でも神から流れてきている生命の働き、霊の働きを想念行為で邪魔し阻止した時にその原因が出来、やがて消えてゆく姿として、肉体や運命にその結果を現わしてゆくのであります。
 人間は生命体であって、生命が肉体を去ることによって、この世の生活は終わってしまうのですが、この生命が何処からきて何処に去ってゆくのかは、現在の科学ではいまだ判明せず、不可知という答が出ているのであります。この不可知なる生命の根源を神と宗教者たちは呼んでいるのです。
 この不可知なる生命は、自由に把われなく働くことによって、最高の力を発揮してゆくもので、この生命の生きる力、生かす力を阻止する思いを出しただけ、不健康となり、不自由となるのです。この原理を知って、病気の人やその周囲の人々は、生命本来の生々とした光すなわち明るさ、素直さ、把われのなさ、と云うことにむかって、生活目標を定めなければならぬと思います。
 たとえ現在どのような家人が病みふしていようと、それは生命の自由さを阻止した業想念行為のマイナス面が、今肉体の病気という症状に現われて消え去ろうとしているところなのだから、すべての苦悩の状態を消えてゆく姿と観じ、それだけでは心が明るくならぬでしょうから、守護の神霊への感謝の想いの中に、その病気に把われる想念をすべて投入してしまう祈りを常にしつづけるのであります。
 そう致しますと、病気々々という暗い想い、直るか直るかという不安の想いなど、生命の働きを妨げる想念が、守護の神霊の光の中で消されてゆき、病気の症状がそれ以上悪化することを防ぐと共に、守護の神霊の光明が、その病人の肉体や幽体に流れ入って、生命と想念のアンバランスを調整してくれるのであります。
 そうした心構えを根底にして医療を受けていれば、その治療も大なる効果を納めてゆくと想うのです。
 すべて自分や自己の関係者に不都合のように見える事態は、過去世からの業因縁が消え去ってゆく姿であり、消え去ってゆくにしたがって、この人や周囲の人々の心も運命も開けてくるのですから、再びそうした業想念を積まぬように神の御心の中に祈りの心を持って、入りこんでいることが大事なのです。それが私の提唱している世界平和の祈りなのですから世界平和の祈りを、心の中で鳴り響かせてゆく生活をしてゆくようにしていることが大事なのです。





【問74】  病気になったり、不幸になったりするのは、その人の魂が低いからだと思う人があるようですが、先生はどう思われますか。


【答】    病気になったり不幸になったりすることで、その人たちの魂の高低を計ったりしてはいけないと私は思っております。信仰宗教の信者さんの中には、病気や不幸の人たちをそのような眼でみて、さげすむ傾向をみせるものが大分いるようですが、これ程間違った宗教態度はありません。
 病気になったり不幸になったりするのは、確かに魂の因縁や、想念行為の誤りが表面に現われてきたことには違いありませんが、それを魂の高低に結びつけてはいけません。魂の高い人格者でも病気をしたり不幸になっていたり、魂の低い人格の劣った人たちでも、何らの病気もせず、不幸な目にも会わずに一生を終わる人もあるので、そんなに簡単に人間の価値判断をされてはたまりません。
 誰にでも思いやりがあり、金銭にも淡白で、人の面倒をよくみるような人でも病身だったり、子供に当たらなかったりする場合もあるのを、あなたなどもどこかで見掛けておられると思いますが、魂の高低と想念の持ち方とが一致していない場合が、この世の人にはかなりあるのですし、前生や過去世からの因縁によって魂は立派でも病弱だったり貧乏だったり、子運に恵まれなかったりすることも多々あるのです。
 問69の答の中でも書いてありますように、病気や不幸は生命と想念行為とのアンバランス、不調和にあるので、生命の働きを素直に働かせるか、生命の働きを抑圧したり、妨げたりする想念行為が多いか少ないかによって、病気や不幸の差が出来るのであります。もっともこの想念行為というのは、今生だけのものではなく、過去世プラス今生の想念行為というわけですからお間違えないように願います。
 過去世のことは殆どの人にわからないので別としまして、この世ではいったいどのような想念行為を持っていたら、病気や不幸な生活をしないで、あるいは少なくなし得るのでありましょうか、それは今も申しましたように、生命の流れ、生命の働きそのままで生きればよいということであります。
 生命の働きが損なわれず働いている時は、心臓や肺臓の働きを、人間は殊更に考えようとせず、働いているのが当たり前として気に掛けずにいますが、一たん故障が出来ますと、その故障のできた心臓なり肺臓なりが気になりだします。そのように、想念が生命の働きをとやかく思わぬ時が体の調子も運命の調子も良好だということになります。
