祈りによる世界平和運動/心霊研究物語





連載/心霊研究物語(坂の上の雲の真相はこの本に!)
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霊を見るまで(1)

浅野和三郎

 


 他の何人の、いずれの方面の研究においてもしかるがごとく、自分が最後に霊的研究に志すまでの階梯としては『これは不思議だ!』と思ったのが端緒である。リンゴが木から地上に落ちる、それは当たり前だーーーこれでは引力説は世に出ない。太陽は東から出て西へ引き込む、分かり切った話だ。ーーーこれでは天文学は生まれない。これは不思議だ。何故にしかるかーーーこの穿鑿心又は好奇心があって後初めてここに新研究が現れる。得意、満足、ごまかし、冷やかし、大家気取り、独り善がり、嗚呼汝の運命は滅亡である、行き詰まりである。
 自分は至極平凡な常陸の南端に生まれ、又至極平凡な中流の家庭に成長し、そして至極平凡な学校生活を送り、小学より中学、中学より大学と月並み至極の行程を踏んだにすぎぬ。途中に山もなければ海もない。そのまま平凡単調な関八州の平野そのままの生活を続けた。青年時代の自分は時としていかにこの平凡を不本意に思ったことであろう。学友の多くは夏季休暇にでもなると、幾十里、幾百里の山河を踏破して故山に帰省する。自分は遊学というのは名ばかり、たった一日であっけなく帰ってしまう。学友のあるものは郷里で寂しく自分を待つ、ただ一人の母を持つのがあれば、また或るものは父も母もはや亡き数に入り、その代わり自分を世話する一人の金持ちの親父があって、そしてその叔父の一人娘というが世にも稀なる優しい乙女であるというのもある。いかにも情思をそそるようにできている。ところが自分は父も母も健全、兄弟は男子ばかりの三人、そして自分がその内の末弟、70幾歳の祖父までが矍鑠として壮者を凌ぐという甚だ頑丈向きの粒揃いばかり・・・・。
 天気になれると太陽の有り難みが分からなくなるようなもの、勿体ない話ではあるが、当時の自分は、霊肉共に充実した、張り切った自分の家庭に対して、格別ありがたいとも感じないばかりか、かえって少し欠陥のある、どこかに干渉の涙をそそるような、詩的な境遇であってくれればよいくらいに考えたこともあったらしい。これは自分の性癖のしからしめたのか、それとも少年時代より盛んに文学書類を耽読した結果であったか、自信にも解決がつけかねる。おそらく双方が因となり、また果となりて、からみあっていたのであろう。
 かかる単調平凡殺風景な青春時代に、早くも不思議と感ぜざるを得ざることが起こって、そして後年の複線をなしていたのであるから不思議である。
 それは確か、自分が24の春、帝大の2年生時代のことであったと記憶する。


   浅野和三郎著【大本霊験秘録】より転載
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霊を見るまで(2)

              
浅野和三郎
                        


 どうせ体得以外には容易に判るはずのない事であるから、こんな窮屈な説明は暫くこの辺で預かりとしておいて、自分が横須賀生活中に不思議と思った次の事実の叙述に取りかかるとしよう。これが自分が綾部に行くまでの最後の予備的経験で、いささか面目ない気もするが、思い切ってここに告白する。
 十有余年間平穏無事を極めた三浦半島の自分の生活にふと変調を来し、あたかも晴れたる空に一変の黒雲がフイと浮かんで何処ともなく不安の空気を漂わすにも似たる、厭な事が起こったのは大正四年の春であった。現在筆を執るにあたりて当時を追想しても、いささか気が滅入るように感じる。
 それは第三子の三郎が一種の熱を起こしたことであった。
自分たち夫婦の間には男ばかり三人の子があった。長男は勝良、次男は新樹、三男が三郎、めいめい三つ違いの三人兄弟、その後はバッタリ中絶してしまった。自分たちは子供はもうこれでないのであろう。
親が男の三人兄弟だから子供もやはりそうなのだろうなどと考えた。兎に角三人とも達者に成長するし、後はなし、家の中は、男の子ばかりでいくらか殺風景だが面倒も心配もなく、結句気楽なことにして、天気の好い日曜日にでもなると、親子五人、水筒と弁当を携帯に及び、葉山、逗子、鎌倉、江ノ島、浦賀、久留浜、大楠山、武山、神武寺、金沢八景等と歩き回り、時には少し羽を伸ばして三崎、鵠沼、箱根、修繕寺等にも出かけたりした。こんな気楽なところへ突然三男の発熱・・・・。
 発熱というても熱度はやっと37度3分か4分、別に何ら目立って険悪なところもないが、ただ午前10時頃になるとその熱が必ず出て、そして日暮れには必ず引っ込む。夜は寝汗が出る、血色もよくない、いささか衰弱らしい兆候とだるそうな兆候がある。これが十日、二十日、一月、二月と、つづくのであるから厭で厭でたまらなかった。
『何かたちの悪い病気ではないでしょうか。手遅れせぬ間に早く治さないと・・・』と心配そうに、妻は一日に何回となく自分に訴える。
『なにこれくらいの熱は何でもないさ。転地にでもいったらよかろう』
 口には軽く答えるのを常とした自分の心も実は重かった。どういう訳か知らぬがどことなく渾身に圧迫を加えられるように覚えた。
 無論医者にもしばしばかけた。横須賀ばかりでなく東京へもつれてゆき、一流の大家の診療をこうた。が、どうも病因がはっきりと判らなかった。ただしどのお医者さんも相当の注意と警告と注文とをせずには置かなかった。甲は山間への転地をすすめた。その結果は修繕時の温泉行きなどとなった。他の一人は海岸療法をすすめた。その結果は田戸の海岸への日参となった。丙は運動に限るといい、丁は静養が肝腎だという。食物もお医者さん次第で天地の相違があった。牛乳を無理に飲ませたり、肉汁をやたらに吸わせたり、固形物にしたり、流動体にしたり、自分たちはいわるるままにアラン限りの方法手段を講じたのであった。
 が、熱は依然として降らず、衰弱はきうによりてとれなかった。そうする中に春も暮れ、夏も過ぎて稲田の黄ばむ秋の空になってしまった。
 この半年以上に跨って依然旧態を持続したまま、良くもならず悪くもならぬ病状にはしみじみ自分たちは根気がつきてきた。子供自身も次第に飽きてきた。
『お母さん、僕いつ学校に行っていいの?』
 不用意に言い放つ病児の一言に妻はしばしば顔を背けて暗涙を押し拭うのであった。
 これしきの病気、これしきの境遇は、世間幾万の家庭にありがちのことであるから、自分たち夫妻の心痛はあまりに大げさであると嘲るものもあるであろう。実は自分自身も、幾たび自分自身を嘲り又妻を嘲ったかしれぬ。それにもかかわらず、嘲るそばから、もう胸の奥の奥の方にムラムラと心配が首をもたげるのであった。

   浅野和三郎著【大本霊験秘録】より転載
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霊を見るまで(3)
            