 ですから仏や菩薩や阿羅漢果を得たような、つまり悟った人は別と致しまして、普通一般の人は、たとえ魂の高い人でも、その想念の中に生命の働きを抑圧し、妨げる思いがある場合は、その抑圧し妨げただけがその人の体の欠陥や運命のマイナス面となってくるのであります。それが過去世の業因縁と合わさって、この世におけるその人の運命を現わしてゆくのです。
 その反対に魂の低い人でも、生命を伸々と働かしてゆく、簡単に申すと、明るい気さくな楽天的な人は、あまり病気などせず、案外不幸な生活をしないで済んだりしています。ですから思いやり深い、兎角相手の立場ばかり考えて事を処してゆくような善良な人は、常に自己の心を内省し、自己の行為を責め裁く思いが強く、何をするにも、ああいうことをしたが善かったかしら悪かったかしら、あのことはあの人の迷惑にはならなかったかしら、などといつでも想いを千々に砕いて生活しているような傾向があるので、生命を伸々と生かし働かせることを、そうした想念が抑圧してしまうので、魂も高くはための生活態度も立派なのに、病気をしたり不幸になったりしてしまうのです。
 これは勿論過去世の因縁と切っても切れぬつながりがあるのですから念のために申し添えておきます。今生の運命はほとんど80%が過去世の業因縁によって現われてくるので、これを超える生活をなし得るためには因縁因果のつまり三界から全想念を神の世界に投げ入れて生活してゆかなければならないのです。
 ですから、人間は魂の高低にかかわらず、自己の運命や人類の運命の善なることを信ずることが大事で、人生の物事をあまり悲観的に見たり暗い不快なものとして見たりすることは、自己の魂を汚し、生命の働きを阻止することになって、折角善良な人柄を神とのつながりによる生き方にまで昇華出来得ないでしまうのであります。
 神は完全円満であり、全能力であり、大光明であり、大愛であるので、その神から生れた人間が本来不幸であるわけがないのです。それを不幸にしているのは、神の生命をそのままこの世に現わそうとせぬ、人間の小智才覚なのであります。神の光をそのままこの地上界に現わすためには、魂の高い人や善良なる人々が、神の大愛を信じて、神の御心にすべてをお任せし切って生活してゆくような生き方になってゆかねばいけません。
 そういう生き方をするのに一番やさしい方法が、私の提唱している世界平和の祈りによる生活なのであります。
白光誌の教義(人間と真実の生き方)と世界平和の祈りによる日常生活をつづけてゆけば、この世に必ず神国が生まれてくるのであることを、どうぞ信じて下さい。
 明るく大らかに、そして清く正しく生きるためにも、人をも自己をも責め裁かぬ白光の教えを行じていて下さい。




【問89】   現象世界の出来事は、心の現われ、三界は唯心の所現だから、心を直せば病気は直る、と教えられ、ろくに医者にもかからず死んでしまったり、薬毒だ薬毒だと薬や医者を敵視するように恐れて、薬も飲まずに死んでしまう人がいるかと思うと、科学迷信式に、なんでも医者だ注射だ、と宗教的関係、神の救済という事に一向無関心で死んでしまう人もいますが、医学と宗教の融合点についてご説明下さい。


【答】   何事にも片寄るということはいけないことです。かたくなの宗教信者の医薬嫌いというのも全く困ったものです。それは自分自身が自己の信念のままに行動するのは結構ですし、医薬を超え得る悟りの状態ということはかなりあることなので、その人はそれでよいのですが、自己の信仰を他に押しつけて、病人が医薬に頼りたい心があるのに、医薬をけなして、よせつけないなどの態度は、実に宗教精神として最も大事である調和精神に欠けている自分よがりで全く困りものです。
 といって、人間の精神の力というものを全然無視した医学万能主義の人にも閉口します。現在の医薬には、まだ多くのマイナス面があり、医薬以外に精神面・心霊面において治病することも多々あることを知らねばなりません。
 宗教というものは、人間の心を、神の御心と一つにつなげる。神と人間との関係を明らかにする教えでありまして、その要素は、調和した心、平安な心、明るい愛にみちた心などでありまして、それらに外れた想念行為は、宗教心のマイナスである業想念であるのです。
 宗教の根本は、病気を直すことでも、生活を富裕にするためのものでもありませんが、宗教精神を自らの生活に行じていれば、おのずから、直るべき病気は直り、入るべき物資は入ってくるようになるのですが、一般大衆は、自己や自己の周囲の現象世界の生活環境の善くなることを願って宗教入りをするのであって、真実道を求めての宗教入りをする人は数少ないのです。