浅野和三郎


 確か十月の初旬のある晩のことであったと記憶する。夕飯もとうに済んで、子供たちはもう三人とも臥所に入ってしまった。自分は書斎から6畳の茶の間へ出てきてタバコをのんでいると、火鉢のそばで縫い物をしていた妻は、やがて針を棄てて卓を隔てて自分の正面に座った。
 『実は今晩残らず申しあげてしまわねばならぬことがございます』
ふだんとは違って、大変まじめな突き詰めた様子であった。こんなことは滅多に無いことなので、いささか自分も眼をまるくした。
 『何のことかね』自分はわざと気軽く述べたつもりだったが、実は早く後を聴きたかった。
 『はやく申しあげようと思っていましたが、叱られることが判っておりますので、つい一日延ばし二日延ばして、もう十日にもなります。実は三郎のことですが、あまり病気がはかばかしくございませんので、あなたには内証で・・・』と涙ぐんで言い渋るのであった。
 『いや構うことはない。早くいいなさい。どうしたというのか』
 『実は・・・髪結いから聞きましてーーーお祖師様のわきの三峰山という女行者の所へ三郎を連れてまいりましたーーー大変よくその祈祷が効くといいますので・・・』
 『なに女行者?』と自分も奇想天外なるに少なからず驚いた。『なぜそれを早くいわなかったのか』
 『申し訳がございません。申し上げればきっとお止めなさるだろうと思いまして、今度ばかりは生まれて初めて内緒事を致しました。壱見つかってお叱りを受けるかとホントにこの十日ばかりというものはつらい思いを致しました。』
 『うむ左様か』といって、自分もしばし黙って腕をこまねいてしまった。
 だんだん訊いてみると、その女行者というのは本名を石井ふゆと称し、孝信教会という看板を掲げているが、普通は三峰山という名称で通っているそうである。もと海軍工廠の職工の女房であるが、いつしかその一種の呼び物になり、殊に病気直し、当てもの等には不思議な力をそなえ、その実例は無数にあるとのことである。『お医者様の方で治らぬというのなら、一遍お宅のおぼっちゃまも連れていってごらんあそばせ』との髪結いの勧めに任せ、自分には内証で十日ほど前にとうとう出かけていったのでそうである。
 これを聞いたときに、自分は先ず一種の侮辱を感ぜない訳にゆかなかった。
いかに子供の病気が不治で困ろうが、行者の許にいって、加持祈祷の如きものを受けようという考えは爪の垢ほども起こらなかった。生まれ落ちてから42歳の当時に至るまで、あんなものは全然別世界の人間のすることくらいに思っていた。 しかるに自分には内証であったとはいえ、自分の家族が、今女行者の門をくぐる! 実に何ともいえぬ不快な感じであった。迷信ということは人間の弱みにつけ込み、こんな風にその手を伸ばして行くのだろう、などとも考えた。自分の顔はおそらく羞恥の為に赤くなったことであろう。脇の下からはポタポタ汗が垂れた。 が、自分はそのときどういうものか、怒って妻を叱る気にはなれなかった。心の底では、加持祈祷などは九分九里まで駄目なものと決めていたにもかかわらず、暫くの後には妻に向かって次のような事を聞くだけの心の落ち着きを持っていた。『その女行者は歳は幾つくらいか』
『48、9か50位にもなるでしょう』妻は天下の形勢が案外穏やかであるのを観て安心したという風に、
『髪を切り下げにしたお婆さんで、ちょっと見ただけでは別に変わったところはございません』
『三郎の病気についてどんなことをいったかね』
『不思議な事を申しましたよ。何でも気管支の上部にソラマメ位の傷があって、それが治りかけては擦りむけ、治りかけては又擦り剥ける。それで低い熱がでるのだそうです。お婆さんには体の内部まで透視ができるらしいのです・・・』
『それで、その病気は治るというのか?』
『ええ、随分治しにくい病気だが、神様にお縋りして頼んであげたから、11月の4日には全治すると申しました』
『本当だろうか』
『請け合った上は一日でも違わないと、そりゃかたいことを申しました。兎に角あなた一遍おいでになって、調べていただけませんか』