 ですから、現今のような業想念行為の波が表面にすっかり浮き出している時代には、はじめから高遠な理想や理念を説いて、これが宗教なのだ、といっても、ついてくる人はあまりありません。そこで方便として、病気も直し生活も改善されるように指導するわけです。
 ところが、近頃は、こうした現象面の問題の方が主になってしまって、真実の宗教である、神と人間との関係を明らかにすること、永遠の生命の問題などは、どこかへ置き去られてしまうような教が多くなってしまっているのです。 こうした病気直しや、貧乏直しに血道をあげるような宗教者が増えてくると、つい自己の宗教の治病効果や、その他の効能を宣伝するために、医者や薬による効果を大きくけなす結果になってくるのであります。
 実際に病気の大半は精神活動の抑圧によるといっていい程、精神と肉体とのアンバランスによるのですから、抑圧されていた想念を、何らかの形で噴出させれば、抑圧されて病念となっていた精神状態が他の方向に転移されて直ることが多いのです。
 お題目や唱え言を一心につづけてやっていると病気が直ったなどというのは、みな想念の転移によるからで、何も神様の力が特別に働いたわけではないのです。そうした方法で治癒した人は、病気の変形として、凝り固った宗教観念の人物となり、心の自由を失ってしまって、自己の宗教団体以外はすべて邪悪視してしまう、狭い心の不調和な人間となってしまって、病気をしている方が余程、よかったのではないかとさえ思われるようになってしまったりするのです。
 宗教団体がそうした宗教本来の生き方にそむいてしまうようではいけません。すべての病気は過去世から今日までの業因縁の消えてゆく姿なのですから、医者にかかろうと薬を飲もうと、それが宗教信仰となんのかかわりあいもないことで、医者にかかったから、その人の宗教信仰が浅いとか、薬を飲んだからあの人の信仰は駄目だ、というのはおかしな話です。
 ただ私の云いたいことは神と一つになっている信仰、神への全託に生きていれば、そうした一挙手一投足も、自然法爾的になされるので、飲むべくして飲んだ薬はきくのであり、かからなくともよい医者にはおのずとかからないことになるのであります。すべては世界平和の祈りの生活が根底になって、はじめて神と一つにつながっている神の子的人間の肉体界における生活がなされてゆくのです。
 あまり自己の想念で、ああだ、こうだと物事を限定してゆくことは宗教精神に反することであるのです。善いも悪いも消えてゆく姿であり、ああだ、こうだも消えてゆく姿なのであって、あるものは、神と人間とが一つになって光り輝いている祈りの姿だけなのであります。そうした心持ちで、この世の万々の事柄に処してゆくことが最良の生き方だと私は思っております。




【問】 最近、わけのわからない病気がふえているようですが、どういうことでしょうか?


【答】  いろんな病があるようですね。医学が発達すればする程、病気の数が増えるでしょ。昔は無かったような病気がね。いろいろ名前がついています。
 病気というのはどう云うことかというと、やはり想いの煩いなんです。想いの波が過去世からの想いの縁にふれて、合体して、毒素になってくるわけです。結核菌は毒素を食べて生活するので、結核菌が悪いというより、毒素そのものが悪いんですよね。そうすると結核になる。だから結核菌だけを殺したから直るというものではない。毒素の元を直さなければだめね。
 元はどこから来るかというと、想いから来るんですよ。だから病気を直すためには、お医者さんにかかるのも結構だけれど、自分の想いの波を直さなければ、また病気をするし、不幸にもなってくるわけね。
 お医者さんにかかり、薬を飲みながら、何をしてもいいと私は想うんですよ。ただ想いの波を直すことをしなければ、いつまでたってもその人は本当の平和にはならないんです。
 想いが直るにはどうしたらいいかというと、やはり神様の御心の中に入るわけね。ところが昔、原始的な時には、いまでも黒人の部落では祈祷や踊りを踊って治療している。ああいうのを宗教と思っている人があるんです。お祈りというと加持、祈祷みたいに、太鼓や鐘を叩いたりしているのだ、と間違っている。そんなことはないんですね。
ああいうのはお祈りというわけにはいかない。ただ単なる願い事です。私のいっているのは、お願いじゃないんです。病気を直すにしても、貧乏、不幸を直すにしても、お願いごとじゃないんです。自分の想いを本体の中に入れるわけ。守護霊、守護神に消してもらうわけですね。光を蔽っている闇の想いを光りの中に入れて消してしまう。