   浅野和三郎著【大本霊験秘録】より転載
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霊を見るまで(4)

浅野和三郎



 一両日躊躇していたがとうとう自分は思いきっていわゆる三峰山へ行ってみることになった。場所は米ヶ濱祖堂の付近の奥まりたる路地の突き当たりにある。割合にさっぱりした普通の平屋であった。門には教信教会と書いた表札がかけてあった。
 少々きまりの悪いのを我慢して格子をあけて入ってみると、先ず20足ばかりの女下駄が目に付く。なかなかよっているなと心の中に思いながら、取り次ぎの女中に挨拶して襖を開けてみると、中は6畳と8畳とがつながっていて、そこに女ばかりが大勢集まって茶を飲んだり、浮世話をしたりしていた。お婆さんもおれば、中年増もおり、又若いのも子供もいたが、驚いたのは海軍士官の妻君が二人まで混じっていたことであった。他の人々と同じく夫や子供の病気直しを頼みに来ているのが後に判った。兎に角自分は十幾年も横須賀に住みながら、裏面にかかる一種の社会の存在していることをさらに知らずに暮らしてきたのであった。 が、これは自分のみでなく学校出の人間などは日本の社会の表通りのみを見て、簡単明瞭に暮らしておって、社会の裏通りが種々葛藤に充ち、奇々怪々な事件にとんでいるのを知らぬが多い。自分にとってことに意外であったのは、行者巫女などいうものが、日本人の内部生命に向かってなかなか重要な役割を演じていることであった。いったい日本の社会学者、宗教学者、実験心理学者などは、まだまだ書斎ばかり閉じこもり勝ちで、活きた事実の調査を閑却し過ぎておるようである。それでは要するに他人の糟粕を嘗めるに止まり、とても世間を動かし、社会を導く力はない。ふだんはそれでもお茶を濁せるかも知れぬが、まさかの場合には畳の上の水練、趙括の兵法と同様に何の役にも立ちはせぬ。自分一人で高くとまって、学者ぶり、博識がり、人を見下げていぱってみたところで、だんだん人が相手にしなくなってくる。口に治国平天下を説いて、実は一州一群の政治すら取り得なかった徳川時代の腐儒等も、随分見掛け倒しだったが、宇宙だの、人生だの、社会の安寧だの、学問の神聖だのと文句をならべるだけで、周囲の圧迫の下にただ浮沈するだけの今のいわゆる学者等もあまりほめられない。いったん天下の形勢が急転直下した暁に、ツブシにして値打ちのあるものはいくらもありはせぬ。・・・・オット又話がそれてしまった。
 兎に角自分はこのとき生まれて初めて教会じみたものの門をくぐったのであるから、いささか勝手が違うように感じたが、一座の隅に座り込みてあたりをみまわした。先ず気がついたのは、この種の教会の通有性たる神仏混淆式の設備であった。普通の家の床の間を改造して壇を設け幾個も祠がおいてある。その左右には灯籠、花立、木魚、拍子木、鉦、香炉、般若心経の折り本等がならべてあり、壁にはいろいろの掛け軸が下がっている。
 会衆の中に混じって、田舎訛で喋っていた50恰好の婦人が、ここの先生の石井ふゆ女であることが知れた。
『子供のことで飛んだご厄介になりました』自分は名前を名のって簡単な挨拶を述べると、先方は大変愛想よく『これはこれはようまあおいでなさいました、お坊ちゃまのご病気であなたにお目にかかるというのも不思議なご縁・・・』ややしわがれ気味のさび声で、この不思議なご縁を連発するお婆さんであった。話はいくらでも連綿とつづくが、要領はなかなか得られないので少なからず自分は悩まされたものだ。それでも2、3時間いるうちに、この人が横須賀近在木古場の生まれであること、13、4歳の時分から一種不思議な霊覚があること、夫は工廠の職工で、最初は普通の家婦であったが、だんだん依頼者が殖えるので現在の教会を設けたこと、何百人という病人が治ったこと、祭ってある神様は二方で、一方は金照斎、他方は何とかいうて共に三峰山のお狗様であること、三郎の気管支の故障は11月4日に平癒することなどを、どうやら聞き取ることができた。『どうして体のどこが悪いというようなことが判るのです?』と自分はいささか面食らいながら聞いた。
『有り難いことには信心のおかげで眼に見せて貰います』
『では私の懐のがまぐちにいくら入っているかも見えますね』
『そりゃあなたおやすい御用で・・・・・』
『実は私も今いくら入っているか覚えていないが、一つ試しに当てて見せてくれませんか』と自分は膝を進めて追究した。

   浅野和三郎著【大本霊験秘録】より転載
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霊を見るまで(5)

浅野和三郎




自分から透視の実験を迫られた三峰山の先生は多少躊躇の気味であったが、然まで拒もうともせず、やがて祠の前に座を占め、居合わせた女連一同を促して一斉に般若心経を唱えはじめた。中にはもうすっかり文句を暗誦しているのもあれば、叉おぼつかなげに折り本を拾い読みする新参者も混じっていた。何しろ木魚、拍子木、鉦などを叩きながら一心不乱に唱えるのであるから、一通りの騒々しさではない。自分は手持ちぶさたに後ろの方に座ってこの珍光景を見物していたが、心経を一通り唱え終わると叉初頭へ戻って繰り返すので、なかなか済まない。物の3、40分も足ってようやく先生からの合図で読経が終わりを告げた。
 やおら祠の前にたった先生は、自分の前に座を占め、茶を啜りながら『今日は出来がどうかと心配していましたが、あなたさんの懐中がしまいのころになってからやうやく見え透いてめいりました。一円のお札がたしか二枚、五〇銭銀貨やら白銅やら、銅貨やらゴチャゴチャ取り混ぜて三円二五銭ばかり入っていると思います。一遍しらべてごらんくださいませ。違っているかも知れません』
 自分は早速懐を探りて、がま口を取り出し、中の金を残らず畳の上に打ち明けた。居合わせた女たちも面白がって手伝ってそれを勘定してくれたが、以外以外、一銭の違いもないのを発見した。『これは不思議だ!どういう訳だろう?』例の自分の年来の疑問はまたも胸の中にムラムラと首をもたげてきた。
三郎の病気も気にかからんではないが、11月4日には治るといわれて見れば満更悪い気もしない。なをお婆さんは言葉を添え、この病は神様のお力だけでも必ずなおしてもらえるが、お薬もいただく方がやはりよい。
殊に六神丸がそれには一番よいからといって、軍艦の乗組員が支那から持って帰ったといういう奴を一箱取り出して譲ってくれた。半歳以上に弱り抜いたあげくのはてに、おぼつかないながらも一縷の望みを生じたのであるから、幾分心の重荷がおりた気がせんでもなかった。
 が、一方に子供の病気につきて心配が幾分薄らいだのと同時に、他方においては眼前に見せつけられた不可思議の事実に対する疑問が大いに濃厚の度を加え、どうしてもこのままで打ち捨てておくことはできないような気がしてならなくなった。その晩は、ひとまず帰宅はしたものの、爾来一周に一度か二度ずつ三峰山を訪ねて、専ら霊的現象の調査に取りかかることになった。
 段々足を重ねるに従って、次第に遠慮も失せ、お互いに思う存分のことを言い合い、語り合うようになったが、幾らひいき目にみても、このお婆さんが決して聡明な頭脳の持ち主でないことが段々分かってきた。いうことはそう曲がった、不都合なところもないが、いかにもそれが卑俗で浅薄で、そしてしばしば辻褄があわない。叉時とするとその行為の上に少々興が醒めることもあった。
 月並祭というようなことがここにもあって、そんなときにはお萩、五目飯叉は天丼などの御馳走があったが、かかるさいの先生の飯の食べ方には少々呆れた。
先ずお狗様にあげるのだといって、天丼の4、5杯をぺろりと平らげる。その後で、これは私が戴くのだといって、さらに一杯位を平然として追加する。
『お腹のどこにあのたくさんの飯が入るのかしら?』と妻も自分と共に幾度眼を圓くして訝ったかしらなかった。変態真理の先生でもあったら、これは神経性多食症というものだとか何とかいって手際よく片付けてしまっただろうが、自分たちにはそんな気の利いたことは生憎できなかった。
 参拝者に対するお婆さんの態度もあまり感服ばかりはできなかった。自分たちに対しては丁寧で親切であったが、裏店のお婆さんなどに対するときは、厭なよそよそしい待遇もちょいちょいめについた。
叉足繁く通う人のことは盛んに褒めるが、遠のいて来ると現金に風向きの変わるのが目立った。これらの点は一向感服も出来なかったが、しかしその発揮する一種の霊力には感心せぬわけにはいかなかった。透視も、千里眼もどちらも鮮やかなところがあった。ある晩自分が訪ねると、出し抜けに、『お宅のぼっちゃまに今日白い薬を飲ませましたね、あれはセメンエンと重曹とが半々にしてありますが、回虫はいませんから、後の一錠は飲ませてはなりません』といった。
 実際その日病院からセメンエンを貰ってきて、その一錠を子供に飲ませた。
これは便秘の状態から、素人考えで回虫のせいだろうと推定したからであった。 心の中で自分は少々驚いたが、容易には屈服しない。その翌日病院の某軍医に頼んで大便の検鏡をしてもらった。ところが二三度検鏡しても回虫の卵がとうとう見つからなかった。
 あまり易々とあてられるのでしまいには自分はいささか忌々しく感ずるようになり、何とかして三峰山を凹ませてやりたいような気分になってきた。