そういうのを祈りだと私はいうんですね。そう教えています。
 ふつうでは、お祈りというと、なんだかお願いごとみたいに、鐘を鳴らして、五円ぐらい入れて、五円で惜しいから一円入れて、病気が直りますように、ポンポン―――あれで直るつもりでいる。
 あれはつもりだけなんですよ。あんなことをやらなくても直るんです。そういうのは祈りでも宗教でもない。
宗教というのは、自分が神の子である本心を現わす道なのです。その道は何かというと、やはり祈りより他にない。
祈りとは何かというと光りの中に入ること。光とは何かというと、神様の本性だから、人間の本体だから、光の中に入ることが一番いいわけです。
 一軒の家でも、太陽があまり入らない家は病気が多いといいますね。南と東が開いている家は光が入っているから、いいわけです。そういうように、光を入れるようにしなければだめ。心の中に神様の光を入れなければだめでね。それが祈りなんですよ。
 今まではあまり光が入ってなかったんですね。中に潜在して、要するに中の病気が多かったんです。医学も発達していませんし、そういうこともわからなかったからみな、短命だったんです。昔は五十というとお婆さん。今では老婆とはいいません。中年ですよね。若いとはいえないけれど。七十ぐらいならないと老婆といわないです。
 小説でみると、昔は二十二、三だと中年増というんです。それだったら今の娘はどうでしょう(笑)それは寿命が短かったからね。たいがい五十で死ぬんです。ところが今は七十、八十でしょう。それだけ長くなってきた。
 それはやっぱり生き方がいいからですね。いろいろの恩恵に欲して、つらい仕事もしないように、例えばかがんで、冷たい水道で洗濯していたのが、電気洗濯機で出来るようになった。それだけ体は楽ですよね。歩いてとことこ行かなければならないものが、電車に乗るようになった。だから昔より体を使っていないわけですよね。むちゃくちゃに使わないからいいんです。背丈が伸びてきたのもそうですよ。何故伸びてきたかというと、やはり想いを使わないで、我慢してきたのが、割り方我慢しないで済むようになった。労働もあまりしなくてね。それでヒョロヒョロと伸びて来たんですよ。
 それだけ今は、実際良くなってきているんですよ。それは何故かというと、光が、神様の応援がとても激しく動いているわけなんです。発明でも電機が出来た、飛行機が出来た、そういうのはみんな神様の方から光の波動が来て、それで考え出す事なんですね。
 その反面、業(カルマ)の方の暗い想いのほうからも考えが出てくるわけ。それが原爆や水爆になってくるわけなんです。それは発明する想いを追い出す力を持っているわけです。
 光が進軍して闇が消えてゆく姿のゴタゴタが、国際紛争だとか、人間の病気だとか不幸だとかになるんですよ。
だからちょっと辛抱していればいいんですよ。辛抱しながら、一生懸命世界平和の祈りをしていれば、光の中に入っていさえすれば、辛抱しているだけで済んじゃうわけなんです。
 光が闇に負けることは絶対ない。光がただ進んで行けば闇は消えるんです。闇が光に対抗してくるというのはないでしょう。光が進めば闇は消えます。それと同じことです。神様の御心を現わせば、自分の不幸は消えてゆくんです。
 ただ肉体の世界は緩慢でしょ。神様がパッと現われることが、肉体の世界ではなかなか出てこないんですよ。
だから神様の御心に入っても、平和の祈りをしていても、今すぐパッと現われてくる人もあるし、徐々に緩慢に直ってゆく人もあるわけですね。だけどやがては、どんな人も必ず幸福になることは間違いありません。
 世界平和の祈りをしていて、不幸になることは絶対にない。不幸になるように見えるのは、消えてゆく姿として、一時不幸に見えるけれど、あとは必ず幸福になるということは確実なんですよ。私は長い体験でよく知っています。一時はどうなるか・・・・・。あの人は病気でどうなるんだろう、という時にサッと直っちゃうんです。あの会社はどうなるだろう、もう手形もきれない、どうにもならない、という時にパッと助かったり、潰れてかえってよくなったり、とにかく押し詰まってくると、必ずよくなる。
 闇が深くなってくると、明け方が近いと同じように必ずよくなる。だから辛抱して平和の祈り一念に生きてゆくことが大事だと思いますね。
辛抱しなければいけませんよね。ただ何もしないで、消えてゆく姿をやっていればすぐ出来ちゃうとか、世界人類が・・・・・といえばパッと病気が直って、パッとお金が入ってくる・・・・・・そんなものではないんですね。そういうように思いがちなんです。やっぱり辛抱が肝腎だということですよね。(昭和33〜43年御講和より)