   浅野和三郎著【大本霊験秘録】より転載
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霊を見るまで(6)

浅野和三郎

 


自分は三峰山のお婆さんを試験するためには随分種々の方法を用いた。が、その結果をどこかの学会に報告する義務もなければ、叉論文を作って博士号でも貰おうという野心もあるでなし、ただ自己の研究的良心ーーーとよりは寧ろ好奇心の満足を得ればそれでよかったので、別に第三者の立ち会いを求めたでもなく、叉一々時日その他の詳細なる記録も残していない。従って、今はただ記憶をたどってその中の二三を勝手に書きならべるまでのことである。細かいことは忘れてしまったのもたくさんある。
 一つの実験を試みたのは小雨のそぼそぼ降るうすさむい日曜日のことであった。自分は洋服、長靴といういでたちでコウモリをかざして午前九時頃に家を出た。長源寺坂上まで来ると、右へ曲がって稲荷谷の細い暗い急坂を登り、そこに祀ってある稲荷さんの石段を登った。それから境内を抜けて間道伝いに忠魂祀堂の所へ出た。それから叉も横須賀名物の急坂を汐入の方面に降り、牛殺し跡と称する、名前だけはすこぶる物騒な一角を横切り、山道伝いに不入斗の連隊の方へ通り抜け、それから右へ左へ、上へ下へと、なるべく狭い不便な路ばかり選んで一時間ばかり歩き回って帰宅した。
 これより先自分は妻と下女とを三峰山に遣わしておいて、お婆さんにたのんで自分の通った道筋を霊覚で見させた。(掲載者注意・・・ここでいう霊覚は霊能力のことであり、真の霊覚とはかけ離れたものであります。)
 例によりお婆さんは祀前で拍子木か何かを叩きながら精神統一をしたが、九時頃に私の姿や何かが映りだしたものとみえ、残るくまなく私の行動を喋りだしたそうである。
『浅野さんは今日は洋服で長靴をはいて今お宅の玄関前をお出かけのところです。雨が降っているのでこうもり傘をさしておいでなさるーーーアレ長源寺坂を降りるのかと思ったら右へ折れて、稲荷谷の方へ曲がったがいったいどこへいかっしゃるのでしょうーーーやはり稲荷さんの石段を登っていかっしゃるーーーおじぎもせずに裏へ通り抜けてですよ。アレ彼の悪い坂道をグチャグチャ登られる・・・・・』一時間にわたりてこんなことをのべつ幕なしに言い続けたそうで、妻はその要所要所を帳面に附け留めて帰ってきた。
『いかがでございますか、あたっておりますか』
『イヤこれは不思議だ、少しも違ったところが無い』
自分は少々残念ながら事実である以上その正確なことを認めぬわけにはゆかなかった。そして憑霊のあることを知らなかった当時の自分は、あの頭の働きの寧ろ遅鈍な、学問の素養の少しもない、時に無茶な大食をする老婆が、どうしてかう水際立った。あざやかな芸当が出来るのかと不思議で不思議でたまらなかった。 またある時は家の下女がかんざしをどこかへ落としたので、それが実験の材料にされた。無論かんざしそのものは真鍮だいの安物で、せいぜい五銭か十銭のものだったに相違ないが、値段の高い低いなどは問題にも何にもならない。ただ霊眼でそのゆくへが分かるかいなかが問題であった。ところがこれも見事に言い当てられてしまった。
『お宅の物置の内に炭俵が一俵おいてあります。そのわきに藁屑が溜まっていますが、かんざしは藁の中に見えます。帰って捜してご覧なせいまし』
 果たしてかんざしは右の藁屑の中に発見された。国元に居る私の母の事などを訊いたこともあったが、これも正確であった。概して右に述べたような簡単な事柄なら、一から十まで悉く的中するというて差し支えなかった。
 さうするうちに兼ねて三峰山のお婆さんの約束の11月4日が接近した。これが叉自分たち夫妻に取っては事件中の事件、問題中の問題であった。三郎の病状は依然として少しも変化がない。37度34分の熱は以前と同じく持続し、衰弱の程度も顔の血色も何ら変わるところが無かった。
『本当にその時になったら治るものでしょうかね』
と妻はいつも心配そうに眉をひそめた。
『千里眼や透視とはわけが違うからその時になってみなければわからん。しかし心配することも無かろう』
 自分もこんな気休めをいうより他に仕方がなかった。が、疑惑の期間は経過していよいよ11月4日が来た。朝来自分たちは不安と希望と相半ばしつつ9時を数え、10時を数え、11時を数えた。体温記は30分間おきにあてられた。ところが今日はどうしても36度5分を越さない。かくて正午過ぎても熱が出ないのを確かめた時には、覚えず自分たちは凱歌をあげた。
『矢張りあたった!』
『あたりましたねえ!』
三郎はその日を境として叉元の無病の健体となり、血色も直り体量もだんだん殖えていった。
『有り難い』『嬉しい』『不思議だ』ーーー三つの感情が巴のように入り乱れた。

   浅野和三郎著【大本霊験秘録】より転載
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霊を見るまで(7)

浅野和三郎

 

 自分が最後に綾部の大本に逢着するまでの精神的準備としてはだいたい以上で述べ尽くしたように思う。要するに現代の科学、心理学、哲学等の大部分を超越し、どうしても捕らえがたく、ときがたく、如何ともしがたき霊妙不可思議なあるものに対する疑問、憧憬がこれらの体験により頗る根強く自分の胸奥に刻みつけられてしまったのであった。無論皆幼稚で卑近で娑婆臭くて、天地の神機を吐呑する大真人の眼等から観れば、いうに足りない。甚だ詰まらぬ経験であるに相違ない。しかし善くても悪くても、詰まっても詰まらなくても兎に角切り捨てがたい活きた経験である。もしもこれらの経験が自分になかったとすれば、綾部の大本の話を聞いても恐らく耳に入らなかったに相違ない。して観れば少なくとも自分だけには甚だ貴重な準備であり練習であったといわねばならぬ。
 さて自分と綾部との接触の話は最後の三峰山の話に引き続いて、甚だ不用意に、手軽な形式で起こった。遠くて近きは必ずしも男女の仲だけではないとみえる。相模の横須賀、丹波の綾部、東と西とに百何十里を隔てても、深い因縁の絆がかかっていれば、瞬く間に引っ付いてしまう。
 忘れもせぬが大正四年ももう暮れに迫って、海から吹き上げる北風の肌を刺すころであった。夕餉を終わると共に自分は町中をぐるり一周する習わせがあったので、この日も二重まわしをひっかつぎて汐入から大瀧町の方へ廻った。平坂の下まで来たときに、ふと例の三峰山へ寄ってみるきになった。別に深い考えのあったわけではなく、しばらく無沙汰をしたから、様子を見物かたがた子供の病中の好意を謝するつもりであった。神ならぬ身の、この一場の気紛れが、自分と綾部との媒介をなそうとは夢想だも成し得なかった。
 三峰山のお婆さんは例によって愛想よく自分を迎えた。珍しく参拝者の数が少なかったので、火鉢に手を温めながら、お婆さんを相手に子供の噂などをしていたが、15分ばかりも経過したとおもわるるじぶん、がらり格子戸を開けて入ってきた男があった。
 その人は縞の羽織に小倉の袴、肩にはズック製の学生鞄、是と交叉して掛けたのが幅四寸ばかりの水色の襷、思い切って異様の風采なので、はじめは救世軍の士官でもあるかと思ったが、その襷には『直霊軍』とかいてあるのでちょっと何者とも見当がとれなかった。
 が、よくよくその顔を見ると直ちに海軍機関中佐の飯森正芳氏であることが知れた。この人は大尉時代に海軍機関学校の教官をしていたことがあるので、兼ねて旧知の間なのである。自分たちの間には直ちに挨拶やら問答やらが始まった。『やあ飯森君ですね、ご機嫌よう』
『いやご機嫌よう、お変わりもありませんか。しかし不思議なところでお目にかかりましたね』
『不思議といえば、貴方は今何処においでです?』
『近頃は丹波の国の綾部というところにいっています。京都から汽車で二時間あまりのところです』
『丹波の綾部!どうしてそんなところへ・・・・』
『大本教というものにはいってこうして遊んでいます。こちらと同様、教祖というのはやはり婦人ですがね』
 飯森さんは大尉くらいの自分から心霊問題の研究には大変に熱心な人で、この人が一時例の予言者宮崎虎の助氏と提携していた話は海軍部内で有名なものであった。兎に角毛色の変わった人なので、とうとう海軍士官の生活が厭になり、たしか大正三年、中佐になりたての自分に無理に現職を離れてしまった。爾来何処でどうしているか、自分はいっさいその消息を知らずに打ち過ごしたのであった。『その大本教とかいうのは余程根底の深いものですか。いったいいつからあるのです?』
『明治25年の正月元日教祖の出口直子という方が、突然神懸かり状態になったのがそもそもの始まりです。それからひっきりなしにお筆先が出ますが、冊数にすると8、9千もありましょうか、大きな長持ちにぎっしり三杯ほどあります。』『明治25年』『出口直子』『お筆先』ーーーこれらの懐かしい言葉を私が生まれて初めて耳にしたのは実にこの夕べのことであった。三峰山のお婆さんをそっちのけにして約1、2時間飯森氏と話し込んだ結果、進んでもっと綾部の大本の話を聞きたくなった。
『どうです家へ来ませんか。ゆっくりお話を伺いましょう』
とうとう自分は飯森さんを自宅へ連れてきた。

   浅野和三郎著【大本霊験秘録】より転載
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霊を見るまで

浅野和三郎

 


 この夕べを基点として飯森氏はほとんど連日自分の中里の宅に訪れ、それが翌大正五年の二月頃までつづいた。話に花が咲いて世が更けると、家の離れに泊まり込んだことも五度や十度はあったと思う。
 飯森さんには1人の婦人の連れがあった。歳は四十七、八髪は無造作に切り下げ、身には木綿の紋付きの羽織をつけ、下膨れの色白の顔には始終微笑を浮かべていた。ちょっと会ったところでは、普通の田舎の中婆さんとしか見えなかったが、いったん綾部の神様のお話となると、さあ大変、疾風迅雷一時にいたりて、ガラガラピシャリ!真夏の時雨そのままの荒れ模様となってしまうのであった。見る見る中にそのかをは熱する、眉はあがる、声は高まる、膝は乗り出す、涙は迸る。慷慨淋璃として一時間でも二時間でも話はこんこんとしていつはつべしとも思われない。大概の有ゼンカンもその権幕には呑まれてしまい、気の弱い婦人でもあるとその根気と熱情とに辟易して、軽い神経衰弱くらいは起こしかねない程である。この人こそ皇道大本の創立史とは切っても切れぬ関係ある福島久子さんで、即ち教祖直子刀自の第三女であるのだ。この人につきては語るべき奇談が無数にあるが、今それを書いているいとまはない。何れ他の機会を見つけるより他に仕方があるまい。ここではだだこの人が不思議な霊示の結果、飯森氏と連れ立ちて関東方面に出かけてきたことを述べることとする。
 兎に角二ヶ月にわたりての飯森さんや福島さんの熱心な談話のおかげで、私の頭におぼろげながら皇道大本の起源、沿革、使命、その他の概念が入ってきた。
教祖のお筆先の写本を飯森さんから貸してもらって、初めて百枚ばかり読んでもみた。神懸かりの奇談の数々をも聞いた、教祖直子刀自や教主補出口先生の噂もたびたび伺った。立て替え建て直し、三十年で世の切り替えとなることも、龍神天狗さては狐狸の霊の存在することも、欧州大戦が済んだあかつきには、引き続きて世界が乱るることも、その他大本の取次が口を開けば必ず漏らす種々雑多の大小の話をも大抵きかされた。これらの話がどれだけの感動、どれだけの理解、またどれだけの疑惑を自分に与えたかは今日はっきりした記憶は残ってはいない。ただ次第次第に自分の興味、熱心が加わったことだけはたしかであった。
『意外な話がこの物質文明の現代にあればあるものだ。それにしても、どうしてこれほどの不思議な事実が今まで、まるで世に埋もれていたのだろう』自分は幾度もこう訝った。
『お筆先というものはなかなか意味が分からないが、しかし八、九千冊も書きためてあるとは驚いたものだ。一丁字を知らぬという田舎のお婆さんに、そんなことが出来るものだろうか。一度いって実地を調べなければ容易に信じられない』などとも考えた。時とすると例の文学癖がチョイチョイ首をもたげることもあった。
『現象世界の事は文学者が大概書き尽くしてしまったようだ。ことによるとこの大本の霊的現象はいい材料になるかもしれぬ』
 その他種々の考えが自分の頭の中を去来した。今日から回想するとまるで夢のやうなもので、別世界に棲む、別人の感想をたどるように感じられてならぬ。
 年の暮れに影の如くに横須賀へ現れた飯森氏は、二月の末に至りて叉幻の如く横須賀から消えた。どうして氏と福島さんとが吾妻の空に出てきたのかはその当座自分には判らなかったが、後日大本へいってから初めてその真相を聞いた。大正四年の秋は、神界が余程はげしい活動を起こされた時で、重大なる神勅が頻々として下り、その結果として大本の役員たちは東奔西走、神務の遂行にあたった。後の青少年隊の全身たる直霊軍の組織されたのもこの時だった。飯森福島二氏の出動も、『東の方に求むる人あり』との神命の結果であったそうである。飯森さんは横須賀滞在中よくこんなことをいっていた。
横須賀市内にも亦逗子鎌倉にも私の友達がたくさんおりますから、訪問しかけてみますが、その都度頭が痛み出すのでどうしてもゆけません。ところがお宅へ来ることになると、即座に頭痛が止むのは不思議です。
飯森氏らは帰ったが、しかし綾部の事はどうしても牢乎として私の念頭を離れない。一度その根拠地へ行ってみたいと思う考えは日一日と強烈の度を加えたが、勤務に縛られて居る身は勝手なまねも出来ず、さうかといって数ヶ月後の夏休みまでまつ気もせず、一方ならず煩悶した。ところが三月の末になると、ゆくりなくもその機会が与えられた。外でもない、海軍から大阪へ出張を命ぜられた事であった。自分は覚えず小躍りした。
『よしよし大阪の用務が済んだら帰りに丹波の方へ廻って来よう』
とうとう自分が綾部の地を踏むべき段取りになってきた。



   浅野和三郎著【大本霊験秘録】より転載
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『掲載者付記』

 浅野和三郎は日本の心霊研究において非常に大きな功績を残された方であります。帝国大学出のインテリでもあり、語学の方が専門分野であったことから、神智学協会の創立者であるブラバッキー女史の書物等にも通じておりまして、幅広く研究されていたように思われます。
 浅野和三郎が本格的に心霊研究へと人生を歩み出すのは、大本教との出会いからだと思いますが、しかし綾部へと移住してその熱誠的な信仰生活を続けて数年の後、ついには王仁三郎ひきいる大本教から離れていってしまいます。
 結局、和三郎は当時の大本教を通じてなされた、神様の経綸を今一歩理解することができなかったのでありましょう。しかし、その後に心霊研究協会を設立した経緯をみると、これもやはり神様の経綸の一部であったのではないかと考えられます。
 王仁三郎はみずからを離反して、心霊研究協会を設立した和三郎を激励しておりますが、これは王仁三郎の度量というよりも、霊覚者としてすべてを見抜いていた高い見知からくる行動であったのでありましょう。
 実際、心霊研究というものは非常に意義のあるものでりまして、世界的に権威のある科学者が、はじめは霊魂を否定していたのですが、心霊研究を通じて霊魂肯定論者に変わった等という実話もあるくらいですから、見えない世界の実在者等を知らしめていくのには非常に効果を発揮するのではないかと思います。
 五井先生も心霊研究の働きについては、非常に理解を示されておりまして、或る心霊研究会に金銭的な援助を施されていたこともあるようでありました。
なおこの連載ものは、皆様がこの物語を通して霊的な世界に気づいていく一助になればいいと思い掲載を決意した次第でありますが、文中に登場してくるあらゆる出来事や現象などについては、読者の方々がそれぞれ判断をしていただくように御願いいたします。勿論質問が在る場合はお答え致したいと思いますので、メールにて御願いいたします。

*ここに連載している書物をご希望の方は、下記まで御購入されますように御願いいたします。

*八幡書店 【大本霊験秘録】−−−著者/浅野和三郎−−−





         ☆世界人類が平和でありますように